第五話

 ベッドに入りこんだわたしは、軽くストレッチをする。


 弟はちゃんと寝られているだろうか。すこし心配だ。

 あのシスコンっぷりは異常だと分かっているし、どうにかしてやらなければアイツのためにならないことも理解している。

 だけど、昴が本当にわたしを恋愛感情で好きかと言えば、ノーで答えられる自信があった。


 だからこそ、問題はそこじゃなかった。

 アイツがわたしという身内の存在に、深く依存してしまっていることが問題なのだ。

 恋愛感情よりもよっぽどたちが悪いとおもっているのに、どうしてやるべきかと、欠点王の脳では思いつきもしない。


 そっと天井を見つめ、ため息を吐く。


「なんか本当、あー……」


 なんとも言えない感情が心を襲い、おもわず声に出してうなってしまった。


 かく言うわたしも、この連日はすこし憂鬱に感じるのだ。

 わたしだって父さんのことはだいすきだったし、4人で過ごす毎日が宝物だった。

 父さんになにが起こってあんなふうになったのか、その原因はわたしと昴には一切知らされなかったけれど、豹変ひょうへんした父さんはまるで別人のようで、父さんに恐怖を感じたのは事実だった。

 けれど、幼いわたしたちの頭では、何がどうなっているのかさっぱりわからなくて、“やさしい父さん”の面影をいつまでも探していた。


 いや、いまもきっとその面影を探しているから、こんなにも不安定になっちゃうんだろうなぁ。


 左手でやさしく、右手の小指に触れた。

 ちょっとだけ熱を持ったその場所が、わたしの胸をしめつける。その感覚を抱きしめるように触れる手に力を入れ、来年の夏を思い描いてまぶたの裏に閉じこめた。


 なんか落ちつかない。

 そうおもって手元のスマホに手を伸ばす――新着メッセージ1件、メッセージ用SNSアプリ『E-LINE』の通知だ。

 その文字になんだか安心してアプリを開ければ、やっぱり思い描いた通りの人物からだった。


『明日の朝練だけど、6時に家の前集合な~。絶対に寝坊すんなよ。オレがしそうだけど』


 最後にニッコリマークが5個も並んでいる。もちろん、送り主は宇宙だ。

 スクロールボタンはずいぶん小さくて、これまでわたしと宇宙がたくさんメッセージを交換してきたことがわかった。

 しょーもないことばっかやってんもんね。ちいさく笑ってみせたのに、どことなく寂しさを感じてスマホを持つ手に力を入れる。


 どうしてこんなに不安になるんだろう。

 どうしてこんなに泣きたくなるんだろう。


 わたしの了解メッセージに既読がついたのを見届けて、スマホを手放した。

 大の字になって天井を見上げれば、涙が目の奥に帰って行ったような気がした。


 もう何回もこの日を乗り越えてきたわたしが、今さら強い寂しさを抱くのはおかしいし、バカみたいだっておもう。

 なによりわたしは”ねーちゃん”だから、しっかりしなきゃいけない。”ねーちゃん”だから、泣いちゃいけない。

 しっかりしろ、しっかりしろ、泣くな、笑え。


「――さみしくなんて、ない」


 つぶやいたら、さらに泣きたくなって、耐えるように前髪をくしゃりとつかんだ。

 わたしに、こんなシリアスは似合わないもんね。

 自分に言い聞かせていれば、空気を引きさくようにスマホが振動する――宇宙からのメッセージだ。送られてきたそれを目で追えば、『窓、開けて』と一言。

 瞬間、わたしは素早くベッドから起き上がって窓に向かった。


 窓に近づくたびに、焦燥感のようなものが身をむしばんでいく。

 早く――早く早く早く!

 なにをそんなに焦っているのか自分でもよくわからないまま、ただひたすら窓に向かって行く。カーテンを勢いよく開けて、カチャ、とロックを外す。

 手が、ふるえていた。

 それがいら立たしくて、くちびるを噛む。力を入れて窓を開ければ、「せら」と名前を呼ばれた。


 うつむき加減にあった顔を上げて、やさしく響いたそれに呼応こおうするように視線を合わせる。

 ほら、もう、焦燥感なんて、ばいばい。


「そら」


 おなじように名前を呼べば、ようやくその名前の持ち主に、直接声に乗せて伝えることができたという、妙な安心感と達成感に翻弄ほんろうされながら、のど元で突っかかった息をなんとか吐き出した。

 宇宙と呼ばれた本人はうれしそうに目を細めて、「なに泣きそうな顔してんの」と言って笑う。

 その声のあたたかさに、またこみ上げてくる涙。それを抑えこむように口を一文字に結べば、彼は困ったように眉を下げるのだった。


「せーら」


 窓同士の距離はほとんどない。10センチくらいのすき間だ。

 その距離を超えて、わたしの頭に彼の手が置かれた。

 ぽん、とやさしい重さが頭の上に乗っかる。


「いつも元気なせらちゃんは?」

「元気だよ」


 自分の強がりは思っていたよりかすれていて、ねているようにも聞こえた。

 そんなわたしに苦笑して、宇宙はぽんぽんとそのまま軽く叩く。しっかりしろよ、って言われている気になったから、大丈夫の意味を込めて宇宙を睨みつけた。

 だけど、交差した視線の先に真剣な宇宙の顔があって、おもわず目から力を抜いてしまった。


 作ったきびしさは、コイツの前では無力だった。まったくと言っていいほど、ごまかせなかったのだ。


「宇宙……」


 顔色をうかがうように、呼びかける。宇宙の端正な顔が苦々しげにゆがめられて、なんだかわたしも心がしめつけられた。

 ついでに、弱っている自分が恥ずかしくなって、結局また下をむく。


「いっしょに寝てあげよーか」


 からかうような声に、ハッとして顔を上げる。

 そこには、さっきのような苦い表情はどこにもなく、いつものいじわるな、イタズラっ子のそれがあった。

 おもわず言葉につまったけれど、すぐに思考をフル回転。


「ばーか、お前いなくても寝られるし」


 頭に置かれた手を振りはらう。頭上の重みが消えたことにさびしさを覚えて、ちょっと後悔したけれど、だいじょうぶだと、もう一度自分に言い聞かせたわたしは、いつも通りの笑顔を作ってみせた。

 そんなわたしに一瞬、宇宙が表情をなくしたような気がしたけれど、勘違いだと思うかのように一瞬のことで。

 気が付いたら宇宙はわたしの両頬に手を伸ばし、ぐにーっと引っ張っていた。


 って、おい、待ちなさい。


「……いひゃいよ、ひょら」

「うっせ。お前のせいだかんな」


 なんでわたしのせいなんだ、っていうかなにがわたしのせいなんだよ。その思いをこめて、目の前の男にするどい視線を投げつける。

 「おー、こわ」という棒読みはスルー。この痛みは返さなければ気が済まない――そんな、照れ隠し。


 受けよ、我が奥義。


「ひょりゃっ」

「ぬおっ」


 仕返しとばかりにわたしもすこし背伸びをして、コイツの頬をつかむ。

 ぐにゅー、と引き伸ばされた宇宙の頬に、犯人であるわたしが噴き出しそうになったけれど、一応がまんしておいた。


「なにがひょーひひゃ!」


 なにが奥義だ――そう言われるけれど構わない。仕返しという名の立派な奥義だ。

 ふん、と胸を張れば、宇宙はその胸を一瞥いちべつして鼻でわらう。そして「ハッ、まにゃいた、ひゅいへーしぇん」と屈辱的な一言。

 心底腹が立ったので、手に入れる力に怒りの分を追加した。奥義・改だコンチキショーめ。

 さっきよりも強い力で頬をつかめば、「いっ!」と宇宙が声を出した。ふふん。


「いひゃひゃひゃひゃ……っ」


 ちょっと涙目になりながら痛みを訴える宇宙が、わたしの手から顔を外そうと後ずさろうとする。

 くっくっく、宇宙くんや。わたしから逃げようなんざ、1億光年早いわボケェ!


「ひゃひぇるかっ」


 宣戦布告して窓から身を乗りだし、彼の頬にしがみつくようにして捕まってみせる。げ、と目を見開いた彼にニヤリとあやしい笑みをひとつ浮かべた。

 すっかり窓から上半身、宇宙の部屋に入りこもうとしているわたしに、宇宙がふと、この頬から手を離す。うわ、と思ってわたしも宇宙のそれから手を離せば、素早くその手が宇宙のそれに捕まった。


 窓枠に乗せている片手はぷるぷるとふるえているけれど、もう片方は宇宙にガッシリつかまれてしまい、応援に呼べそうにない。

 足も片足しか床についていないし、それさえつま先立ちだ。

 やばいぞ、宇宙に負けちゃう。くやしさを感じてからだをふるわせると、宇宙がサディスティックな笑みを浮かべたのが分かった。


「む、はーなーせっ」

「やーだね」

「もう一度我が奥義を喰らいたいのか愚か者め」

「オレにそんな手は通用しねーよ」


 そう言って笑った宇宙が憎らしい。だけど、つかまれた手が熱くて、ちょっとだけどうしたらいいか分からなくなってしまった。

 そんな熱に気付かないふりをして、わたしは口を閉じて彼を睨みつける。すると、宇宙は腰をかがめてわたしに顔を近付けた。

 ビックリして目を見開けば、彼の手が離れたことで行き場をなくしたわたしの腕が、宇宙の肩で落ちついた。近づいてくる顔におもわず反射的に目をつむれば、コツンとおでこに何かが当たる。

 その感覚にそっと片目を開ければ、かなり近い距離に宇宙の整った顔があって、「ひっ」と悲鳴にも似た声を出してしまった。


「んだよ、ひっ、って」

「す、すまん、ちょっとびっくりして……」

「せらちゃん、けっこうビビリだもんね」

「べっつにびびりじゃないもん!」


 そう言ってにらもうとしたけど、あまりに距離が近すぎて、なにもできなかった。

 それでも、やさしい眼差しでわたしを見つめる宇宙の表情から目が離せず、ほぼ零距離である事実などお構いなしに、その綺麗な目を見つめ返す。

 そうしたら、どこか甘い色をもってコイツの目が細められたから、とたんに恥ずかしくなって顔を赤くしてしまった。


 そんなわたしの反応に、くすくすと宇宙が大人びた表情で笑ったから、目の前にいるのがまるで知らない男のひとのようにおもえて、一気にドキドキする。

 意識した心臓が勢いよく鳴り始めたのを感じた。

 宇宙の視線があまりにやさしくて、どうにも恥ずかしい。それでも、目が離せないのはどうしてだろう。

 吸いこまれるように宇宙の瞳を見続ける。


 お互い、視線を外そうとはしない。それがどこか不思議な空間をつくり出しているように感じられた。


「なぁ、せら」

「……なにさ」


 彼の吐息が顔にかかる。くすぐったいような、恥ずかしいような。

 なんか、本当に世界に2人だけ、みたい――そう感じたら、とたんに笑いがこみあげてきた。がまんできずに「ぶはっ」と噴き出すようにして笑ってしまう。


「っ、あはは!」

「は、ちょ、おまえ……」


 どうがんばっても笑いは止まらず、肩を揺らしてそのまま大笑い。

 顔があんなに近くにあると、おもわず笑っちゃうのは仕方ないっしょ! 言い訳を脳内に浮かべて、爆笑は継続。

 もちろん自分でもわかってる。恥ずかしさを笑いでごまかそうとしただけなんだ。でも、こみ上げてくる笑いは抑えることができなかった。


 ムッとまゆを寄せて、わたしの顔から自分のそれをちょっとだけ離した宇宙は、「おっまえなぁ……」と言ってあきれたようにそっとため息を吐く。

 なんだか不機嫌そうな理由がわからないけど、止まらない笑いはどうしようもない。宇宙のそれが睨みつけるような表情に変わったけれど、止められなかった。


「ははっ、ふっ、くっ……はははっ」

「…………」

「ご、めんっ……ぷっ、く、何か言いたかったんでしょ」


 なんだったの? そう言って目に浮かんだ涙をぬぐえば、宇宙はわたしの頭の後ろに手を回し、グッと自分に引き寄せるように力を入れた。

 「――え?」こぼした声は、空気がかっさらう。またたく間に宇宙の顔が近づいて、耳元で声がした。


「ばーか」


 ばか――その言葉に腹を立てたわたしが、「っそら!」と怒ったように彼の方に顔を向ける。

 その瞬間、目が合って二人の動きが止まった。


 真剣な宇宙の顔。引き込まれるような瞳が、わたしの視線をうばう。

 しばらくそのまま。時が止まったように見つめ合ってしまう。


 真横にある宇宙の目は、真剣にわたしを見つめているから、わたしもそのまま目が離せなくなる。するととたんに彼はすこしだけ眉を寄せて、そっと顔を離した。

 くしゃりとわたしの頭を撫でて離れていった宇宙にキョトンとして、目の前に移動したその顔を眺める。


 宇宙はちょっとだけ耳を赤くして、視線を落とした。自分の頭をガシガシとかいて、ちょっとだけ睨むような顔つきでこちらに目を向ける。

 わたしはキョトンとした表情のままその様子を眺めていたけれど、宇宙が口を開いたのを確認して、耳に意識を集中させた。


「元気に、なった?」


 再度、キョトンとしてしまったわたしだったが、言われた言葉を脳内で消化して、いつものように笑ってみせる。

 わたしを励まそうとしてくれていたんだろう。


「もともと元気だって言ってるでしょ、ばかそら」


 その言いようにちいさく微笑んだ宇宙は、「そっか」と言って口を閉じた。


 やさしさが、胸をしめつける。


「宇宙」

「ん?」

「ありがと、ね」


 照れ隠しに下を向けば、目の前の宇宙が力の抜けたようにふにゃりと破顔したのが空気で伝わってきて、やっぱりくすぐったくなった。

 やっぱりコイツには敵わないなって、こういうときに実感する。ごまかそうとしても、うそついても、全部ぜんぶばれちゃう。

 それが時にくやしくて情けなくてつらいときだってあるけれど、気付いてくれるってのがなんだかとってもうれしくて、ついつい甘えてしまうのだ。

 そして、そんなわたしの甘えをちゃんとわかったうえで、きっちり甘やかしてくれるあたりは、ほんとうに頭が上がらないなって思ってしまった。


「あっ!」

「ん、なんだよ」


 そういえば、と返していないマフラーを思い出して、「ちょっと待ってて」と告げる。部屋の真ん中を陣取っているテーブルの上に、ていねいにたたんで置かれた赤いチェックのマフラー。今日、宇宙から借りていたものだ。

 それを手にとって、すぐに窓際に駆けった。


「あ、そういや貸してたっけ」


 すっかり忘れていたらしい宇宙に「ありがとね」と渡す。ちょっとだけ返すのが惜しいなって思ったけど、その気持ちは隠すように閉じこめた。

 けれど――「いや、いいわそれ」。そう言って宇宙はマフラーを受け取らなかった。


「その代わり、せらのマフラー、オレにちょーだい」


 そう言ってかわいらしく首を傾げたそいつに、わたしは「しっかたないなー」と言って自分のマフラーをクローゼットから取り出した。ピンク色の、チェックのマフラー。


「どーぞ、ダーリン」

「ありがとハニー。な、つけて」


 甘えたようにお願いしてきた宇宙に、おもわず顔をゆがめる。


「今ぁ? おっまえGDPを考えなよ。夜だよ、家ん中だよ、今から寝るんだよ」

「サラっと言ったけどTPOな、TPO」

「どっちでもいいの!」

「てかGDPって……、あれ、なんだっけ」

「ゴールデンデリバリー……ポーゥ!」

「夜なんだから叫ばないでせらちゃん」

「ま、どーでも良くない?」


 そんなどうでも良いやり取りをいつものようにして、(ちなみにGDPの本当の意味は闇に消えた)宇宙にピンクのマフラーをつけてやる。

「わ、くすぐってぇ!」

 そう言って少し身体を遠ざけた宇宙に、「苦しうない、近う寄れ、がははははは」とどこかで聞いたようなセリフを投げた。


「お代官さまぁ~」


 わたしに合わせて高い声を出した宇宙に「キショイ」と罵声ばせいを浴びせれば、その間に彼の首にはピンクのマフラーがきっちりと巻かれた。

 「よし」と首元をちょんっと叩けば、うれしそうな顔をした宇宙も「っしゃ」と声を出す。


 どんどん、こうやって二人のやさしい思い出が増えていく。

 宇宙にとっては何ともないかもしれないけれど、わたしにとってはかけがえのない思い出だ。

 この関係がどうか、この先も続きますように。しずかに願えば、宇宙がやわらかく微笑んだ気がした。

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