初恋と幽霊

無月兄

プロローグ 小学生編

第1話 小学生編1

 まだ肌寒さの残る四月の朝、自室で真新しい制服に身を包んだ彼女は、静かに鏡の前に立つ。

 少し前まで彼女の通っていた中学の制服はセーラーだったから、こうしてブレザーを着た自分の姿を見ると、何だか違和感があった。だけどそれもじきに慣れるだろう。そう思いながら、今度は髪型をチェックする。

 ポニーテールにしている髪には乱れは無く、パッと見て問題はなさそう。しかしそれでも、彼女はなかなか鏡から目を離そうとはしない。


 無理もない。何しろ今日から高校生活が始まるのだから、身だしなみに気を使うのは、当然の事だ。しばらくそうして鏡と睨めっこしながら、わずかに髪をいじっていたが、やがて納得したように息をつく。


「こんなんかな」


 ようやく鏡から視線を外し、これでようやく部屋から出て行くのかと思いきや、今度は机のすぐ横に置かれていたそれへと意識を持っていかれた。

 それは、白のケースに入れられた楽器だった。少し前まで受験だったため、その間は練習量も減っていたが、それでも手入れだけは欠かさなかった。

 彼女はケースへと手を伸ばすと、それを開くわけでも無く、そっと抱きしめながら呟いた。


「ユウくん……私、高校生になったんだよ」






        ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆








 藤崎藍ふじさきあい

 歳は十歳で小学四年生。身長はクラスの女子の中では真ん中くらい、つまり普通。髪は少し肩にかかるくらいまで伸ばしている。

 性格は、友達の間では大人しい方という評価を受けている。あと、ちょっとだけ怖がりで泣き虫だ。自覚もある。

 得意科目は音楽。聞くのも歌うのも好きだ。苦手科目は算数。

 好きなもの、嫌いなものは……


「おーい藤崎、お前の背中を黒い影がつけまわしてるぞ!」


 学校が終わり一度家に帰った後、再び外へと遊びに出かけた藍。近所の公園で友達と遊び、辺りが暗くなってきて、改めて家路に着こうとした時、遠くからいきなりそんな言葉を掛けられた。

 声のした方を見ると、そこにいたのは同じクラスの男の子、三島啓太みしまけいただった。

 いかにも活発そうな彼は、藍の背中を指差しながら近づいてきた。


「こりゃ幽霊に憑りつかれてるな」

「やっ―――」


 幽霊という言葉が出てきたとたん藍は慌てて後ろを振り向き、だけどそこに何もないのを確認する。


「幽霊なんていないじゃない」


 そうは言ってみたけど、藍の表情には未だ不安と脅えが残ったままだ。一方啓太の方は、自信たっぷりに言葉を続けた。


「そりゃ、藤崎には見えないからな。けど、今もまだ憑りついてるぞ」

「うそ!」


 叫び、狼狽する藍を見ながら、啓太は楽しそうにニヤニヤと笑っている。

 もしここに、さっきまで一緒に遊んでいた藍の友達がいたのなら、こんな事を言う啓太に対して文句の一つも浴びせていただろう。だけどその友達ともすでに別れた後で、この場には藍と啓太の二人だけしかいなかった。


「嘘じゃねえよ。俺にはそういうのが見えるんだっていつも言ってるだろ。このままじゃお前、呪われるんじゃないのか?」


 家がお寺である啓太は、普段から自分は幽霊が見えると公言していて、時々藍に対してこんな事を言ってくる。藍にはそれが本当かどうかは分からない。だけど確かなことが一つだけあった。

 怖いと言うことだ。


「うぅ~っ」


 しきりに背中を確認しながら、だんだんと涙目になっていく藍。何度見ても啓太の言う幽霊なんて見えないのに、それでも確かめずにはいられない。例え本当かどうか分からなくても、あんなことを言われたら怖いという事実に変わりはなかった。

 一方、そんな藍を眺める啓太は、実に楽しそう。彼がこんなふうに幽霊がいると脅かしてくるのは今に始まった事じゃないが、そのほとんどが、他の誰でもなく藍に対してのものだった。


「どうして三島は私にだけそんなこと言うの?」


 もしこれが嫌がらせなら、今すぐやめてほしい。そう思って、少し怒ったように言ったのだけど、啓太はまるで堪える様子がない。それどころか、ますます楽しそうに言ってくる。


「だって見えるんだから仕方ないだろ。それとも、憑りつかれてるのに何も言わない方がよかったのか?」

「それは……」


 藍は途端に言葉に詰まる。脅かされるのは嫌だけど、何かあるのに教えてくれないというのも何だか不安になる。


「俺は親切でお前に教えてやってるんだぞ。それなのに怒るだなんて、お前は酷い奴だな」

「……ごめんなさい」


 ここで折れて謝ってしまう所が、藍が周りから大人しいと言われる所以だ。だけど藍とて、何も啓太の言葉を完全に信じているわけじゃない。もしかしたら私をからかっているだけかもという疑いは常にある。だけどそれでも思うのだ。もし啓太の言っていることが本当だったらどうしようと。

 もし本当に幽霊が自分のそばにいるのだとしたら、その姿が見える啓太は、味方でいてくれた方がいい。そう思うと、決して強く出ることができなかった。


 藤崎藍。嫌いなもの、お化けや幽霊。

 その言葉を聞いただけで震えあがるくらいに苦手だった。


「ねえ、その幽霊ってまだいるの?」


 恐る恐る、もう一度啓太に尋ねてみる。


「ああいるぞ。あ、今肩に手を置いたな。今度は首を掴んだ」

「―――――っ!」


 怯える藍を見て、啓太はますます調子に乗ってくる。


「幽霊ってのは心に隙がある奴の所に来るんだ。お前が憑りつかれているのはそのせいだな」


 それはまるで、怖がりな事をバカにされているようで悔しかった。啓太がこんな風に言ってくるのはいつものことなのだが、今日は特にしつこい。


「怖がりで弱虫。これじゃ、幽霊も喜んでやってくるぞ」

「うぅ~っ」


 何も言い返せずに怯える藍。しかし次々に投げかけられる言葉に、とうとう耐えきれなくなって声をあげた。


「やめて。三島なんか嫌い!」


 急に出された大きな声に驚き、啓太の言葉が止まる。そしていつの間にか目を潤ませていた藍を見て、初めてしまったという顔をした。


「べ、別に怖がりなのが悪いなんて言って無いぞ。それに、幽霊が憑りついてたって俺が何とかしてやるから……」


 啓太も、ここまで追い込むつもりは無かったようだ。なんとか宥めようと言葉を掛けるが、その声はさっきまでの得意げなものとは違ってしどろもどろだ。そんな事でどうにかできるはずもなく、ついに藍は本格的に涙を流し始めた。

 それを見ながら、啓太は早くも言葉が尽きてしまい、オロオロしながらかける言葉を探している。だけどそれも長くは続かなかった。


「うわぁーーーん!」


 啓太が何か言う前に、藍が悲鳴を上げて走って行ってしまったからだ。


「おい、待てよ藤崎!」


 藍は走って逃げる事で、啓太の言う幽霊を振り切ろうとしていた。そんなことで何とかなるかわからないけれど、あのままあそこにいたとしても、啓太は怖がらせてるだけで決して助けてはくれないだろうと思った。何とかするって言っていたけど、啓太はイジワルだから信用なんてできないと。

 だから藍は走る。追いかけてくる幽霊と、ついでに怖い事を言ってくる啓太から逃げるために。


 どれくらい走っただろう。もう少しで家につく着く。果たして幽霊は今でも追いかけて来ているのだろうか? そんなことを思いながら、さらに走る速度を上げる。その時だった。


「きゃっ!」


 逃げるのに夢中で、碌に前を見ていなかったのがいけなかった。家へと続く曲がり角を曲がった途端、藍は道を歩いていた誰かとぶつかってしまった。

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