高校時代:穏健の終わり

福田と行った2階の教室には、人垣ができていた。主にいるのは他クラスの男女、そして同じクラスの女子だ。皆一様に怯え、そして微かに高揚の色が混じった目をしていた。教室内からは怒号と机を蹴っ飛ばすような破壊音が聞こえた。

「うおおやっべえ!あ、ねえ酒井さん。あれなに?」

「あ、福田くん、えっと…諱戸くんが急に暴れだしちゃったんだって…。」

さすが福田だ。なまじ顔がいいせいかどんな女子も彼には当たりがいい。しかも断りきれなさそうなおどおど系に話しかけている。さすがナリヤン男(仮)だ。

「ありがとー。…ねえ東、諱戸ってどんな奴だっけ?目立った噂は聞かないよな?一年の時のカッター振り回し事件とは別人だよな?」

「…カッター振り回し事件は元7組の涌井。諱戸は……暴力なんかやらなかったと記憶している。」

「んじゃ、なーんで教室内で暴れてるんですかねー。」

「受験ストレス?知らんけど。」

「ありえそう。」

喉が引きつったような叫び声が聞こえる。二言、三言の会話をしたことはあるが、その時は激情をこのように現す人だとはとても思わなかった。

「ほんとにアイツ、何やってんだよ……。」

「なんか知ってるん?」

「2年のとき、同じ委員会だった。」

「ほー。」

話した感じ、妙におどおどしている様子もなかった。年相応によく笑い、真面目すぎる所も無く…といった感じだ。何が彼をああも暴走させたのか。

「なあ、教室入ろうぜ。」

「あのなあ…。さすがにやめておけ、この音からして机くらいは軽く投げてる。先生方の対応が追いついていない今、相手を刺激するのは避けた方が無難だ。」

「でも…。」

「なんだよ。」

「峰尾が中にいるって」

それを聞いた瞬間、俺の身体は勝手に動いた。人ごみをかき分け、教室のドアに手をかける。勢いに任せて開けると、中の光景に一瞬入ることを躊躇した。

そこには血走った目のどう考えても正常ではない諱戸と額を切ったと見られる出血の峰尾がいた。

「峰尾っ!」

福田の叫びが響く。野次馬はそれで少しどよめいた。とにかく峰尾の止血をしなければ。それが頭に浮かんだ時、俺の脚はようやく動いた。

「てめぇ諱戸お!オレらのダチに何してんだよ、教室もめっちゃくちゃにしやがって!」

福田が諱戸の前に立ちはだかる。その後ろを通り過ぎ、俺は峰尾のもとへ滑り込んだ。机や椅子がひっくり返り、いくつか血の跡も残されている。冷静な俺の頭が、「凄惨な現場だ」と他人事のように嘲った。

「うるさいうるさい僕は消さなきゃならないんだお前ら本当に見えねえのかよなんでだ僕だけなのか昨日も学校に来たけど僕は普通の高校生でピアノ教室の妹が迎えに行こうと公園に黒髪の女が」

そこまで喋って、息が尽きたのか諱戸は言葉を止める。大きく荒い呼吸をして耳を抑え蹲っているその姿はまさに発狂した人間そのものだった。俺はというと、諱戸が支離滅裂に話した言葉で一つだけ気になったワードがあった。

「んだよ、訳わかんねぇ…!」

「…おい、東。」

峰尾がゆっくりと体を起こす。傷が深いようで、俺のハンカチはすぐに血で染まってしまった。

「峰尾、目を開けるな、血が入る。最悪失明だぞ。」

「あいつ、さっきは比較的まともだったんだ。黒髪の変な女がずっと教室にいるって言ってる以外はな。いくら居ないって説明しようと聞かないんだ。で、そいつを消すために机やら椅子やらを投げ始めた。どうやら幻覚見てるっぽいんだわ。」

「マジか、先生は?」

「知らん。もう諱戸は10分くらい暴れ倒してる。俺は見た目より痛くもねえケガだからとりあえず安心しとけ。」

諱戸の幻覚なら、俺にも見える。

なんて、峰尾と福田の前では口が裂けても言えなかった。さっきから虚空を見つめている諱戸の視線の先を見れば、俺にも同じものが見えた。さすがに、いきなり壁の隅に6本の手で張り付く女なんかが現れたら発狂もする。彼の気持ちを考えるとそれもかわいそうではあった。

「…東?」

目を開けていないのが不安だったのか、細い声で峰尾が呟いた。図体の割にメンタルは強くないんだ、こいつは。それでも人を助ける精神については尊敬する場面もある。

「ああ、峰尾はとりあえず破壊衝動に駆られる諱戸を止めようとしたんだったか。」

「そうだ。あいつ細いのにとんでもない力でな。火事場の馬鹿力とでも言うのか…。」

正義感の強い峰尾のことだ、なんとか破壊行動を止めようと動いたのだろう。諱戸は福田が立ち塞がっているからか、こちらに攻撃しない。ただ、その虚ろな目はしっかりとバケモノを捉えていた。

「なあ、東あ。あいつイカレてんの?」

「十中八九そうだろ。」

「だよなあ…。魔法使いクンがどうにかしてくれないかなあ…。」

まず、魔法使いが諱戸の発狂の原因を消せるかどうかが勝負どころだと思う。相変わらずバケモノはいい笑顔で嘲笑っているし、俺もそろそろ膠着状態は嫌だ。

緊迫した状況の中、始業を告げる八時四十分のチャイムが間抜けに鳴り響いた。

「ひッ…?!いっ、ああああっ!!」

音に触発されたのか、諱戸が椅子を持って動く。それはこちらではなく、掃除用具入れの上にいるバケモノに向かって投げられる。当たった、と思った時、バケモノが消えた。消えた、いうより霧散したかのような。悔しそうな顔をしたそれは、じゅわりと空気に溶けてしまった。

「えっと、東くんと、諱戸くんと、福田くんと、峰尾くん。どうしたの?ケンカ??」

森の木々の間に吹くような柔らかな声が響いた。静かな声だと言うのに、脳を揺さぶられるような威圧感がある。教卓側のドアの方に振り向くと、1人の生徒が立っていた。

「は?誰だよ!」

「いつ入って来たんだよ、ドアの音が鳴らなかったぞ……。」

福田が間抜けな声を出すと同時、峰尾はやや厳しめの声色で呟いた。柔らかな栗色の髪に、十分に潤んだ大きな瞳。おまけにまだ小学生かと思えるほど細く、小さい。こんな奴、同じ学年にいただろうか。

「東くん、だっけ。君は…」

「…!」

とんとん、と奴は人差し指で自分の目尻を叩く。「見えているのか」と問われたのだ。思わず睨むと、目前の相手は柔らかく微笑む。

「ただの確認だよ。そんなに睨まないで。僕はみんなを助けに来たんだ。」

「助けるってなんだよ。諱戸はイカレてるし峰尾は額切られてるし、お前に何ができんの?」

なおも不思議な笑みを浮かべる奴に、福田が突っかかる。諱戸の狂気の要因が人知れず排除されたとはいえ、教室はめちゃくちゃで峰尾やその他数人くらいの血痕も残っている。外に警察も来ているし、諱戸が社会的制裁をくらうのも時間の問題だ。当の本人は黒髪の女が消えた途端に気絶してしまった。その状況でどうやって全員を救うのかは、甚だ疑問だ。

「じゃあ具体的に、どうするわけ?」

俺が訊くと、奴は微笑みを崩さずに言った。

「簡単さ。無かったことにしたらいい。」

奴は右手を高く掲げる。その指から、ぱちんと軽快な音が鳴った。

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