4 恋する魔女と……繁盛中?

 「休ませてくれ……」

 誰に言うともなく、ケイタロウは小さく呟いた。

 あれから結局、2日続けて地慣らし作業を行ったので、ケイタロウの腰と、口答えするたびにミヤノから受けた攻撃で頭頂部の辺りが、じぃんじぃんと悲鳴をあげていた。


 もそもそとクリームパンとコーヒー牛乳を胃袋に押し込み、ケイタロウは机に伏せていた。ミヤノは、3年生の依頼で『告白の代返』に行ったまま、帰ってこない。要は告白を受けた依頼主の代わりにお断りの返事をしに行くというものだ。


 今日は他に1年の掃除当番の代理に、ラブレターの代筆が残っている。

 何をやっているんだ、俺は? と呟きつつ、とにかく早いところ『七つの大罪』を見つけ出して、この苦痛続きの毎日とおさらばしたい、と思っていた。


「『マンジュウ屋』さん……?」

 聞き慣れない声に顔を上げると、心配そうな顔をしている女子が立っていた。色白で、ウェーブのかかった髪を後ろで束ねた、お嬢様風なその姿は、時々廊下や食堂で見かけるものの、名前までは覚えていなかったが、確かヨシツネの『俺のマイラバーズベスト・20』に入っていた子だったな、とそんなどうでもいい事を思い出した。

「まあ、そう呼ばれていますが……」

 ミヤノが興した、この便利屋兼代行業は、いいのか悪いのか学内ではすっかり『マンジュウ屋』で通っていた。

「良かった……私、1組の鈴鹿サキ」

 あぁ、と、ケイタロウが体を起こした。屋号で呼ぶということは、何かの依頼だろう。出来るだけ無茶な事は言ってくれるなよ、とケイタロウはサキを見た。

 サキは近くの椅子に腰掛け、辺りを見回すと、静かにケイタロウの耳元に口を近づけた。

「あの……」

 サキの吐息が、ケイタロウの耳元を刺激し、体を思わず震わせる。

「……はい」

 この様子からすると、周りに聞かれるとまずい、よほど深刻な悩みなんだろうな、とケイタロウは小さく低い声で答えた。

「私……」

 ためらうようにうつむくと、サキは首を振って再び口を開いた。

「私……」

「……はい」

 今度は『大丈夫、誰も聞いてませんから』という意味合いを含めた、といっても先ほどと変わらないトーンでケイタロウは返事した。

「私……」

 決心がつかないのか、背もたれに体重を乗せるように天井を仰ぎ、サキは『うーん』とうなり、しばらくして軽く握り拳を作り、意を決したように『うん』と呟くと再びケイタロウに近づいた。

 お嬢様タイプの美少女と、こうしてお近づきになれるのも悪くない、これで依頼がマシだったらなおよい、とケイタロウは身を乗り出すように聞き耳を立てた。

「私……」

「……」

 サキの次の言葉を、ケイタロウはごくりと固唾を飲んで、待った。


「私……。私……実は……魔法少女なの」


「……はい?」

 今何言った? 俺の耳が悪くなったのか、そちらの頭がどうかしているのか? それって依頼でもなんでもなくってただの告白では? それも非現実、ありえない部類のものでは? 百歩譲って彼女が本物の魔法少女だったとしよう。でも、それを俺に言ってどうする気だ? ぐるぐるとそんな思いがケイタロウの中を駆け巡り、ダムが決壊したように、止め処もない数の『?』がケイタロウの脳内に溢れ、渦を巻きだした。


「ええっと……」

 ぽかんと口を開け、ケイタロウはサキを見た。本人はいたって真面目そうで、よほどのことだったのか、再びうつむきがちになっている。

 お互い、次の言葉が出てこない。この時ケイタロウの中では

 

①『あぁ、そうですか』

②『じゃあ、どんな魔法使えるの? ホウキで空飛べる? 夢と希望を与えてくれる?』

③『帰れ』

④『帰れ』

⑤『帰れ。あ、ちょっと待って。でも帰れ』


 と、五つの選択肢が瞬時に浮かんだ。今最も適切な返答例は恐らく①だろう。③~⑤はあまりもきつ言い方だと思うし、②は、まずあり得ない。


「……びっくりしたでしょ?」

 サキが顔を上げて尋ねる。

「いや……うん、うんうん、びっくりしたあ」

 本当は驚くよりも呆れていたのだが、その事を悟られるといけないと思い、何度もうなずいた。

「馬鹿に……してない?」

「そんなことはないよ、いても……いいんじゃないかな、そんな人」

 天は二物を与えず。浮世離れしたお嬢様のサキは本当に浮世と、そして世間の常識とおさらばしていたのか……。ケイタロウはなんだかそんなサキが可哀想に見えてきた。

「信じられないかもしれないけど、事実なの」

「そ、そうなんだ、大変だなあ」

「うん。だって私、魔法の使えない魔法少女だから」

「……はい?」

 再び、ケイタロウは口をぽかんと明けた。

「それは、その……世間では『普通の人』って言わない?」 

「いえ、違うの。うちは代々魔法使いの血筋なの。でも代々その能力が薄くなっていって……」

「あぁ、そうですか……」

 先ほどの選択肢①が、ケイタロウの口を突いて出た。

 もちろん信じてない。えらいのが来ちゃったなあ、と思いながらも一応最後まで話は聞いておこう、とケイタロウは身を乗り出す。

「それで、お願いしたいことって……」


 数分後。教室内にケイタロウの『ええええぇーーー』という、意訳すれば『出来るワケないだろー』という絶叫が響き渡った。


「……無理だ、無理」

 下校時。車椅子を押しながら、ケイタロウは力強く、ミヤノに言った。

 サキの依頼を聞いてから何度目かの『無理』発言だ。しつこいぐらいに言っておかないと、ミヤノははまたいつものように、まるで学食へパック牛乳を買いに行くぐらい簡単にこの無茶な依頼を引き受けてしまうからだ。

「……でも、無理なものをどうにかするのが私たちの仕事でしょ? それに依頼を受けてすぐに『無理無理』言わない」

「またハードル上げて……。あのなあ、仮に彼女が魔法使いだとしてだな、それの手伝いをなぜ魔法の使えない、平々凡々……いや、そんなこともないが、とにかく、一般的な人間の俺たちがしないといけないんだ? そりゃお前、戦闘のプロな兵隊さんに『明日から代わりに戦って』ってお願いされるようなものじゃないか。スキルはそっちのほうが豊富なんだから自分でやれっての。俺、明日断ってくるわ」


 いつもの待ち合わせ兼解散場所であるコンビニの駐車場に来ると、そっとケイタロウは手を離した。ここからミヤノは自走して帰るのだ。なんだかミヤノの車椅子を押すのが歯を磨くように当たり前のことになってきているし、だんだん苦にならず、習慣づいてきている。

「じゃあ、明日、また。そういうことだから、無理だから。無理は無理だから」

 念押しのように言うと、ミヤノは自らリムを回す。その後姿に、ケイタロウは軽く手を上げ、見送ろうとした。少し進んでから、ミヤノは車椅子を止め、振り返った。

「でも……依頼主が戦闘のプロであれ、誰であれ、『戦って』と言われたら、代わりに戦ってあげるわよ」

 ミヤノが車椅子を止め、振り向くと、ひゅいっと棒を取り出し、軽く振った。

「それが私たちのすべきことでしょ?」

 ニッと笑うミヤノの笑顔に、ケイタロウは足元から凍りつきそうになる。やはり、この女には何を言っても無駄だった。初めに話をした時から、決心していたのかもしれない。

「『私たち』って俺も入ってるのかよ。だから無理だって……」

「無理は承知よ。でも、無理だからって何もしないより、やってから『無理でした』って頭下げるほうがよくない? それに、それって……『七つの大罪』でいう『色欲』なんじゃないの?」 

 リムを軽く回し、ミヤノは車椅子とターンさせる。

「な、色欲ぅ? 先輩に告白するだけだぜ? 今日お前のやってきた依頼と同じようなことじゃないか?」

「そ、色欲。だって単なる告白じゃないんでしょ。先方の条件は『魔法を使って先輩を好きにさせる』んでしょ? 余程の事がないと、魔法なんて使おうと思わないわよ。それだけその先輩ってのが好きで好きで仕方なんでしょうね。受けましょ、それ」

「相手は魔女だろ、凡人に魔法の使い方を習うって順序が逆だろ。それに、余程の事があろうがなかろうが、普通の人間は魔法なんて使わない」

 正論を吐いたつもりだった。しかしそんな正論が通るならば、今までの非常識な行動も幾分かセーブできたはずだ。もはや何を言ってもミヤノを止められないことぐらいは承知していた。

「違うわ、ジイ。魔女じゃなくって魔法少女でしょ」

「そっちかよ、そっち気にするのかよ、言い回しなんてどっちでもいいだろ」

「まあ、この機会に彼女に魔法少女として自信を持ってもらいましょうよ」

 キイキイとリムを回し、ミヤノが笑顔で近づいてくる。

「自信つけて、彼女をどうする気だよ……」

 ミヤノの話にも一理ある。無理かどうかはやってみないと分からない。建前としては立派だ。だが、相手が魔法少女といういささか非現実的な存在だ。そもそも、ミヤノの『七つの大罪』だってあまりにも浮世離れした話ではないか。ならば逆に魔法少女だって存在するかも? 一瞬、そんなことが頭をよぎった。


 すべてを『非現実だからありえない』と斬って捨てるのはおかしい、非現実もまた存在すれば現実なのだ、そんなことをこの数日、ケイタロウはぼんやりとだが考えていた。それもこれもすべてミヤノに出会っておかしな出来事に巻き込まれたからなのだが。


 そんなことをぼんやり考えているケイタロウの膝頭を、ミヤノは軽く棒で叩いた。

「ホラ、そんなところに突っ立ってたら、車が止められないでしょ」

「あ、あぁ」

 と、自然な手つきでケイタロウはミヤノの車椅子を押し、駐輪スペースに移動した。

「で、引き受けるんでしょ?」

「まあ、それが『七つの大罪』に絡んでいるんなら、お前の足も良くなる訳だし」

 キ、っと軽くブレーキを握りながら、ケイタロウは言った。

「どこから攻めればいいんだ? 魔法なんて?」

「それはまた明日考えて……それと、ありがとね。じゃあ、今日はこれで解散」

 ミヤノがリムを回しながら、軽く右手を上げた。

「あ、あぁ」

 手を振り返し、ケイタロウはミヤノの後姿を見送った。明日からも大変だぞ、と思うと、自然とため息が出る。それにしても、先ほどのミヤノの『ありがとね』は、何に対してなのか? いずれにしても、あの偉そうでいつも上から目線、命令口調の女が礼を言うのは珍しいな、とケイタロウはそんなことを考えながら帰路についた。


 翌日。ケイタロウはダメ元でクルリの教室を訪ねた。今までの準備の良さから、彼女のなら何とかしてくれるかも? と思ったのだが、話を切り出すと、クルリは困ったような顔で、考え込むように腕を組みだした。

「うーん……魔法ですか……魔法ですねぇ」

 いつものように『ハイハーイ了解、さあ、できましたよ!』と、いつの間にか用意してくれるものとケイタロウは勝手に予想していた。だが、眼鏡の中央部分をくい、と右人差し指で押し上げ、首を傾げており、色よい返事が聞けそうになかった。

「やっぱり、知らないかな?」

「申し訳ありませんが、それは……管轄外です」

「管轄、外? そんなのあるんだ?」

「はい。一応、私の担当はメカニックなので……」

「メカニック担当? じゃあのヅラもメカに入るの?」

 まるで『バナナはおやつに入りますか?』みたいな物言いだったが、クルリは、うんとうなずく。

「でも……魔法だったら、図書室にそれ関係の本、ないでしょうか?」

 クルリはぽんと手を打った。

「なるほどね。ありがと、早速行ってみるよ」

「あ、私も行きます!」

 足早に急ぐケイタロウの後を、パタパタと急ぐようにクルリがついて来る。それにしても、自分がやると言ったくせに、ミヤノは来ないのがケイタロウには気に障った。

 

「……で、首尾はどうだったの?」

 昼休憩。向かい合うように、ミヤノが車椅子をターンさせ、ケイタロウの机に両肘をトン、と乗せた。

「来てないくせによく言うよ」

「私は私なりに……」

 ケイタロウは机の下から、二冊の本を乗せ、ミヤノに見ろといわんばかりにあごをしゃくった。ピンクと真っ黒い表紙の、対照的な二冊の本だ。

「これが今日の成果」

「どれどれ……『効きすぎ! 恋のおまじない』『本当は怖い実録魔術師100』たったこれだけ?」

「そ、魔法関連の書籍漁ったら、これだけ」

「で? 何か有効な情報は掴めたの?」

「おまじないの本は所詮おまじない。目次を読んだが、魔法ってレベルじゃない。もう一冊は実在の魔術師インタビュー。ほとんどインチキかマジシャンの類でありました。以上で報告終了いたします、隊長」

 ふてくされた口調で、ケイタロウは背もたれに体重を乗せ、のけぞるようにして椅子の前足を浮かせた。

「何むくれてんのよ、可愛くないわね。こっちだってね、色々当たってたんだから」

「色々ってなんだよ、色々って」

「け、携帯とか……」

「携帯とか携帯とか携帯電話ですか、へえそうですか。こっちは臨時雇いの来栖さん連れて探し回ったってのに。パック牛乳おごったんだぞ」

「じゃあ、牛乳代は出すわよ」

「な? ハナから無理だったんだよ、魔法の使い方載ってる本なんてあるわけないって。実際にあるんなら、魔法使いがもっとウジャウジャいてもおかしくないだろ? 一緒についていってやるから鈴鹿さんに謝ろうぜ」

「何よ、その『明日お母さんがついていってあげるから謝りなさい』みたいな保護者的ポジションの物言いは? いいえ、あきらめないわ。ジイは井の中の蛙よ」

「は?」

 姿勢を正し、ケイタロウは眉をひそめた。

「学校の図書室で何がわかるっていうのよ」

「いや、結構な情報量だと思うぜ、魔法以外なら」

「じゃあ更なる情報量の宝庫、町の図書館に行くわよ! 行くから連れてって!」

「今すぐ? 放課後じゃダメなのかよ」

「いいえ、今よ。依頼主を待たせるのも悪いでしょ。やっぱりこういうのは足で……いいえ、車輪で探すべきよね」

 そっとミヤノが視線を落とした。

「そういうこと……もっと早いうちに気づけよ」

 そうと決まれば話は早い、と2人は午後の授業が始まる前に学校を抜けることにした。 ただ、一緒に動くと目立つということで、先にミヤノが、少し遅れてケイタロウが教室を出た。

 少々気が引ける思いだが、まあ授業をフケるなんて、今までもやってきたことだからいいか、とケイタロウは思いながら、バス停へと向かった。


 路線バスの停留所は学校を出てすぐの大通りにある。ケイタロウの姿を見ると、ミヤノは軽く手を上げ、手招きした。

「ちょっと困ったことがあるんだけど」

 ミヤノが顔を少し曇らせる。

「困った事ってなんだ? トイレ行ってないとか?」

「バカッ……そういうのじゃないわよ! ジイにも関係あることなのよ! まあ困ったというか面倒な事というか」

「俺にも? そりゃいった……」

 ケイタロウが言いかけたその時、バスが二人の前に止まると、しゅう、と音を立ててその車高を下げた。

「あぁ……なるほど」

 しゃあ、っと開いたドアの奥を見て、ケイタロウはミヤノの言葉に納得した。

「そういうこと。この時間はこのタイプが通るみたい。ノンステップじゃないのよ」

 ドアの向こうにはステップが二段ある。乗り込むにはまずミヤノを担いで、席に着かせた後、車椅子を折りたたんで運ばないといけない。

「ん」

 ミヤノはドアの右隣にあるインターホンを指差した。

「なるほど……」

 ケイタロウはインターホンに向かって状況を説明すると、程なくして乗務員が降りてきた。

「どっちを担ぎましょうか?」

 まだ若い、といってもケイタロウたちより五つぐらいしか年の離れていなさそうな乗務員だ。

「じゃあ、車椅子をお願いします。ホラ、ジイ私を運んで」

「運ぶ?」 

 ミヤノが急げとばかりに手を回す。ケイタロウはブレーキを掛け、ミヤノの前に立つとその両腕を掴んだ。

「で、どうすればいいんだ?」

「そんなことまで教えないといけないわけ? いい、その体勢からだと足を踏ん張れない私はずるずると引きずられるし、両腕が抜けるかもしれないわ。だから、ジイの背中に私が乗るから、後ろを向いて屈むのよ」

「要するにおんぶしろってことかよ」

 いわれるままにケイタロウは背を向け、屈みこんだ。

 ミヤノは上半身をグイと前に出すと、腕を伸ばし、ケイタロウの首にしがみつく。

「ぐえっ」

 続けてミヤノは腕を引き、ケイタロウの背を引き寄せると、勢いよくそこに全身を預けた。

 のけぞりそうになったところに、今度は前のめりに倒れそうになる。必死にバランスを崩すまいとケイタロウは両足を踏ん張った。ふくらはぎがパンパンに腫れ上がり、アキレス腱がちぎれそうに悲鳴を上げる。

「あぐ、あぐひぃ」

「変な声出さない、前に倒れない、それとのけぞらない、しっかり支えて!」

「わ、わか……」

 『分かったよ』と言いかけながら、何とかバランスを保とうと、ケイタロウは両足を踏ん張った。

「ぬぅ!」

 重心を前に置き、勢いをつけて立ち上がろうとすると、落ちまいとするミヤノの両腕が蛇のようにケイタロウの首に絡み、強く締め上げた。

「あひぃっ」

「倒れないでよ、そのまま、ゆっくり前に進む!」

 言われるままに、ケイタロウは徐々に体勢を整え、片足を上げると、ステップに乗せた。

 ケイタロウの両手がミヤノのスカートの上をしっかりと包み込むように掴んだ。生地越しにふにゅり、としたやわらかい感覚が手の中で広がる。

『これは……』

 さらには背中にも同じく柔らかな感触があった。それらが何なのか、答えははっきりとしていたが、変に意識するとバランスを崩し、ミヤノもろともステップから転げ落ちそうになるので、あえて考えず、一歩一歩、慎重にステップを上った。幸い、後部座席が空いていたので、体を変えてミヤノを下ろすと、ケイタロウはその隣に腰を下ろした。ほんの数分のことだが、なんだかものすごい時間が掛かったように思えた。乗務員が二人の近くに車椅子を置いてくれると、しばらくしてバスは走り出した。

 平日の昼下がりだからか、席はまばらだった。ケイタロウは、一つ前の席で窓の景色を眺めていた老婆に会釈をした。思わず目が合ったこともあるが『乗車に時間が掛かり、出発が遅れてすみません』という詫びの意味もあった。スチールウールのような白髪頭の老婆は、しわだらけの顔をさらにくしゃくしゃにして、笑顔でケイタロウに挨拶を返した。

 まずはひと段落、と一息ついたケイタロウの額を、シュっとミヤノの棒がしなやかに打ちつけた。

「痛っ! 何すんだ!」

「時間かかりすぎ。あと、抵抗できないからってお尻触りすぎ。それに無駄に育って結構いい感じの胸が背中に当たりすぎ」

 ニヤ、とミヤノが笑う。

「ぜ、全然! それに尻とか胸とか、触れるぐらいあるのかよ、気のせいだろ? ありゃ、腹じゃないのか、腹の肉、というかしぼう……」

 実際は胸も尻も見た目よりもボリュームがあることを、ケイタロウは直接触れ、思う存分に味わっていた。だが、口には出せるわけがない。返事代わりにミヤノ棒が二発、ケイタロウの額を打った。

「痛ッ!」

「降りる時はそこんところ改善した上で、失礼のないようにして頂戴ね。それと、失言多いわよ」

「だから触れてもいないって言うのに……だったらどうやって降ろしゃあいいんだよ」

 ジンジンと腫れる額をさすりつつ、ケイタロウは口を尖らせた。

 

 図書館は町の心臓部ともいうべき、ターミナル駅の近くにある。乗る時と同じように、ケイタロウは、また棒で打たれるのはごめんと、今度は太ももにそっと触れるようにしてミヤノを背負った。

「ちょ……」

 どう体勢を変えようと、下半身に手を伸ばさなければ背負えない、クレームがつく前に、急ぐように下りると、先に降りた乗務員が用意してくれた車椅子の前で反転し、ミヤノを勢いよく下ろした。乗せた瞬間、ミヤノの体が軽くバウンドした。

「ちょっと手荒いわよ。もっと慎重に!」

「ハイハイ……」

 そう言いながらケイタロウはミヤノの背後に回り、車椅子のストッパーを外し、押し始めた。そういえば、帰りもこれをするのかと思うと、少しばかり気が重くなった。

「ちょっとお兄さん」

 声を掛けられたケイタロウが振り向くと、先ほど会釈した老婆が、バス停のルーフの下で手招きをしていた。

「ぼ、僕ですか?」

「そうそう、ボク。ちょっと」

 老婆がせかすように手を少しだけ早く動かす。

「?」

 ミヤノも、不思議そうに振り返った。

 呼ばれるまま、ケイタロウが近づくと、老婆は腕に下げていた黒皮のハンドバッグから、小さな巾着を取り出した。

「これ、どうぞ」

 老婆が、まるでミヤノに悟られないように、小声で囁く。

「? なんです、これ」

 何の変哲もない、赤い巾着だ。

「ボクたち、とても仲良さそうね。ごめんね、私、前で聞いてて思わず吹いちゃった。だからこれをね、彼女に飲んでもらいなさい。もっと仲良くなるから」

 巾着を開けると、中には黒い丸薬のようなものが入っていた。

「薬……ですか、これ?」

 しわくちゃの顔を先ほどのようにさらにしわだらけにして老婆がうなずいた。

「そうよ、私の作った惚れ薬。ご近所に配ったら、凄く評判がよくってね。だから効くと思うわよ」

「惚れ薬……?」

 にわかに信じがたい話である。ということは目の前にいる、おそらく年金生活者である老婆はひょっとしたら魔法使いなのか? 白髪頭に、外出用だろう紺色のストールを羽織った、どこにでもいそうな老人にしか見えない。老婆はそんなことを考えているケイタロウの肩を軽く叩き、『行ってらっしゃい』とばかりに促した。

「はあ……」

「じゃあ、頑張ってねー」

 老婆が手を振ってケイタロウを見送る。

 2、3歩進んだところで振り返ると、老婆の姿はすでに見えなくなっていた。

「え? まさかの本物?」

 ミヤノの元に戻ったケイタロウは、その目の前に巾着を軽く振って見せた。

「何これ?」

「本日の任務終了、と言いたいけど……」

「だから何よ、それ?」

 答えずに再び、ケイタロウが車椅子を押し出した。

「惚れ薬、らしい」

「は? 何でジイがそんなものもらうわけ?」

「それは……バスで俺たちが仲良さそうに見えたから……とか何とか」

「へ? 仲良く見えたって? 被介護者が介護者の頭を棒で打つのが仲良し?」

「被介護者? どこが、誰が、どの辺が? まあ、人それぞれの捉え方だよ。これが本物だとしたら、別に図書館で調べ物をしなくても、さっさと家に帰れる」

「そんな得体の知れないもの、信じていいの? とりあえず、調べるのよ!」

 ミヤノは騎上の武者が進軍の合図をするように、ひゅッと棒を前に振った。


「結局、こうなるのかよ」

 ブツブツと愚痴りながら、ケイタロウは広い図書館の中を、うろうろとしていた。

 館内に置かれた検索機でミヤノが調べた書籍を探している最中だった。こうなることは来る前からおおよその予想がついてはいた。女王蟻と働き蟻にも似た作業配分だ。

「ん?」

 その途中、ふと目に付いた本を手に取り、ケイタロウはぱらぱらとめくった。

「ふんふん」

 お目当ての本があるコーナーではなかった。本棚には『社会福祉』というアクリル製のプレートが貼り付けられている。ケイタロウは軽く頷くと、その本を小脇に抱え、貸し出しカウンターへと向かった。


 さすがに町の図書館、欲していた魔法関連の書籍はかなりの数が見つかった。だが、ただあればいいというわけでもなく、その内容に問題があった。

 閲覧コーナーの机に座り、ケイタロウはまるで大事な人間を目の前で失ったかのような暗い表情になっていた。

「来るんじゃなかった……」

 ぽつん、と漏らしたケイタロウの発言に、いつもならミヤノ棒がうなりをあげるところだが、何のリアクションも無い。ケイタロウの隣では、ミヤノもまた、浮かない表情で、天井を仰ぎ、ケイタロウに同意とばかりに棒をくるくると回しその切っ先は空を切っていた。

「用意するもの。まず、マンドラゴラの根っこに黒ヤギの角……」

 ケイタロウが、手にした本に目を落し、ランダムに文章を呪文のように読み上げると、ミヤノもそれに続いた。

「ヒキガエルの断末魔に、赤ん坊の生き胆……千年以上生きた老ドラゴンのひげ」

「「……」」

「「ふあー」」

 本に書かれた内容の非現実さに、二人同時に溜息が漏れた。

「まず、無理ね。揃うわけないじゃない」

 珍しく、ミヤノが弱音を吐く。

 うん、とケイタロウが頷いた。

「何が無理って、黒山羊とかドラゴンとか、どこで調達できるのよ。ただでさえ、普通の白い山羊を探すのもこの街中じゃあ大変なのに」

 パタ、とミヤノが本を閉じた。

「百歩譲ってドラゴンが実際にいたとして、そいつが年寄りかどうかって何で判断できるんだ? シワの数か、角の曲がり具合か? まあ、料理のレシピ本じゃないんだからさ、読んで試す人間もいないだろう」

「ここにいるじゃないの。なんでもっと、こう、近所の商店街でも揃えれるものを書いてくれないのよ!」

 周りの迷惑にならないよう、ミヤノは小さく声を荒げた。

「そりゃそうだけどさ。だからハナッから無理なものを用意しないといけないぐらい魔法って生半可なものじゃないってことだろ。つまりは不可能って事だ」

「仕方ないわね……」

 ミヤノが、くるくると退屈そうに棒を振った。

「こうなったら最後の手段……さっきのおばあさんの惚れ薬を使いましょ。手ぶらで帰って『出来ません!』って相手に謝るよりも、いいんじゃない?」

「結局そこに落ち着くのかよ。最初ッからそうしておけばよかったんだ」

 もてあそぶようにケイタロウは上着のポケットに入れていた巾着を出すと、手の平でぽんぽんと弾ませた。

「でも、これ本当に惚れ薬なのかなあ……」

 その確証は限りなく0に近いが、とにかく、今はこれしかない、とケイタロウは自分に言い聞かせた。


「で、さっき何借りたの」

 図書館をさっさと引き上げ、バス停に向かう途中、ミヤノは顔を上げ、ケイタロウに振り返った。

「や。べ、別に。何も借りてないよ」

 結局『おばあさんの惚れ薬』作戦で行くことになったので、魔法関連の書籍は借りていない。しかし、ミヤノに命じられて本を集めている最中、ケイタロウはある一冊の本を、ミヤノに見つからないように、そっと貸し出しカウンターに持っていったのだ。目ざといミヤノはそのことを察知していたらしい。

「そう? 貸し出しカウンターでうろうろしていたからてっきり私……」

 言いかけて、ミヤノは膝の間に顔を埋まるように、上半身を伏せた。

「どうした?」

 返事の変わりに、ミヤノは手を振り、『伏せろ』と合図を出した。

「?」

「いいから!」

 小声でそう言い、ミヤノは車道側に顔を背けた。言われるまま、ケイタロウもそれに倣ったが、突然のことで、何がどうなっているのかさっぱり分からない。

 ちら、と前を見ると、下校中なのか、ミヤノと同じブレザーの女子生徒が数人向こうから歩いてくる。

 前の学校の知り合いか? なら顔を隠すマネなんてしなくてもいいはずだが……と、ケイタロウはチラチラとブレザーを見ながら思った。。

「行った?」

 ミヤノが小さく尋ねる。ちぢこまるような姿勢のミヤノが、今までの気丈な態度から想像できないぐらい、何かにおびえているようにも見えた。

「あぁ」

 ケイタロウが言うと、ミヤノはすばやく振り返り、ブレザー女子を見送った。

「あれ……」

 知り合いか? と尋ねたかったが、口を真一文字に結んだミヤノの表情は硬く、『何も聞くな』というオーラを漂わせていた。言い留まったケイタロウに、ミヤノは『行って』と、手を前に振った。

 バスに乗る際も、ミヤノは行きとは違い、棒を振ることなく、終始無口でじっと窓の外を見ていた。その原因はあのブレザーの集団にあることは察しがつく。そして、ミヤノは前の学校で何かをやらかしたのだろうとも、なんとなくではあるが想像できる。

「……分かりやすい奴」

 聞こえない程度の声で、ケイタロウは呟いた。


 いつものコンビニにつく頃には、夕焼けがあたりを赤く染めていた。

「じゃあね。さよなら」

 ミヤノはそう言って、リムを自分で回し始めた。キィキィとリムをきしませ進む後姿が、ケイタロウにはなんだか小さく見えた。

 

『明日の放課後、依頼を実施しますので体育館裏で待っててください』


 その夜。就寝前にサキへとやんわりとした果たし状のような文章をメールすると、自室のパイプベッドに寝そべりながら、ケイタロウはカバンから一冊の本を取り出し、ぱらぱらとめくりだした。

 『実践介護☆入門編』と書かれた本は、決していつも読むような漫画や小説のようにすらすら読めるほど興味の沸くものではなかった。だが、ミヤノとバスへ乗車した時のことを思い出すとこれから必要になるのでは? という思いでとりあえず一冊だけ借りてみたのだ。まんが調の挿絵が多く、これなら読みやすいかも、と思ったのだが、いつも読むものとはまるで感触の違う文章、それに専門用語。『どこが入門編だ』と思いながら、読み進めていくうちに、睡魔がケイタロウをやわらかく包み込み始めた。

 完全なる眠りに堕ちる瞬間、『そういえばなぜミヤノはあの時顔を背けたのか?』という疑問が再び首をもたげそうになったが、睡眠欲には抗えず、考える余地を与えられることなく、ケイタロウはいつの間にかまぶたを閉じていた。


 その翌日。昨日のこともあり、ケイタロウはなんとなく、ミヤノに声をかけづらくなっていた。ミヤノも、自分からケイタロウに話しかけることなく、時間だけが過ぎていく。やはり、昨日のブレザーのことが引っ掛かっているのだろうか。しかし、今日はあの魔法の薬を渡さないといけない日だ。何とかしないと……と、不穏な空気を木っ端微塵に打ち砕いてくれたのはクルリだった。ケイタロウと、ミヤノが同時に声を上げたのは、昼休憩のことだった。

「な……」

「なんと!」

 ミヤノとケイタロウは同時に声を上げた。二人の前に、車椅子を押してクルリがやってきた。そのタイヤもリムも、ビニールカバーを付けたテカテカのシートも、ハンドルもピンク色。わずかに、肘掛に白いファーが植えつけられた、一見、いや、完全に悪趣味な車椅子だ。

「どうです、前回の反省を踏まえ、完璧なラブモードにしてきました!」

「どう、と言われてもこれに私が乗るの?」

「これを俺が押すのか?」

 怪訝そうな二人に、クルリは自信満々にはい、と力強く頷いた。

「かるーく罰ゲームみたいだな」

 ケイタロウはミヤノにささやいた。返事はなかったが、ミヤノも同じ思いのようで、小さく頷いた。

「別に私が告白するわけじゃないからいいんだけど……」

 これでコクりに行ったら100%アウトだろ、とケイタロウはまるでアメリカ映画に出て来るポン引きが乗ってそうな派手な車のシートのような車椅子を見て、思った。だが、クルリはそんな二人の思いを知らずか、自信満々だ。彼女の気持ちを傷つけるわけにもいかないので、口にはしなかった。

「ムードですよ、ムード。お互いの雰囲気を盛り上げるのも私たちのお勤めじゃないんですか?」

「確かに……」

 そうなのだが、盛り下がったらどうするんだ? ケイタロウはそう思った。

「じゃあ、放課後はこれに乗るわ。目立ったほうがいいかも、ね」

 同意を求めるように、ミヤノはケイタロウを見た。

「そ、そうかな……いや、そうだな。しかし……よくあったもんだなあ、こんなの」

 と、じろじろとケイタロウがクルリの持ってきた車椅子をなめるように見た。

「おじいちゃんのなんです。家に結構あって、暇な時よく分解して遊んでいましたから」「たとえ暇でも分解して遊ぶか、普通?」

 しかし、クルリの車椅子への異常な執着の理由が少し分かった気がした。

「やっぱり……乗らなきゃダメ?」

 最後のあがきとばかりに、ミヤノが小さく言った。

「絶対似合いますよ! 『ミヤノスペシャル・ラブラブモード』!」

「名前あるんだ……これ」

 ミヤノはこれ以上抵抗する気も起きないようで、ただ頷いて見せた。


 バスケ部だろうか、体育館からは、タンタンとボールを弾ませる音が聞こえる。

 三人は予定時間よりも少し早めに集合した。そこで、ミヤノは車椅子を乗り換えることになったからだ。早速移乗を開始した。

「まあ、ここだったら人気もいないし」

「何、やっぱりこのドピンクの車椅子に乗るのためらってたのか?」

「だって……いや、恥ずかしいからじゃないのよ、依頼者より目立ったらダメじゃない? 私たちはあくまでも、影に潜み、任務を遂行する集団、そうじゃなかった?」

「今聞いた。お天道様の下で思いっきりどうどうと活動してるじゃないか。さて」

 そう言ってケイタロウは、ミヤノの前に立つと、足元のフットレストを上げ、ぐっと両腕を掴んで軽く引くと、左脇腹に頭を埋めた。

「! 何やってんのよ!」

 ケイタロウの予想外の行動に驚いたミヤノの振り下ろした肘が、その背中をバシバシと叩いた。

「いってえ、動くなっての」

 続いて右腕を腰に回し、ミヤノを引き上げると、左足を軸に、ちょうどコンパスを回すように反転し、ドピンクの車椅子のシートにドン、と乗せた。

「どうよ?」

「どうって、なにがよ?」

 ミヤノは顔を赤らめ、横を向いた。

「お互いの負担にならない担ぎ方だ。こうすればどんな重い相手でも遠心力を使って移動することが出来る。専門用語で『トルクアクション』って言うんだ。ま、完成形とはいいがたいけど」

 ケイタロウはそういって腰を軽く押さえた。

「そんなの、どこで覚えてきたのよ?」

 体勢を整えたミヤノの顔はまだ赤い。

「どうでもいいだろ、そんなこと。とにかく、昨日のやり方じゃ腰にくるんだよなあ」

「それはどうも……結局、自分の体が大事なのね。そうするんだったら前もって言ってよね」

「今度からそうす……る、ううぅ?」

 ケイタロウの視界に異様なものが入った。ピンク色の影がこちらに向かってくる。それが何であるか、確認しようとケイタロウは視線を動かした。

「が……」

 サキだ。だが、その姿が異様過ぎた。ミヤノもそれに気づき、目と口をぽかん、と開けてそれを見ていた。

「ひょっとして……あの人、ですか?」

 クルリが指差す方向、そこにはミヤノの車椅子に負けない、全身ピンクのひらひらに、ピンクの三角帽子を被った、まるで季節外れのハロウィンパーティー帰りのような姿のサキがいた。

「あれ、依頼者……なの?」

「そう、みたいだな」

「魔女っ子だ……というかコスプレ」

 唖然とする三人に、サキは手を振って見せた。その手には怪しげな、これまたピンクのステッキが握られている。

「ピンクが過ぎる……」

「あれだと、こっちが目立たなくていいですね」

 クルリはのんきにそう言って笑っていたが、そういう問題ではない。

「お待たせしました……」

 サキは恥ずかしがることもなく、いたって普通の表情だ。その姿で普通でいられることがかえって異常にも見える。

「す、鈴鹿さん、その格好は?」

「あぁ、これですか? これ、うちで代々使われてきた正装なんです」

「正装って、魔女の?」

「魔法少女よ」

 体育館のどんよりとした灰色の壁とは対照的に、サキのピンクが目に刺さるぐらいにまぶしく見える。

「で、魔法は?」

 つくづく、魔女……否、魔法少女に魔法を教えるなんておかしな話だ、とケイタロウは、昨日老婆にもらった小袋をサキに渡した。

「これを飲ませるといいって」

「これ、ですか?」

 サキの顔に不満げな表情が浮かんだ。

「ダメかしら?」

 ミヤノが少し視線を外して言った。彼女もまた、サキのドピンクなコスチュームが目に痛いようだった。

「構わないんですが……その、お願いして申し訳ないんですが……」

「何か、不満でも?」

「不満とかそういうんじゃないんですけど……もっと、その、ステッキからまばゆいばかりの光線が出るとか、天と地、それに海の精霊と契約したり、煉獄に巣食う魔獣を召還するとか、そういうものだとばかり思ってたんで。お薬だなんて……ちょっと地味」

「そう……だったんですか、申し訳ない」

 そりゃスケールでかすぎるし、そんな魔法があればこっちが取得したいもんだ、と思いながらも、ケイタロウは済まなさそうに頭を軽く下げた。

「なかなか、そういったものは見当たらなかったものよ。だから今回はこれで……」

 突飛すぎるサキの物言いに、心中ではどう思っているのか分からないが、ミヤノもまた、申し訳ないような声を出した。

 前もって先方には時間と場所を伝えてある。サキを残し、3人は、体育館の角に身を潜めて事の成り行きを見守ることにした。

「……しかし、あのコスプレじゃあ、相手がドン引きしてアウトだろ」

 ケイタロウの言葉に、ミヤノが頷き、同意した。

「ダメですか? 可愛いと思うんですけど。いいなぁ、あの正装」

 クルリもまた、やはりどこかずれているな、とケイタロウは改めて確信した。


 しばらくして、意中の相手が姿を見せた。色白の、サキと同じクラスの男子だ。名前は覚えていないが、ケイタロウは何度か見かけたことがある。

「彼……、えぇっと鈴木だっけ田中だっけ……そんな平凡な苗字だったような」

「じゃあ、鈴木(仮)にしておけば? それよりも……」 

 サキと鈴木(仮)がやり取りをしているのを見ながら、ミヤノが呟いた。

「これ……私、わざわざ車椅子乗り換えることなかったんじゃないの?」

「へ、そうですね……まあまあ」

 クルリが照れたように、舌をペロッと出した。


 呼び出された先に、ドピンクのコスプレ少女、しかもそれが同級生だという驚愕の事実の前に、鈴木(仮)もかなり動揺していることが遠目からでもよく分かった。その場から逃げだそうと、足が徐々に後ろに下がっている。

 サキは小袋を渡し、飲むように指示している。

「あの格好で『さあ、これ飲め』とか言われたら、断れないだろうな……」

 よほど人がいいのか、鈴木(仮)は先の前で薬を飲んで見せた。実際のところ、あの薬の効き目は未知数だ。単におばあさんの気まぐれと思いつきで、ケイタロウに渡した胃腸薬か何かかもしれない。

 薬を飲み、それでは、と鈴木(仮)が行こうとするのをサキが引き止めた。どうやら薬の効能を見たいようだ。

「これで効き目がなかったら……」

「その時はその時よ。謝りましょう」

 2人はそのまま5分ほどその場でじっとしていた。その間、会話らしい会話も見受けられない。

「このチャンスにさっさとコクればいいのに……」

「そうね……」 

 と、鈴木(仮)が突然喉を押さえると、くるっと反転して、その場に倒れた。

「え、そんな、どうして!」

 慌てふためくサキの叫び声に、ケイタロウはミヤノを押して飛び出した。後ろから、空の車椅子を押したクルリが続く。

「だいじょうぶか、おい!」

 ケイタロウが抱き上げると、鈴木(仮)は白目をむき、口元からは泡が吹き出ている。

「……大失敗」

 ミヤノの呟きが聞こえたが、構わずに、ケイタロウは鈴木(仮)を揺さぶり続けた。

「魔法が、魔法の薬が……」

 まさかの展開にオロオロするサキのピンク色が、視界の端にちらちらと見える。

「おい、しっかり、名前言えるか?」

 ケイタロウの呼びかけに、鈴木(仮)がうっすら目を開ける。

「ぐえ、ぐえ……」

 まるで腹を踏みつけられたガマガエルが鳴いているような声が、泡だらけの口元から漏れ、瞳が、ぼんやりとケイタロウを捉えだした。

「意識が戻ったか、おーい!」

 ケイタロウは駄目押しとばかりに、パシパシと鈴木(仮)の頬を叩いてみた。

「で、イで……」

「じゃあ、これで運びましょう、早く乗せてください!」

 クルリが押してきた空の車椅子に、ケイタロウはうつろな目をした鈴木(仮)を担いで乗せると、全力で押し駆けた。

「あまり手荒に扱わないでよ!」

 後ろからミヤノの声が聞こえたが、それどころではない。こんなことで大惨事を起こされてたまるものか、とケイタロウは必死になって車椅子を押した。不幸中の幸いなのは、車椅子が二台あって、搬送がスムーズに行えたことぐらいだ。

 保健室のベッドに鈴木(仮)を押し込むように寝かせたケイタロウは、後は知らないとばかりに、急いで出て行った。


 翌日。ミヤノもケイタロウもバツの悪そうな顔で授業を受けていた。

 あれから、鈴木(仮)の安否は分からない。ただ、どう見たってあれは失敗だろうし、あの薬は惚れ薬でもなんでもなく、単なる劇薬、毒薬の類だった、ということだけははっきりとしていた。

 重苦しい雰囲気の中、二人は午前中を過ごした。もし万一のことがあれば……という思いが時折脳裏をよぎり、ケイタロウはそのつど戦慄し、身を震わせた。

 

「あの……」 

 サキの声に、体がびくん、と反応したのは、昼休み、学食へ向かおうと席を立った時のことだった。

「え……」

 もはや逃げ出すことも、言い逃れることも出来ない。ここは素直に頭を下げ、ついでにミヤノのバカげた自己満足的な慈善活動からも手を引こうと考えていた。

 前を見れば、ミヤノも、固まったまま動けないでいる。

「き、昨日は……」

「昨日は、ありがとうございました!」

 サキが、測ったような角度で頭を下げ、一度顔を上げると、次は少し深めに頭を下げた。

 本来なら罵詈雑言を浴びせられてもいいはずなのに、サキの意外な言葉に、ケイタロウの目が点になり、ミヤノは口をぽかんと丸く開けていた。

「だって昨日は……」

「ハイ。私も驚いたんですけど。あれから、1時間ほどで彼が目を覚まして……」

「そりゃよかった」

 とりあえず、鈴木(仮)の生存は確認されただけでもケイタロウはほっと胸をなでおろしたい気分だった。

「そしたらビックリ! 彼の持病がぴたりと止まったらしいんです」

「持病が?」

「もう手をぎゅっと握って『ありがとう』って、数え切れないぐらい。で、お互いのメアドを交換して、取りあえずはうまくいったかなあって」

「き、効いたのね、魔法の薬が」

 まさかの展開に、ミヤノもそう言うのが精一杯だった。

「ですですっ。で、一応ご報告まで。魔法って、そううまくいくもんじゃないんですね。数々の試練を越えて成り立つんですね、勉強になりました」

 再び頭を下げると、サキは教室を軽い足取りで出て行った。

「うまくいった……のか?」

「まあ、結果オーライじゃない?」

 平静を装っているようだったが、ミヤノもいまだ動揺を隠せない様子だ。

「……という訳で、苦心惨憺の末『七つの大罪』の一つ、『色欲』はクリアされたわ。さあ、次いくわよ!」

 さっきまでのどんよりとした雰囲気が一気に吹き飛び、ミヤノはいつもの如く何かを企んでいるような、あまりよろしいとは思えない笑顔を浮かべた。

 それを見て、『あ、逃れられないな』とケイタロウは思い、再び戦慄したのだ。


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