第5話 小学生編5
「去年のユウくん、とってもカッコ良かったよ」
藍は本当にそう思ったのだけど、それを聞いて優斗は少しだけ苦笑した。
「去年はまだ始めてからそんなに時間が経っていなかったから、まだまだ下手だったんだよ。今年はもう少し上手に弾くからな」
藍からすれば去年のも十分に良かったと思っているけど、どうやら優斗にしてみれば不満が残っているみたいだ。
優斗の帰りが遅くなるのは少し寂しいけど、それなら精一杯頑張ってほしかった。
「練習頑張ってね」
「ああ、ありがとな」
藍の応援に、優斗はにっこりと笑った。
その笑顔を眺めながら、一方で藍は去年の文化祭での演奏を思い出し、なんだか今すぐにでも優斗の弾く曲を聞いてみたくなった。
「ねえユウくん、弾いてほしい曲があるの。『鱚よりも速く』の曲って弾ける?」
藍は甘えるように、好きなアニメの主題歌の名前を出した。友達の間で流行っている、魚の鱚よりも速く泳ぐのを目指す水泳アニメだけど、優斗にも何度も話しているのでどういうものかは知っているはずだ。だけど優斗は困った顔をした。
「練習しないと今すぐには無理かな。それにな――」
そう言うと優斗はケースを開き、中に入っていた楽器を見せた。
そこに入っていたのは、黒のケースとは対照的な真っ白なギターだった。少なくとも藍はそれを見てそう思った。だけど、優斗はそこに張ってある弦を指さして言った。
「見てごらん、これには弦が四本しかないだろ。これはベースギターって言うんだ。普通はベースとだけ呼ぶんだけど、ギターよりも音が低くて、リズムをとるのが主な役割になるんだ」
優斗が説明するけど、ギターはもちろんピアノなどの楽器もやったことの無かった藍にはよく分からない。見た目が似ているけど別の物、というのは理解できるけど、楽器の持つ役割の違いなんて知らなかった。
「じゃあ、『鱚よりも速く』は弾けないの?」
結局のところ藍が気になっているのはそこだった。声にこそ出さないけど、残念そうなその表情は、まるで聞きたかったのにと訴えているようだった。
優斗はそんな藍を見てなにやらしばらくの間悩んでいたが、やがてとうとう観念したように言った。
「わかった。『鱚よりも速く』の曲だな、なんとかやってみるよ」
「ホント⁉」
優斗の返事を聞くや、藍は嬉しさのあまり思わず声を上げて聞き返した。
「ああ。だけど弾けるようになるまでちょっと時間が掛かりそうなんだ」
「それってどれくらい?」
「うーん。文化祭か、もしかしたらそれより後になるかもしれない。それまで待っていられるか?」
優斗の言う文化祭まではまだ少し日にちがある。それより後かもしれないとなると、藍が思っていたよりも時間が空いてしまう。
だけど、それでも優斗が弾くと言ってくれた嬉しさの方が勝っていた。
「うん、待つ。だから絶対弾けるようになってね」
「ああ、約束だ」
これは藍の知らない事だけど、優斗がこの約束を叶えるのは決して容易では無かった。
本来独奏楽器でないベースだけで一つの曲を奏でるには、まずそれに合わせて編曲をするところから始めなくてはいけない。にも拘らず彼がこんな約束をしたのは、単純に藍のお願いを聞いてやりたいからだ。
藍が優斗の事をお兄さんのように思っているのと同じく、優斗もまた普段から自分に懐いてくる藍を妹のように思っていた。そして彼は、妹には激甘だったのだ。
文化祭に加えて藍との約束を果たすため、彼が今後しなければならない事は山ほどある。それでも、可愛い妹分である藍の頼みとなると断れないのであった。
ほっこりした空気が流れたところで部屋の扉が開き、藍の母親が顔を出した。
「二人とも、晩御飯できたわよ」
二人はそれに返事をすると、食事の用意されたリビングへと向かう。優斗は喫茶店でなく家の方にあるリビングで食事をとることもある。というよりそっちの方が多かった。これは食事時だと店が混雑するため優斗があまり長居できないから。それと、両親が藍と一緒に食事をとるというのがやりにくく、そのせいで藍が寂しがらないようにという配慮もあった。
今日も藍の母は食事の準備を終えると店の方へと戻って行き、藍と優斗二人だけの夕食となった。こんな事は今までに何度もあったので、藍にとって優斗が我が家にいるのが当たり前のようにすら思っていた。
食事を終え一息つくと、藍はテレビをつけてお気に入りの番組に見入っていた。ふと優斗の方へと視線を向けると、彼は小さく舟を漕いでいた。
「ユウくん?」
藍が呼びかけると、優斗はハッとしたように顔を上げた。
「―――ごめん、なんだっけ?」
「ううん。何でも無いけど、眠いの?」
何だか最近優斗は眠そうにしていることが多かった。学校や文化祭の練習が忙しいのだろうか?
「ああ、少し眠いかな。このまま寝ちゃったら悪いし、今日はもう帰るよ」
そう言って優斗は鞄を手に取り帰り支度を始める。
このままずっとうちに居てくれればいいのに。そう思いながらも、藍はいつものように玄関まで優斗を見送りに行った。
「おやすみ藍。晩御飯美味しかったって、おじさんやおばさんにも伝えておいて」
「うん、おやすみなさい。明日もまた来てね」
藍はそう言いながら靴を履き外に出ると、帰って行く優斗の後姿が見えなくなるまで手を振り続けた。
藍にとって優斗は家族のようなものだった。優しいお兄ちゃんだった。
そして、初めて好きになった人でもあった。
これからわずか数日後、もう二度と会えなくなるなんて思ってもみなかった。
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