ネームハンター5 〜 The machenical polyphony 〜

木船田ヒロマル

ネームハンター5 〜 The machenical polyphony 〜

 廊下を曲がった突き当たり。

 旧校舎だけあって全体が暗い印象だったが、その一角は一際暗く感じられた。

 そこにその機械はひっそり佇んでいた。

 ネモは猫の姿からゆらり、と黒いドレスの女の姿に変じた。


「感じるわ。微かだけど魔力の働きを」


 どうやら間違いない。

 俺は腰のホルスターから銃を抜き、それに照準してその姿勢のままゆっくりと近づく。

 4メートルほどの距離で立ち止まる。勿論銃は向けたままだ。


「お前か……アズサをあんな風にしやがったのは」


 目の前の機械は返事をするように唸りを上げたーー




 ーーーーーーーーーーーーーーー




 俺の名前は七篠権兵衛(ななしのごんべえ)。

 この街じゃちょっとは知られた「名前捜索人」だ。

 探偵のようなものと考えてくれればいい。

 最近ではネームハンター、なんて横文字で呼ぶ奴もいる。


「にゃー」


 ……分かってるよ。


 こいつは相棒の黒猫。

 名前はネモ。

 色々あって俺はこいつの言葉が解る。こいつ、見た目通りの只の猫じゃねえんだ。


 俺の仕事は失くした名前を探すこと。


 この街じゃ、何時の頃からか名前が人や物から抜け出してどこかに散歩するようになっちまった。

 俺は憐れな依頼人の失くした名前を見つけ出して、元通り人に名乗れるようにしてやるってわけさ。


【カランコロンカラン♬】


 さぁて仕事か。

 今日も危険でクールな一日が両手拡げてウィンクしながら俺を迎えに来たぜ。




 ーーーーーーーーーーーーーーー




 ビルの屋上が平坦だと思ったらそれは間違い。


 そのビルが場末の雑居ビルなら尚更だ。

 大小の室外機。

 明らかに後置きの錆びた物置。

 車のバンパーに古タイヤ。

 バスタブに植えられた木。

 何も住んでない鳩小屋。

 それぞれの役割を把握してる人間はこの世に一人もいないであろう、のたうつパイプとケーブルの群れ。

 夜の街の喧騒の上空にはまた別の混沌がひっそりと息をしている。


 因果回帰銃「タグナイザー」に姿を変えた相棒を手に、俺は、口紅を持った巨大な金髪美女の看板の裏に身を潜めていた。

 どこか物悲しい早口な歌が聴こえる。

 今回のターゲット、逃げた名前が具現化した「名前獣」が歌っているのだ。


『Aからセブンへ。鍋の蓋はきちんと閉じた』


 イヤホンに我が事務所唯一の正規捜査員、橘アズサの報告が入る。

 二箇所ある階下への階段小屋の扉を施錠した、という合図だ。

 妙な符丁なんて使わずに普通に鍵掛けましたでいいんだが。

 物音を立てないように注意を払いながら、俺は少しずつターゲットとの距離を詰める。


 いた。


 コバルトグリーンのツインテール。

 光沢のある生地の派手目の服。

 ここからだと後姿で顔は見えない。

 屋上のへりの段差に腰掛け、眼下の街の灯りに照らされながら、足をぶらぶらさせている。


 そしてどこか機械的な早口の歌。

 若い連中の好みそうな世を儚んだ皮肉に満ちた淋しげな歌だ。

 因果の糸を視るルーペ「ホルスグラス」で確認する。

 間違いない。

 辿って来た縁の糸はあの二次元キャラめいた後姿に繋がっている。

 ここからだと椎茸のようにパラボラを生やすアンテナ塔が邪魔で射線が取れない。

 アンテナを壊しても面倒だ。

 音を立てないように移動する。

 あと10cm……5cm……


『クワァッ‼︎』


 突如耳元で叫び声。

 いや、鳥の鳴き声だ。バサバサと黒い羽毛を撒き散らし、大きなカラスが目の前を横切って飛び去る。

 すぐ横の変電器の隙間がカラスの寝床だったらしい。

 しまった、とターゲットを見る。

 歌は止んでいる。

 奴は一切の動きを止め、屋上のへりに座ったままだ。


 今だ!


 俺は看板の陰から飛び出すとタグナイザーを構え照準器を奴の頭に重ねる。

 その時、照門と照星の先にある奴の頭が、くるりとこちらを振り向いた。

 その顔面の様に思わず息を飲む。目鼻はない。

 前髪のすぐ下のそれ。普通なら目鼻口のある位置にあったのはーー。


 スピーカー。


 無機質な人間の顔サイズのスピーカーが、目に見えるほど振動しながら機械音声のような歌声を紡ぎ出してた。


 今迄何体もの名前獣と対峙して来た俺だったが、その異様さに不覚にも反応が一瞬遅れた。

 その一瞬の隙にーー。


「♪♬♬♪♬♩♬♬♩♬♬♩♪♬!!!」


 こっちを向いた奴の顔から大音響の多重奏が俺を撃った。

 射撃どころじゃない。立ってもいられない。

 俺は堪らず耳を押さえてうずくまる。

 そして異変が起きた。

 耳を塞いでなお骨に響く奴の歌を聴かされる内、俺の感情にそのメロディが染み込み始めた。


 悲しい。悲しい。心が軋む。圧倒的に悲しい。世界はなんの為にある?俺はなんの為に生まれた?

 黒い巨大な影が俺を責めたてる。

 歌え、歌え、歌え。お前の価値はその歌う歌の中だけにある。

 歌え、歌え。歌う間だけは愛してやる。無価値な、意味の無いお前の事をーー。


 やめろ‼︎


 だが俺の叫びは奴の歌の前に無力に掻き消された。

 くっ……ヤバイ。このままじゃ……!


 その時だ。


 スピーカー女の歌に寄り添うように別のメロディが伴奏を始めた。

 全く違う歌だ。

 しかし何故か二つの歌は会話するように噛み合い段々一つのデュエット曲のように変化して行った。

 この声はーー。

 屋上の反対側、繋がった隣の建物の熱交換器の陰から彼女は現れた。


 アズサ‼︎


 彼女はスピーカー女にゆっくりと近づきながら巧みに歌の調子を合わせ、奴との「会話」を続けた。

 彼女の歌は幼子をあやす子守唄に似ていた。

 スピーカー女はもはや俺など眼中に無く、アズサに向けアズサの為にだけ歌っていた。


『今です』


 彼女の眼が合図した。

 奴の歌の影響を振り切るように、二度強く頭を振り一つ深く深呼吸した俺は、最早屋上の一段高いへりから降りてアズサに向かって歌い続けるスピーカー女の胸にタグナイザーを照準する。

 そしてそのまま絞るように引金を引く。


 銃声。マズルフラッシュ。硝煙。


 因果の悪魔である相棒、ネモが彼女の体内で精製する魔力の弾丸「因果回帰弾頭」は正確に奴の体幹を捉え、ごく速やかにその魔学反応を引き起こした。

 スピーカー女の体が内側から透けるように強く輝いた直後、奴の体は光の粒子を撒きながら一握のネックレスと化した。

 ちゃり、と小さな音を立てて銀の鎖が荒れたコンクリの屋上に落ちる。

 その先端の水晶の円筒状のペンダントヘッドには持ち主の名前が刻まれている。


「歌姫」、と書いて「ディーバ」、か。

 あれが姫だとしたら、なんて孤独で哀しいお姫様なんだ。


 ふいにさっきの奴の歌の一節が脳裏を過る。

 一瞬さっきの胸を潰す悲しみが血に蘇って、俺は思わず片膝を付いた。


「探偵長!」

 アズサが駆けてくる。

「180%大丈夫ですか⁉︎」

 いや。生まれてこの方、大丈夫でその数値を叩き出したことはない。

 だがまあ普通に大丈夫だ。

 助かったぜ。お前にあんな特技があるとはな。

「あのウーハーギャルの歌ってたの、ボカロや歌い手のメドレー的な感じだったんですよ。だから知ってるそれ系を適当に繋げて調子を合わせただけです」

 大したもんだ。俺には逆立ちしたってできねえ芸当。

「やだな探偵長!流石の私も逆立ちしながらは無理ですよお!」

 ……あのな。

「はい?」

 いや、いい。


 にしても今回のケースは依頼人と話し合わないとな。

 この名前が逃げたのはまず間違いなく名前の主の親である依頼人の子育てが問題だ。

 今回名前を戻しても、依頼人が子供との関わり方を改めなけりゃまた名前は逃げる。何度でも。

「親御さん……聞き入れますかね」

 さあな。

 そっから先は家庭の問題だ。

 俺の職務責任を越えてる。

 依頼があれば、またあのスピーカー女と鬼ごっこするさ。

「可哀想ですね……ディーバちゃん」

 子供は親も、その生まれる国も、時代も選ぶことはできない。

「……」

 多少不備不満があったとしても、世界をそうデザインした神様に毒づきながら、やって行くしかないのさ。

「…………」


 ーーその時、アズサは珍しく表情を曇らせた。


 どうした?浮かない顔して。

「探偵長は……」

 真っ直ぐ俺を見た彼女はすぐまた眼を逸らす。

「いえ……なんでもありません」

 ……そうか。


 なんでもない事はなさそうだったが、俺はそれ以上の詮索はしなかった。


 ふと誰かに視られている気がして振り向くが、そこにはただ冷たい夜があるだけ。

 冷え切った冬の風は小さな隙間からその指先で肌を撫でようとする。


 俺は帽子を深く被り直すと、くたびれたジャケットの襟を立てた。




 ーーーーーーーーーーーーーーーー




 翌日ーー


「おっはよーございます探偵長!」


 ポニテを跳ねさせながら正午丁度に高らかな朝の挨拶と共に出勤して来た女子大生は、うちの唯一の正規スタッフ、橘アズサだ。


 おはよう。昨日はご苦労だった。良く眠れたか?なんだか調子が悪そうに見えたんだが。


「勿論です!この橘アズサ、眠れない夜を知りません。眠れないアズサは死んだアズサだけです」

 いや……死んだアズサこそこれ以上ないくらい永眠してるんじゃないか?

「死は眠りとは360度違いますよ。なんたって基本もう目覚めない。命の回復じゃなく、消失」

 360度じゃ一周して元の位置じゃねえか。

 それにお前なら一頻り死ぬのに飽きたら元気一杯生き返りそうですらある。


【カランコロンカラン♬】

「おっはよーございます探偵長!」


 そうそう丁度そんな感じに挨拶しながら……待てよ。おい今挨拶したの誰だ?

「すいません、3分遅れ……あれ?」

「あれ?」

「あれ?」


「あれれ?」

「あれれ?」


「声が」

「声が」


「二人分に」

「二人分に」


「「聞こえるよ」」


 ちげーよ!お前ら……【橘アズサ】が【二人いる】んだよ‼︎


「「あ、なーんだ。なら声が二人分なのもごく自然な現象ですね」」

 なんでだよ!もの凄く不自然だろうが‼︎

 なんだよアズサが二人いるって……一人でさえなんか色々過剰なのに。

 二人来られても時給は二人分は出さねーぞ。

「「あ、じゃあ話し合って一名は帰ります」」

 あーそうしてくれ……じゃなくて!なんでお前らは二人いて当たり前みたいな流れなの⁉︎それでいいの⁉︎

 どっちかが偽物なんじゃないかとか、いつから二人になったんだとか気にならないの⁉︎

「「はあ」」

 何その気のない返事‼︎ なんなんだよ実は前から二人だったのを隠してたの⁉︎そういう病気なの⁉︎バグなの⁉︎


【カランコロンカラン♬】


 すまない、今取り込み中だ!


「おっはよーございます探偵長!」


 ポニテを跳ねさせながら12時6分に高らかな朝の挨拶と共に出勤して来た女子大生は、うちの唯一の筈の正規スタッフ、三人目の橘アズサだった。



 ーーーーーーーーーーーーーーー



 11人でようやくストップか……。


 その後、3分毎に一人ずつ増えたアズサは、11人目をもってその増殖を取り敢えずやめ、今は広くもない事務所に思い思いにひしめいてワイワイガヤガヤしていた。

 アズサ。

「「「はい探偵長!」」」

 取り敢えず来た順に並べ。

 で、ナンバーを振って名札を作れ。話はそれからだ。

「「「了解のアイアイサーです!探偵長」」」

 ……。ウザい。殊更にウザい。


 11人の橘アズサは一層ガヤガヤしながら列を成すと、今度はぺちゃくちゃ喋りながら分担してあり合わせの材料で番号札を作り始めた。


「「「終わりました探偵長!コンプリートです!」」」

 よし。

 ……いや待て。なんで最後の奴「No.12」なんだ?

「「「4は縁起が悪いので跳ばしてナンバリングしました!サー‼︎」」」

 疲れる。……この集団と過ごすのすげー疲れる。

 11人は11人なんだな?

「「「今の我々を漫画のタイトルに例えるなら『11人いる!』であります!サー‼︎」」」

 お前らそれが言いたいが為に11人に増えたんじゃあるまいな。

 そこは普通にイエスでいいだろ。

 ってかまた良くそんな古い漫画知ってたな。

「「「母が萩尾望都先生の大ファンでありまして」」」

 アズサNO.1。

「お呼びですか探偵長」

 このままじゃ事態収拾の前に俺のMPが尽きる。

 今後お前だけが俺の質問に答えるように。

「わっかりましたー!探偵長」

「えー」

「ずるい」

「私たちは無視ですか?」

「同じアズサなのに」

「アズサ差別反対!」


 ……いい加減静かにしないと二三人……間引くぞ。


「」


 空想の街は不思議の街。

 もう大概の事には驚かないと思っていたが、こりゃまたヘビーな展開だ。

 どう見比べても全く同じアズサが11人。

「さあ!何でも訊いてください探偵長!」

 溜息を吐いて天を仰ぐ。

 ふと見た窓辺では黒猫モードのネモが大きな欠伸をしていた。




 ーーーーーーーーーーーーーーー




 で、学校ーーか。

「はい」


 あれから俺はアズサNO.1と比較用のアズサNO.6、黒猫のネモを連れて、今日アズサが事務所に来るまでの道順を逆に辿って来た。

 事務所を出発し三つの甘いもの売ってる店を経て今は彼女の通う「流南大学」に来ていた。

 ってか甘味取り過ぎだろ。


 煉瓦造りの大きな門にルネサンス様式の立派な学舎。

 頼もしい太さの門柱や優美なデザインの屋根の要所要所には翼の生えた悪魔ガーゴイルの彫像が少しずつ違うポーズで学生たちを見守っている。

 初代学長は魔法の心得がありガーゴイルも本物。学校の危機には石化から蘇り、学生と学校を護ってくれる、というのが学生たちの通説だ。


「ザ・卒業論文準備の為の資料を用意したくて。これです」

 アズサはいつものナップサックを開けて中身の大量の紙束を見せた。

 卒業論文……そういやお前、選考は?

「アイデア心理学です」

 ア……アイデア心理学?

「心理学の学派でもマイナーな分野なんですが」

 確かに。聞いたこともない。

「宇宙に二人だけのアイデア心理学博士のうち一人が私のゼミの教授で」

 宇宙……そこは世界でいいだろ。

「心理学は難解なイメージがあるでしょう?そこをグッとライトに暮らしにワンモアな心理学を、というのがコンセプトなんです」

 いやそれはいいんだけどな。

 なんだろう。

 心理学が歴史ある立派な学問であることは知ってる筈なのに。

「アイデア」って単語が付いただけで安い雑誌の適当な付録みたいにペラペラに思えてくるな。

「手法としては社会心理学に近いんですけど、もっと生活密着型というか」

 因みに卒業論文のテーマは?

「これです」

 アズサはナップサックの一冊の冊子を俺に渡した。

 アンケート調査についてのアンケート調査?

「はい。世の中に溢れるアンケート調査。それを人々がどう捉えているか、世代や性別で差があるのか、というアンケート調査です」

 ま……ある意味新しいか。


 なになに……


 質問1 あなたは今までにアンケート調査を受けたことがありますか?

 ◻︎はい

 ◻︎いいえ

 ◻︎今まではないが今受けている


 ……これ「いいえ」いらないよな?

 あーもういい。話が進まん。

 学校の中で立ち寄った所に順に連れてけ。

「了解です!」


 俺たちの後をだるそうに歩く黒猫が付いて来る。

「にゃー」

 うるさいネモ。ほっとけないだろ。

「にゃー」

 違う。勿論あいつの為でもあるが、今のままじゃ俺がもたない。

「にゃー」

 ……ったく。

 増えたのがお前じゃなくてまだ幸運だったかもな。

「にゃー」

 言ったままの意味さ。


「探偵長!早くー!」

 遠くから俺を呼ぶ二人のアズサ。

 道行く学生たちが奇異の視線で俺たちを見る。

 バカが。

 でかい声出しやがって。

 その奇異の視線にまじって何か別の気配を感じた俺は鋭く振り返って辺りを見回す。


 ……気のせい、か。

 なんというか……誰かに冷たく観察されているような。

 ネモ、感じないか?どこかからーー。


 感じた違和感に緊張しながらネモを見れば、彼女は通りすがりの女子大生三人組にちやほやされて喉を鳴らしている真っ最中だった。




 ーーーーーーーーーーーーーーー




 40分後ーー




「で、すっきりハッキリ後腐れなくですね……」

 待て。

 校門に向かってるってことは次は学校出て家か?

「全力で肯定です」

 アズサが案内したのは校門からの正面通りの掲示板前、就職課、ゼミの研究室、そして今、また校門に向かおうとしている。


 ここまでの道のりでは、さして怪しい様子もアズサが増えた原因となるような要素も無かった。

 こっから家の間に何かあるとも考え辛いが……どう思う?ネモ。

「にゃー」

 ああ。俺もてっきりお前のお仲間……何かしらの悪魔が一枚噛んでるんじゃないかと踏んでたんだ。


 実際、念のため俺は腰のホルスターに改造大型拳銃「スティング・ビー」を携えて来ている。

 以前、百段階段のおばばから譲り受けた退魔の弾丸「ミスリルバレット」を二発、装填して。


「にゃー」

 そうだな。

 寝起きのベッドに11人自分が居れば流石に気付く。

 家で増えたとは思えないが、とにかく家までは行ってみるか。

 悪いがアズサNO.1。自転車は押して……。

 あれ?1台か?NO.6の自転車は?

「いえ、ナンバーワンにならなくていい元々特別なオンリー1台です。鍵はそれぞれのポケットに一個ずつあるんですが」

 ……やはり原因は学校、か。

 そもそも今日は何しに来た?

 確か卒論の資料を作る為、とか言ってたな。

「ええ。でも別に何も特別なことは。ゼミで先生に原稿を見て貰って。OKだったのでアンケートをコピーして。就職課によって就職セミナーにエントリーして……」


 ちょっと待て!今なんて言った?


「え?だから就職課によって就職セミナーにエントリー……」

 違う!その前だ!

「えと、アンケートを『コピー』……あ‼︎」

 アンケートってなその背負い袋の紙束だろう?ゼミにはコピー機なんてなかったぞ。

「旧校舎の二階です!すいません忘れてました。そこの事務部屋の前の奴だけタダでコピーできるんですよ。型はちょっと古いしトナーも用紙も自分でセットしないとなんですが」

 コピー機……それを使った奴か或いはコピー機そのものが原因かもな。この人間コピー現象は。


 ネモ。

 猫気分もほどほどにして油断するなよ。お前の出番が来そうだぜ。

「にゃー」

 はあ?お前土壇場で何言って……

「にゃー」

 ……新しい首輪を買ってやるよ。

「にゃー♪」

 ったくどいつもこいつも。

 溜息を吐きながら俺は、ホルスターの銃を確認した。


 ーーーーーーーーーーーーーーー


 廊下を曲がった突き当たり。


 旧校舎だけあって全体が暗い印象だったが、その一角は一際暗く感じられた。

 そこにその機械はひっそり佇んでいた。

 ネモは猫の姿からゆらり、と黒いドレスの女の姿に変じた。


「感じるわ。微かだけど魔力の働きを」


 どうやら間違いない。

 俺は腰のホルスターから銃を抜き、それに照準してその姿勢のままゆっくりと近づく。

 4メートルほどの距離で立ち止まる。

 勿論銃は向けたままだ。

「この感じ……どうやら中ね。憑いてる。私のお仲間が」

 アズサ、下がってろ。

 話して分かる奴か?

「さあ。流石にそこまでは。話してみたら?」


 お前か……アズサをあんな風にしやがったのは。

 目の前の機械は返事をするように唸りを上げた。

 ……なんだって?

「知らないわよ。コピー機の作動音の翻訳は専門外」

 まあそりゃそうか。

 そうしてる内、コピー機はそのトレイにがーっ、と一枚の紙を吐き出した。

 慎重に近づいた俺はバッと素早くその紙を回収して元の距離を取る。

 紙には極太ゴシックで『YES』と書かれてていた。


 ……何が目的だ。アズサを元に戻せ。

 がーっ。バッ。『できない』


 どういうことだ?誰か他の奴の差し金か?

 がーっ。バッ。『NO』


 ……ネモ。なんとかしてくれ。埒があかん。

「仕方ないわね。首輪は宝石付きにしてもらうわよ」

 ネモは両手に青い炎を纏うと無造作にコピー機に近づく。

 そしてその炎の両手でコピー機を打った。

 ぎゃっ、という悲鳴とともにコピー機の前に黒い塊が転がり出した。思わず銃の撃鉄を起こす。

「撃たないでください!」

 背を向けて丸まる黒い大きな猿のようなそいつにの背中には蝙蝠のような羽根があり、頭を抱える両腕は金属光沢を放つ機械だった。


「こいつはグレムリン。機械に入り込んで悪さする低級悪魔。でもなにか……様子が変ね」

 と、ネモ。

「僕はグレムリンじゃありません!」

 じゃあ誰なんだ?その姿はどう見たって……。

「僕は……コピー機です」

 は?

「僕は、そこにあるコピー機の心なんです」


 ーーーーーーーーーーーーーーー


 逆憑依?


「そ。このコピー機にグレムリンが取り憑こうとした。だけどコピー機さんに何か強い執着か願い……譲れない想いみたいなものがあって、逆にグレムリンを乗っ取ったのよ」

 そうなのか?

「さあ……僕にも何がなんだか。気付いたらこうなっていて」

 それとアズサの増殖となんの関係が?それにそのコピー機の強い想い……ってのは?

「私が知るわけないでしょう」

「あの……それには、心当たりが」

 グレムリン姿のコピー機は急にもじもじし始めた。

「人払いをして頂けませんか?」

 ……俺たちしかいないだろ。

「その……アズサ、さんを」


 アズサ。ちょっと二人で飲み物を買って来てくれ。俺はコーヒー。お前は?

「私はいらないわ」

「あ、僕はミルクティーを……ホットで」

 ……だとさ。

「わっかりました!念の為二本ずつ買って来ますね‼︎」

 1本でいい!1本だぞ‼︎


「可憐だ……」


 走って行くアズサの背中を見つめながら、悪魔の姿のコピー機はぽつり、と呟いた。


 まさか……お前、アズサを。アズサのことを?

「はい。僕はあの方……橘アズサさんが好き。彼女に……恋をしてしまったんです」

 ……こいつは。ヘビーな展開だ。


 悪魔の姿のコピー機は神妙な表情で語り始めた。

「初めは僕にとっても普通の利用者だったんです。でも僕、型も古いし立地もこんなでしょ。使ってくださる人も少なくて彼女のことはすぐに憶えて。その内、来てくれるのを待つように……」

 ふむ。

「彼女、優しいんです」

 毛むくじゃらの猿のような顔がはにかみながら微笑む。

「用紙トレイの開け閉めやトナーの充填もゆっくり丁寧で。僕が調子悪くても、怒ったりせず根気よく直してくれて。僕は……勿論コピー機ですけど、いや、コピー機だからこそ……あの方の心の美しさは、解るつもりです」

「成る程ね」

 黙って聞いてたネモが口を開く。

「あなたのあの娘への強い想いとグレムリンの魔力、コピー機のコピーを生み出す、という存在自体の概念が干渉共鳴して、今のような状態を引き起こしたわけね」

 ヘビーだな。

 どうやったら元に戻るんだ。特にアズサは。


 ネモはびし!っとコピー機悪魔を指差した。

「あなた!今一番したいことは何⁉︎」

「い……今ですか⁉︎ あ、その……できるなら、たった一回でもその……アズサさんと、デートを……」

 ……あいつがウンと言うかな。

「方法は一つね」

 あるのかネモ!方法が!

「ナナゴンが身体を貸すのよ。コピー機に」

 ……は?

「因果回帰弾でコピー機の心をグレムリンごとペンダントに変えて、あなたの身体にコピー機の心を同居させる。そしてあなたがデートするのよ。コピー機の代わりに。その想いを遂げさせる為に。橘アズサと。方法は、それしかない」

 ネモは至って真剣だ。




 ……はぁっ⁉︎


 ーーーーーーーーーーーーーーー



 ジュスル駅の西口は、この街の駅の近辺の中でも栄えていると言っていい。


 少し遅い朝のこの時間は、休日をこれから楽しもうとする者たちでごった返す。

 今日は灯りの樹関係の催しもあるから尚更だ。


 灯りの樹はこの街にこの時期だけ出現する幻の樹。沢山の灯火をその枝に燈しながら現れては消える伝説の樹だ。街にはその子株の樹や、それを模したツリーにオーナメントや電飾を飾り付けたりして、静かながら特別な日の雰囲気に包まれる。


 笛を吹く草原の妖精パンの像の前。

 俺は腕時計で時間を確認した。


 大して変わり映えはしないが、いつものジャケットをクリーニングに出し、靴も磨いて体裁だけは整えた。

 胸元には、コピー機の型番とシリアルナンバーが刻印された因果の鎖。

 俺は今、七篠権兵衛であると同時に恋するコピー機でもある。


 ……聞こえるか?コピー機。

『はい、七篠さん』

 俺が見てるもの、感じてることが、今のお前にも見られ感じられてる。そうだな?

『ええ。あなた方人間の感じる世界は素晴らしい。僕ら機械からしたら言葉にできない程に。この感覚を味わえただけでも大きな喜びです』

 なるべく……楽しいデートにしてやる。

 だから早めに納得して浄化されてくれ。

 それからアズサが傷つくようなマネはしないからな。

 そこが譲れないなら、もっと強行な手段で……。

『冗談じゃない!アズサさんが僕のせいで傷つくなんて、僕の方が耐えられません‼︎』

 コピー機の憤りは直接、脈打つエネルギーとして伝わって来た。

 こいつ。本当にアズサのことを。

『あの方は……あなたが好きなのでしょう』

 ……。

『あの方の意中の人の中で、あの方が意中の人に向ける視線を受け、その言葉を聴く。一緒に歩く。食事をする。そういったことだけで充分です。本来なら僕は、あの方の書類を増やすだけのオンボロな機械なのですから』

 ……コピー機よ。

『はい』

 何かリクエストはあるか?

 お前が俺だったとして、アズサと……つまり、したいようなことだ。

『そうですね……高い所からこの街が見たいです。アズサさんと一緒に。僕は工場で生まれて、すぐあの学校の二階に運ばれたので』

 胸の奥に甘酸っぱい疼き。

 これはコピー機の感傷……だろうか。

『僕が長い年月を過ごしたこの街が、どんなかを知らない。それを確かめる、多分今日は最初で最後のチャンスでしょう?その時、隣に好きになった人がいてくれたら……これに勝る幸せはありません』

 ……贅沢なコピー機だ。

『すいません』

「あの、お待たせ致しました」

 その時、見慣れない眼鏡の美少女が声を掛けて来た。


 あ、えーと。申し訳ない。人違いじゃありませんか?

「やだな……私ですよ、探偵長」

 私?……どぅわぁっ⁉︎おまっ!アズッ⁉︎でも……それ!眼鏡ッ!髪ッッ!スカートッッッ‼︎

「へへ……」

 恥ずかしそうに微笑む淑女、これがあの炸裂過剰娘・橘アズサとは……。


 見慣れたポニテは解かれて、髪は後ろに流され、ストーンレースのバレッタで留められている。

 縁なしオーバルレンズの眼鏡は、ブリッジとテンプルのイタリアンレッドが彼女の黒目がちな大きな瞳と釣り合って、その知的な魅力を引き出している。

 ワンピースにカーディガン、マフラーといった服装はオーソドックスながら、アースカラーを基調に随所にレースのフリルがあしらわれ、少女と大人の境界にいる彼女を儚げに、また可憐に見せている。

 控え目なメイク。

 木苺を象ったブローチ。

 なによりその大人びた態度。


 長く一緒に働きながら、今まで彼女のほんの一面しか知らなかったことを思い知り、俺は少なからぬショックを受けた。


「変……ですか?」

 いや!そんなことはない。全く。全然。180%大丈夫だ。

 アズサは可笑しそうに吹き出した。

「大袈裟ですよ。十八番を取られちゃいました」


 ……可愛い。


 心で呟いたのはコピー機だったろうか。

 いや。今のは。待てよ。だが。

「さあ行きましょう探偵長。私お腹空いちゃいました」

 そんな俺の戸惑いを知ってか知らずか、乙女モードの橘アズサは俺の腕に自分の腕を絡めると、休日の街へずんずん歩き始めた。



 ーーーーーーーーーーーーーーー



 夜はとっぷりと暮れ、街の喧騒はラプソディーからセレナーデへとその様相を変えた。


「あー、楽しかった」

 食事。港を散策して、リヤカーの焼き芋を食べる。

 灯りの樹フェアの商店街で出店にちょっかいを出し、他のカップルに習いオーナメントを飾ってみたりした。

 映画を観て、ちょっといいレストランで食事をして11時を回ったら実家暮らしの大学生にはそろそろ潮時、と言っていいんだろう。

 少し前を歩くアズサは既に充分満足した様子だった。だが。


 アズサ。

「……そろそろ帰りますか。コピー機さんは満足したんですかね」

 そうじゃない。

 良ければもう一時間だけ付き合ってくれ。安心しろ。妙なことはしないから。

「いいですよ付き合っても。それと妙なこともしても」

 大人をからかうな。お家は大丈夫か?親御さん心配しないか?

「コピーの私が一人帰ってます。大丈夫」

 成る程。そういう点では便利だな。

 よし。ちょっと歩くぞ。


 街の中央。

 時計塔広場の灯りの樹には既に沢山のオーナメントが下がり、色とりどりに輝いて幻想的な雰囲気を醸し出している。

 どこかで辻歌手がギターを弾きながらバラードを歌っている。


「綺麗ですね……」

 灯りの樹を見つめるアズサ。

 その瞳に無数の輝きが宿る。


 もう仕方ない。認めよう。今日のアズサは女性としての魅力に溢れ、俺から見てもとても可愛い、普通以上の女の子だった。

 俺の女を見る目はコピー機以下だったってことか。


 アズサ。

「はい」

 ここからは目を瞑れ。

「はい。あれ?じゃ、どうやって歩けば……」

 素直に目を閉じたアズサの左手を右手で握って、俺はすたすたと歩き出した。


「あ……」

 と、吐息のような声を漏らしたアズサだったが、それ以上は何も言わずに手を繋いだまま俺の後を目を瞑ってついて来た。

 俺は階段を登り、鍵を開け、その場所にアズサを誘った。


 よし。目を開けていいぞ。

「わあ……!」


 時計塔の屋根部分、メンテナンス用の扉を開けて見る街は絶景だ。

 灯りの樹の夜の街は、まるで天上の星が降ったかのように無数の、大小の灯りに煌めいている。

 それはまるで宇宙に浮かぶ街のようだった。

「綺麗……」

 昔、時計塔の掃除夫を助けてな。お礼代わりにここに入る合鍵をくれたんだ。

「へえ……この景色。百万クルークの夜景、ですね。私たちの街が……こんなに美しいなんて」

 俺の稼業は人の汚い面にも触れる。人間が……この街が嫌いになりそうになった時ここに来るのさ。

 嫌なことが続いてもな、夜風で頭を冷やしながらこの景色を見てると……ここで暮らすのも捨てたもんじゃねえ、ってそう思える。人に言うなよ。気のいい掃除夫に迷惑が掛かっちゃいけねえ。

「了解です。ありがとうございます探偵長。こんな素敵な場所に招待してくれて」

 折からの流星群はピークを迎え、目の前の景色は星と灯りのオーケストラの様相を呈していた。

「綺麗。生きてるって素晴らしい、なんて思えちゃうくらいに。本当に綺麗……」

 錆びた手摺から乗り出すように銀河色の街を眺める彼女。

 その時、大音響の鐘の音が鳴り響いた。

 ゴーーン!

「きゃ……!」

 驚いたアズサはバランスを崩し、手摺の向こうの夜の虚空へとふらつく。

 俺は咄嗟に彼女を強く引き寄せた。

 バランスを失ったままの彼女を俺が抱きとめる形になった。


 ゴーーン!……ゴーーン!


 そのまま俺たちは、一切の動きを止めた。

 二人とも何も言わず、すぐ後ろの鐘楼で鳴る刻の鐘の音色を黙って聞いていた。


 ゴーーン!……ゴーーン!


 二人切りで過ごした今日の一日が、自然と脳裏に蘇る。


 ゴーーン!……ゴーーン!


 だが俺たちは恋人同士じゃない。

 それは今宵限りの仮初めの関係だ。

 夜が明ければいつもの二人に戻る。

 騒がしい日常がやってくる。


 ゴーーン!……ゴーーン!


 だがそれでいいのだ。それが本来あるべき俺たちの姿なのだ。


 ゴーーン!……ゴーーン!


 例え今この胸に、言いようのない切なさが募ったとしても。


 ゴーーン……ン……ン


 鐘は鳴り終わった。その余韻は速やかに遠ざかり、辺りはまた夜の静けさに押し包まれる。

「12時、ですね」

 彼女が俯いたままぽつりと呟く。


 ああ。魔法の解ける時間だ。

 俺は彼女を自分から離すと、額に触れるか触れないかのキスをした。



 ーーーーーーーーーーーーーーー



 ミゼン駅の北口側は時間帯も時間帯なだけに風景写真のように人気もなく、俺たちの歩く道は街灯の灯りが遠くまで一定のリズムで続くだけの酷く無機質な有様だった。

 その道を、やもめ暮らしの名前探偵と、その助手の女子大生とが黙って歩く。まるで語るべき言葉を、あの時計塔に置き忘れでもしたかのように。

 俺の中のコピー機も俺に真に一体化している為か、なんの感想も要望も言わない。

 黄色で点滅する信号の交差点で、その純度の高い沈黙に終止符を打ったのはアズサだった。


「あの……ここでいいです」

 家まで送るぞ。遅くなったし、何かあっちゃいけねえ。

「もうすぐそこなんですよ。本当に。大丈夫です」

 そうか。明日は日曜だ。ゆっくり休め。長く連れ回してすまかったな。

「とんでもない。今日の一日、夢のようでした。探偵長と、まるで、その……恋人みたいに」

 アズサは俺に背中を向ける。

「……本当の事を、言ってもいいですか」

 本当の事?

「とても大事な事です。私にとって。探偵長にとって。そして、この街にとって」

 ……どういうことだ?

「私……ずっと、隠していました。周りの人を。私自身を。欺いて……でも」

 くる、とこっちを振り向いたアズサの唇は震えていた。

「探偵長やネモさんや、みんなと仲良くなったら……それが辛く……なっちゃって……」

 俯いた彼女の頬に、街灯の灯を反射する何かが一筋流れた。

 俺はアズサの次の言葉を黙って待った。

「探偵長、私……」

 ぽろぽろと両眼から止めどなく溢れる涙を拭おうともせず、彼女は正面から俺を見据えた。

「私ほんとは……‼︎」

 その瞬間、俺の中に異変が起きた。

 どっくん……

 胸の奥で異質な何かの鼓動が響く。

 痛み、いや……異物を飲み込んだような強烈な違和感。

 俺は堪らず胸を押さえて片膝を突く。

「た……探偵長?大丈夫ですか?」

 どっくん……

 左手の感覚が無くなる。思わず左手を見ると、俺の手は一瞬ぼやけ、醜い機械の手が滲んでそれに重なる。

 これは……⁉︎

『七篠……さん』

 コピー機。どうした?

『ダメだ……ありがとう。今日は最高の一日でした。……まだ、もう少し。……』

 様子がおかしい。大丈夫か?

『アズサさん。時計塔から見る街。ほんトウに……美しかっ……かかった。満ち足りた僕……消え……アズサさん。コピー。戻る……でしょう』

 コピー機。おい、コピー機。

『ごめんなさい。僕は消えても……グレムリン……残る。もう押さえていられない。ごめんななななさい。どうか………』

 どっくん……

『ニ・ゲ・テ』

 ぱきぃん!と澄んだ音を立ててコピー機の因果のペンダントが砕けた。

 そしてそこからまろび出た機械の腕、グレムリンの腕が唸りを上げて俺の顔面を強かに打った。

 鈍い音が頭蓋骨に響き、意識が遠のく。

 彼方にアズサの悲鳴が聞こえる。


 アズサ!


 昏倒の一歩手前で踏み止まり、繰り返し暗転しようとする視界でグレムリンの姿を追う。

 街灯の下に濃い影を落としながら、悪魔本来の獣性を取り戻したグレムリンはその翼を広げる。そしてその光と影の境界で、確かに嗤った。


 次の瞬間、奴は野生の肉食獣の動きで跳躍すると、左の機械の腕を鋭利に尖らせながらアズサに襲いかかった。彼女は恐怖に身を竦ませる。

 死とそれに伴う痛みを覚悟し眼を閉じた彼女は、来るべきそれらが訪れないことを不思議に思い、恐る恐る眼を開けた。


 そこには俺の血で真っ赤に染まった機械の腕があった。


 その機械の腕はジャケットのボタンを飛ばしシャツに穴を開けて、俺の……七篠権兵衛の、胸の裂け目から生えていた。




「だ……ダメェェェェッッッッ!!!」





 ーーーーーーーーーーーーーー





 街灯の下に濃い影を落としながら、悪魔本来の獣性を取り戻したグレムリンはその翼を広げる。そしてその光と影の境界で、確かに嗤った。


 次の瞬間、奴は野生の肉食獣の動きで跳躍すると、左の機械の腕を鋭利に尖らせながらアズサに襲いかかった。彼女は恐怖に身を竦ませる。

 俺は咄嗟にアズサと奴の間に飛び込むと巨大なアイスピックのような奴の腕をギリギリで躱しながら絡め取る。

 だが勢いを殺すことはできず、俺は奴に巻き込まれるように地面に倒れこんだ。

「探偵長!」

 アズサの悲鳴に似た叫びが耳を打つ。


 良かった、無事か。


 奴の左腕を掴んだまま地面で縺れ合う俺とグレムリン。

 奴は低く唸ると、右腕全体をナイフのように変形させ切り上げて来た。俺の左脇のアスファルトが奴の刃に火花を散らす。俺は左腕でなんとかその特大ナイフの付け根を制し、腕を脇から肩ごと切り落とされるのを防いだ。


 俺の右手には奴の巨大アイスピック。左手に特大ナイフ。

 膠着状態ではあるが奴はナイフの角度を捻り、俺の左脇腹にジリジリと近づけてくる。やばい。左手では奴の右腕の膂力に勝てず、脇腹当たった刃はじわじわとその傷口を深く長くしてゆく。


 見てねえでなんとかしろ!ネモ‼︎


 路地の影から飛び出す黒猫は、


「なあんだ気付いてたの」


 女の声でそう言うと瞬く間に妖艶な美女に姿を変える。

「世話の焼けるナナゴンね。ご褒美の首輪は宝石付きで、オーダーメイドにして貰うわね」

 美女は地面で力比べをする俺と魔物に駆け寄りながら指二本を唇に当て、強く息を吹いた。

 指の間から吹き出す吐息は、彼女の魔力で青い炎の渦となり、俺に覆い被さるグレムリンの背中を焦がす程に焼いた。

 堪らず奴は俺から離れ、翼に着いた火を消そうと地面を転がり回る。

 ーー今だ。

 ネモ!

 俺はポケットから真銀の退魔の弾丸を取り出しネモに向かって投げた。

 それを嫋やかな手で受け止めたネモは何をすべきかをすぐに悟り、その弾丸に唇を寄せると一息に飲み込んだ。

 俺に向かって跳躍した彼女は、空中で回転しながら丸くなり、フラッシュのような光を放つと、次の瞬間には曲線で象られた一丁の銃に変じた。今度は俺がそれを受け止める。


 ウィーバースタンス。

 照門と照星。

 その先に煙を上げながら火傷の苦痛に呻く獣の姿の悪魔。


 受け取れ。グレムリン。一時でも心を共にした俺とコピー機からの……プレゼントだ。


 タァー……ンン!!!


 深夜の住宅街に不釣り合いな乾いた銃声が響き渡る。

 驚愕の表情の真ん中に真っ黒に穴を開けた奴は、0.2秒だけそのまま固まった。そして次の瞬間、大量のネジと歯車、バネの小山になって崩れ去った。


 ……終わった。


 ダメージが足に来て膝を突く。

「探偵長ーっっ!」

 アズサは駆け寄ってくると心配そうに俺を除き込む。

「180%大丈夫ですか⁉︎」

 ああ。180%大丈夫だ。お前は?360%大丈夫か?

「ええ……良かった。探偵長。1メガ%良かったです。探偵長が無事で」

 アズサがそう言った直後だった。


「ハハッ……フフハハハハハ……」


 誰かの笑い声が頭上から降って来た。


 誰だ!

「今晩は。ネームハンター。七篠権兵衛」


 蝙蝠のような翼で空にあり、フード付きの血のように赤いローブを纏い、俺たちを見下しながら冷たい笑みを端正な顔に張り付けるその男。


 お前は……名前獣悪用教団四天王!朱雀!

「真理聖名教会です。七篠さん」

 その翼……そしてその眼。暫く見ねえ内に辞めたのか……人間を。

「超えたのですよ。薄汚い毛なしの猿をね」

 グレムリン……てめえの差し金か。

「ええまあ。余り成功とは言えませんが」

 気力でなんとか立ち上がった俺を支えるように、アズサが寄り添う。

「ですが予定していたものよりも、とても価値のあるものが得られました。笑いが止まりません」

 25クルーク玉でも拾ったか?残念そいつは拾得物横領罪だぜ。

「私が得たのは、あなたを倒す糸口。そしてーーこの世界を覆す真実の、鍵」

 中ニ乙、とでも言って欲しいのか?

「さる儀式により私は悪魔の肉体を得た。この牙も、この爪も、漲る魔力も。普通に考えればあなた一人を殺すのに過剰な迄の力がある。私は幾らでもあなたを殺せる。だがーー今はそれができない。さっきのグレムリンのように」

 今の台詞、紙に書いて読み返して見ろ。言った自分を殺したくなるから。

「ずっとあなたを観察していた。あなたに勝つとはどういうことか。ネガとポジのように反対写しの我々……それが出会い争う意味を。その舞台であるこの街の意味を。私の存在する意味を考えながら」

 気の毒に。何にでも意味があるように思える?そりゃ統合失調症の初期症状だぞ。悪い事は言わないから医者に罹れ。俺がお前にぴったりのドクターを紹介してやる。

「今は解らないでしょうね。憶えておくがいいネームハンター。私の言葉の意味を真に理解した時、あなたは本当の絶望を知ることになる」

 喋りながら朱雀は夜空より黒い翼を強く羽ばたかせ高く高く昇ってゆく。

「私の名前は朱雀。死の翼・朱雀。私はまたあなたの前に立つ。あなたの墓碑銘を刻む為の槌と楔を携えてね。フハハハハ……ハァッハッハッハッ……」

 笑い声の余韻だけを残し、奴は闇夜に消えた。


 あいつ。悪のボスが板に付いてんなァ……。


 と、素朴な感想を抱いた途端、辺りが急速に暗くなる。

 ふいに右側から大きな壁が近づいて来て俺の頬を打った。

 いや、違う。これは地面だ。

 俺は倒れたのだ。

 脇腹……出血……アズサが俺を呼ぶ声。



 俺の意識はそこで途切れた。



 ーーーーーーーーーーーーーーー



 薬っぽい匂い。


 糊の効いたシーツの感触。


 目を開けると白塗りの天井。

 賃貸事務所の二階じゃない。


「あ、気がつきましたか」


 茶髪の小柄な看護婦には見憶えがある。

 第一東西病院。

「だいいちひがしにしびょういん」と読むその病院名は捻くれた医院長のセンスの賜物だ。


 ああ……シリンジさん。髪切ったんだな。元気な感じで、可愛らしいぜ。


「ばっ……ありがとうございます」


『ばっ』ってなんだ。

 いつもすまないな。世話かけて。


「いいえ。患者さんのケアは私ども医療従事者の……」

「おはよう七篠君。気分はどうだい?」


 シリンジ看護婦の台詞の後半に思い切り被りながらドクターが現れた。


 ……殺す。


 ん?今誰かドクターへの殺意を露わにしなかったか?


 おはようドクター。

 その気分を尋ねる台詞はマニュアルにでも書いてあるのか?

「もし仮にそうだったとして、僕がその通りすると思うかい?」

 ……いや。マニュアルだ、というだけで無闇に軽視してそうだ。

「ああその通り。教科書通りの生き方なんて真っ平さ。マニュアルなんてね、分からないことがあった時だけ読めばいいんだ」

 パイロットと医者からは絶対聞きたくない言葉だな。

「今回は酷くやられたね。搬送が遅れたら危なかったよ」

 ドクターはカルテに目を通しながら

 言う。

「頭部の打撲と擦過傷はまあ大したことはないけど、左脇腹の切創が深かった。真皮を割いて腹膜にまで達してたんだ。縫いがいがあったよ。不倫も程々にね」

 痴話喧嘩の刃傷沙汰じゃねえよ!俺をどういう目で見てるんだ?で、なんで相手は人妻なんだよ!

「だって毎回違う女性と搬送されてくるじゃないか」

 うっ……それは、たまたまだ。

「ほんとかなぁ」

 ほんとだよ!

 あ、そうだ。前回貰った割引き回数券、使えるよな。

「ああ!勿論だよ。君が使用者第一号だ。結構配ったんだけど、みんな中々担ぎ込まれてくれなくて」

 なんか色々問題ないか?この回数券制度。

「病院食クーポンはどうする?」

 病院食クーポン?

「ほら、回数券の裏はクーポンになってるんだ。欧風カレー病院定食がこれを使うとたった5クルーク。お得だよ」

 毎回思うんだが、なんであんた俺に執拗に病院食を食わせようとするんだ?

 あんたに対して従順になる薬でも入れてるんじゃあるまいな。

「…………」

 黙るなよ!怖いから!軽口で反論とかしろよ!

「この話はここまでにしよう」

 リアルなトーンやめろ。

 俺も身内も絶対ここには入院しねーからな。

「代金だけど、財布から通常料金で抜いちゃったから、出る時受付で回数券分を払い戻して貰ってくれたまえ」

 うわなんだよそれ面倒くせー。だから勝手に財布から金を抜くなと言ってるだろ分かんねー奴だな。

「二週間は通ってくれ。消毒と包帯交換に。で様子見て抜糸だね。痛み止めと胃薬。いつも通りね。適当に休んだら帰っていいよ」

 あいよ。死ぬなよドクター。刺客は意外に身近に居るぜ。

「紫林路君のことかい?彼女は元々そういう合意の上で側に置いている。狙い狙われるのが僕らの日常さ」

 どういう雇用体制なんだよ。忍か?お前らは。

 ドクターは笑った。

「忍とは大時代的だね。忍、じゃあないかな……厳密には」

 医者だろ。頼む。もう少し医者感を出してくれ。

「お大事に」

 あー……殴りてえ。あのドクター殴りてえわー。


「ナナゴン閣下ーっっ‼︎」


 入れ替わりにポニテをブンブンぶん回しながらアズサが来た。


 アズサ。童話に出てくる隣の国の大臣みたいな呼び方はやめろ。

「1テラバイト大丈夫ですか?」

 いや単位おかしい。俺は中古のハードディスクか?

「その質問の答えは……人間だ!」

 なんでスフィンクスに答えるみたいにした?で何故そんなに『してやったり』みたいな顔なの?何に勝利したの?そんな顔しても俺『くぅーっ一本とられたぁ』みたいな顔はしないよ?


 あ、お前こそ大丈夫なのか?アズサ。昨日の夜は何か酷く思い詰めて、何か……言いかけてたみたいだったが。

「ええ。大丈夫です。昨日のアレは単にそれっぽい演出です」

 ……マシで?今回は許すから二度としないでねそういうの。

「竹を割ったら桃太郎が出てきたような性格のこの橘アズサ。悩み無用です」

 姫どこ行った姫。竹はかぐや姫用にしたげて。桃太郎も困惑するよきっと。桃太郎のアイデンティティー危機一髪だもん。

 あーもうツッコミが追いつかん。


 とにかくだ。

 すまなかったな夕べは。結局お前を危ない目に遭わせて。

 ありがとうな。救急車の手配をしてくれて。

「いえ……元を辿れば全て、私が原因ですから」

 そんなことはないだろう。不可抗力って奴だ。お前のせいじゃない。

「いいえ……私のせい……なんです」

 苦しそうにそう言いながらアズサは、持参の紙袋からサイドボードに紙皿を出し真紅のマカロンを山と積み始めた。


 この赤さ……ストロベリー味……ではなさそうだな。


 鼻の奥に、ツンと唐辛子の刺激臭がした。



 ーーーーーーーーーーーーーーー



 真理聖名教会の講堂。


 ステージ上の大型スクリーンには隠し撮りされた七篠権兵衛の姿が大映しに映っている。

「骨が折れたよ。スパイの真似も。あいつやたら勘がいいんだもん。もうやんないよ。僕は記憶の悪魔で、覗きの悪魔じゃないんだ」

 生意気そうな小さな男の子の姿をした私の契約悪魔は、頬をわざとらしく膨らませて文句を言う。


 ええ。ありがとうメメントゥ。もう充分ですよ。あなたのお陰で私はようやく我々が目指した真理に到達できそうです。


 七篠権兵衛は、あの時一度確かに死んだ。グレムリンに心臓を貫かれて。

 だが気が付くとそれは無かったことになっていて、奴はグレムリンを倒した。

 これがどういうことか。


 奴は……七篠権兵衛は護られている。


 何か得体の知れない、理不尽なロジックに。

 その謎を解かない限り、神だろうと悪魔だろうと、あの場末の貧乏探偵を殺すことはできないのだ。


 私はその映像で画面を止めた。

 昨夜の、グレムリンと戦う七篠権兵衛の映像だ。

 マウス操作で部分を拡大すると、その人物ーーピンクのスマートフォンを手に七篠権兵衛の戦いを見つめる、橘アズサが大きくスクリーンに張り付く。


 この女です。

「え?何が?」

 この女こそ七篠権兵衛を倒す鍵……いえ、この世界の謎を解く鍵です。



 私は朱雀。

 ネームハンター打倒の為に人間の殻を脱ぎ捨てた死の翼・朱雀。

 もうすぐです。もう名前も思い出せない父さん。

 もうすぐあなたの仇が討てます。

 奴の、ネームハンター七篠権兵衛の命をあなたに捧げます。

 これ以上ないくらい、完璧な勝利とともにーー。




 ネームハンター

 〜 The machenical polyphony 〜


 〜〜〜 f i n 〜〜〜



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ネームハンター5 〜 The machenical polyphony 〜 木船田ヒロマル @hiromaru712

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ