5 罪の大売り出しに……只今繁盛中


「あなた『暴食』ね! 『暴食』よ! 『暴食』なのよ!」

 ミヤノにいきなり、それも3度も言われ、1年生の丸井はその名の通り、発育が良過ぎる丸い体を波打つように震わせ、口をもごもごと動かした。

「な、なんですか、それ?」

 体型と同じく、顔もまんまるな丸井が、驚いたように目を丸くした。2人のそばにいたケイタロウの耳には、頬についた余分な肉のせいでくぐもった丸井の声が『なんデブか?』に聞こえた。

 丸井はミヤノたちに学食の『焼きそば風パン』を買ってくるよう依頼をしていた。それが10日も続いたので、ミヤノはさっと丸井を棒で指して、そう決め打ったのだ。


 ちなみに『焼きそば風パン』は、ヘルシーさを売りに、焼きそばの代わりに焼きタラコをまぶした糸こんにゃくが挟んである、学食オリジナルパンだ。潔く『こんにゃくパン』とすればいいのだが、焼きそばパン人気に便乗したいのか、あくまでも『焼きそば風』という往生際の悪さだ。それで売れるはずもなく、オリジナルに比べるとその人気は雲泥の差である。だから並ばなくとも余裕で買えるのだが、丸井は『ダイエットしているところを見られたくない』と、ミヤノたちに頼んでいたのだ。とはいえ、毎回二個ずつ食べてたら、やせるもんもやせないだろ、と初日の段階でケイタロウは思っていた。

「同じものを毎日大量に摂っているから『暴食』!」

「いや、今日で止めようと思って……だってちっともやせないんですよ」

 これまたケイタロウには『やせないんデブよ』に聞こえた。

「そりゃ質より量だからだよ。やせたいなら、運動するとか、他にも方法はあるよ」

 諭すようにケイタロウが言うと、『そうでしょうか?』と口ごもらせながら、丸井はすごすごと教室を出て行った。

「『暴食』はこれにて終了。すごい、『色欲』と合わせてもう二つもクリアしてるわよ!」

 丸井に軽く手を振って見送ると、一仕事終えたように、ミヤノは軽く伸びをした。

「まだ五つ残ってるだろ」

「ネガティブ思考ね、ジイは。これからさくさくクリアして行くのよ」

「さあ、どうだか……」

 と、ケイタロウは何とはなしに、ミヤノの足元を見た。七つの大罪にまつわる依頼をクリアしたら、本当に彼女の足は治るのだろうか? いまだに信じ難い話だと思っていた。だが、どこから湧き出るのか知れない、ミヤノの自信満々の顔を見ていると、ひょっとしてありうるかも? と思えてしまう。

 

 それからはミヤノの言った通りになった。

「カズオ君……学校来て。……お願い」

 とある住宅地の一戸建ての前、消え入りそうにか細い声で、クルリはインターホンに話しかけていた。


 その日の依頼は、ある1年生から、2ヶ月前から登校拒否になっている友人を学校に連れて来て欲しいというものだった。ミヤノはそれを『怠惰』とみなし、クルリを使って色仕掛けで釣ろうと提案した。もちろんケイタロウはやんわりと反対した。『やんわりと』というのは、何を言っても結局押し切られてしまうのが目に見えていたからである。

 2人はクルリの迫真の演技をじっと物陰から見守っていた。話している内容までは聞こえないが、クルリは時々考える素振りを見せながら、インターホンに話しかけている。

「話が長いな」

「結構ウマが合ってるかもよ」

「まさか、あんなので落ちるかね。作戦が安易過ぎるよ。だって相手は筋金入りの引きこもりだぜ」

「いいえ、いけるわよ。実は自分を想っていた女子がいたなんて、相手はちっとも思っていないでしょうからね。今頃部屋の真ん中で浮かれてスキップ踏んで、どのタイミングで出てきてやろうかとか、洗面所で髪形整えているか、とりあえず録りだめした深夜アニメをディスクに保存したり、ゲームのデータをセーブしたり」

「つまり身支度を整えているっていうのか? まさか? 頭から布団被って『早く行ってくれー! 僕は世間と拒絶したー』とか、呪文でも唱えているんじゃないのか?」

 そんなケイタロウの心配をよそに、程なくしてドアが開き、引きこもりという割には血色のいい顔をした男が姿を見せた。ちゃんと学生服を着ている。

「ホラ見なさいよ!」

「……意外。というか単純だなあ」

「さあ。締めの一発行くわよ!」

 さっとミヤノが手を振ると、それを合図に、ケイタロウは車椅子を押した。

「松田カズオ君、クラスメイトから来てほしいという声が上がっております! 速やかに学校に行って元気な顔を見せること!」

 片手に拡声器、もう一方には棒を振り、ミヤノががなる。

 車椅子には、以前使用したブレードに大小のトゲトゲが取り付けられており、凶暴極まりない仕様になっている。クルリいわく『ミヤノスペシャル・追い込みモード』らしい。ピンクに塗られた拡声器は『メカニック担当』のクルリが持ってきたものだ。

「メガホンなしでも聞こえるだろうが……」

 トゲトゲ付きの車椅子を押しながら、ケイタロウが呆れる。

「こ、来ないで、俺、先端恐怖症なんだから!」

 いきなり現れたトゲだらけの車椅子に、思わず松田が身を縮める。松田でなくともこんなものが現れたら誰だって逃げようと思うはずだ。

「い、行きますって! そんな大声で……」

 ずんずんと迫るミヤノたちに、制止するように松田が両手を振った。

「彼は大丈夫ですって。今、諸般の事情で発売中止になったアレを何とか用意するって言ったら……」

 さっと松田をかばうように、クルリがミヤノの前に立つ。

「そ、そうですよ。彼女凄いですよ。だから、たまには学校にでも行こうかなって……」

「そ、そうなんだ」

「じゃあ……」

 松田は、クルリにしっかりと手を握られ、引っ張られるように学校へと向かう。しかし、その顔はどこか嬉しそうでもあった。

「デレデレしてら。ありゃマジで来栖さんに惚れちゃったんじゃないのか?」

「その時は、彼女に任せましょ」

 心配するケイタロウに、そんなこと知るかとばかりに、ミヤノはあっけらかんとそう答えた。

「これにて『怠惰』は終了!」

「で、販売中止になった『アレ』って何だ?」

 2人を見送りつつ、ミヤノは棒を振り上げた。


 それから数日後……。『怠惰』の1件もひと段落、引きこもりの松田はクルリ会いたさに学校へと顔を出しているらしい。クルリに好意がある、というのではなく、ただクルリの持つ計り知れない数や種類の『アレやコレ』が気になっているらしい。その『アレやコレ』とは何か? ケイタロウが尋ねてもクルリは笑ってごまかすだけだった。

 メカニック担当と称し、すぐに必要な物資を調達するクルリのことだから、きっと松田の欲するものも簡単に調達できたり、すでに所有しているんだろうな、とケイタロウはぼんやりと考えていた。


 そんなある日。移動教室から帰ってきたケイタロウは、自分の机の上におかしなものが置かれていることに気付いた。茶封筒だ。少し厚みがあり、表には『マンジュウ屋さんへ』と書かれてある。

「……なんだこりゃ?」

「依頼の手紙じゃないの? 開けてみなさいよ」

 後ろから首を出したミヤノに言われるまま、怪訝な顔でケイタロウが封筒の中を見る。「これは……」

 中には数枚の1万円札と、手紙が添えられていた。

「ひい、ふう、み……いぃ、こんなに?」

 紙幣を数えたケイタロウが、思わず、後ろから来ていたミヤノを見た。

「これはよほどの事情があるようね。で、手紙には何が書いてあるの?」

「……なになに……『いかなる手段を用いても3年4組の太田の成績を落として欲しい。お金は差し上げます』だってさ。まるで殺し屋の依頼みたいだな……。どうする?」

 聞くまでもなく、ミヤノはこの依頼も引き受けるつもりだろう。顔を見ずとも、ケイタロウには分かっていた。

「そうね。まず、この3年生の太田さんを調べてみましょう。それと、依頼主がはっきりしないのも気持ち悪いわね。ジイ……」

「へいへい、昼休憩にでも行ってくるよ」

 やはり、ミヤノはこの依頼を受けるつもりだ。もとより彼女には『依頼を断る』という選択肢はないようだし、彼女が動く前に下調べに行くのが自分の役割のようになっていることもケイタロウはすっかり心得ていた。

「……これは、いわゆる『嫉妬』よね」

「確かに。依頼主が、その太田さんだか太田君に嫉妬してるんだよな。でも待て、この場合、嫉妬している依頼者をどうにかするのが筋なんじゃないのか?」

「太田君だか太田さんをどうにかして依頼主の嫉妬心を治めるのも筋よ。とにかく調べなきゃ」

 そういうと、うん、とミヤノは強く頷いた。

「じゃあ、ま、探偵ごっこでもしてきますか……」

「待って。あまりうろうろすると、依頼主も快く思わないかも。こういったことは秘密裏に行うべきよ」

「隠密行動か、じゃあ、太田君さんを放課後にでも引っ張って来て尋問するか?」

「そうね……これ、使えるわね」

 と、ミヤノは依頼文の入った封筒をつまみあげた。


 昼休憩。ケイタロウは昼食もそこそこに新校舎の3階にある3年4組の教室の近くにいた。

 三年前に立てられた新校舎を歩くと、いまだにシンナーを薄めたような新造建築特有のの匂いがする。

 教室から一人の女生徒が出てくると、ケイタロウはその後を追い、声を掛けた。

「あの、これ、太田さんに……」

 女生徒に差し出したのは一通の封筒だ。

「なに、これ?」

「見たら、分かると思います」

 怪訝そうな顔をしながらも、女生徒は快諾してくれた。まずは成功である。そこで、ついでにケイタロウは女生徒にあることを尋ねてみた。

「……その、太田さんって結構頭いいんですよね?」

「え……太田君が? そんなことないと思うけど?」

「じゃあ、成績は常に上位とか」

「うーん、どうかなあ」

 ケイタロウの質問に女子生徒は困惑した表情を見せる。それがケイタロウには少し引っ掛かった。


 教室に戻り、そのことをミヤノに報告すると、ミヤノもまた腑に落ちないといった顔を見せた。

「成績があまりよくない……なのに誰かにやっかまれているの?」

「な、変だろ? 普通こういうのって成績がトップクラスの人間が狙われるんじゃないのか? でも、そうじゃないような、はっきりとしない、どうにも微妙なリアクションだったな。あ、それと太田さんは男だ」

「私もそう思ったわ。ふーん、これは予想外ね。一筋縄ではいかない案件になるかもね」

「しかし、見ず知らずの人間に手紙もらってのこのこやって来るかな?」

 ケイタロウが女生徒に渡した封筒の中には『放課後に会いたい』という旨の便箋が入っていた。謎の依頼主からの封筒を見てヒントを得た『手紙作戦』だ。

「来るわよ。『あなたに関する重大なお話があります。放課後、屋上で待ってます』って書いたから」

「まるで脅迫状じゃないか。で、今なんて言った?」

「だから『あなたのこと……』」

「じゃなくて、放課後、どこで待つんだよ!」

「屋上よ」

「はぁ? 屋上だとぉ?」

 簡単に言ってくれやがる、とケイタロウは平然とした顔をしているミヤノを見た。

「何でここにしなかったんだよ? まさか、屋上から太田さんを突き落とすとかしないだろうな?」

「そんなバカな事しないわよ。無茶な依頼だけど、正攻法で行きたいわ。屋上にしたのは単なるムード作り。なにか不都合でもあるの?」

「不都合ってお前……」

 ちらり、とケイタロウはミヤノの足元を見る。エレベーターのない学校で、ミヤノを屋上に運ぶには背負って階段を上っていかないといけない。それだけでも重労働な上に、屋上に着いたら車椅子も必要になる。ミヤノと車椅子を同時に運ぶほど、ケイタロウは力自慢ではない。ということは少なくとも、ここから屋上まで2往復はしないといけない。陸上部で鍛えたといっても、ほんの3ヶ月しか在籍していないケイタロウにとっては、それは地獄の責め苦に等しいものがある。

「大丈夫よ。あらかじめ、クルリの持っているスペアを屋上に置けばいいから。ほら、ラブモードのアレ」

 察しよくミヤノが答える。

「なるほど。でも、結局お前を担がないといけないわけか……」

「嫌なの? 嫌なわけ? 嫌だったりするわけ?」

 ひゅい、とミヤノが棒を伸ばす。その切っ先はケイタロウの眉間に向けられている。

「い、嫌じゃない……こともないが、とにかくまあ、車椅子だけでもセットしてくれるんだったらいいや。いや、待て。それを誰がセットしに行くんだ?」

「次の休憩時間に……」

 『ミヤノ棒』がケイタロウをぴたり、と指している。


 放課後。他に誰もいない屋上のほぼ中央辺りで、吹きぬける風を全身で受け止めて涼しそうな顔をしているミヤノと、それとは対照的に、汗だくで、ゼエゼエと全身で息をするケイタロウの姿があった。

 ミヤノを背負い、1階から屋上までを上りきるのは、想像以上にきついものがあった。初めは背中に負担を感じたものの、楽々と進んでいたが、それがいけなかった。調子に乗って早足気味になっていたのが仇となり、2階を越える頃には、膝が震えだし、額に脂汗が浮かびだした。後はプルプルと震える足を何とか持ち上げ、いつたどり着くかも分からない屋上までの果てしない道のりをただ、無言で進むしかなかった。その際、ミヤノが背中で何かを叫んでいた。歩みが遅くなったケイタロウを責めているのだろうが、聞かないことにした。


「来るかしら」

「来てもらわないと、困る。それともう、屋上まで運ぶのはゴメンだ」

 周りから奇異の目で見られながらもミヤノを背負い屋上まで階段を上りきったケイタロウの足はパンパンに腫れ、腰もジンジンと悲鳴を上げ、全身が汗で濡れていた。

「あら。こんな長時間女の子をおんぶするって滅多にないことよ。人によってはお金を積んでもしたいというぐらいなのに。ジイはどうかしてるわ」

「どうかしてるのは、は、そっちだろ、もう2度とここに人を呼ぶんじゃない……」

 ドサ、と仰向けになったケイタロウの視界に、男の足が入った。

「えっと、これ……くれたの君らか?」

 あわててケイタロウは起き上がった。ガッシリとした体格の体育会系の学生が封筒を手に立っている。

「太田さん、ですか?」

 男はうんと頷いた。

「じゃあ話が早いわ。私たちは2年の『マンジュウ屋』です。太田さん、最近誰かに恨まれるようなことをしましたか?」

 挨拶もそこそこに、てきぱきとミヤノが概要を話す。

「マンジュウ屋……あぁ、あの何でも屋か。それが何の用? それと、俺が恨まれてるって?」

 心当たりがないように、太田は首をひねった。

「はっきり言います。ある人から太田さんの成績を落としてほしいという依頼があったんですよ」

 ようやく息も整ったケイタロウに、太田は別段驚く様子も見せず、何かを思い出したように、軽く頷いた。

「成績を……あぁ、それ、寺沢だ」

「「へ?」」 

 ミヤノとケイタロウが同時に声を上げた。太田の即答で、依頼人の正体がばれてしまったのだ。まさかの出来事に、2人とも次の言葉が出ない。そこに、太田が話を続ける。

「うん、多分、というか、絶対に寺沢だ。中学から一緒なんだよ。それがさ、いっつも俺はクラスで15番目の成績で、あいつは16番なんだ。1クラス大体30人だろ? だから俺はみんなに『不動のセンター』って呼ばれてるよ」

 あっけらかんとした太田と、呆気に取られるミヤノとケイタロウ。

「……しかし、普通そういうのってトップ争い、もしくは最下位争いでするべきですよね」

「クラスのセンターを巡る争いなんて聞いたことないわ」

 なんとも腰砕けなオチである。ミヤノはため息をつき、ケイタロウはまだ口をぽかんと開けている。しかし、依頼主が判明してもその依頼はまだ遂行されていない。

「じゃあ、お願いですから。今度のテストは少しだけ、手を抜いてください。名前書き忘れるとか、全部ひらがなで回答するとか。寺沢さんは太田さんのこと、やっかんでるようですから」

「あいつが? まあ、いつも同じポジションだからなあ。でも、そうやってテストで手を抜いてもさ、それでもあいつは俺よりも悪い点を取るんだよ。不思議だろ? いつもいつも、俺の下ばっかり」

「じゃあ、テストの日は休んでもらうとか……」

「それは無理だよ。俺だって、成績に響くし、3年だから内申書のこともあるしなあ」

「そうですよね」

 ちら、とケイタロウはミヤノを見た。さてどうする、策はあるのか? ミヤノは相変わらず、何かを考えているようで、まるで考えていない。つまりはいつもどおりの顔で、太田をじっと見ている。

「ちょっと待て!」

 と、3人の間に長身の男が割り込んできた。

「おぉ、寺沢」

 緊張感のかけらもなく、太田が軽く手を振る。

 本来ならば狙うものと狙われるもの、という関係の2人だが、まるでそうは見えない。どこから見ても単なる友達だ。

「寺沢……じゃああなたが依頼主?」

「あぁ。様子を見にそっちに行ったら、屋上に上っていくじゃないか。だから後をつけたら途中で太田が来たんで……何も太田に喋らなくとも!」

『尾行してたんなら、ミヤノを担ぐの手伝って欲しかったですよ』

 とケイタロウは言いたかったが、やめておいた。

「ですが、依頼主が誰であるか分からない以上、太田さんに話を聞くほうが事がスムーズに運ぶと思いましたから」

 キイキイとミヤノが車椅子で寺沢に近付く。

「で、どうします寺沢さん?」

 ケイタロウは、そう尋ねると、自然にミヤノの後ろに回った。寺沢からただならぬ気配を感じたのだ。

「どうもこうも、自分じゃどうにもならないから君たちに頼んだんじゃないか! こうなったら」

 長身の寺沢が軽く腰を落とし、右手を懐に入れた。

「!」

 まさか、凶器でも出すのでは? ケイタロウは危害が及ばぬように車椅子をバックさせる。それと同時にミヤノはそれに対すべく、すっと袖口から『ミヤノ棒』を取り出した。

「おい、まさか……」

 ケイタロウは、ミヤノと寺沢を交互に見た。依頼を遂行できなかった自分とミヤノに危害を与える気では? 軽く身を震わせ、ケイタロウは軽くグリップを握り後ずさった。

「これでどうだ!」

 寺沢は懐から右手を抜いた。

「危ない!」

 ケイタロウは思わずグリップを強く握り、さらに後ろへと下がった。それと同時に、ミヤノは鞭を打つように手を振り下ろし、棒を最大限に伸ばす。

 寺沢が右手に持っているのはナイフでも、その他殺傷能力を有する凶器類でもなんでもなく、むき出しの紙幣だ。

「依頼料上乗せするから何とかしてくれ!」

 右手を前に出し、寺沢が深く頭を下げるのを見て、ケイタロウは安堵のあまり脱力しかけた。

「はあ……」

「おい、やめろよ。お前は『永遠の16番』なんだから」

 慰めるような、けなしているような物言いの太田に目もくれず、寺沢はただ頭を下げている。

「……寺沢さん。分かりました」

 ミヤノの声に、寺沢が顔を上げた。 

「本当か?」

「太田さんを成績で抜きたい、というその気持ちよく分かりました。ですから……ジイ」

 ケイタロウが車椅子を押し、ミヤノは2人に近付く。

「これ、お返しします」

 ミヤノは、封筒を取り出し、寺沢に渡した。

「え? 俺の話聞いてなかったのか? 俺は……」

「ですから。このお金で参考書でも買って、うんと勉強して太田さんを抜いてください」

 まあ、シンプルかつ理にかなった解決策ではあるな、とケイタロウはそれを聞きながら思った。

 しかし、成績順のセンター争いとはレベルの低い……と自分のことを棚に上げて、そうも思ったが、2人の先輩に対し失礼に当たると思い、それ以上は考えなかった。

「『隣の芝生は青い』……同じものを持っていても、他人の方が魅力的に見え、求めたくなります。私を見てください。車椅子で生活してますが、別に自由に歩きまわれる人をうらやんだことはありません。いえ、それは少しあるかもしれないけれど、要は自分がどうあるべきか、です。今はこうしてジイもいますし、私自身はこの生活に満足してます」

 チラ、とミヤノが振り返り、話を続ける。

「……だから、寺沢さんも太田さんよりも自分のことを考えたほうがいいんじゃないでしょうか? センターといわず、トップを狙ってみては? だから、このお金はお返しします」

「いいこと言うなあ、マンジュウ屋」

 太田はミヤノの言葉に腕を組み、感心している。

「……そうなのか?」

 折り曲げるように、寺沢がミヤノを覗き込む。

「そうですよ。今よりも少しだけ勉強を頑張れば、何とかなりますよ。多分」

「トップか……悪くないな」

 長身の寺沢が体を曲げ、封筒を受け取る。その口元が少し緩んだ。

「そうだよ。お前、やればできるタイプなんだからよ。俺ぐらい抜けるって。抜いたら、今度は俺が抜き返す、お前が1番なら、俺はその上狙うね」

「させるかよ……。よし、次の模試、待ってろ!」

「おう!」

 にっと笑った寺沢と、太田ががっちりと握手を交わした。美しき友情の図……だが、傍で見ていると、どことなく暑苦しいものがある。

「これで寺沢さんからやっかみの気持ちは消えたわ。『嫉妬』はこれにて解決!」

 一仕事終えたように、ミヤノが両腕を大きく伸ばした。

「それにしても……『1番の上』って何だ?」

 と、ケイタロウは呟いた。

「それじゃあ、今から俺の家で勉強会だ! 金も浮いたし、なんか食うもん買って行こうぜ!」

「おう、俺ピザ風味ポテトな!」

「分かりやすい……この2人がいつまでも成績が真ん中なの、なんとなく分かるわ」

 改めて友情を確かめ合うような2人に聞こえないように、ミヤノが後ろにいるケイタロウにそっと囁いた。ケイタロウも黙って頷く。

「模試は負けないぜー」

「こっちこそだぜ!」

 意気揚々と引き上げようとする2人。これで一件落着だったが、ケイタロウは思い出したように、2人に声をかけた。

「あの、お2人とも……仲睦まじい中すみませんが、車椅子下ろすの手伝ってくれませんか?」

 

 やっかみの気持ちから亀裂が入りかけた友情が、再び修復した。それを何とか口先三寸でまとめたミヤノの手腕はたいしたものだ。いや、単に太田も寺沢も少しばかり単純な性格だったのが幸いしたかもしれない。

 しかし珍しく、ミヤノが自分のことを語ったような気がした。本当にミヤノは車椅子生活に満足しているのか? いや、そうだとすれば『七つの大罪』の呪いなんか解くことはしないだろう。本心は一体どうなんだ? その日の帰り道、車椅子を押しながらケイタロウは考えていた。

「……よね、ジイ? ジイ!」

 ミヤノの声にケイタロウははっと我に返る。振り向いたミヤノはむくれ顔だ。

 もうすぐいつものコンビニ前だった。あれからミヤノを背負って階段を下りたのだが、そんなことばかりを考えていたからか、不思議と疲労感は少なかった。

「なんだって?」

「聞いてなかったの? 『七つの大罪』も残り後3つよね、って言ったのよ」

「あぁ、そうだな」

 『色欲』から始まり、『暴食』『怠惰』、そして今回の『嫉妬』……。

「残るは、ええっと……」

 ケイタロウが指折り数える。

「『強欲』『憤怒』『虚飾』ね。さあ、もうすぐよ!」


 もうすぐ、『七つの大罪』を巡る呪いも解ける。しかし、本当にそんなことでミヤノの足は治るのか? その時が来るのを彼女自身は心の底から待っているのか? 聞いてみたかったが、ミヤノが素直に答えてくれる気がしない。

 それと、ケイタ自身、思い起こせば最近退屈することはまったくなくなっていた。

 学校にはおかしな奴、変わった奴、よく言えば個性的な人間が結構いて、それぞれがおかしな悩みを抱えている。そんなこと今までまったく気付かなかった。その中でも一番の変わり者は今、自分が押している車椅子の主であることは間違いない。おかげで退屈せずにはすんでいるのだから、いつか礼をしないといけないな、そんなことをケイタロウは考えていた。ほんの少しだけ。

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