第2話 小学生編2

 誰かにぶつかってしまったことで、体勢が崩れその場で尻餅をつく。恥ずかしさと、謝らなきゃという気持ちが混ざり合い、頭の中が真っ白になる。

 だけど―――


「藍?」


 座り込んだまま立つこともできない藍の耳に、優しそうな声が届いた。

 ほんの一言。だけどそれだけで、藍はその声が誰のものなのかすぐに分かった。もちろん、後ろから追いかけて来ている啓太のものなんかじゃない。


「ユウくん!」

「ただいま、藍。ぶつかってごめんな、怪我してないか?」

「うん、平気!」


 途端に笑顔になった藍は、声の主の、たった今ぶつかった相手の名前を呼ぶ。

 それは、紺色のブレザーに、薄いグレーのズボンという出で立ちの少年だった。この近くにある高校の制服だ。

 どうやら学校帰りのようで、手には遊学鞄が、そして右肩には、何やら楽器の入っていると思しき黒いケースが背負われていた。


 少年はサラサラとした髪を揺らせながら身を屈ませると、藍の顔を覗き込み、微笑む。やや白っぽい肌にスッと鼻筋の通った端正な顔立ち。それで優しく笑うものだから、何だかその表情が眩しく見えて、ドキリと胸の鳴る音が聞こえたような気がした。


 その時、ドカドカという足音が聞こえてきて、追いかけてきた啓太が顔を見せた。


「待てよ藤崎!」


 そのしつこさに藍は呆れる。だけどそんな啓太も、今の藍を見て、正確にはその隣にいる、自分よりずっと年上の少年を見て、ピタリと動きを止めた。


「またお前か、懲りない奴だなあ」


 高校生の少年は啓太を見て言う。藍を追いかけてやって来た啓太。それだけで、だいたいの状況を察したようだ。というのも、彼がこんな場面に遭遇したのは今までに一度や二度じゃなかったからだ。


「確か前回は、藍に河童がくっついているって言っていたっけ。じゃあ今日は天狗でも飛んできたのか?」


 少年は前かがみになって啓太と目線を合わせる。その間に、藍は隠れるように少年の背中へとまわるが、こんな光景も、またいつものことだった。

 少年の質問に啓太が何も答えないでいると、代わりに藍が口を開いた。


「黒い影が私をつけまわしてるって言うの」

「あっ、てめえ!」


 告げ口をした藍に対して啓太は声を荒げるが、少年に守られている今の藍に、さっきまでの怯えた表情は無い。むしろまずい顔をしているのは啓太の方だった。


「黒い影ねえ、いったいそんなモノどこにいるんだ?」


 一応辺りを見回すようなそぶりを見せながら、少年が啓太に言う。決して怒っているような厳しい口調では無かったけど、それでも高校生を相手に回して威勢を保てるような元気を、啓太は持ち合わせていなかった。


「嘘じゃねえよ。ホントに憑いてるんだって」


 それでも、さっきまでと比べると随分勢いは衰えているものの、啓太はあくまでそう言って食い下がった。


「藤崎、お前は俺とコイツどっちを信じるんだよ」


 少年の後ろに隠れている藍に、怒ったような口調で尋ねる。その表情はまるで、「俺って言え」と言外に伝えているようだった。

 しかし、藍は少年の足にしがみつきながらハッキリと言った。


「ユウくん♡」


 その答えがよっぽど気に入らなかったのか、啓太がとても悔しそうに顔を歪める。それから癇癪を起こしたように、再び藍に向かって言い放った。


「お前、そんなこと言ったら絶対呪われるからな! もう俺を頼ってきても、絶対助けてやらないからな!」


 さっきまでの藍ならその言葉に震え、怯んでいただろう。何度も言うけど、藍はお化けや幽霊が大の苦手だから。だけど、この少年のそばにいる今はその限りでは無かった。


「その時はユウくんに助けてもらうからいいもん! ね、ユウくん。助けてくれるでしょ?」

「ああ、そうだな」


 少年はそう言って藍の頭を優しく撫でた。それから再び啓太の方へと向き直ると、より一層憤慨している彼に向かって、諭すように言った。


「お前な、女の子にはもう少し優しくするもんだ。好きな子をイジメたって、振り向いちゃくれないぞ」

「なっ、なっ、なっ――――――っ!」


 それを聞いた途端、啓太はそれまでの怒りが嘘のように固まってしまい、全身から噴き出るようにタラタラと汗を流し始めた。その顔は、さっき怒っていた時よりもずっと真っ赤だった。


「そっ……そんなんじゃねえよ。だ、誰がこんなブス!」


 一応反論はしてくるものの、アタフタと狼狽するその姿は、もはやさっきまでとは別人だ。おそらくガツンと怒られていたとしても、ここまで堪えることはなかっただろう。


「―――っ。覚えてろよ!」


 結局、啓太はそんな捨て台詞を残すと、逃げるようにその場を去って行った。

 少年はそんな啓太の後ろ姿を見送りながら呆れるように、あるいは憐れむように言った。


「アイツも、もう少し素直になれたらいいのにな」

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