6 悪魔が尻尾を掴まれて……まだまだ営業中

 いくらなんでもこの展開はないだろう、とケイタロウは背中に冷たいものを感じながらそう思った……。

 

 その数時間前。ケイタロウは、腹痛と偽って言って授業を抜け出し、人目につかない体育館の裏で携帯とにらめっこしていた。その日受けた依頼は、『授業中に終了するネット・オークションで代わりに落札してくれ』というものだった。それぐらい自分でやれよと思うのだが、依頼人曰くどうしても抜けられない授業であること、しかしそれでも欲しい商品であるということらしい。いつものように依頼を受けたものの、ケイタロウが授業を抜ける羽目になり、依頼人のお目当てである、とある人気アニメの限定グッズを落札することになった。


 ミヤノはこれを『強欲』とみなし、その日の午前中には依頼を済ませてしまった。 

 これで、ミヤノたちが解決すべき七つの大罪の内、残るは『憤怒』と『虚飾』の二つとなった。ケイタロウにとっては、何の得にもならないのだが、ようやく先が見えてきたので依頼を済ませると、心が小さく踊る気がした。

 すべてが解決した時、ミヤノの足は本当によくなるのだろうか? その興味が次第に大きくなっていった。

「これであと二つ……今日ぐらい楽な依頼だったらいいのにな」

「そうね……」

 あと二つで終わるというのに、心なしかミヤノの顔は嬉しそうには見えない。しかし、元々笑顔を見せる方が珍しいから、ケイタロウはあまり気にはしていなかった。


 そしてその日の午後……。


 ホームルームも終わり、帰宅準備をしている最中のケイタロウに『こんにちわ』と、聞きなれた声がする。

 ケイタロウが顔を上げると、1組の……というより、自称魔法少女の鈴鹿サキが小さく微笑んでいる。

「あ、その節はどうも……それから」

「はい、何とか……彼のために私、魔法の薬の研究を続けてるんですよ」

「薬、ですか?」

 個人が勝手に薬を調合してもいいのだろうか? それよりも日々怪しげな薬を飲まされて苦しみもがく鈴木(仮)のことを思うと、ケイタロウはほんの少しだけ、同情した。

「で、今日は……」

「私の中学時代の先輩なんですけど、お話聞いてもらってもいいですか?」

「先輩、ということは……?」

「違う違う、先輩は魔法少女じゃないから。いたって普通の、陸上部のマネージャー」

「なんだ……え」

 また以前のように、おかしな魔法を教えないといけないのか、と一瞬思ったけど、その心配はなさそうだ。それよりもサキが言った『陸上部のマネージャー』という言葉が、ケイタロウの中で鋭い釣針となって、引っかかる。

 サキはいったん教室から出て、先輩を呼びに行ったようだ。

「商売繁盛ね」

 車椅子をキイキイときしませ、ロッカーに荷物を取りに行っていたミヤノが、後ろから声をかける。

「あのさ……俺、早退していいか?」

「どうして? お客さん、もうすぐ来るじゃない?」

「いや、お腹がちょっと……」

 とってつけたような嘘だ。もちろん、ミヤノは信じていない。

 そうこうしているうちに、サキが件の先輩を連れて戻ってきた。すらりとした長身に軽く髪を後ろで束ね、薄紫のフレームのメガネを掛けた女子生徒……。

「先輩の、桜井カスミさん」

 知らない顔ではない……。むしろ知りすぎているぐらいだ。

「ようこそようこそ! あれ……」

 二人を迎えるミヤノが、ケイタロウを見る。

「やっぱり……」 

 ケイタロウは本当に腹の調子がどうにかなりそうだった。メガネ以外は、去年と変わらない姿……。


 去年の夏、陸上部をやめるきっかけになった原因が、そこにいる。しかも、向こうは何も知らないような顔で、こちらをじっと見ている。ケイタロウはこのまま古傷をいじくられるのはたまらないので、すぐにでもその場を逃げ出したくなった。

「あれ? えっと、石神井……ケタ、ケタ君、ケタ君だよね? そっかケタ君だったか……久しぶりだね、ケ……」

 カスミの明るい声を聞き終えないうちに、ケイタロウは鞄を掴み、教室を飛び出していた。背中で、ミヤノが何か叫んでいる。

 終わりだ、何かのはずみでカスミがミヤノに去年の話をされたら……。弱みを握ったミヤノに何をされるかわからない、それ以前に、単純に恥ずかしい過去だ。

 走ったからか、それとも久しぶりにカスミに会ったからなのか、鼓動が高鳴り、心臓がバクバクしている。


「ミヤノには、あとで謝ろう……」

 校門に向かうケイタロウの足がふと、止まった。

「ミヤノ……そうだ」

 あいつ、一人だとどうやって帰るんだろうか? 一人で車椅子を漕いで行くのか、それは大変そうだな……。


 気づけば、ケイタロウは校門の前で、缶コーヒーを飲みながら座っていた。

「れれ、先輩じゃないですか、ミヤノさんは?」

 素っ頓狂な声に、顔を上げると、クルリが目を丸くして立っている。

「あぁ、ミヤノは……野暮用で、先に待ってろって」

「そうなんですか、いつも一緒だから、おかしいなと思って」

 そう言って、クルリは、ケイタロウの隣に腰を下ろした。

「そんな、付き添いの専属ヘルパーじゃないんだから」

「そうじゃなかったんですか?」

「向こうが勝手に押し付けただけだよ」

「じゃあ、優しいんですね、それでも一緒にいるから」

「ふうん……。あ、そうだ」

「なんです?」

 眼鏡の奥で、クルリの目がくるりと回転したような気がした。

「車椅子、電動に改造することなんて可能かな? 来栖さんなら作れそうだけど」

「うーん、ダメです。できないことはないけど、ダメです。やっぱり、車椅子は押してこそナンボですよ」

「え、いや、そんな、勝手に決めなくても……押すのも大変なんだよ」

 ごくん、とケイタロウは一口、コーヒーを飲む。ミヤノを置いて逃げた罪の意識か、それはいつもよりも苦みを増したように、舌の上に広がり、喉の奥へと流れていく。

「でも……ミヤノ先輩、ケイタロウ先輩に押されて嬉しそうですよ。押すってことはハンドルを通して人と人が触れ合うってことじゃないですか。電動だとそれができないですよ」

「そうなのかな……でもなあ、重いし、疲れるし」


 くるりが去り、缶コーヒーが空になった頃、タイミングよく、ミヤノがやってきた。

 てっきり棒ではたかれるぐらいの事は覚悟していたのだが、なんだか、元気がない。

「押してくれる……」

 ミヤノはただ、ぽつりとそう言った。

 先ほどのお詫びもかねて、ケイタロウは黙ってハンドルを握った。

 これが人と人の触れあいなのか? と思いつつも、ケイタロウは先ほどと打って変わったミヤノの様子が気になっていた。


 キイキイと車輪をきしませる音だけが聞こえる中、二人は無言だった。カスミはどんな依頼をしたのか、ミヤノはなぜそう無口なんだ? 聞きたいことはあったけど、ミヤノの雰囲気がそれを許さない気がした。

 そういえば、図書館の帰りもこんな雰囲気だったな、とケイタロウは思い出した。

「すまなかった……」

 先にケイタロウが口を開いた。

「ええ。本当だったら、額に三つ目の眼孔を作りたいぐらいだったわ。でも、いい」

「なにが、いいんだ……?」

「何でもない……」

 うつむき加減で、ミヤノは答え、はあっと大きく息を吐いた。

「依頼、受けたのか?」

 ミヤノは黙って、うなずいた。

「ジイ……今度は一人でやって」

「なんで……」

 お互い、ぶすぶすとくすぶったような会話で、言葉の応酬が力なさげに続いた。

 ケイタロウの心中では、ミヤノは、去年のあの事を知ってしまったのではないか、という思いが強く、恥ずかしさと情けなさで足取りが重かった。でもなぜミヤノまで落ち込んでいるんだろう?

「カスミさん、陸上部のマネージャーで、ジイの事もよく知ってたわよ。あの人って携帯の……」

「そうだ……」

「ジイ、カスミさんにふられたんでしょ?」

 ケイタロウは、思わず車椅子のブレーキを強く握りしめた。その勢いで、ミヤノの上半身が軽く前に出る。

「あーあ、落ちたらどうするのよ! でも、図星か。つまらないな……」

「あ、ああぁああ、あが、あがあ……」

「日本語になってないわよ、ジイ」

 やはり、聞かれてしまったのか、あの恥ずかしい夏の日の出来事を! ケイタロウはこのまま何も言わず、ミヤノを置いて逃げたい衝動に駆られた。

 背中から、一気に汗がどっと吹き出し、顔が熱くなっていくのが分かった。見えてはいないが、おそらく、今自分の顔はペンキをかぶったように真っ赤に染まっているんだろう、ということぐらいは分かる。

「き……聞いたのか? それとも、向こうが……」

「違う。カスミさんの話で、私が勝手に推理しただけ。でもその慌てっぷりからすると当たりだったとはね……」

 いつもなら、こういった場合、ミヤノはさらに意地悪い顔をするのだが、今日は少し違っていた。

「情けない、失恋の一つや二つでそんなに慌てちゃって……」

「あ、慌てちゃいないけど……フった相手と顔、合わせ辛いだろ?」

「まあ、そうね。でも彼女、ジイの話良くしてたよ。足は遅いけど、よく頑張ってたって。なんで辞めたのかなって。……彼女、気があるんじゃないの?」

「だったら……お、俺がしくじった理由が分からない」

 まさか、ミヤノはカスミのことを妬いているのか? と思ったがそうでもないらしい。

 「そう……よね」

 ミヤノが突然、落ち込んでいるように見えるのは、他にも原因があるのかもしれない。カスミと会って他に何の話をしたのか? ケイタロウは気になった。

「それで、どんな話だったんだよ? その、依頼の内容は?」

「そうだったわね……今夜、メールで知らせるわ」

 ケイタロウが尋ねると、ミヤノの声のトーンがまた少し、落ちた。

「受ける受けないにかかわらず、今じゃダメなのか?」

「もちろん、依頼は受けるわよ。……でも今夜。ちょっと口では……」

 そう言って、ミヤノは自分で車椅子を漕ぎだした。

「ごめん、ありがと。今日はここでいい……」

 そういったミヤノの後ろ姿はどこか、力なく見える。

 自分が席を外している間に、何があったんだ? 俺ではなく、なぜお前がそんなに落ち込んでいるんだ? 明らかにいつもと違う様子のミヤノを見送りながら、ケイタロウの中で疑問が大きく膨らみだしていった。


「あれ、ひょっとして……今のワニ?」

 その声に振り返ると、ブレザー制服の学生が珍しいものを見るように、小さくなっていくミヤノの後ろ姿を見送っていた。ケイタロウよりもやや背が高く、きちんとセットされ、茶色がかった髪に、端正な顔立ち。いかにもモテそうな容姿だ。

「だよね、今の……ワニ、鰐淵だよね」

 茶髪のブレザーは、ケイタロウを上から下までなめるように見ながら言った。

 そのブレザーは、ミヤノが前にいた学校の制服だ。名前までは覚えていなかったが、図書館への帰り道、ちらりと見えた男子の制服と一緒だ。

「ミヤノ……いや、鰐淵と知り合い?」

 ケイタロウが尋ねると、茶髪ブレザーは笑顔で頷いた。

「まあ、そんなところ。そうか、あいつこの辺の学校か……ということは君がその……ははぁん、あれだな。あいつ、大変だろ?」

「大変といえば、まあ……」

 ケイタロウが曖昧な返事をすると、茶髪ブレザーは何がおかしいのか、ニコニコとし始める。

「そっか……これからもっと大変なことになるかもよ」

「大変って何が?」

 いきなり現れ、謎めいた言葉を残すこの茶髪ブレザーはいったい何者なんだ? ミヤノを以前から知っているようだが、どんな関係だったんだ? ケイタロウは尋ねようとすると、茶髪ブレザーから、軽快なメロディが流れてきた。携帯の着信音だ。

「おっと失礼……」

 茶髪ブレザーは携帯を取り出し、誰かと話し始めると、歩き出した。どうやら誰かと待ち合わせをしているらしい。茶髪ブレザーは一度だけ、ケイタロウの方を見て『それじゃ』と軽く手を振り、足早に駆けていった。。

「なんなんだ?」


 その日、山のような疑問を抱えるケイタロウの元へ、ミヤノから来たメールは

『明日放課後、○○高へ』

 という短い一文だけで、謎が余計に増えたような気がした。


 翌日。待ち合わせ場所に行っても、ミヤノの姿はなかった。先に行ってしまったのかと学校へ向かうと、教室にも、あの青い車椅子のミヤノの姿がない。

『えー鰐淵さんは、今日はお休みです』

 アライグマがホームルームでそう説明してくれたが、その理由までは教えてくれなかった。珍しいこともあるな、やはり昨日の落ち込みぶりがその原因なのかもしれない。


 なんだか、ケイタロウはその日一日、ゆっくりと過ごしたような気がした。ヨシミツとは相変わらずバカ話に興じてはいたが、なんとなく穏やかだ。

 ミヤノが来てから、なんだかんだでバタバタした日が続いたからなあ、まあこんな日もあっていいか、と思っていた。


 そして放課後になって、ケイタロウは昨夜のメールのことを思い出した。

 どうする? ミヤノからもらったメールの通り、○○高へ行ってみるか? ○○高へは電車で一駅向こうだ。それほど遠い場所ではない。ケイタロウは、依頼よりもむしろなぜ、ミヤノがあれほど落ち込んだ様子を見せたのか、ひょっとしてら○○高にその謎を解くカギがあるのでは? と思っていた。なぜ、ミヤノ自身が行こうとしなかったのか? その時、ぼんやりとではあるがケイタロウの中で、もつれた糸がまとまってくるような感触を覚えた。

 

 それが確信に変わったのは、○○高へと向かう電車の中のことだった。

「やっぱり……」

 ケイタロウは、帰宅途中の学生でごった返す車内を見ながら、呟いた。○○校とは、ミヤノが以前通っていた学校だ。ではなぜ行きたがらないのか、茶髪男が言った『もっと大変』とはどういう意味なのか? 実際に行ってみないと分からないような気がしてきた。

 ○○高は、駅を降りて歩いて数分のところにある。放課後ということで、大勢のミヤノと同じブレザーの女子が駅に向かっていく中、ケイタロウは逆向きに進んでいた。

 

「おうい、こっちこっち!」

 まさか、の声にケイタロウの足はすくんだ。○○校の校門前で、手を振っていたのはカスミだ。

「え……なんで、その?」

 カスミはいつものように明るい調子で、こっちこっちとケイタロウを手招きする。

「だって……依頼したとはいえ、やっぱり現地に赴かないと真相がわからないじゃない?」

 カスミは、笑顔でケイタロウにそう言って、校内へと入っていった。

「で、この学校のどこへ?」

「あれ、鰐淵さんから話聞いてないの? 私のお願いのこと」

「ハ……はい」 

 カスミがそばにいるだけで、鼓動が早まる。これはいまだ彼女に未練があるのか、フられた時に受けたダメージが再び、大きな傷となって広がっているのか。とにかく、ぎこちなく足を動かし、ケイタロウはカスミに並んだ。

「先月、うちの部がここに練習試合に来たの。そこでね……」

 そう言ってカスミは眼鏡を外した。人懐っこい表情が一転、獲物を狙う鷹のような目つきに変わっている。

「これ、これ……もともと目が悪くて、私すごく目つき悪いんだよね。『一睨みで、窓ガラス割れるぐらい鋭い』って、よく言われるんだ。あと、『超音波メス』とか」

 確かに、上目遣いのその目つきはその辺の不良や喧嘩自慢を震え上がらせるぐらいの眼力はありそうだった。そして去年の夏、この目に射られるように、ケイタロウはフられたのだ。それを思い出し、ケイタの胸はギュッと締められる思いだった。

「そ、そうですね……」

 ケイタロウは、ただ相槌を打つしかなかった。

「でね、たまたまメガネ外した時に、見ちゃったんだよね……この学校の、その、なんというか、番長?」

「ばんちょう?」


 番長というものが果たして現存するのかどうか、定かではない。だがカスミの話をまとめると、要はここの学校のゴリラのような番長に『ガンを飛ばした』と勘違いされて、怒りを買っている。だから何とか誤解を解いてほしい、というものだった。


「じゃあ、俺の仕事って……その番長を」

「そう、きちんと説明して、怒らないでほしいって頼んでほしいのよ。だって、うちの近所で、ゴリラの目撃例が増えてるの。私の家に殴り込みをかけるつもりよ、そのゴリラ」

「ゴリラじゃなくって、人間ですよね、一応……」

 下手をすればその番長とやらに戦いを挑むことになるんじゃないだろうな、とケイタロウの足が小さく震えた。

「相手を怒らせた……ってことは、これは『憤怒』だな……」

 ケイタロウはカスミに聞こえないように呟いた。

「で……そのゴリラ、じゃなくって番長はどこですか?」

「えっと、グラウンド外れの体育会の部室棟なんだけど……」

 二人がグラウンドに来ると、後ろから、呼び止める声があった。

「その制服、ひょっとして……」

 振り返ると、昨日の茶髪男だ。よくよくこの男は後ろに立つのが好きなんだな、とケイタロウは何となく思った。

「あれ、君……昨日のヘルパー君じゃないか、それに……そこのメガネ彼女は……おお! ちょっといいかな」

「ヘルパー……くん?」

「メガネ彼女?」

 ケイタロウとカスミが顔を見合わせる。

 そんな二人を置いて、茶髪男は携帯で誰かと話し出した。

 なにがなんだかさっぱりわからない。

「いやー奇遇も奇遇。こういうのってカモネギっていうのかな?」

 茶髪男は相変わらずの明るい口調で、ここで待て、と二人に指示を出した。


 しばらくして……ほんの少し、ズンという地鳴りがしたかと思うと、何が楽しいのかニヤける茶髪男の後ろに、黒い影が立った。

「デカ……」

 ケイタロウは、思わずつぶやいた。自分よりも頭二つ分ぐらいはありそうな身長。高さだけではない、横幅もそれなりにあり、上着がはちきれんばかりに膨らんでいる。小さな頭部のすぐ下が胴体になっているように見えたが、よく見れば短く、太い首がある。太い首に弾かれたようにワイシャツは第二ボタンまで開けており、ネクタイは締めていない。ごつごつした手二、潰れて餃子状になった両耳からおそらくは柔道、それもかなりの上段者だということぐらいは、素人目に見ても明らかだった。まさに、ゴリラのような男だ。

「がふっ」

 ゴリラ男が唸りともせきともつかない声を出した。

「この子だろ、探してたの? あ、こいつね、ゴリアスって呼ばれてるの。小学校の頃からごつくってさ、明日にでもゴリラになりそうだから、ゴリアス」

 ゴリアスと呼ばれた男が、うんと頷くと、短い首がぶにょん、と揺れた。

 明日どころか今でも十分ゴリラだ、とケイタロウは思ったが口にすれば命の保証はなさそうなので、心の中でつぶやくだけに留めておいた。

「そうそう、この人。ゴリ……ゴリアテさんか……」

「ゴリアスね」

 この際どっちでもいいと、ケイタロウは思ったが、茶髪男がすかさずカスミの発言を訂正する。

「じゃあ、先輩がガンを飛ばした相手って……」

「このゴリさん。じゃあ、あとはケタ君の仕事よ!」

 カスミは後ろに回ってケイタロウの背中を強めに押した。勢い余って前に出たケイタロウとゴリアスとの距離が縮まる。

「あ、あの……」

 次になんといえばいいのか、果たしてこのゴリラ男に日本語は通じるのだろうか? ケイタロウはゴリアスを見上げ、そう思った。

「ゴリアスはヘルパー君じゃなくて、後ろの彼女に用があるんだけどな……ま、いっか」

 ゴリラ男の通訳のように、極めて軽薄に茶髪が声をかける。

「き、きき、今日はその、誤解を解きたいと思って参上した次第でござりまする」

 ゴリアスを前に、ケイタロウの足はすくみ上がり、発する言葉も怪しくなっていた。

「誤解って?」

 茶髪男がそういうと、ゴリアスがケイタロウをにらみつける。

 坊主頭で、上から潰れたような鼻に落ちくぼんだ眼孔、怒っているのか、やや頬を紅潮させているのが分かる。

「そ、その、後ろの方は……ガンを飛ばしたわけじゃないので、どうか、怒らずに……その……」

「ガンを飛ばす? へえ―」

 突然、茶髪男が笑い出した。しかし、ゴリアスの目は少しも笑うことなく、ケイタロウを見ている。

「なるほど……お前、負けたぞ」

 茶髪男がゴリアスに声をかける。相変わらず、無表情だ。

「負けた? どういうこと?」

 ケイタロウが拍子抜けしたような声を出した。


 数分後、食堂に四人はいた。まずケイタロウが事のあらましを説明すると、茶髪男は、再び声を上げて笑い出した。

「なるほどね……ガンつけられて、こいつが怒っていると? 違うんだよ、なあ?」

 隣に座るゴリアスの胸を、バンバンと茶髪男は叩いた。

「え、じゃあ、なんで?」

 カスミが少し身を乗り出すと、ゴリアスは恥ずかしそうに身をくねらせた。

 まるでゴリラのタコ踊り……はっきり言って、少しもかわいくないし、むしろ見たくない、とケイタロウは思った。

「あう……」

 ゴリアスは、体をくねらせながらうめくような、野太い溜息のような声を上げる。

「実はこいつ……君のその、鋭い眼差しにやられたみたい……ぶっちゃけ、一目惚れだな。それでもう一度会いたいと思って、君らの学校の近くを探し回ってたんだよ。まさかそっちから来てくれるとはね……」

「あ、そうか、だから……」

「そ。俺も付き添いでね。だから昨日、ヘルパー君にも会えたし、俺は久々にワニの姿を拝むことができた」

 ケイタロウの中で、山積みになった謎のひとつがふっと消えたような気がした。

「それじゃ……誤解はこっちが……」

 ケイタロウがカスミを見ると、うつむいたまま、顔を上げない。

「……さい、てっきり私……ごめんなさい……てっきり私……ごめんなさい」

 聞き取りにくいぐらいの声で、念仏のようにカスミが詫びの言葉を唱えている。

「気にしなくていいよ、それじゃ、ここは若いお二人に任せますか、なあ?」

 茶髪男がケイタロウに『出よう』と軽く手を振る。

 このまま、先輩をゴリラ男と二人きりにしてもいいのだろうか? と思いながらも、ケイタロウは席を立ち、茶髪男に従うように、食堂を出た。ちら、と振り返ると、カスミはうつむいたまま、そしてゴリアスはまだ体をうねうねとくねらせていた。

 

 ケイタロウは茶髪男と校内ををぶらぶらし、グラウンドの観覧席に腰を下ろした。部活中の運動部の姿をぼんやり見ていると、隣で茶髪男は、携帯をいじってる。このままゴリアスが出てくるのを待っているつもりなんだろうか。そこで、思い切ってケイタロウは茶髪男にある質問をぶつけてみよう、と思った。

「ミヤノ……いや、鰐淵のこと……聞きたいんだけど」

「へ?」

 携帯から顔を上げた茶髪男は、少し驚いた顔をしている。

「昨日言ってた、『大変なこと』って一体何のこと?」

「ああ……そんなこと言ったかな……大変なことか……そりゃもう、大変だよ」

「それじゃ答えになっていないよ」

「ごめん。ま、言うほど大変じゃないけどね。で、そもそもどこまで行ったの?」

 今度は茶髪男の質問を受け、ケイタロウが慌てる番だった。

「どこまでって……そんな、なにもないよ。俺はただ、あいつの言うとおりに車椅子係を……」

「そうじゃなくて! 君、面白いね……あれだよあれ、『七つの大罪』だよ」

 『どこまで行った?』をてっきり、交際の深度と勘違いしたケイタロウは、恥ずかしさのあまり思わず、茶髪男から目をそらす。

「そ、そっちか……」

「そりゃ俺も何度かコクろうと思ったけど、ダメだよ。あいつはわがままで、頑固で、そう、まるで溶岩石のように硬い」 

 茶髪男の言葉に、ケイタロウは黙って数回、頷いた。そうだ、あいつは自己中心的で乱暴な女だ。

「で、どこまで? まさかとは思ったけど、そっちでも『七つの大罪ごっこ』やってるとはね。進歩のない奴だな」

 再び、茶髪男が尋ねてくる。

「今日のこれが『憤怒』だとすれば……あと一つ、かな」

「そっか……」

 今まで、軽薄そうな笑顔を浮かべていた茶髪男の顔が一瞬真剣になり、その視線は遠くを……グラウンドで体を動かす部活中の学生たちの方を見ている。

「そ、それが何か? ということは、ここでもあいつ、『七つの大罪』を?」

 小さく、茶髪男が頷く。

「俺が、ここでの君……つまりはヘルパー役だった」

 薄々感づいていたことだったが、茶髪男がはっきりと断言した。

「あれだろ? 仲良くしたいからって『七つの大罪』の意味を調べてあいつに話したら、そのまま……蜘蛛の巣にかかった……」

 今度はケイタロウが小さく頷く。

「ふう……何も変わってないな、ワニも。俺もさ、あいつの車椅子押して、くだらない揉め事を解決してさ、『七つの大罪』を一つ一つ……おかしいと思わないか? じゃあ、あいつはなぜ今も車椅子なんだ?」

 ケイタロウは、はっと顔を上げる。言われてみれば、確かにそうだ。

「そういうこと。『七つの大罪』なんてデタラメ。俺の時は……最後は『暴食』だったかな。それが解決したらあいつの足が治る。まあそんなバカみたいなこと俺も信じたもんだけどさ。あと一つ、という時にあいつは転校した……」

「じゃあ……」

 ポカンと口を開けながら、ケイタロウは茶髪男を見る。

「そんなウソがばれると居られないから、あいつは出ていった、と思うよ。あいつの足は治らない」 

「じゃあ……今回も」

「ありうるね、おおいに」

 大きく、茶髪男が頷く。

「でも、なんでそんなことしたんだろう?」

「さあね。でも、あいつといた時は楽しかったんだけどな。ゴリアスも、他のみんなもなんだかんだ文句いいながら、あいつの周りに集まって来る。知らないのは、あいつだけなんだよ、いつも不機嫌そうな顔でさ。『大変なこと』っていうのは、いつかあいつがいなくなるよって意味」

 しばらく、ケイタロウはわけがわからず、ただぼーっとグラウンドを見つめていた。


 この案件が片付いたら、あいつは以前のように居なくなってしまうのだろうか? 

 今までのこれは全部無駄だったというのか? ケイタロウの中で、いままで自分を欺いてきたミヤノに対する怒りよりも、なんだか寂しさのような気持ちが大きく膨れ上がっていった。


「あ、そうだ、ワニに渡したいものあるから、今度また来てくれるかな? 別の場所でもいいけど。これ、連絡先」

 茶髪男はそう言って紙切れに書いた自分の携帯番号を渡した。そこで初めて茶髪男の名前が『園田』ということをケイタロウは知った。

「さよならも言わないで、あいつ、ホント自分勝手なんだよ」

 紙切れを渡した時の園田の顔は、どこか寂しげに見えた。

 そしてグラウンドに、小山のような人影がのし、のしと歩いてくるのが見えた。

「お、終わったか? あいつ、うまくいったかな……それじゃ、電話よろしくっ」

 いつものような軽薄そうな笑顔を浮かべ、園田はゴリアスの元へと駆けて行った。


 それからケイタロウは校門近くでカスミを見かけ、一緒に帰ることにした。

 客数もまばらな車内で、二人は座ろうともせず立ったまま、何も話さなかった。

 いったいあのゴリラ男とあの後どうなったのか、ケイタロウは気にはなっていたが、聞くとさらに気まずくなるような気がした。

「保留」

 そんな沈黙を破るようにカスミが、小さく、口を開いた。

「へ? 今なんて?」

「だから、保留にしたの。ゴリアス君、すごく私のこと気に入ってくれるんだけど……いきなり『付き合ってくれ』って言われても、心の準備がね……だから『保留』」

 そして、ケイタロウの心の中を読んだように、カスミがあれからのことを教えてくれた。それほどきわどい内容ではなく、ゴリアスに一方的に言い寄られたので断るのに必死だったそうだ。

「そ、そうでしたか……」 

 ケイタロウにとってはそんなこと、どちらでもよかった。

「私、すごく目が悪いからメガネにしたのに……それでまた変な誤解を生んじゃって……申し訳ないと思うんだけど……去年も、そう、ケタ君が部活辞める前かな。誰かに告白されたんだけど、誰だかかわからなくて、断ったの」


 どくん、とケイタロウの胸が大きく弾んだ、ような気がした。


 去年の夏、あの時も射るような眼差しで断られた……目の悪いカスミにすれば、あれが誰だかわからないままなのだ。それを知らないで、自分は一年近くももがき苦しんでいたというのか? つり革を持ったまま、ケイタロウは膝から下がぐしゃり、と崩れるような気分になった。じゃあ、あの時、陸上部をやめなくてもよかったのでは? 続けていれば、もっと早くに、もっと親密にカスミと……。いや、今日のこの機会を作ってくれたのも、もとはといえば、ミヤノのおかげといってもいいかもしれない。


 カスミの発言に動揺しつつも、この一件が片付いた今、ミヤノは果たして自分たちの前から去るのか、ほんの少し、それが気になった。

「そうだ、今日のお礼に、どこかに食べに行かない? いいでしょ、ケタ君?」

 カスミが、ケイタロウに微笑む。その笑顔にミヤノのことは吹っ飛んでしまい、ケイタロウは無言で、頷いた。


 一瞬、ほんの一瞬であるが、ケイタの脳裏に浮かぶあの車椅子の悪魔が、天使に見えた。

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