第六話 ひと匙の砂糖を奈落の底にぱらり

 だれかがわたしの頬を撫でているような感触がした。

 まるで愛おしむように、それでもどこかおびえているかのように、やさしくおくびょうに触れてくるその感じが、どことなく心地良くて振りはらう気になれない。


 どうしてそんなにもやさしく触れられるのだろう。

 それでいて、どうしてそんなにも震えているのかと、浮かんだ疑問は脳内ではじけて消えた。


 だれなのか分からない人間に体を触られているというのに、肌を撫でる温かさにいやらしさは感じられず、わたしはしばしその体温に浸った。

 いつだったか、似たようなやさしさがわたしを包みこんでくれていたような気がするな。

 記憶をめぐらせながら、そのやさしさに沈む。


 ふと、頬を撫でていたそれがわたしから離れた。すこしのなごり惜しさを感じながら目を開ける。

 そうすれば、ぼんやりと映る金髪碧眼のオッサンの姿が目に入った。

 アレ、こいつ、昨日見た夢のオッサンだ。


 思いだした瞬間に、そのときの羞恥プレイまでもが脳内を過ぎった。叫び出したくなったが、ひとまずガマン。

 いま自分がどういう状態でここにいて、どういう状況なのかを確認するほうが先だ。まぁ、現状把握の第一印象としては、前回と同じといったところか。


「セラたーん、パパって呼んでごらん」


 だーれが言うか! 見知らぬ人間を“パパ”と呼ぶ趣味はない。

 伝えるために口を開けば、「あうあ、うう」という不可解な音の羅列だけが発される。それは昨夜体験したものとおなじで、やっぱりろれつが回らないのかと実感せざるをえなかった。

 あいかわらず、わたしは“赤ん坊”らしい。


 一方で、わたしを見つめるコイツの瞳のやさしさも、あいかわらず。

 なんでだろうか、ちょっとだけ安心する。

 撫でていた手のぬしはきっとコイツなのだろう。そうおもうと、警戒心も解けてきてしまうのだから、おかしなものだ。

 その油断が正しいかどうかを判断するすべは、今のわたしにはないのだけど。


「そう、そうだよ、パパって呼んで! はい、セラ、はい!」


 や、だれもパパって呼ぼうとはしてないから。


「ミルク作ったよ。いるかな」


 問いかけてくるその顔を、じぃっと眺める。

 ……うん、自分とは似てないな。どこをどう見ても自分とは似付かないそれに、やっぱり血縁とはおもえなかった。


 このオッサンはなんのプレイを楽しみたいのかわたしを赤ん坊と呼び、自分をそのパパだと主張するけど、どう見たってわたしの“父さん”には見えないし、わたしとは似てもいないのだ。


 それでももし、このからだの持ち主が存在するならば、こんなにも大きな愛情を受けることができて、しあわせだろうとおもった。

 だらだらとした気色悪い顔で見つめてくる不審者にちがいはないけど、オッサンのまっすぐな愛情は、ひねくれ者のわたしにさえよく届くのだから、オッサンをパパと認識しているこのうつわの持ち主には、とてもやさしい感情が身に染みて伝わっているんじゃないかとおもった。


 ちょっとだけ、うらやましいなんて。


「セラったらかわいいなぁ、さすが僕の娘だよねぇ。――絶対、他の男にはくれてやらねぇ」


 先ほどまでの温かみの一切をぎ落とした低く冷たい声。さらにはキラン、と光るクナイのような刃物。わたしの顔が引きつる。

 おい、わたしの父は犯罪者か。

 「ふふふ」とあやしい笑いをこぼす彼は、本気で“セラ”を他の男にくれてやる気はないようだった。


 けれど、恐怖は感じなかった。

 ああきっと、自分の頬を撫でていた彼のやさしさに、そしてその発された言葉のあたたかさに、だまされているからなのかもしれないな――いや、そんなものじゃない。


 そんなもんじゃないんだ。


 きっと、このからだに与え続けてきたオッサンの愛情がそうさせているのだろう。

 長い間与えられてきた愛情は蓄積され、それはだんだんうつわの記憶となって、わたしの本能を刺激していく。

 だから、わたしに向けられている愛情なのだと錯覚を起こして、恐怖が心をすり抜けていくのだ。


 甘い考えだろうか。それでも、そうでいいとおもった。

 きっとわたしも、求めているから。“パパ”の愛情を。


「セラたんはねぇ、主のお屋敷で、女中として働くことになるんだ」


 あるじのおやしきでじょちゅうとしてはたらく?


 なにを言っているのだろうと、いぶかしげに彼を見る。

 欠点王にむずかしい言葉使われてもわっかんないよ。幼稚園児にもわかるような簡単な言葉で話してよね。そもそも、わたしはいま“赤ん坊”だからね?


 聞き慣れない言葉ではなにも理解することができなくて、ちょっとだけ歯がゆい思いをしてしまう。

 もちろん、これは夢なのだから気にする必要なんかないってわかるのに、どうしてもこれを“夢”だと切り捨てることができないから、わたしは必死にその言葉の意味を図ろうとするしかないのだ。


「あーぶぅ」


 不思議がるように声を出せば、彼はやさしい眼差しをわたしに向ける。

 なんでだろう、その視線が、とっても切なかった。


「この名もなき地の主の元で、お前は女中になる。となれば自然に、お前は他人を手にかける術を身につけなければならなくなるだろう」


 他人を手に――そう言った彼の視線に冗談の色はひとつも見当たらなくて、わたしは自分がこの雰囲気にのまれていることを悟った。

 それと同時に、彼が至って真剣であるということも。


 たかが夢、なのに。

 どくどくとざわつく心臓が、まるで現実のものであるかのようにわたしの感覚に入りこんでくる。

 のど奥につっかえた不安は、心臓を食いつくしてしまうのではないかとおもうくらい、大きく膨れ上がっていった。


 他人を手にかける。

 その言葉が自分の知っているものでまちがいなければ、「他人を殺す」ということ。

 だけど、あまりに自分の世界とかけ離れていて、どこかピンとこなかった。非現実的におもえて、どうにも変な感じだ。


 だけど――だけどね。

 仮にだれかを殺すことだとしても、その方法を身につけろと言うこの男は、それでもわたしを愛おしそうに見つめるから、本当にどうしたらいいのかわからなくなってしまうのだ。

 自分の子どもに殺人術を身につけさせるつもりなのに、どうしてそんなに冷静でいられるのか。


 いや、冷静じゃないのか。だから昨日、ごめんねって謝ってたのかな。

 ううん、冷静でいるのも半分、それに対してごめんねって思ってるのも半分、なのかな。あきらめにも似た感情が目に浮かんでいるように見えて、ここはそういう世界なのかな、とおもった。


 オッサンはしずかに目を細めた。わたしはその様子を見つめることしかできない。

 わたしのもみじのような手を持ち上げ、苦しそうに顔をゆがめたこのひとは、いったいなにをおもっているのだろうか。


「あのね、セラ。僕はここがどういう場であろうとも、ここにいることに誇りを持ってるよ。命を助けられ、暗部の上役になれ、こうして娘まで持てて、さ」


 あんぶ。聞き慣れない言葉が、わたしの理解の箱からこぼれ落ちていく。


「ぶーあ!」

「うん、僕もセラに会えてうれしいよ」


 頬をやさしく撫でられる。

 愛されている――という感覚が、どうにもむずがゆくて、切なくて。

 泣きそうになってしまった。


「お前のママを殺してごめん。お前を人殺しの道にしか進ませてやれなくてごめん。本当に、ごめん」


 そう言い切った彼は、そっとまぶたを閉じる。

 なにをおもっているのだろう。なにを、そのまぶたの奥に描いているのだろう。

 わき上がる疑問は、胸をしめつけるにぶい切なさとともに、だんだん勢いを増していった。

 人殺しの道だとか、母親を殺してしまっただとか、気になる言葉がたくさんありすぎて、脳が追いつかない。


「僕だって、誇りを持って血濡れてきた。多くの命を奪ってきたし、多くの罪も犯してきた。僕は助けられた身だから、彼を守る存在として、心を殺して身を殺さなければならない。それが、僕の使命でもある」


 こころを、ころして。


「それでも――それでもね。自分の娘にその使命を背負わすことでしか守れないなんて。僕の限界がここなんだって教えられているようで……、ああ、お前のママが聞いたら絶対怒るだろうけど、僕だってそれはね、悲しいんだよ」


 彼はそう言って、さらに顔をゆがめた。

 言い知れぬ感情を、必死にこらえているようだった。


 わたしは何も言えないまま、彼を見上げる。そっと触れられている手からやさしい体温が伝わってくることが、どうにも苦しかった。

 そうか。この温かさが、消えるのか。

 それが殺すことなのだと直感すれば、背筋が凍った気がした。


 なにかを失うということは、こんなにも恐怖を抱かせる。あの日の記憶が、よみがえる。

 このひとも、そんな思いを抱いたのだろうか。

 心を殺して任務をまっとうし、忠実な存在として生きていくことを誓っただろうこのひとも、このひとにとって妻だった“お前のママ”を殺すとき、恐怖を抱いたのだろうか。


「なぁ、セラ」


 僕は――おまえに何をしてやれるだろう。

 そう言って静かに涙を流したその姿が、わたしの心を強く突き刺した。残酷なほどやさしく流れ落ちたそれは、躊躇いもなくこの胸を切り裂く。


 ――知らないよ。

 そう言ってやりたかった。それでも、言えなかった。言えやしなかった。

 それは例えわたしが本来の姿であったとしても、きっときっと言えなかっただろう。


 わたしには関係ない。その一言さえも、のみこむしかなかった。

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