第七話

 まぶしさに感覚が乗っとられた瞬間、自分の意識が自身の手中にあることを理解した。

 そのままの勢いで目を開けば、先ほどの比ではないくらい光が押し寄せる。


 朝だ――実感してまぶたをこする。身体にまとわりつく変な感覚を背負ったまま、ひとつあくびをこぼした。

 なんか夢見てた気がするけど。忘れたな。

 上半身を持ち上げて、ぐぐぐっと伸びをする。ぼきぼきっと心地良い音を耳にできたら満足だ。


「――今日、か」


 ベッドの上でもういちど目をつむる。

 こういうときだけ、たのしい思い出ばかりがよみがえってくるからうざったくてたまらない。


 やさしくて面白くてだいすきだった父さんが、自分たちの輪から消え去った日。幼かったにも関わらず、もう会えないことを理解した。

 やわらかな思い出が、粉々に砕かれるあの感覚。二度と味わいたくないと、今でも心が悲鳴をあげる。


 いつか、やさしかった父さんにもどるんじゃないか。そのうち、また笑顔で「せら!」と抱きしめてくれるんじゃないか。

 そんなことばかりをおもって待っていたわたしも、いつからか期待しないようになってしまった。


 父さんの話題はわたしたち家族のなかで今やタブーみたいなもので、だれもそれに触れようとはしない。

 なにより、わたしや昴よりも母さんがつらいんじゃないかとおもうと、父さんになにがあったのか、どうしてあんなふうになったのかなんて聞けるはずもなかった。


 母さんにかなしい思いをさせて、母さんまでわたしたちを嫌ったら――そんな思いがどこかにあって、母さんに負担をかけないよう、母さんに嫌われないよう振るまうことに必死になってしまった。

 だけど、そんなことを昴にさせるわけにはいかない。だからその役はぜんぶわたしが引き受けて、昴は母さんからの愛情をまっすぐに受け止めてくれればそれでいいとおもっている。


 母さんはやさしいから、そんなわたしたちに気がついて「愛してるよ」って抱きしめてくれるけれど、朝から晩まで働きづめの母さんをおもうと、はやく楽にしてあげたいって罪悪感が泣き叫ぶ。

 なんでこうなっちゃったんだろう。

 そうおもうたび、自分がどれほど無力か思い知らされる気がするのだ。本当にしっかりしないと。


 コンコン、とドアがノックされた。「ねーちゃん、起きた?」あの頃より低くなった声が聞こえる。

 昴にはさびしい思いをさせてんだろうな。震えているように聞こえた声は毎年のそれより不安げで、一回ちゃんと話し合って、胸のうちのモヤモヤを取り除いてやるべきだと強く感じてしまった。


「ねーちゃん着がえるから、昴は先にご飯食べててね」

「手伝うよ!」

「ほーう、見物料がっつりいただくからね」

「ねーちゃんの発展途上な胸に、そんな多大な料金かからないよね!」

「ふざけんな」


 腹の底から出した低い声に、「ごめんね、ねーちゃん!」という必死な口調が聞こえた。それを無視しながら、すばやく制服に着替える。

 「ねぇ怒った!?」としきりに問いかけてくる情けないそれに、わたしはちいさく笑ってみせた。

 バカだなぁ。そうおもいながらも、そんな弟がかわいくて仕方がないのだから、やっぱりわたしもブラコンだ。


 服も着替えて準備完了。

 そして、視界に入りこんだマフラーにおもわず笑みがこぼれた。

 宇宙からもらったマフラーだ。ただそれだけの事実が、わたしをこんなにもうれしくさせる。


 そっとマフラーを手にし、グッと力を入れて手の中におさめた。

 昨夜のことを思い出しながらちょっと気恥ずかしくなって、だけど今日もがんばろうと気合いを入れる。

 視界に映るカレンダーは見ないふりをして、「ねーちゃん、早く飯食おうぜ!」という弟の声をドア越しに聞いた。


「一人で食べててって言ったでしょ~」

「ねーちゃんいないとやだ!」

「お前はいつになったら姉離れするつもりなの……」

「一生しないよ?」

「わたしがいなくても大丈夫、くらい言ってみせなよね。それでこそ弟ってやつさ」


 そこまで言ってドアを開ければ、「……ナニソレ」とつぶやく不機嫌そうな弟がいた。


 あー、今日言うべき言葉ではなかったな。

 そうはおもうも、言ってしまった言葉は戻ってこない。


 何より、わたしだっていつもいっしょにいてやれるわけではない。これから先も、そうだ。

 いい加減、こいつはわたしから安心して離れられるようにならなきゃいけない。


 わたしが高校を卒業して就職したら、きっと今のような生活はできなくなる。昴に構ってやれる時間はすくなくなるし、いろんなものが変わっていく。

 家にいるひとが少なくなって、昴は今以上に一人を実感しなきゃいけなくなる。そうなる前に、早くこいつにはわたしへの依存をなくしてほしいのだ。


 いっしょにいなくたって、側にいなくたって、ねーちゃんが昴から離れるわけじゃないんだって。

 お前のことを置いてどこかに行くわけでも、お前を嫌いになったわけでもないんだって。

 わかってほしい。


「ねーちゃんは、おれがいなくてもいいの?」


 そう言って泣きそうな顔をする昴に苦笑して、「誰もそんなことは言ってないよ」と彼の頭を小突いた。

 そうすればあいかわらず拗ねた表情で、小突かれた部分をさわる。


「おれは、ねーちゃんいなくなったら全力で探すからね」

「おー、頼もしい」


 突然の言葉におもわず笑えば、「笑うなっ」と泣きそうな声。

 ああもう、何をそんなにも不安がっているのか、コイツは。まったくしょうがないなぁ、と思いながら、小さく息を吐きだす。


「あとね、ねーちゃん泣かせる奴がいたら、おれが痛い目に合わせるんだもん」

「ほんと、たのもしいねぇ。任せたよ、昴」


 ぽんぽん、と例のごとくすこし背伸びをして頭を撫でれば、彼はうれしそうに笑った。はにかんだようなそれは、年相応でかわいらしい。


「あのさ」


 低い声。どうしたのかと下からのぞきこめば、昴は真剣にわたしを見てきた。

 ――ほんっとーに、おっきくなったなぁ。しみじみ感じながら、「ん?」と言って先をうながす。


「ねーちゃんが悲しい思いしてたら、抱きしめに行くね」


 一瞬キョトンとして、意味を理解するのに時間がかかった。けど、それをのみこんだ瞬間、おもわず呆れて「はぁ?」と口にしてしまった。

 なーにバカなこと言ってんだか。ため息を吐く。

 そんなもんは彼女にでも言ってやれ。そうおもったのに、うれしいと思ってしまうあたり、やっぱりブラコンらしい。

 たくましくなったもんだと微笑めば、「ほんとだよ!」と追撃してきた。


「だれも疑っちゃいないって」

「あとね、笑わせに行く。泣かないでって、なんか一発芸とかする」


 おまえそんなの持ってんの? なにそれ、泣いてなくても見せてほしい。

 そう思って「じゃあ今から泣くからやって」と言えば「泣かないで!」と止められてしまった。

 そのあまりにもの情けない顔におもわず笑えば、「ねーちゃん!」と怒られる。ごめんって。


「ねーちゃん、ねーちゃん」

「なあに」


 甘えたくてしかたがない、というような昴の目は、不安でいっぱいだった。


「ねーちゃんは、いなくならないよね?」


 どこにわたしがいなくなるというのか。


「あんまり言ってるとフラグになるぞー」

「やだよ!」

「だから泣いちゃだめだよ。だいじょーぶ、お前を置いてどこかにいなくなったりしない。昨日も言ったでしょ」


 はぁ、とため息ひとつこぼせば、それに呼応するようにして昴の肩が不自然に揺れた。おもわず呆れて「不安におもうことなんてないでしょ」と言うのに、でも、でも、と何かにおびえる。

 不安がっているのはわかるけれど、今年はいつになく不安定だな。心配で眉がひそめられたけれど、待ちあわせの時間まであとすこししかない。


「――大丈夫だよ。ほら、早くご飯食べちゃうよ」


 弱々しく「うん」と言った昴の姿が、なぜかわたしの胸をしめつけた。

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