1 自走の天使が舞い降りて……準備中
「ん?」
教室に入ると、ケイタロウは一瞬、足を止めた。
いつもと変わらぬ教室の様子だが、何かが違う。よく見れば机と机の間隔が若干広くなっていた。教室の後方にある自分の席も、やはり変わっている。
朝っぱらから大掃除か、模様替えか? それとも授業で必要なのか? 様々な思いを巡らせつつも、それぐらいでは自分の退屈は解消されないだろうな、と、ケイタロウは席に着いた。
顔を上げると『机の間隔あけるように』と、黒板に担任の字で書かれてあるが、理由までは書かれていない。
だから何のために? とケイタロウは訝しがった。
「おは……しかしお前はアレか、ヤンキー漫画か?」
ケイタロウの姿を見つけたヨシツネが、いつものように顔をニヤニヤとさせ――いや、ニヤニヤ顔は地だから仕方ないのだが――朝のあいさつもそこそこに近づいてきた。
「は? 何でヤンキーなんだよ?」
ケイタロウはこれまた訝しげにヨシツネを見て、まさか寝ている間に髪の色でも変わったのではないか? と軽く頭を触ってみた。
「髪じゃねえよ。あれだ、いつも『退屈だー』とか言っておきながら毎日学校に来てるからだよ。ほれ、ヤンキー漫画のキャラって学校嫌いなくせに学校行かなかったり辞めたりしないでマメに登校してくるだろうが。奴ら、成績は悪そうだけど、出席率は抜群にいいぜ。お前もそれと一緒。皆勤賞ものだろ?」
ニヤニヤ顔がさらににやけ始めた。
「そうなのか? あんまり読んだことないけど、あれは喧嘩のネタを探したり仲間とつるんだりするために学校来てるんじゃないのか? 連中は俺みたいに退屈はしてないだろうし、いつごろのヤンキー漫画読んでるんだよ?」
ヤンキー漫画の歴史にも疎いが、なんとなくネタが古臭い気がした。じゃあ今はどんなヤンキー漫画が流行ってるんだ? と聞かれても困るのだが、ヨシツネはもうヤンキー談義はいいとばかりに話題を切り換えた。
「それよりも、だ。なぜ、そこに椅子がないんだ?」
言われて始めてケイタロウはひとつ前の席を見た。机の位置が変わったことばかりに気を取られていたが、なるほど、机はあるが、椅子がない。
しかも、机自体もいつものと違っており、少し高くなっている。
「椅子がない……。なんで?」
「こっちが聞きたいよ。でもな、ある筋からの情報によると、転校生が来るって話らしいぞ」
「どの筋だよ」
まあまあとばかりにヨシツネはにやけ、ついでに目白ユリカの席に目をやった。
「あっちで女子たちが噂していたんだ」
「盗み聞きか」
「人聞きの悪いことを言うな。俺ァ情報収集に長けているんだよ」
転校生なら……いや、それでも納得しかねる点が多すぎる。ケイタロウは軽く首をひねった。
「だとしても……転校生が来るだけで机の間隔広げたり、椅子を外したりするか、普通?」
「まあ、確かに……そうか、あれだ、転校生からの要望だ」
「だからどうして?」
「足腰を鍛える必要があるんじゃないのか? 椅子のない状態、いわゆる空気椅子で授業を受ける、とんでもないスポ根野郎とか……あるいは……ひょっとしたら、週末ごとに人知れず行われている、地下格闘技界の覇者とか、かな?」
さっきのヤンキー漫画に続き、どうもヨシツネの発想力の源は漫画雑誌にあるようだな、とケイタロウは呆れた。地下ってどこの地下だ? とも思った。
「うーん、可能性としては……低いだろうな、ものすごく低い、めっちゃくちゃ低い。ありえない」
「じゃあ、ある事情があって椅子に座れない。たとえばとんでもない痔持ちだとか? あれってタマランらしいぞ、俺はなったことないけど」
「それはありえなくもない、こともない。というか、だったらせめて椅子にクッションでも置くだろ。ホラ、ドーナツ型の。……俺もなったことないけど」
「お前、詳しいな」
さっきよりはいくらか現実寄りなヨシツネの意見に、ほんの少し、ケイタロウの頭の中がさらに混乱した。だが、明確な正解はまだ出ていない。
それにしてもあまりにも不可解である。この状況を見て何も思わないほうがおかしい、教室内では、いつの間にか転校生の話題があちこちで囁かれだしていた。
いずれにせよ何かが起こるかもしれない。果たしてそれは自分の退屈を満たしてくれるのだろうか? そんな淡い期待を心の隅に置きながら、ケイタロウはホームルームの時間を待った。
数十分後、チャイムの後教室に入ってきた担任、新井アキラは、指示通りに机の配置が変わっているのを見て満足げにうなずくと、教壇に立った。
「お、ちゃんとしてくれてるな。えーと、まあ、知っての通り、みんなに新しい仲間。要するに転校生が来ることになりましたー。はい、喜んで」
いつも同じ紺のスーツを着ており、両手を揉み合わせるような仕草を見せるのが新井の癖だ。その様子と苗字から『アライグマ』というあだ名で通っている。実際はタヌキといっていいぐらいに、顔も体も丸々とした容姿なのだが。
「いやいや先生、聞いてなかったしー」
「そうそう、何で机動かしたんですか。通路広げるって、どんだけ転校生デカイの?」
いつもながらの回りくどいアライグマの口調に応える学生からの野次に、教室がどっと笑い声で沸いた。
騒ぎを収めるように、まあまあとでも言わんばかりに、軍手を二重にはめたような肉厚な両手を振って制すると、アライグマは、教室の扉を開けた。
果たして――万に一つもないだろうが――スポ根野郎か、痔持ちか……あるいは痔持ちのスポ根という、両方兼ね備えた猛者か。宝箱を恐々と覗くような心境でケイタロウは首を伸ばし、入り口を見た。
「鰐淵ミヤノです。よろしくお願いします!」
元気のいい声だけが教室に響いた。少なくとも野郎ではなかったし、痔持ちのスポ根でもなさそうだ。元気のいい女子の声だ。
その声を聞いただけでぽつん、とケイタロウの心の中に針の穴ほどの光が灯った。
「いやいや、鰐淵さん。挨拶は教室に入ってから、さあ、中へどうぞ」
そのやり取りに再び教室が沸く中、アライグマに先導されて転校生が入ってくる。拍手に迎えられているが、キイキイという金属がきしむような音だけしか聞こえない。
「ん?」
声はすれども姿が見えない。ケイタロウは首を伸ばし、前を見た。
「はあ……」
転校生、鰐淵ミヤノの姿を見たとき、すべての謎が一瞬で解けた。
見えないのも無理はない、転校生は車椅子に乗っていたのだ。
両輪に自走用のハンドリム、布張りの背もたれには手押し用ハンドルのついた、ごく普通の赤い車椅子。そして、前の学校の制服だろうか、ミヤノと名乗った転校生はブレザー姿だ。長い髪を後ろで束ね、大きな瞳をくりくりと動かし、物珍しそうに教室を見渡している。そして両手にはバイクに乗る時のような、黒い指出しグローブをはめていたのが少し異様に見えたぐらいだ。
「ではもう一度」
アライグマに促され、ミヤノは器用に車椅子をターンさせると、黒板に名前を書き、再び向き直ってペコリ、と頭を下げた。
「ちょっと位置が低いですけど……見えます?」
車椅子のため、書く位置が低いのをミヤノは気にしたが、チョークで大きく書かれたその名は、後ろの席からでも充分に見えた。
なるほど、手袋をしているのは車輪で手を傷めないためか、とケイタロウは妙な感心をした。
「座ったままで失礼します。これからよろしくお願いします! それと、私、そんなにデカいですか? やっぱり太ってるのかな」
教室での会話を聞いていたらしく、ミヤノが笑顔でそう言うと、みたび教室が沸いた。
「まあ、見ての通り鰐淵さんはさる事情で車椅子での生活をされているので、通りやすいようにしたというわけだ。即席バリアフリーというか。だからみんなで手助けてあげるように」
「わざわざありがとうございます。ですが先生、こちらが必要な時以外の手助けは無用ですので」
丁寧な口調だったが、ケイタロウにはミヤノの目が笑っていないように見えた。
車椅子というハンデに甘んじたくない、という意味だろうか。今までも、散々そういった『余計なお世話』をかけられてきたのだろうか、とケイタロウは勝手に解釈した。
「そ、そうか……」
狼狽したアライグマの、両手を揉みあわせる仕草が一瞬止まった。
「困ったことがあればこちらからお願いします。ではもう一度、よろしく!」
そんなアライグマに構わず、ミヤノは周囲に会釈をしながら、広くなった通路を進む。
『中の上……いや、上の下……いや……』
ケイタロウは、心の中で呟いた。人を値踏みするような物言いだが、クラスの他の男子も放っておかない容姿である。
ミヤノはケイタロウの前の席に来ると、ひざに乗せた鞄を乗せ、机に車椅子を滑り込ませた。
「よろしくお願いします」
振り向いたミヤノと目が合い、ケイタロウはぎこちなく頭を下げる。
「こ、こちらこそ……俺、しゃくじ……」
『石神井ケイタロウです』と自己紹介するチャンスを逃してしまった。ミヤノはすぐに前を向き、授業の準備を始めている。
ミヤノの後姿を見ながら、ケイタロウは彼女が来たことで、ひょっとすると退屈な毎日とおさらばできるかもしれない、と思っていた。
単純にいえば、お近づきになりたい、そのためにはどうすればいいのか? そんなことを授業中ずっと考えていた。そんなケイタロウの頭の中には『退屈』の二文字がすっかりとどこかに消えていた。
結局は異性への関心、もっと平たくいえば『スケベ心』が『退屈な日常』を破壊してくれることになったのだ。思えば、ケイタロウの中で『退屈』が始まったのも、つまるところはそれがきっかけでもあった。
なんとも単純な高2男子の思考回路だ。
次の休憩時間。ミヤノのことをあれこれ考えながらケイタロウはトイレに立っていた。ふと気づけば、隣にヨシツネが立っている。
「「おい」」
二人同時に、声を掛けた。お互い、言わんとしていることは大体分かっていた。
「どうぞどうぞ、そちらから」
「いやいやそちらこそ……」
お互いに牽制しあい、するべき事を済ませると、先にヨシツネが口を開いた。
「ひょっとしてお前、転校生のこと……」
素直に『うん』とも言えず、ケイタロウは曖昧に首をふった。
「ま、よろしく頑張れよ。俺は目白さんで手一杯だから。転校生はお前に譲るよ」
「いや、そういうことじゃないけど。それに譲るって元々お前のものでもないだろうが!」
ニヤニヤと先に用を足したヨシツネが洗面所で手を洗い、ニワトリのトサカのように中央が盛り上がった頭髪を軽く撫で、さらにニヤつく。
「『当分退屈しなくてすむぜ』てな顔してるぜ。まるで去年と一緒だ」
続いて洗面所に立ったケイタロウが慌てて鏡を覗き込んだ。そこには、いつもと変わらない、そろそろ散髪に行ったほうがいいぐらいに中途半端に伸びた髪をした、自分の顔がある。
「キョ、去年のことはいいだろ。あれは色々条件が悪すぎたんだよ」
「どーだろーねー。あの時も同じような顔して『絶対いける! 駄目だったら俺、腹切る!』とか言ってませんでしたかー? 切ったお腹は縫い合わせたのかなぁ?」
「そんなこと言ってないだろ!」
むきになったケイタロウは、上着が濡れるほどにバシャバシャと勢いよく手を洗い出した。
「まあ、いいさ、せいぜい頑張れ。俺ぁ親友が元に戻って嬉しく思ってる」
「戻るも何も俺は変わってないぞ」
「いいや、戻った。少なくとも、今は退屈じゃないだろ? 顔色もいい」
更にニヤニヤとヨシツネがケイタロウを見た。
「まあ、そうかもしれないけどな」
ヨシツネの言うことも間違いではない。ケイタロウはふと、頬を緩ませる。
「いいよね、彼女。実は俺好みでもあるんだけどね、あの顔」
「お前は何でもいいのかよ。顔だけじゃないぞ、あの上品な物言いもまた……」
逆さ三日月のようなヨシツネの口角がさらにニヤニヤァ、と広がり、食べ終わって果肉がすっかりなくなった西瓜の皮のようになる。
「相変わらず熱しやすい男だなあ」
「グ……」
ズバリ本当のことを言われ、ケイタロウは何も言い返せなかった。
確かにあの時、同じようなテンションでヨシツネと会話していたかもしれない。ケイタロウの脳裏に、昨年の苦い思い出が甦りそうになった。
「ぶるるるぅ、違うぞ、去年のことなんか知らない、忘れた!」
頭を振って、去年の思い出を自分の中にある小箱に押し込めると、ケイタロウは教室へと戻った。百万回の議論よりも、とにかく行動に起こさねばならない、ケイタロウはそう思った。
ミヤノとお近づきになりたい……そのチャンスは思いがけず、すぐにやってきた。
「押そうか?」
その日の昼休憩。教室を出ようとしたミヤノに、ケイタロウが極めて自然を装った風に声をかけた。
「結構です」
ミヤノはそれをやんわりと、そしてぴしゃりと断った。これで終わり。
「で、でも、まだ学校の中をあまり知らないんじゃ……」
それでもケイタロウは必死に食いさがった。
『車椅子を押す→自然と会話が出る→一歩踏み出した仲になる』
という、かなり穴だらけで歪みまくった三段論法を授業中に編み出したのだ。このままでは引き下がれない。
「学校の構造なんかどこも一緒ですから、大丈夫です。それに、これから私が向かわんとしているのはトイレですよ」
「え……」
「中まで入れますか?」
意地悪く、ミヤノが微笑む。いくら仲良くしようと思っても、そこまではいけない。
「ご好意はありがたくいただいておきます。では」
ミヤノは車椅子を動かし、廊下に出た。しばらくしてクラスの女子がミヤノに追いつくように集まり、なにやら談笑している。
その様子をケイタロウは軽く手を振りながら、見送った。
作戦は無残にも失敗に終わった。
いや、作戦といえる代物かどうかも怪しいものだが、とにかく、終わった。
そして、帰宅したケイタロウの中では次なる作戦へ向けての自分会議が早くも行われようとしていた。焦ってはいけない。しかし、他の男子が先に声をかけたら……どうすればいい? じゃあ、どうすれば……そんなことがぐるぐると頭を巡り、気づくとまるで『退屈』していない自分がいることに気付いた。そして、ベッドにその身を横たえ、いつしか眠りに堕ちていった。
通称『長屋』と呼ばれる部室棟の前に、ケイタロウはいた。
コンクリート造りの二階建て、均一に区分けされた部屋にそれぞれの部室がある。
陽は激しく照りつけているが、全く暑さを感じさせない。
「あれ、授業は……終わったのか?」
呟くケイタロウの耳に『キイキイ』という音が聞こえてくる。
「あの音は……」
前を見ると、陽炎に揺られながら、グラウンドの彼方からミヤノが車椅子でやってくるのが見えた。
「わ、鰐淵さんっ」
言い終わらないうちにケイタロウは駆けていた。いつの間にか待ち合わせの約束でもしただろうか? とにかく、こっちに向かってきている。ここがチャンスとばかりに、ケイタロウは走った。それと同時に、この非現実さに、これは夢だということに気付いていた。
「……君」
うつむき加減で顔はよく見えないが、ミヤノだ。
キイキイと車椅子を漕ぐミヤノと距離が近づく。
「ケタ君」
そう言ってミヤノは顔を上げた。
「え? なぜその呼び名……」
ケイタロウは足を止めた。『ケタ』とは『ケイタロウ』を縮めた部活時代の呼び名だ。 なぜそれをミヤノが知っているんだ、ヨシツネにでも聞いたのか? それにその呼び名にはあまりいい思い出はなかった。そう、今のように太陽が照りつける暑い日、合宿の前日……、トイレで封印したはずの『嫌な思い出』が一気に甦りそうになる。
「あ、あぁ……」
じりじりとケイタロウは後ずさった。やはり夢だ、それもタチの悪い。
「ケタ君」
再び、ミヤノが口を開いた。だが、その顔は教室で見たミヤノではない。忘れようにも思い出してしまう、あの顔。
ミヤノが、にっと笑った。顔の一部が太陽光を受けて乱反射する。メガネだ。紫のフレームのメガネが、光っている。
メガネの少女が立ち上がる。いや、いつの間にか車椅子の車輪が運動靴を履いた男の足になっている。それが大きく伸びたのだ。
「うわああああ! 先輩!」
絶叫と共に、ケイタロウは体を起こした。
「ふう……」
現実に戻れた安堵感と、嫌な夢を見た疲れで、大きくため息をつき、ケイタロウは再び横になると、睡魔が再び来る間、次なる『ミヤノとお近づき作戦』を練っておこうと思った。だが、結局いい案を思いつかぬまま、眠りに堕ちていた。
翌日。妙案も秘策も思いつかぬままにケイタロウはただ、ミヤノの後ろで、ぼんやりと授業を聞いていた。目が合っても軽く会釈する程度で、気のきいた言葉がかけられない。 何かあるはずだ、と思いながらも結局は何もなく、ただ時間が過ぎていくだけだった。
ピーッというホイッスルとともに、グラウンドをかける足音が響く。
その日の午前最後の授業は、体育だった。
ジャージ姿の女子生徒の持久走が始まった。
その様子をグラウンドの隅でケイタロウはぼんやりと眺めていた。
「しかし、何で男子は逆上がりの特訓なんだ?」
てっきりミヤノは見学だろうと思っていたが、車椅子を漕ぎながら、何とか後方の集団についている。車椅子だからといって特別扱いしないでほしいということなのだろうか。
「ん?」
適当に逆上がりを済ませ、次の順番が来るまでグラウンドを眺めていたケイタロウの目に妙なものが映った。
ケイタロウたちとは対角線上の位置、校舎側から誰かが手を振っている。おそらく一年生だと思われる女子が、制服のスカーフを外し、それを旗代わりに振っているのだ。
「あれ……何やってんだ?」
怪訝そうに見ていると、どうやら一年生はミヤノを応援しているらしい。
よく聞けば『がんばってくださーい』という声も聞こえる。
『今日はそれで頑張ってくださーい!』
ミヤノも気付いたのか、必死に応援する女子に、笑顔で手を振り返したりしている。
「知り合いなのか? しかし……『それでがんばって』ってどういう意味だよ」
しかし、これで話のきっかけができた。あの一年生は何者なのか、知り合いか、だったら転校二日目にどうして知り合ったのか等々……。これでとりあえず、今日の『ミヤノとお近づき作戦』のノルマはクリアできる。
妄想が妄想を呼び、加速する……。はやる気持ちを抑えきれず、勢いついたケイタロウは、自分の番がまわってくると、勢い余って、鉄棒でしたたかに腹を打ちつけてしまった。
「あの……」
昼食をそこそこに済ませ、ケイタロウはミヤノに声を掛けた。
「はい?」
「え……っと、さっきの、グラウンドでスカート振ってた子って、誰?」
「あぁ、知らない子ですよ。たぶん……この車椅子が珍しかったんじゃないでしょうか?」
スパン、と切れ味のよい刃物で両断されるように答えられ、ケイタロウは次の言葉が出なかった。そんなケイタロウを置いて、ミヤノは車椅子を漕いで、席を離れた。
「あぁ、そう……」
その日の作戦終了。まるで会話が続かない。
そしてその翌日、ちょっとした変化があった。といってもミヤノとケイタロウの間が急に縮まったわけではない。
その日の午前の授業が終わり、それぞれ昼食の準備を始めている最中に、それは起こった。
ミヤノが、キイキイと黒板の前まで来ると、チョークで大きく『七つの大罪』と書いたのだ。
一瞬、クラスの注目がミヤノに集まり、ざわめきだした。
「七つの大罪……」
「ええっと……そんな映画あったなあ。なんだ彼女、実はイタイ子か?」
ケイタロウの隣に、いつの間にかヨシツネが立っていた。
書き終わったミヤノは様子を見るように教室を見回すと、よしとばかりにうなずいて教室を出た。
「何の意味だろう……」
突然黒板に書かれた謎の言葉。それも戯れや気まぐれで書いたものには見えない、これには意味があるはず。いずれにせよ話のきっかけを向こうから作ってくれたようなものだ。そう思ったケイタロウはミヤノに続くように教室を出て、図書室に向かった。
図書室について、ケイタロウは、はたと気付いた。
「で『七つの大罪』って何のジャンルだ? 本のタイトルか? 法律関係かな」
調べようにも『七つの大罪』とは何か? どこから手をつけていいかも分からない。しばらく図書室をうろつきまわったケイタロウは最後の手段として、ケイタロウは周囲に見つからないように携帯を取り出し、検索サイトを開けた。
昼休憩があけた午後最初の授業は、アライグマの世界史だった。いつものように手を揉みながら入ってきたアライグマは一瞬、黒板の文字に驚き、足を止めた。
「えっと……これは? 落書き……消してないのか?」
「違います。私が書きました。日直さんにも消さないようにお願いしたんです」
ミヤノが、右手を上げると、周りをぐるりと見回し、大きな声になった。
「どなたか、これの意味が分かりますか? いたら、申し出てください。お願いします」
その言葉に、教室が騒然となった。まるで授業とは無関係だし、意味が分からない。中には慌てて教科書をめくりだすものもいた。
「これって、あれだよなあ……確か……えっと」
「先生はすみませんが、黙っていてください。それと、クラスの皆様に見てもらえたようなので、それは消してください」
騒動の張本人でもあるミヤノに、静かだが強い口調で言われると、アライグマは答えを出しそうになった口を押さえ、言われるままに、黒板の文字を消した。
まだ教室がざわついてはいたが、アライグマは構わずに世界地図を広げ、黒板にマグネットで張り出した。
「じゃあ、前回の続き、古代中国の戦国時代だが……」
アライグマが話し出すが、教室はいまだざわざわとしていた。そんな中、ケイタロウだけは1人ニヤニヤとしていた。まんまと読みが当たったのだ。前もって調べておいてよかったと、こっそりと携帯を取り出した。広げた携帯の液晶画面にメモ保存した文章が現れる。ここに書かれた文章をミヤノに告げると何かが起こる……もはや王手、チェックメイトだ。勝ち誇ったような気分で、ケイタロウは体を前に乗り出し、シャーペンの尻で、ミヤノの肩を軽くつついた。
「ん?」
軽く振り返ったミヤノに、ケイタロウは自信に満ちた口調で囁いた。
「傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲の七つからなる、キリスト教世界での原罪の意味。これでいいかな?」
「え……」
ミヤノが驚いた顔をした。
「起源によっては諸説あるけど? ごめん、授業中に。でも……」
ミヤノははっとしたような顔で、クルリ、と車椅子をターンさせ、ケイタロウの両手を強く握った。
「おいおい、そこそこ、鰐淵さん、前見てね! 車輪の調子がおかしくなったとか?」
アライグマが注意するが、振り向いたミヤノは凛とした口調で返答した。
「先生、たった今ここに『七つの大罪』の意味を知ってる人がいました。石神井ケイタロウ君です! さあ、みんな拍手!」
「あぁ、そうなの……それはそれは……よかったね」
その気迫に押されるように、アライグマが力なく拍手をすると、続いて教室のあちらこちらからぱらぱらと拍手が鳴り始めた。
「おめでとう、あなた、私のヘルパーね!」
「へ? へるぱあ?」
転校して来てから初めて見るミヤノの大輪の笑顔に、なんとなく得をした気分になったが、『ヘルパー』という言葉の意味までよく理解できていなかった。そんなことよりも、ミヤノに手を握られるという思いがけない嬉しい不意打ちに、ケイタロウの体内でアドレナリンが大量に放出され、全身を駆け巡っていた。
「明日から、頑張ってね!」
「は、はい……へ?」
なにをどう頑張るのか? ひょっとして自分は何かとんでもない間違いを犯したんじゃないだろうか? 容姿に惑わされ、ヨシツネのいう『イタイ子』に捕まってしまったのでは? 黒い霧のようなものがケイタロウの心の中で渦巻きだし、アドレナリンの放出がぴたり、と止まり、潮が引くように元へと戻っていった。
「名前、石神井だから、『ジイ』って呼ぶわね。さあ、明日から忙しくなるわよぉ!」
「なにが忙しくなるの?」
「それは明日になってから、じゃあ先生、授業の続きをお願いします!」
クルリ、とミヤノが前を向いて、アライグマに授業再開を促した。
なんだか口調も変わったような……。ケイタロウの黒い霧は、ますますそのどす黒さを増していくのだった。
それにしても……いくらなんでも『ジイ』はないだろ、とも思った。
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