第51話 優斗のやりたいこと1
幽霊である優斗が自分の中に入ってきても、それまで見えていた景色や聞こえてくる音に変化はない。だが体の自由に限って言えばまるで違う。何しろ自分の体のはずなのに、指一本動かす事も、瞬き一つだって出来やしない。
「どうだ、もう憑りつけたのか?」
ずっと事態を見守っていた啓太が尋ねる。するとその時、藍の口が動いた。
「ああ、上手くいったみたいだ」
聞こえてくるのは紛れもなく藍の声。だがその言葉は、藍が言おうと思って言ったものでは無い。今この場で喋っているのは、藍の体を借りた優斗だった。
「藍、疲れたり気分が悪くなったりはしてないか?」
気遣うような声が届く。藍にとっては聞こえてくるのが自分の声なので何だか変な感じだが、優斗にも言った通り悪い影響は何も出ていない。
「うん、何ともないよ」
藍の言った言葉は耳ではなく直接頭の中に響いた。どうやらそれが聞こえるのは藍と優斗だけのようで、啓太は無反応だった。
「大丈夫だってさ」
藍の体を借りた優斗が説明すると、啓太もようやくホッとしたようだ。
次に優斗は、手足を上下左右に回しながら動きに問題がないのか確認している。
「どう?動き難くなって無い?」
「ああ。目線がいつもより低いくらいかな」
藍と優斗ではそもそもの身長が違うのでそこは仕方が無い。だがそれ以外は特に不自由ないようだ。
「それで、ユウくんのやりたい事って何なの?」
体の調子や動きに問題が無いことを確認したところで、藍が聞いてみた。思えば優斗が幽霊となって現れてから今まで、彼が何かをしたいなどと言った事はほとんど無かった。
すると優斗は、部室の隅に置かれていた藍のベースに目をやった。
「借りてもいいか?」
「もちろん。元々ユウくんのものだよ」
藍の許可を取り、優斗はベースを手に取ると肩にかける。それから張られた弦を一本一本丁寧に確認していった。本来の所有者だけあって流石にその手つきは慣れたものだ。
「俺が使っていた頃とほとんど変わらない。大事にしてくれてたんだな」
その言葉通り、ベースにはかつて優斗が使っていた時と比べても、傷や汚れはほとんどなかった。とは言えそれは長い間使わずに観賞用として飾っておいたというのも多分にあるため、藍は苦笑するしかなかった。
「弾くのか?」
ベースを手にしたのを見て、啓太も何をするのか興味が出てきたようだ。思えば啓太は優斗が演奏しているところを一度も見た事が無いので、その腕前は気になるところだろう。
優斗はそれに頷くと、何度か弦を弾いて音を確かめた。
「一人で大丈夫か?」
「ああ。ちゃんとソロで弾けるやつだ」
ベースは音域が狭いので、ソロで弾ける曲となるとある程度限られてくる。だが優斗はそう言うと改めてベースを構えなおし、本格的に弾くための体勢へと移った。
藍は優斗の演奏を聞くのはもちろん初めてではないが、それでも最後に聞いたのはもう何年も前のことだ。しかも今回は自分の体に憑りついて演奏するというとんでもない状況だ。先ほど優斗が音の確認をしている時から、指に弦を弾く感触が伝わってくる度に言いようのない高揚感が溢れ出していた。
そしていよいよ、優斗の操る指が動き始めた。自分の指なのに全く知らない動きをし、ベースに繋いだスピーカーからはテンポの良い明るい雰囲気の曲が流れてくる。優斗が今弾いているのが何の曲かは知らないが、その音と指の動きから自分よりもはるかに上手いのは分かる。そばで聞いていた啓太も同じように感じたらしく、視界に入った彼は聞くのと同時にその指の動きに見入っていた。
しかし流れてくる曲を聞いているうちに、藍はあることに気付いた。
(あれ?これ、私の知ってるやつだ)
優斗の奏でる旋律は、よくよく聞いてみると昔確かにどこかで聞いた事のあるものだった。だがそれが何なのかすぐには思い出せない。優斗が学園祭で弾いていた曲かとも思ったが、それだって記憶と一致しない。だが曲が進み、おそらくサビの部分に差し掛かったところで、閉じていた記憶の扉が一気に開いた。
「『鱚よりも速く』だ」
思わず叫んだ言葉は声にはならずに頭の中だけに響いた。だけどそれは優斗にはしっかりと届いていて、僅かに口元が緩むのが分かった。
それは昔、藍が優斗に弾いてほしいと頼み、約束してもらった曲だ。だけどそれを果たす前に優斗は亡くなった。優斗が今この曲を弾いたのは、その約束があったからだというのは用意に想像がつく。あらかじめ何を弾くのか言わなかったのは、藍を驚かせるためだろう。
そもそもこの曲は、かつて藍が好きだったアニメの主題歌だ。だが今となってはそれも過去のもので、藍はもうとっくにこのアニメを卒業し、番組自体も終わってから随分と経つ。
それでも、優斗が約束を覚えていて、それを果たしてくれたのが嬉しかった。まるで当時に戻ったみたいに、声を上げてはしゃぎたくなる。
だけど藍が驚いた理由はそれだけではなかった。
(これ、編曲されてる)
よくよく聞いてみると、優斗が奏でているこれは元の曲からはアレンジが加えられていて、昔聞いていたものとは若干違っていた。しかしそれも当然だ。何故なら元の曲のままだと、ベースでは出せない音も使われていたのだ。
当時の藍はそんな事も知らずに無邪気に弾いてみてとお願いしていたが、優斗にとってそれはさぞかし難題だったに違いない。
(無理なら無理って断ってくれてもよかったのに)
だけどそうしなかったのは藍を喜ばせたかったからだ。藍自身もそれが分かったから、優斗がこうしてくれたことがより一層嬉しく思えた。
出来ることならこのままずっと聞いていたいとさえ思ったが、気が付くと曲はもう終盤だ。間もなくして最後の一音が鳴らされ、室内にはその残響だけが響き渡った。
そこまで長い曲では無かったので、演奏時間はほんの5分程度のものだったろう。だが藍にはそのわずかな時間に奏でられた全ての音が突き刺さり、音が完全に無くなった今も、まだ心が捕らわれたままのように思えた。
余韻に浸っていると、頭の中に優斗の声が聞こえてきた。
(どうだった?)
期待と緊張と、それから少しの茶目っ気が混ざったような声。
どうだったかなんて決まっている。良かった、ありがとう、そんな言葉をいくら重ねてもきっと足りないだろう。
だが藍がそれに答えようとしたその時、部室の扉が開いた。
「遅くなってごめんね。職員会議が長引いちゃって」
そんな言葉と共に入って来たのは大沢だった。その姿を見た途端、優斗が藍の体から抜け出した。事情を知らない大沢の前でいつまでも憑りついていたら都合が悪いと判断したのだろう。同時に体の主導権が藍へと戻った。
藍も本当は優斗に言いたいことがたくさんあったのだが、大沢の前で大っぴらに話をするわけにもいかない。軽く目配せだけをした後、大沢の方を向いた。
「今の曲、有馬くんに教わったの?昨日の部活動紹介の時よりも上手いじゃない。有馬君本人が弾いてるのかと思ったわ」
大沢はベースを持った藍を見て言った。どうやらさっきの演奏は藍によるものだと思っているようだ。藍の体を使ってやっていたのだから、全くの間違いと言うわけでも無いが。
だがそれよりも、藍には今の言葉に気になるところがあった。
「先生、この曲のこと知ってるんですか?」
さっきの彼女の口ぶりだとそのように聞こえる。すると大沢はクスリと笑って答えた。
「ええ、知ってるわ。だって私も、それの編曲手伝ったんだもの」
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