Nocturne
俺は黒猫と俺とを遮るガラスに手を伸ばす。
ガラスに触れるか触れないかの所で、その接点たるべき部分は激しい光に包まれ、俺の手はガラスをすり抜けて、その向こうにいる猫に触れた。
途端に俺と黒猫のネモはフラッシュのように輝くと、一瞬で無精髭の貧乏探偵と黒いドレスの美女に変わった。
瞬間、世界が凍りついた。
俺、ネームハンター七篠権兵衛と黒猫の魔女ネモが鮮やかに色と形を取り戻すのと引き換えに、終末を迎えつつある志村京太郎の世界は色を失って固まった。
「ひやひやさせないでよねダーリン。一緒に御陀仏かと思ったわ」
どういう状況だ、こりゃ。俺は何をされた?
「時間がないから手短に言うわね。ここは橘アズサじゃない誰かが書いた、『別の創作小説』の世界」
別の……創作小説?
「そ。ここじゃ私も殆ど力が使えないから苦労したわ。あなたとの契約が私の魔力の拠り所。あなたがあなたに戻ったお陰で、今はこうして世界の時間を止めて、その崩壊を妨ぐことさえできる」
世界の、崩壊……。何かの悪魔の仕業か?
「違うのよ。だから私にも分からなかった」
俺は驚きの表情のまま彫像のように固まった間村美沙をちらりと見た。
この世界は終わるのか? この世界の住人はどうなる? 世界の崩壊を止める方法は?
「……正確に言うとこの小説世界は崩壊しようとしてるんじゃなくて、途絶しようとしているの」
途絶?
「断筆よ。作者が書き掛けのまま、二度と再び続きを書かないつもり。あなたをここに取り込んだ何者かは、あなたを主人公に据えたお話を書いて、それを中途半端なまま永遠に書くのをやめようとした。それがさっきあなたが見た世界の終焉。危ない所だった」
世界の終焉は防げないのか?
「……私はあなたを迎えに来た。この終わろうとする世界から。私たちの空想の街に連れて帰る為に。私とポニテのお嬢ちゃんのそれが精一杯。ここにいる筈なのよ。あなたを罠に嵌めて、消し去ろうとした全ての黒幕本人か、その分身が」
ここに⁉︎ どこだ! そいつはどこにいる⁉︎
「落ち着いてナナゴン。真実の瞳は、いつもあなたと共にある。そうでしょう? 」
……その呼び方はよせ。
俺は胸ポケットから象牙に細かな彫刻が施されたフレームの、古代の虫眼鏡型の商売道具を取り出した。因果の流れを読み取る真実の目「ホルス・グラス」だ。
それを通して見る世界は、俺に、いや俺たち創作小説の登場人物に取っては身の毛のよだつものだった。
世界を構成する文章そのものが、そこかしこスカスカで中途半端に投げたされているのだ。空疎。虫食い。ハリボテ。手抜き。
それが今のこの世界の全てだった。そんな中、ネモと、固まった間村美沙だけは薄く蒼い光を放ってそのままの姿に見えた。
そして、逆に真っ黒の塊に見えるものがある。
その塊に、周囲の世界を編む文字列は少しずつだが吸い込まれようとしていた。ネモが時間を止めている筈の、こうしている今でさえ、だ。
ネモ!
ネモは跳躍して空中で回転すると、曲線で象られた優美な魔法の銃、「タグナイザー」に姿を変えた。
俺は「そいつ」から目を離さずに掲げた手で銃をキャッチすると、その黒い塊の真ん中に真っ直ぐ照準した。
ホルス・グラスをポケットに戻す。
照門と照星の先に、ファーコートを来たまま地に伏せるマネキンの姿があった。さっきまで津村先輩だったそれは、微動だにしない。
誰だ。お前は。なぜこんな真似をする。
「く。くくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくく」
マネキンはゾッとするような声で振動するように笑った。ぎぎぎ、と関節を軋ませながら、コマ撮り撮影のクレイアニメのようにぎこちなく起き上がる。
「直接お会いするのは初めてね……七篠権兵衛。ネームハンター」
女の声。
……マネキンに知り合いはいねえ筈だがな。良ければ名乗って貰えるか?
『本人じゃない。操り人形の分身だわ。弾は一発。私とお嬢ちゃんと志垣教授で造った特製よ。他人の創作小説世界でも効果がある。外さないで』
ネモが俺だけに聞こえるようにそう囁く。
「初めましてネームハンター。私は虹の紡ぎ手。世界に橋を架け、二つの時空を繋ぐもの。レインボーメイカーとでも呼んで頂こうかしら」
マネキンがセルロイドの指で、安っぽい艶のカツラの髪を搔きあげる。
違う名前にならないか? 呼ぶこっちが恥ずかしい。
……なぜ俺を狙う?
「さあ? 逆に心当たりなら沢山あるのではなくて? 街を守る正義の味方さん。でもそうね……」
先輩だったマネキンはくるりと背中を向けた。
「銀の星の代金を頂くため、というのはどう? 私は言わば債務の取立て人。あなたには支払うべきツケがある」
銀の、星……?
チャキ、と背後で音がした。
振り返ると、美沙が虚ろな表情で、こちらに大口径のリボルバーを向けて引き金を絞ろうとしている!
美沙⁉︎
暗闇に二つの銃声が響き渡った。
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