ネームハンター3 〜 The sepia tone requiem 〜

木船田ヒロマル

ネームハンター3 〜The sepia tone requiem 〜

 その男の姿を見た瞬間、俺は稲妻に撃たれたような衝撃を受けた。


 左右非対称な模様の入ったモノトーンのスーツ。

 揃いのソフト帽。

 完璧に手入れされたアルパアルジムのストレートチップの靴。


 息が止まる。身動きできない。

 男は言った。


「暫くだな。ゴン」


「あ……あんたは……いや!そんなはずは……」


「育ての親をあんた呼ばわりか?偉くなったな。え?ゴンよ」


 落ち着いた張りのある声。

 凄みと悲しみを同居させる眼差し。瞬間催眠術の使い手。

 二丁拳銃の達人。

 久田晴探偵事務所の所長にして俺の育ての親。

 名前の無かった俺の……「七篠権兵衛」の名付け親。

 13年前に死んだ筈の俺の命の恩人。天涯孤独な俺が唯一、「家族」と呼べる人物。


「おやっさん……」


「ゴン。もしお前が俺の思った通りの男ならーー」


 ソフト帽から僅かに覘く双眸から殺気を帯びた視線が刺さる。


「止めてみろ。俺を殺して」


 ーーーーーーーーーーーーーー



 俺の名前は七篠権兵衛(ななしのごんべえ)。


 この街じゃちょっとは知られた「名前捜索人」だ。

 探偵のようなものと考えてくれればいい。

 最近ではネームハンター、なんて横文字で呼ぶ奴もいる。



「にゃー」



 ……分かってるよ。

 こいつは相棒の黒猫。

 名前はネモ。

 色々あって俺はこいつの言葉が解る。

 こいつ、見た目通りの只の猫じゃねえんだ。



 俺の仕事は失くした名前を探すこと。



 この街じゃ、何時の頃からか名前が人や物から抜け出してどこかに散歩するようになっちまった。

 俺は憐れな依頼人の失くした名前を見つけ出して、元通り人に名乗れるようにしてやるってわけさ。


【カランコロンカラン♬】


 さぁて仕事か。


 今日も危険でクールな一日が両手拡げてウィンクしながら俺を迎えに来たぜ。


 ーーーーーーーーーーーーーー




 ーー 13年前 ーー


【リンゴン♬リンゴン♬ 火事です。火事です。係員は速やかに機体を着陸させて下さい。乗客の皆様は係員の指示に従って下さい】


 燃え盛る飛行船にどこか間抜けな非常放送が響き渡る。


「もう辞めねえか?抜けばどちらかが死ぬだけだ。つまらねえぜ」


 おやっさんは麻薬密売組織の親玉にそう語り掛ける。奴は吠えた。


「十年だぞ!十年掛けて造った組織を貴様一人に!クズの探偵なんぞに‼︎」


 叫ぶが早いか奴は自分の首筋に何かを刺した。禁止薬物の無針注射器のようだ。


 火の手はブリッジに及び、熱気と煙が少しずつ室内を満たしてゆく。目を血走らせながら、奴は上着を脱ぎ捨てる。脇に吊られたホルスターに装飾された銃のグリップが光って見えた。


「俺専用の特性カクテル……これでお得意の幻術は効かない!くたばれ‼︎」


【ターン‼︎】


 響いた銃声は一発だった。

 倒れるヤクザ。

 おやっさんはーー久田晴尽蜂(くたばれじんぱち)は哀しげな表情で立っていた。愛用の改造拳銃、スティング・ビーの銃口から細い煙をたなびかせて。


「……さんを付けろよ。馴れ馴れしいぜ」


 ーーーーーーーーーーーーーー


「どうしてだよ!」

「このままじゃ燃える飛行船がこの街の真ん中に落ちる。海風に逆らって誰かがこいつを海まで運ばなきゃな。なに、適当な所で自動操縦にして俺も脱出する。先に行け」


 おやっさんは俺に煤けたパラシュートを着させ、非常コックを回してドアを開けた。

 途端に冷たい風が強く吹き込む。


【リンゴン♬リンゴン♬非常警報。非常警報。直ちに脱出して下さい】


「……嘘だ。なら今すぐ自動操縦にしろよ」


「フ……」


 おやっさんは少し笑うと何かを投げてよこした。思わず受け取る。ズシッと重いこれはーー。


「スティング・ビー⁉︎ おやっさん、これは…」

「預かってくれゴン。俺が戻るまで」


 どん!

 突き飛ばされた俺の体は飛行船のドアを飛び出して強い風の吹く虚空に舞った。


「おやっ…⁉︎」

「この街を頼んだぜ」


 そう言ったおやっさんは、ぱちりと悪戯っぽくウィンクした。


 微笑むおやっさんが。飛行船のドアが。飛行船が。急速に遠のいて小さくなる。


 折からの海風に逆らいながら真っ直ぐ海を目指す燃え盛る飛行船は、海岸線を越えると一際強く炎を吹き上げた。


 そして次の瞬間、花火のように爆発した。


「おやっさぁぁ……ん!!!」


 ーーーーーーーーーーーーーー


 飛び起きると見慣れた天井。


 事務所の二階の俺の部屋。


 夢、か……。


「大丈夫?酷くうなされてたけど」


 ああ、ちょっと昔の夢を……ってネモ。なに勝手に人のベッドに入ってるんだ?


「飼猫が飼主のベッドに入るのがそんなに変かしら?」

 美女の姿の悪魔は妖しく笑う。


 猫の姿なら入れてやる。ん?お前その姿。満月は先週だった筈。


「驚いた?裏技があるのよ。これであなたの好きな時に色んなサービスを提供でき……にゃん!」


 ベッドから押し出されたネモは尻餅を突いて妙な声を出した。


 間に合ってる。飼猫なら飼主の言う事を聴け。


「ひっどーい。ペット虐待反対」


 躾だ躾。ペットの粗相を放置することこそ飼主の責任不履行だろうが。


「はいはい。なんでもお申し付け下さい飼主様」


 速やかに猫の姿に戻るか、さもなくば。


「さもなくば?」




 …………服を着ろ。




 ーーーーーーーーーーーーーー




「おっはよーございます探偵長!」


 ポニテを跳ねさせながら正午丁度に高らかな朝の挨拶と共に出勤して来た女子大生は、うちの唯一の正規スタッフ、橘アズサだ。


 ああ おはよう。学校は半ドンか?

「ハンドン?……と、言いますと?」


 ……いい。なんでもない。


「そんな事より空!見て下さいよ!目をパン祭りのようにして‼︎」


 それを言うなら皿のように、だろ。

 ああ、雲間にきらきらとあれは……。


「空魚ですよ空魚!遥かなる高みの空を泳ぐ銀鱗の活魚!」


 アズサ。前から思ってたがお前色々強調し過ぎじゃないか?


「あ!ほらあそこ!また光った!空魚に間違いないですよね!彗星はもっとバーッと動きますもんねっ!」


 ……無視かよ。

 でも数が減ったな。昔はもっと…空を覆い尽くすような群れが渡って来たもんだが。


「そうですか?昔とそんなに変わってない気がしますが?」


 延長線上にありはしても、お前の昔と俺の昔は同じじゃないのさ。

 それこそパン祭りと皿くらいには、な。



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「帰ってくれ」

「うぬぬ……後悔するぞ!」


 初老の依頼人は褪せたリノリウムの床を蹴るように席を立つ。


【ガラゴロシャン!】


 乱暴に閉められたドアのドアベルが悲鳴を上げた。


 ……毎度あり。


「いいんですか?探偵長。お金持ってそうな依頼者でしたけど……」

 出しそびれたお茶をトレイに乗せたまま、アズサが問いかける。


 いいんだ。

 例えいい金になろうと俺は自分を貶めるような仕事はしない。孫の名前なんてな、息子とよく話し合って決めることだ。実の親が付けた名前を引っぺがして、爺さんが考えた名前と無理矢理入れ替えてくれ、なんて先の事を考えたら誰の為にもならねえ。


「でも我が事務所の法人口座は残高23円ですよ……」


 よそ様の親子の諍いに突っ込むクチバシは持っちゃいねえ。

 誠実な仕事をしてりゃな、人も街も、そう簡単に見捨てたりはしねえよ。明日にゃ明日の風が吹くさ。


「事務所の家賃の払い、まさしくその明日なんですが」


 い……いいんだ。例えいい金になろうと俺は自分を貶めるような仕事はしない。


【カランコロンカラン♬】


 な、言ったろ。

 ようこそ七篠名前捜索……ん?

「あら可愛い。こんにちはお嬢ちゃん、お名前は?」


「こんにちは……」


 やくざな稼業の事務所に似つかわしくない純真そうな少女がぺこりと頭を垂れる。


「私はリオ。円舞リオです」


 歳の頃は六、七歳だろうか。愛らしい顔だちの利発そうな少女は名前を名乗るとカエルの形の貯金箱を俺に差し出してこう言った。


「私の持ってるお金全部です!お願い!盗まれたお家の名前を取り戻して下さい!」



 つづく


 ーーーーーーーーーーーーー



 俺の名前は七篠権兵衛(ななしのごんべえ)。


 この街じゃちょっとは知られた「名前捜索人」だ。

 この不思議の街ではいつの頃からか人や物の名前が剥がれ名前の象徴する事物に姿を変えて、どこかに散歩するようになっちまった。


 俺の仕事は逃げた名前「名前獣」を捕まえて持ち主に返すこと。


 ま、ちょっと変わった探偵みたいなものと思ってくれればいい。


【カランコロンカラン♫】


 さあて仕事か。


 今日も危険でクールな一日が両手拡げてウィンクしながら俺を迎えに来たぜ。


 と、思ったら事務所に来たのは年端もいかない貯金箱持った女の子。


 円舞リオと名乗る彼女は、彼女の全財産と引き換えに、「盗まれたお家の名前」を取り戻して欲しいと言う。

 財政逼迫、安い仕事をしてる場合じゃないんだが、どうやらほっとく訳には行かないようだ……。



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「表札……」


 リオが差し出した写真には新築と思しき家の門で笑顔で写る三人親子の姿。門柱にはニスを塗ったオーク材の大き目の表札。


 盗まれたのは、この手作りっぽい表札か?


「うん。あたしとママで作ったの。新しいお家の名札」


 表札泥棒か……。


「そんなもの盗んでどうするんですかね?自分の家にはビタ一文使えないし。悪戯?」

 アズサが素朴な疑問を口にする。


 ……ビタ一文の使い方おかしくないか?


 受験の時期だから不心得者のゲン担ぎかもな。


「は?なんで表札を盗むのがゲン担ぎなんです?」


 一軒じゃなくて四軒分盗るんだ。よんけんとる、しけんとる、しけんとおる……。


「ちょっとどころか食べ放題で無理し過ぎた直後くらいに苦しくないですか?」


 ……俺が考えたわけじゃねえよ。


「捕まったら受験どころじゃなくなるし、その手間暇で頻出単語の一個でも憶えた方が……」


 だから。俺が考えたわけじゃねえってば。


「あの………」


 リオが遠慮がちに割って入る。

「探偵さんの言う通りなの。名札を取られたお家は、うちだけじゃないの」


 ……な?

「うーん……じゃあそうなんですかねぇ……」



 リオ。何か誤解があるようだ。


 うちは確かに名前捜索事務所だが、請け負うのは表札泥棒事件じゃないんだ。

 警察に届けて、お母さんと新しい表札をまた作ればいい。

 君が貯めた大事なお金はもっと別の事に……。


「お母さんはもういないの」


 俺はしまった、と思った。



 ……いない?


「去年の終わり頃に急に病気が悪くなって……そのまま……」


 ……すまない。


 リオは黙ってかぶりを振った。


「お巡りさんは子供を相手にしてくれない。パパは諦めなさいとしか……でも。

 あれは只の名札じゃないの。元気だったママとの大事な想い出なの!」


 抑えていたものが抑え切れなくなって、彼女はぽろぽろと涙を流した。


「お願いです!探偵さん!ママの名札を取り戻して!

 お金が足りないなら大きくなってから働いて必ず払います!他にもう……頼れるところがないの。だから、どうか、どうか……」


「泣かないで、リオちゃん」

 屈んだアズサはごく自然な所作でリオを抱きしめた。そして落書きみたいなウサギがプリントされたハンカチで、彼女の涙を拭う。

「探偵長……」


 ……あのな。俺も鬼じゃねえよ。そんな話聴いちまった以上、帰れとは言えねえだろ。


「それじゃあ……」

 リオの涙が一杯に溜まった眼が俺を見つめる。


 正直専門外の仕事だ。結果は約束できない。まずは三日間捜してみよう。進展がありそうなら捜索期間を伸ばす。三日当たって全く手掛かりが見つからなければ、すまないが捜査は打ち切りだ。いいか?


「うん!」


 三日間分の料金は前払いで貰う。期間が伸びたらその分は後から請求するが、三日目に一度状況を報告するから、延長するかしないかはリオが決めるんだ。いいな?


「分かった」


 成功報酬はまた別だぞ。

 犯人が、或いは表札の在り処が分かったら三日分、表札そのものを取り戻せたら一週間分の料金を別に貰う。いいかい?

「うん、それでいい」

 さて、問題の一日分の捜査料金だが……。

 リオ、君は運がいい。

 今は丁度うちの13周年記念キャンペーン中でな。おまけに君は記念すべききっかり10万人目の依頼人なんだ。キャンペーン価格に記念特典の割引を適応して……


 俺はエア算盤で計算する振りをした。


 一日あたり1クルーク。まずは三日分、3クルークを頂こうか。


「わかった。良かったぁ、それなら払えるわ」

 アズサがリオから1クルーク硬貨を三枚受け取る。

「確かに」


 リオ。悪いが期待し過ぎないでくれよ。今の段階で見つかる確率は五分五分か正直それ以下。三日捜して手掛かりなしならその確率は限りなくゼロに近いんだ。

 そうなったらそういうものだと聞き分けてくれ。いいか?


「うん!でもあたし……探偵さんなら、なんか見付けてくれそうな気がする!」


 ……必要な書類に連絡先を書いて、契約内容の同意欄にサインをしてくれ。アズサ。


「はい探偵長。アズサちゃん、こっちよ」


 俺は七篠権兵衛。こっちは主任捜査員の橘アズサだ。請け負ったからには全力を尽くさせて貰おう。

「アズサって呼んで。宜しくね、リオちゃん」


「あの、ありがとう七篠さん。アズサさんも。ママとの想い出の品を、どうか見付けて下さい!お願いします!」


 何度も頭を下げながら、リオは出て行った。

 ニヤニヤしながらアズサが訊く。

「13周年キャンペーン?」


 ……言ってなかったか。


「10万人って……も少しリアルな人数にして下さいよ」


 ……うるさいな。


「私、主任捜査員だったんですか?」


 ……今日付でな。


「いいとこありますね、探偵長」


 ……泣く子とバット持った大家には勝てん。


【カランコロンカラン♬】

「さてこいつは困ったな」

 言いながらトレンチコートの逞しい男が入って来た。


「小さな子供に先回りされてしまった。鬼の西四寺もヤキが回ったか」


 西四寺警部!東署強行犯係長殿が、こんな場末に。相談なら電話を下されば。


 西四寺祐太郎警部は浅黒い顔をくしゃくしゃにして笑顔を作った。ニッと口元から覘く白い歯が日焼けした肌の色に映えた。警部は言った。


「電話代を払えネームハンター」

 警部はソファーにどっかと腰を下ろした。

「電話さえ通じりゃ、誰が好んでこんな所まで来るもんか」


 ……すいません。


「まあいい。実は相談があって来たんだ。また妙な事件に悩んでいてな」


 名前絡み、ですか?


「恐らくは。これを見てくれ」


 警部は数枚の写真をデスクに拡げた。


「きゃぁっ!」

 アズサが悲鳴を上げる。

 う⁉︎……。


 ベッドに横たわる人物の写真。だが首から上が……ない⁉︎ いや……これは……。


「触れば触れる。頭はそこにある。顔の凹凸も。髪の毛もな。だが完全に透き通っているんだ。五日連続で一人ずつ。昨日五人目の被害者が出た」


 警部は溜息をつく。


「頭が透けた状態で発見され、時間を追う毎に透明な箇所は身体の下へ拡がって行く。一人目の被害者はもう腰まで透明だ。体温も脈拍もあるがどの被害者もどんな刺激にも反応しない。……似てるだろ?」


 名前喪失状態。確かに似てますが……こんなのは俺も初めてです。


 容疑者は?目撃情報はないんですか?


「これはたまたまなんだが、二件目の現場付近の監視水晶が容疑者らしき人物の姿を捉えた」


 監視水晶?


「中央署魔法技術課肝入りの実験プロジェクトさ。街の各所に一定間隔で記録水晶を配置して防犯するんだとよ」


 悪いことしてなくても見張られるわけですか。


「バレてやばいことはするな、さ。今は金持ちの集まる住宅地に四機設置されてるだけだ。その内の一つが捉えたのが……これだ」


 ……‼︎


 この……スーツは。


「変わってるだろう。左右非対称に幾何学模様になったモノトーンスーツ。一度会ったら忘れないだろうな。後ろ姿で顔は映っていないが、こんなのを平気で着て歩く犯人なら存外早く……」


 おやっさん……。


「……なんだって?知り合いか⁉︎」


 久田晴、尽蜂……。


「クタバレ・ジンパチ……?待てよ七篠!それってお前の……‼︎」


 ……育ての親で名付け親。俺の唯一の家族です。




 ……十三年前に、死んだ筈の。




 つづく



 ーーーーーーーーーーーーー



 俺の名前は七篠権兵衛(ななしのごんべえ)。


 この街じゃちょっとは知られた「名前捜索人」だ。

 この不思議の街ではいつの頃からか人や物の名前が剥がれ名前の象徴する事物に姿を変えて、どこかに散歩するようになっちまった。


 俺の仕事は逃げた名前「名前獣」を捕まえて持ち主に返すこと。

 ま、ちょっと変わった探偵みたいなものと思ってくれればいい。


【カランコロンカラン♫】


 さあて仕事か。今日も危険でクールな一日が両手拡げてウィンクしながら俺を迎えに来たぜ。




 今回の依頼人は盗まれた母の形見の表札を捜して欲しいという少女。

 名前捜索ってなそういうことじゃないんだが……。

 情にほだされ依頼を受けた俺の元に東署の西四寺警部がやって来る。連続身体透明化事件の相談に。

 監視装置が捉えた容疑者の姿は俺のよく知る人物だった……。






「あの……探偵長」


 依頼への回答を保留し、西四寺警部も去った事務所。アズサが小さな声で問い掛ける。

「どういう方……だったんですか?」


 おやっさんか?

 名前は久田晴尽蜂。

 歳は訊く度に違って結局本当の所は分からん。

 長身、筋肉質、黒髪に茶色の瞳。

 離婚歴あり。実の娘と奥さんはこの不思議の街を出て「あっちの世界」で暮らしてる。

 一度だけ、おやっさんの葬儀の時に遠目に見たが綺麗な奥さんだったな。

 自分でデザインした幾何学模様のスーツを着用。揃いのソフト帽。アルパアルジムの注文靴。着道楽だった。

 どこからかこの街に流れて来て、当時できたばかりの街に唯一の探偵事務所を立ち上げた。

 ファイトスタイルはケンカ空手。

 武器は二丁拳銃と独自に編み出した瞬間催眠術「ヒュプノスラップ」。


「瞬間……催眠術?」


 言動、スーツの模様、身のこなし……施術に入ったおやっさんは全身余さず「催眠導入」なんだ。

 二丁拳銃の内の一つ、改造リボルバー「ハウリング・ビー」から撃ち出される特殊音響弾の音で、瞬間的に相手を催眠状態に叩き込む。


「信じられない技ですね……」


 強固な自我を持った奴には稀に掛からないこともあったが、強い奴に言いなりのチンピラなんか一発で思いのままだったぞ。


「もう一丁の銃は……?」


 俺は事務所の隅で埃を被っている金庫を開けた。中から黄色の油紙で包まれたそれを取り、デスクに置く。

 丁寧に油紙を開くと、中から黒光りする武骨な大型拳銃が姿を現す。アズサが唾を飲み込んだ。


 改造自動拳銃「スティング・ビー」。軍用ライフルの機関部を無理矢理拳銃に改造した世界に一つの強力な銃だ。重く、また反動が大きく、正直言って扱いづらい。

 だがおやっさんはこれをいとも軽々と扱い、抜き撃ちは誰よりも速かった。滅多に抜きはしなかったが、抜いた時には一発必中だった。


「どうしてお亡くなりに?」


 おやっさんはこの街に巣食おうとしてた麻薬組織と戦い続けていたんだ。俺を拾う前から。

 ーー十三年前。

 麻薬密輸のメインルートをダミーの広告会社所有の飛行船だと見破った俺とおやっさんは、二人でその飛行船に潜入した。

 熾烈な戦いの末、組織の中枢を叩いたまでは良かったんだが、火災を起こした飛行船が街に墜落しかけてな。


 おやっさんは無理矢理俺を脱出させ、自分は飛行船を海へ導いて、飛行船の爆発に巻き込まれた。

 最後の最後にこの銃を俺に渡して、おやっさんは言った。

「預かってくれ。ゴン。俺が戻るまで。この街を頼んだぜ」ってな。


 別れ際には戻ると言われ、遺体も見つからなかったもんで、俺は今でも……どこかでおやっさんが生きてるような……いつかひょっこり帰って来るような感覚でいる。普通に考えたらそんなわけないんだが。


「探偵長……」


 ……見間違えるわけがねえ。

 この写真に写ったスーツの背中は、小さかった俺が、何度も背負われた親の背中だ。若かった俺が、必死で追い続けた男の背中だ。これが本物のおやっさんでも、幻か偽物でも、放っておくことはできない。

 この件は……俺が追う。


「え?じゃあリオちゃんの依頼は……表札捜しはどうするんですか?」


 お前がやるんだ。


「ははぁ、なるほど……え”っっっ⁉︎ わっ……わたしっっ⁉︎⁉︎」


 ネモ!


「にゃあ」


 裏技とやらの出番だ。人間に化けてアズサの捜査をサポートしろ。


 出窓で日向ぼっこをしていた黒猫はとと、と床に降りるとぼわん!と煙を吹く。煙が晴れるとそこにはパンツルックでハンチングを被った美女が立っていた。


「なあにナナゴン。ようやく美女モードをご所望かと思ったら、お嬢ちゃんの探偵ごっこの手伝いなの?」


 とかなんとか言いつつ、なんだその格好は。やる気満々じゃねえか。


「ふふ。一度やって見たかったのよねぇ探偵ごっこ。任せてダーリン。表札ドロなんてすぐに……」

「ごっこじゃないですよネモさん!依頼人は真剣なんですから!」

 アズサがネモに喰って掛かる。


「あら御免なさいアズサちゃん。人間のそういうのよく分からないの。何分あたしネコにゃもんで」

 ネモは一瞬ネコ耳とヒゲを出して戯けて見せる。

 アズサは毅然と言い返した。

「主任、と呼んで下さいネモさん!」

 俺も驚く程の気丈さでアズサは宣言する。

「七篠探偵長は私に捜査を、あなたに私のサポートを命じた。この件は私主導で捜査します」

 ネモは黙って肩を竦めた。


「任せて下さい探偵長。この七篠名前捜索事務所主任捜査員、橘アズサ。必ずリオちゃんのお家の表札を取り戻して見せますっっ‼︎


 じっちゃんの名に賭けて‼︎」


 ……待て。

 お前のじっちゃん何もんだ?




 ーーーーーーーーーーーーーー



 私の名前は橘アズサ。


 この街じゃちょっとは知られた名前捜索事務所の主任捜査員。

 はぐれた名前を捕まえて持ち主に返すのが私と探偵長・七篠権兵衛の仕事。

 ……なんだけど、今日の依頼は一味ディファレント。


 事務所を訪れたのは、お家の表札を盗まれた小さな女の子。

 なんでもその表札はお母さんの形見だとか。

 我らが人情探偵長は出まかせ並べて格安料金で依頼を快諾。

 うーん流石は私の想い人っ♡……なんて思ってたら一足違いで東署の西四寺警部から別の依頼が。


 不思議の街を脅かす連続人間透明化事件!

 しかも容疑者は13年前に死んだ筈の探偵長の育ての親⁉︎

 任せて下さい探偵長。表札の方はわたくしめが。

 表札だけに秒殺でこの橘アズサが見つけてご覧に入れます!


 え⁉︎ お供はネモさん? 私正直この人苦手なんだけど……。


 駄目駄目!負けないでアズサ!

 この悪魔で美人はあくまでサポート。でもって猫。デモンキャットが怖くてLINEチャットができますかっての!

 探偵長のお役に立って地道に株を上げるのよ!


 さあ!今日もポップでキュートな一日がサンバのリズムで私を迎えに来たわ‼︎




 ーーーーーーーーーーーーーー




「そうですか……娘がそんな事を……」

 訪れた円舞邸の主人、レム氏の優しそうな瞳に恐縮の影が差した。

「ご迷惑をお掛けして本当に申し訳ありません」


 いえ。本当に迷惑なら断っています。依頼料の多少で仕事を選ばないのが当事務所の方針です。

 リオちゃんの真剣な想いが、我々を動かしているのです。


「……ありがとうございます」


 早速ですが問題の表札が盗まれた前後の事をお聴きして宜しいでしょうか?


「はい。あれは六日前の朝でした……」




 ーーーーーーーーーーーーーー




「うーん……」


 一通り聴き取りを終え円舞邸を出た私は、腕を組んで空を見上げた。

 予想はしてたが大した収穫はない。


「さて、次はどうするの?主任捜査員さん」

 とネモさん。


 とりあえずリオちゃんの同級生の、同じく表札を盗まれたお家に行ってみましょう。


「あら。でもそのお家はどなたかに不幸か何かあったみたいで、お尋ねにはならない方がいいってあのナイスミドルが言ってたじゃない?」

 ピンポンは押しませんよ。お家の周りや取られた表札の跡を調べるだけです。あ、そうだ。西四寺警部にメールしとこ。


 捜査協力の件:

 表札泥棒の届け出はありませんか?連続人間透明化事件の手がかりになる可能性があります。情報は本件以外には利用せず守秘しますので届け出者と住所をお教え下さい。

 ……っと。


「連続人間透明化事件の手がかりになる可能性?」

 ゼロ、ではないでしょ?


 最後にもう一度、円舞邸の門柱を写真に撮る。

 表札の跡の空白のアップも。

 ん?なんだこのバーコードみたいな落書きは?製作工程の管理記号かな?一応撮影、と。よし。


 後ろでネモさんが欠伸と伸びをした。

 くぅ……だらしない仕草しても全くもって美人はキマるなぁ……。




 ーーーーーーーーーーーーーー




 二軒目の表札盗難被害邸、リオちゃんの同級生のお家だという根尾家は人けもなく静まり返っていた。


 成る程確かに門柱に表札がない。


 手がかりらしい手がかりも。

 あ、でもまた小さく線の本数少ないバーコードみたいな落書きが。建設業界共通の符丁かな?表札の位置用の。


「犯人は捕まりそうですか?主任」


 退屈に退屈を乗っけて握ったお寿司みたいな態度で、ネモさんが後ろから声を掛ける。

 さては飽きたな……この人。


 ……ネモさんの悪魔の力で、ぶわぁっとサイコメトリーとかできませんか?ここにいた犯人を、超能力で感じ取って突き止める!……みたいな。


「似たような事はできるわよ。ここが魔力に満ちた魔界ならね」


 じゃあ今は?


「この世界のことわりに反することをするには大きな魔力が要る。逆らう角度が急な程。幾何級数的にね」


 ……できないって事ですか?


「四文字で言うと、そうね」


(何この人めんどい)



 とかなんとか言ってる間にメール着信。西四寺警部からだ。


 件名:嘘つけ


 ……ばればれまるっとお見通し、か。

 あ、でも四軒分の表札盗難届けの写しが貼付されてる。

 ありがとうございます、警部。

 ……この住所の配置だと暗くなる前にもう二軒位回れるかな?


「あ。ねぇ、ちょっと寄り道していい?」


 トイレですか?


「人間じゃあるまいし。エネルギー交換の後にあたしが出すのは窒素と僅かな水だけよ」


(エコカーか、あんたは)


「この姿を保つ為に、これが要るの。そろそろ切れるから。補充しないと」

 ネモさんは一口分くらいの透明な液体が入ったペットボトルをちゃぽちゃぽ振った。


 ……コンビニでいいですか?


「コンビニに売ってたら便利なんだけど。魔力たっぷり地獄の泉の美味しい水が」


 じ、地獄の水?そんなものどこで……?


「決まってるじゃない。地獄、よ」


 ネモさんはそう言いながら、女の私が見ても惚れちゃいそうなくらい愛らしくウィンクした。




 ーーーーーーーーーーーーーー



 ここは……真理聖名教会?


 ネモさんに連れられて辿り着いた場所は、悪魔の骨からいかがわしい薬を造り、悪用していた新興宗教団体の施設だった。

 かつて私の弟がその薬で名前を失い、我らが七篠探偵長がその幹部達を倒して奪われた名前を取り戻してくれたのだ。

 以前、探偵長が悪魔の罠で地獄に落とされた時、生き残りの幹部「朱雀」にこの施設にある悪魔捕獲用の次元廻廊魔法陣で道を開かせ、探偵長を助けに行ったこともある。


 あ!そうか、つまり……。


「察しがいいわね。じゃあ水を汲んでくる。ちょっと待ってて」



 ……。


 なにしてんだろ、私。


 愛しの探偵長から任されたファースト初仕事なのに。


 悪魔猫美人と歩き回ってさして手がかりもなく。


 悪魔猫美人の水汲み待ち……。


 ああ……もう日が落ちる……。


 ん?……足音?……誰か来る!




 ああっっ⁉︎ あ、あなたは……‼︎




 つづく




 ーーーーーーーーーーーーー




 俺の名前は七篠権兵衛(ななしのごんべえ)。


 この街じゃちょっとは知られた「名前捜索人」だ。

 この不思議の街ではいつの頃からか人や物の名前が剥がれ名前の象徴する事物に姿を変えて、どこかに散歩するようになっちまった。


 俺の仕事は逃げた名前「名前獣」を捕まえて持ち主に返すこと。

 ま、ちょっと変わった探偵みたいなものと思ってくれればいい。


【カランコロンカラン♫】


 さあて仕事か。

 今日も危険でクールな一日が両手拡げてウィンクしながら俺を迎えに来たぜ。


 東署、西四寺警部からの依頼はこの不思議の街を脅かす連続人間透明化事件の調査。

 成る程確かに名前を失くしてこの世と因果が薄れた時の末期状態によく似ている。

 おまけに監視装置に残った容疑者の姿は死んだ筈の俺の育ての親。

 どうやら今回も一筋縄じゃ行かなそうだぜ。





 成る程……ここか。


 警部から借りた捜査資料の写しを頼りにこれまでの現場を周る。


 街の北西に位置するひと気のない交差点。

 写真を撮って、一回り周囲を歩き回って見る。

 特にこれと言って異常はない。

 ん?地面に細かな黒い粒子。

 これは……煤?ゴミでも燃やしたか?

 倒れた被害者の写真と現場を見比べ、被害者がやられる直前に立っていただろう場所に立つ。

 資料によると宝田マサハル、42歳、二児の父、か……。

 目を閉じて、事件当時の宝田マサハルの気持ちになってみる。

 夕方6時過ぎ。

 帰宅の途にあった子煩悩の会社員。


 何かに……或いは誰かに気づいて立ち止まる。

 口論しただろうか?抵抗は?それともそんな暇さえないほどに唐突で一瞬だったのか?

 黒い影が視界を覆う。

 仕事鞄がアスファルトに落ちる。

 次の瞬間倒れる被害者。

 徐々に頭の先から透明に……。


 俺は目を開けて現実の景色を見た。

 昼下がりの何の変哲もない路地。


 ……何故消えるんだ?姿が。

 名前喪失状態で姿が薄れて消えるのは、この世との因果が希薄になって存在そのものもまた希薄になるからだ。

 だが今回の被害者達は名前を失っていない。


 名前じゃなく……別の因果にまつわる何かを壊されたか奪われたのか?例えば「人の縁」とか。


 俺はふと思いついて、ジャケットのポケットから特別なルーペを取り出した。


「ホルス・グラス」。


 普段は逃げた名前を追うのに使う、因果の残滓を可視化する魔力のレンズだ。

 ルーペを覗いた俺は目を疑った。


「なんだ……これは⁉︎ 」


 被害者が倒れていた場所を中心に、生活道路の交差点一杯に、巨大なそれは描かれていた。

 文字……漢字か?大き過ぎてルーペじゃ全体像が……。

 俺は近くの塀をよじ登り上に立ち上がって交差点全体を視た。


「 人 」ーー。


 少し上下に潰れてはいるがそう読めた。ルーペを視界から外すと見えない……因果の塊をインクにして書かれたような巨大な字。

 これは……ただの連続傷害事件じゃねえ。恐らく何かの術……或いは儀式だ。

 待てよ……だとすると他の現場にも⁉︎



 中古の原付「ヴェスパ」を駆り、夕暮れの不思議の街を疾走する。


 街の北、北東、西……現場は街を囲むように円を描いて移動していた。何かを燃やした煤の跡、因果のインクの巨大な字。

 思った通り誰かがこの街全体を巻き込んで、何かデカイことをやろうとしている。

 しかもそれは間違いなくとんでもなく悪いこと、だ。


 書いてあった文字は「人」「一」「叩」「タ」……そして五つ目の現場に「口」。


 なんだこりゃ?意味が分からん。「人を一回叩いたろ」……?

 いや、そんな小学生の落書きレベルの事じゃない筈だ。

 それに街を囲むにはまだ半分……そうか‼︎


 俺は地図を取り出すと今までの現場にペンでX字を書いて行った。


 うわ……マジか?


 X字は実に正確にこの街全体に東西南北とその中間方位の八角形を描こうとしているようだった。

 ……ということは、今日は南区、南大橋の辺りか⁉︎

 くそ!間に合えっ‼︎


 唸りを上げる中古のヴェスパ。


 途中何台もサイレンを鳴らしたパトカーとすれ違う。

 胸騒ぎがする。

 とっぷり日の暮れた南大橋の袂には既に幾つものパトライトが明滅し、騒然とした空気の中、十数人の警官達が非常線を引いて交通整理に当たっていた。


 ……遅かったか‼︎


「七篠‼︎」


 野次馬に混じって現場を伺う俺を誰かが呼んだ。

「電話代をなんとかしろ。それでも社会人か?」


 ……警部。6人目の犠牲者ですね?


「ああ、ついさっき通報があってな。これまでと同じだ。どうしてここが分かった?」

 警部は非常線の中に俺を招いた。


 タレ込みです。それより現場を見せて下さい。


「タレ込み、ね。……まあいい。こっちだ」


 橋の袂の歩道に描かれた白チョークの人型。

 その憐れな犠牲者のシルエットを中心にその字はこれまで以上に大きく、またはっきりと書かれていた。投光器に滲む闇に仄かに輝いて。




「 死 」






 つづく




 ーーーーーーーーーーーーーー



 私の名前は橘アズサ。


 この街じゃちょっとは知られた名前捜索事務所の主任捜査員。

 はぐれた名前を捕まえて持ち主に返すのが私と探偵長・七篠権兵衛の仕事。

 ……なんだけど、今回当事務所は同時に2件の依頼が入って大忙し。


 東署、西四寺警部からの連続人間透明化事件の調査依頼と同時に、母の形見の手作り表札を探して欲しいという少女の依頼。

 そして連続人間透明化事件を探偵長が、盗難表札追跡を主任捜査員の私が受け持つことになったの。

 社会的分業ね。アピールのチャンスよアズサ!


 お目付役兼ボディガードは悪魔で猫で今は美人の探偵長の使い魔、ネモさん。

 だからって物怖じしてちゃ探偵長の隣にはいられないわ!

 ここは私が仕切りますから!……って魔界の水がいる?人の姿の維持の為?地獄へ水を汲みに?一体どこから?


 やって来ました思い出の地、真理聖名教会。

 あー、まだ何軒も現場回ってないのに……。悪魔猫人間の水汲み待ってる私って一体……。


 ん?足音?閉鎖された宗教施設に?誰だろ……?


 ああっっ!あなたはっっ⁉︎⁉︎




 ーーーーーーーーーーーーーー





「名前悪用教団四天王!朱雀‼︎」


 私は彼の名前を叫ぶと咄嗟に天地魔闘の構えを取った。

 勿論こけおどしだ。

 ネモさんが帰って来るまで一瞬でも時間が稼げれば、と。


「真理聖名教会です。ネームハンターのアシスタント、橘アズサさん」


 彼は白いローブのフードを脱いだ。シルバーブロンドの髪がさらさらと流れ、女性と見紛う端正な顔が黄昏の風景に妖しく映えた。


 なにをしてるの!こんなところで!


「あなたこそ。この地所は私有地で、今は僕の名義です。施設の管理責任も僕にある。何もなくても、こうして時々見廻りに来ているんですよ」


 嘘ね!


 根拠はないが直感でそう叫んだ。朱雀の顔が一瞬曇る。が、すぐに切れ長の眼は元の冷淡な光を取り戻した。


「まあ気に入らないと言うなら今日は帰りましょう。行くぞ」


 朱雀の後ろをデニム、ダウンジャケットで長い荷物を担いだ小さな男の子が付いて歩いている。歳の頃は六、七歳。目深にキャップを被っていて顔は見えなかった。


「知り合いを警察に突き出すのも後味が悪いので今回は見逃しますか、不法侵入も犯罪です。早く出て行ってもう来ないように。次は通報します」


 ……その子は誰?


「ああ、元信者の子供を預かる事になりましてね」


 ……それも嘘。


 これも当てずっぽうだが効果はあった。

 ピクリ、と眉を動かした朱雀は、何も言わずに踵を返すと、小さな子供を引き連れて夕暮れの街並み消えて行った。


 彼の姿が完全に見えなくなったのを確認して、天地魔闘の構えを解く。


 ……な、なんか疲れた。

 あいつ……何か企んでるんだわ。ここに来たってことは、地獄か、悪魔の何かを利用するつもり。で、恐らくキーになるのはあの……。


「お待たせっ!」


 わ‼︎び、びっくりしたぁ!

 あれ?なんかネモさんツヤツヤですね?


「わかる?」


 ネモさんはお風呂上がりかのように上気したツヤツヤの肌でうっとりした表情を浮かべた。

「やっぱりいいわぁ地獄。この教会がナナゴンの事務所にならないかしら」


 地獄と直通の職場なんて嫌です。

 ほら、急いで。今日中にあと二軒回りますよ。


 移動は徒歩。すっかり暗くなった不思議の街を地獄の水持った悪魔美人と歩く。


 あー……なんかお腹空いたし喉乾いたなぁ……。


 道すがらの自販機で買ったお茶を飲んでいると、ネモさんが後ろから話し掛けて来た。

「アズサちゃんてさあ……ナナゴンのこと好きなんでしょ?」


 ブフォォッ‼︎

 げほっげほっ……!

 は……はい?


「だから七篠探偵長の事よ。どう好きなわけ?」


 え?え?え?……え⁉︎

 ど、どうって……その……!


 ネモさん前に回り込んで私を正面から見た。


「親のように慕ってるのか、兄のように頼ってるのか、友達になりたいのか、部下として認められたいのか……」


 えーと、えーと、その……つまり……?


「それとも七篠権兵衛の子を産みたいのか」


 ……‼︎


 子ッッ⁉︎ってあんた探偵長の子を産むって事はつまり、私と、た、探偵長が……。


 ストップ!ザ・妄想‼︎

 危ない危ない。流石はあくまで悪魔。能く人心を惑わす。そ、その手に乗るもんですか!


 ネモさんはどうなんです⁉︎ 探偵長としっかりはっきり最終どうなりたいんですか⁉︎


「あたし?」


 そうです!悪魔と人間が夫婦になれると思ってるんですか?そんなの聞いたことがありません。


「この前ちらっと本人には言ったんだけど……」


 な……なんて?


「私、ナナゴンを悪魔にしちゃいたいのよ」


 へぇ、そんなことができ……えええ⁉︎


「私あの人をそばで見ていたいの。ずうっと。でも人間の寿命なんてせいぜい百年。けどナナゴンが悪魔になれば形而上の永遠を共有できる。私たち二人の存在の確率が形作る一つの雲として、ね」


 ……意味が良くわかりません。


「でもそうしちゃいけない気もするの。悪魔になって永遠を生きたら、あの人はあの人らしさを失って、全く別の人のようになるかも知れない。それじゃあ意味がない」


 ……それはなんとなくわかります。残ったご飯をほかほかの内になんとか食べた方がいいか?風味が落ちても冷凍するか?ってことでしょ?


「……まあね」


(ほんとは違うけど妥協された⁉︎)


「だからあなたに訊いたのよ。似たような寿命の人間は好きになった相手とどうなりたいのか」


 私は……とりあえず今のままがいいです。今私……今まで生きて来た中で一番幸せで、一番充実してますから。


 急にネモさんが酷く哀しそうな顔をした。いつも余裕な彼女の、それは初めて見せた表情だった。そしてその熟れた果実のような唇が、小さく何か言葉を刻んだようだった。


 え?なんです?


「なんでもないわ」


 答えたネモさんはもういつもどおりのネモさんだった。


 あ!ほら、このお家ですよ!


 どこか気まずい空気を追い払うように私はわざと元気に言った。ここにもあの三本バーコードみたいのあるかな?ひょい、と表札をめくって見る。


 ……あれ?ない!バーコード模様!


「バカね。もう一軒先よ。表札あるじゃない」


 ……ばかって言う奴がばかだもん!

 あ、ほんとだ。お隣に普通にあったわ。模様。

 私は一軒先に移動すると表札の跡の三本線バーコード模様を写真に撮ろうと……あれ?

 さっきのお家間違って表札めくったけど、こんな模様なかったな。

 念の為もっかい確認。……やはり、ない!


 近所のお家の表札を片っ端からめくる。ない!ない!これもない!ここもない!ここはっ……柱にくっついてて取れない。


 けどどうやら間違いない。

 この三本線バーコード模様は、表札泥棒が書いた何かの合図か、暗号だわ!


 ……そうと分かれば!


 私はスマホで写真加工アプリを立ち上げると、一番アップのバーコード模様の写真を選択、コントラストを極限まで強くして、模様以外を白く飛ばした。


 ネモさんが興味津々といった様子で尋ねて来た。

「なにする気?」


 私は魔法は使えませんが……。


 充分に発達した科学が私に味方します。そして、時としてそれはーー


 検索アプリを立ち上げ写真フォルダからバーコード模様だけになった写真を選択。


 ーー魔法と区別が付かない!


 画像検索をタッチする。

 スマホの画面に類似画像候補が続々と表示され始めた。




 つづく



 ーーーーーーーーーーーーーー




 夕闇は零れたコーヒーのように瞬く間に街に染み込む。


 俺は街の西南に位置するそのポイントで刻を待っていた。


 これまでに起きた六件の連続人間透明化事件。

 現場が描く正八角形の、ここが七つ目の点だ。

 事件は決まって夕方18時前後に起きている。

 時計を見ると17時51分。

 何か起きるとすればそろそろだ。


 俺は煙草を携帯灰皿にねじ込むと、ポケットの携帯電話型スタンガンを確かめた。

 できれば穏便に済ませたい。

 相手が、例えば……例えば本当におやっさんだったとしたら、どっちみち俺が何をしたって敵いっこない。

 だがもし偽物なら?本物か偽物か区別ができなかったら?


 どうするかの結論は出ないまま、時計の針は淡々と18時を回った。


 かつん、かつん、かつん……。


 足音。顔を上げる。


 かつん、かつん、かつん……。


 ぐったりした小さな子供を肩に担いで、そいつは夜の闇から現れた。


 かつん、かつん、かっ。


 切れかけて明滅する街灯の光が作る円錐の中、男は立ち止まる。


 その男の姿を見た瞬間、俺は稲妻に撃たれたような衝撃を受けた。

 左右非対称な模様の入ったモノトーンのスーツ。

 揃いのソフト帽。

 完璧に手入れされたアルパアルジムのストレートチップの靴。


 息が止まる。身動きできない。


 男は言った。


「暫くだな。ゴン」


「あ……あんたは……いや!そんなはずは……」


「育ての親をあんた呼ばわりか?偉くなったな。え?ゴンよ」


 落ち着いた張りのある声。

 凄みと悲しみを同居させる眼差し。


 男はゆっくりした動作で担いでいた子供を降ろして脇に寝かせた。

 六、七歳位の男の子。誰だ?いや、そんなことより……!

 眼の前のこいつは!この人は‼︎


 瞬間催眠術の使い手。

 二丁拳銃の達人。

 久田晴探偵事務所の所長にして俺の育ての親。

 名前の無かった俺の……「七篠権兵衛」の名付け親。

 13年前に死んだ筈の俺の命の恩人。天涯孤独な俺が唯一、「家族」と呼べる人物。


「おやっさん……」


 懐かしさ、懐疑の念、怒り、哀しみ、喜びと不安。ない混ぜになった感情が俺の胸に溢れ、詰まる。


「死人も意外に悪くない」

 おやっさんはスーツの居住まいを正す。

「生者よりずっと自由だ。身体もそうだが心が、な」


 ……今まで何をしてたんだよ。


「言ったろ?死んでいたさ」


 何をしようってんだ?怪しげな儀式で、この街を巻き込んで。


「復讐だ」


 復讐……?


「この街へのな。俺が命を懸けて護ったってのに、街は俺に感謝も敬意も何もない。家族を捨て命を捨てて街に尽くした。なんだったんだ?俺の戦いは。なんだったんだ?俺の人生は。なんだったんだ?俺の……死は」


 何言ってんだよおやっさん。死んで耄碌したのか⁉︎

 それでも街を護ろうそれでも街の為に戦おうってのが、俺たちの合言葉だったろ‼︎ 人も知らず世も知らず、されど確かに悪を討つ。

 それがおやっさんの選んだ道だったろ‼︎


「虚しくなった。全てがな。何度も街を救った俺だ。一度位この街をぶっ壊す権利があるだろ?」


【じじじ……】


 手にした小さな炎に照らされ幻のようにもう一人子供が現れる。

 肩に大人の背丈程の巨大な筆。

 手の炎は……何か小さな木片を燃やしているようだ。

 筆……?まさか、あいつ!


 子供は老人のようなシワだらけの笑みを浮かべると燃える木片を地面に落とした。


 何をする気だ……おやっさん‼︎


「復讐だと言ったろ。当たるも八卦当たらぬも八卦、当てずっぽうでも言ってみろ。俺がこの街に何をしようとしてるのか」


 ……あんたはおやっさんじゃねえ。おやっさんである筈がねえ!

 おやっさんは、俺の知ってるおやっさんは……!


 おやっさんの後ろで、筆の子供が倒れた子供に筆を突き刺す。

 筆先がまるで水に沈むように倒れた子供の胸に沈んだ。

 筆の子供は消し炭になった木片を踏み砕き炭の粉にすると、倒れた子供から抜いた筆先でその粉を混ぜるように撫で回した。


 あれは……因果を抜いたのか⁉︎


「ハズレだな。やはり百段階段のおばばのようには行かんか。道教易学のイロハでも教えて貰ってはどうだ?ネームハンター」


 ……儀式は、完成させねえ。


「ゴン。もしお前が俺の思った通りの男ならーー」


 ソフト帽から僅かに覘く双眸から殺気を帯びた視線が刺さる。


「止めてみろ。俺を殺して」


 おやっさんが左足を半歩引いて俺に対して半身になる。

 どこまでも自然にただ立って居るだけのように見えるがこれは、おやっさんが本気の時の構えだ。


 左脇に吊った特殊音響銃ハウリング・ビー。

 腰の後ろに固定した改造銃スティング・ビー。

 おやっさんはあの姿勢からどちらでも0.2秒のモーションで射撃できる。

 5メートルの距離を詰めてスタンガンをぶち当てるのは到底間に合わない。

 動けば、一撃は必ず受ける。


 だが今のおやっさんには音響銃しかない。

 攻撃は瞬間催眠術ヒュプノ・スラップ。

 向こうの手の内は読めている。

 一方おやっさんは俺がスタンガンを持つことを知らない。

 つまり勝負は、初手のおやっさんの術をかい潜り後手の俺が接近戦に持ち込めるかどうか、に掛かっている。

 ヒュプノ・スラップはハウリング・ビーを撃つ前……催眠導入が肝だ。

 音響弾は最後の仕上げに過ぎない。

 催眠が来ると分かっているなら、その催眠導入さえ躱せばーー。


「催眠導入さえ躱せばなんとかなるって考えてるようなツラだな」


 目元は帽子に隠れて見えない。

 だが口元は笑っていた。


「こうなることを、俺が予想しないでいたと思うのか?見ろ。俺のスーツの模様は、もうーー」


 ヤバい!言葉を聴いては駄目だ!スーツを見ては駄目だ!解っている!解っているのに……!


「ーー揺れて、動いているだろう?」


 街灯の光の中。

 左右非対称のスーツの模様が揺れ、動き始める。

 黒い染め抜きが生き物のように蠢き、白いスーツのシルエットの中を縦横に滑り、魚のように泳ぎ、鳥のよう羽ばたき、左右対称の模様になり、やがて規則正しい正確な格子模様になった。


 反対に、おやっさん以外の風景が、街の景色が、世界が秩序を失って歪み始めた。

 対称は対称を失い、あらゆる事物は色や匂いや温度を失い、混沌としたセピア色の靄となって視界全体に激しく渦巻く。

 その崩れ混ざる世界の中、おやっさんだけが姿を保って立っていた。


 それでも俺は当初の作戦を実行しようとスタンガンを握り、おやっさんに駆け寄ろうとした。

 踏み出したその一歩目が地面に着く直前に俺は見た。


 さっきまで自然体で立っていたおやっさんが既に銃を構えているのを。


 銃身が、その先端の銃口が完璧に俺を捉えているのを。


 凍りつく時間の中、見える筈のない弾丸の飛翔を俺は見た。

 撃発の閃光。

 拡がる硝煙。

 火花を散らして銃口から滑り出す赤銅の弾頭。

 その弾頭に刻まれた空力音響溝が、ライフリングによる回転と飛翔とで空気を切り裂き、女の悲鳴のような甲高い音を発した。


「きゃぁぁぁぁぁぁ……っっ‼︎」


 どん、と俺の右足がようやく地面に着く。

 だがその足が履いていたのは履き古した革靴じゃなく、昔流行ったスポーツメーカーのスニーカーだった。


 え?と辺りを見回す。


 セピア色の街。

 見慣れた不思議の街。

 だが違う。これは二十年以上前の、俺がガキの頃の街並みだ。


「ゴン!」

 振り返るとおやっさんが立っている。


「なにしてる。メシが炊けたぞ。帰って来い」


 幼い俺は頷くとおやっさんの隣に駆け寄りその手を取る。

 ごわごわした暖かい、大きな手。

 歩きながら見上げたおやっさんは俺の視線に視線を返し、穏やかに微笑む。


 すると急にそのシーンが四角い枠に切り取られ、遠ざかった。


 手を繋いで歩く二人を映す画面が、暗闇の中に小さくなってゆく。

 一旦見えなくなったそれは、しかし間を置かずに戻って来た。

 沢山の、数え切れない程の同じようなセピア色の思い出のシーンを引き連れて。


 安いビニールプールで水遊びする俺とビールを煽るおやっさん。


 近所のガキとのケンカに負けて、泣きながら傷だらけでおやっさんの背中に背負われる俺。


 ケンカの仕方を教わり、おやっさんの蹴りや突きに必死でついて行こうとする俺。


 路地裏で尾行対象を伺う俺たち。


 初めて飲んだ酒にむせる俺を、心から可笑しそうに笑うおやっさん。


 川原で射撃を教わる俺は、スティング・ビーの反動でひっくり返って尻餅を突く。


 二手に分かれて犯人を追う俺たち。事件が解決して祝杯を上げる俺たち。


 俺、おやっさん、俺たち、俺、俺たち……。



 俺は泣いていた。



 やめろ……もうやめてくれ!

 なんでこんなものを俺に視せる⁉︎



 思い出の画面の増殖は止まらない。

 溢れるセピア色のシーンの洪水は、闇の中しゃがみ込むちっぽけな俺を飲み込み、押し流そうとした。


 駄目だ!やられる‼︎


 俺は咄嗟に手のスタンガンを自分の首筋に押し当てると、迷わずそのトリガーを引いた。


 バシッッッ‼︎‼︎


 首を千切るような鮮烈な痛み。

 光と闇。

 空気の匂いと遠くに聞こえるいつもの街の騒音。

 倒れ込むアスファルトのザラ付きと硬さ。


「スタンガンか。やるなゴン。ヒュプノ・スラップを自力で破るとは」


 催眠が紡ぎ出す幻覚からは脱したものの、俺はもう指一本動かすこともできなかった。


「この件からは手を引け。次は殺す。忘れるな。俺を止める手段はたった一つしかない」


 おやっさんはくるり、と俺に背を向けた。


「そして今のお前には、それができない」


 遠のく意識の中、遠ざかる革靴の足音。嘲るような子供の笑い声。


 声を出す為に息を吸い込もうとしたが上手くできず、俺はそのまま、意識を失った。




 つづく



 ーーーーーーーーーーーーーー





 俺の名前は七篠権兵衛(ななしのごんべえ)。



 この街じゃちょっとは知られた「名前捜索人」だ。


 この不思議の街ではいつの頃からか人や物の名前が剥がれ名前の象徴する事物に姿を変えて、どこかに散歩するようになっちまった。


 俺の仕事は逃げた名前「名前獣」を捕まえて持ち主に返すこと。

 ま、ちょっと変わった探偵みたいなものと思ってくれればいい。


 今回の依頼はこの街を脅かす連続人間透明化事件の調査。

 調べを進めるうちに俺は何者かがこの街全体を邪悪な儀式に巻き込むつもりだと知る。


 謎の儀式を止めようと奔走する俺の前に、その人物が立ちはだかる。

 13年前に死んだ筈の俺の育ての親、久田晴尽蜂。

 戦いを挑んだ俺はおやっさんの瞬間催眠術に叩きのめされ、指一本動かす力も失くして意識を失ったーー。




 ーーーーーーーーーーーーーー




 薬っぽい匂い。

 糊の効いたシーツの感触。

 目を開けると白塗りの天井。

 賃貸事務所の二階じゃない。


「あ、気がつきましたか」


 茶髪の小柄な看護婦には見憶えがある。

 第一東西病院。

「だいいちひがしにしびょういん」と読むその病院名は捻くれた医院長のセンスの賜物だ。


「おはよう七篠君。気分はどうだい」


 現れた短髪眼鏡痩身長身の白衣の男は、これ見よがしに爽やかな笑顔でそう言った。


 ……おはようドクター。気分は……。


 その時俺の脳裏に気絶する直前の事が断続的にフラッシュバックした。


 ドクター!今日は何月何日だ⁉︎


 食って掛かった俺に一旦は驚いたドクターだったが、すぐ何かを思いつくと一人で納得した。


「ああ、今回はそういう。今日は2014年1月27日。午後3時12分だ。

 時間移動だね?君はいつの七篠君で、この時間軸は何回目……」

 ああもう面倒くせえなあこいつ。


 ……時計塔は無事か⁉︎


「ああ、さっきいつも通り三時の時報鐘が……」


 そうか!ならまだ間に合う筈!すまねえドクター、付けといてくれ!


「心配無用だ。診療代は領収済みだから。この街を。いや、この時空を護ってくれ!ネームハンター‼︎」


 へいへい。


 咄嗟にドクターに調子を合わせ、病院を飛び出した俺。


「七篠!」


 病院の前で覆面パトカーから降りて来た西四寺警部と鉢合わせた。


「担ぎこまれたと聞いたがピンピンしてるな、一体何が……」


 ……渡りに船だ!


 警部すいません!昨日俺と透明子供が倒れていた現場に連れて行ってくれ!

「お前、身体は……」

 いいから早く!この街全部がヤバイんだ‼︎

「……分かった。乗れ七篠」


 唸るエンジン。

 ホイールスピンのスキール音。

 響くサイレンの音を残してパトカーは飛び出した。



 ーーーーーーーーーーーーーー



 現場についてルーペを覗く。


「之」


 ……今までの文字は「人」「一」「叩」「夕」「口」「死」…そして今回の「之」。


 なんなんだよこれは?おやっさん……。

 あんた本当にこの街をぶっ壊すつもりなのか……?


( 当たるも八卦当たらぬも八卦。当てずっぽうでも言ってみろ。俺がこの街に何をしようとしてるのか…… )


 昨日のおやっさんの言葉が脳裏に蘇る。


( ハズレだな。やはり百段階段のおばばのようにはいかんか。道教易学のイロハでも教わったらどうだ?ネームハンター)


 待てよ……「八卦」?


 八角形の現場……。

 道教……易学……。


(百段階段のおばばのようには……道教易学のイロハでも教わったら……)


 そういうことか……おやっさん。


 百段階段のおばば……坤道太母に相談しろと。

 この儀式は八卦の術。

 道教に通じた太母なら正体を知ってるんだな!


 ありがとうございます警部。

 ここからは俺一人で大丈夫です。


「説明しろ七篠。俺には何がなんだか……」


 俺はペンで地図に丸を付けて警部に渡した。


 次の現場はここ。

 犯行時刻は夕方6時前後。

 犯人はモノトーンのスーツの男で大きな筆を持った子供を連れてます。


 検問を敷いて現場には非常線を張って下さい。

 犯人には格闘技の心得があり、おまけに瞬間催眠術を使います。

 現場の捜査員には術に掛からないよう一応注意を。


「……信じていいんだな?」


 俺自身、信じたくないですが。事実です。


「分かった。お前はどうする?」


 街の破壊を防ぐ心当たりがあります。そっちに寄ってから現場に向かいます。


「了解だ。18時なら時間がない。俺が行く以上犯人の好きにさせるつもりはないが……急げよ、ネームハンター」


 俺は黙って頷くと放置されていたヴェスパに跨り、エンジンを掛けた。


 昼下がりの不思議の街を矢のように駆け抜けながら、俺の頭はある疑問で一杯だった。


 何故なんだおやっさん……。

 何故街をぶっ壊すような儀式の準備を進めながら、俺にそれを防ぐヒントを出したりするんだ?

 どういうつもりなんだよ!おやっさん‼︎


 そしてふとまた、脳裏におやっさんの言葉が蘇った。


「ゴン。もしお前が俺の思った通りの男ならーー止めてみろ。俺を殺して」




 つづく



 ーーーーーーーーーーーーーー




 俺の名前は七篠権兵衛(ななしのごんべえ)。


 この街じゃちょっとは知られた「名前捜索人」だ。

 この不思議の街ではいつの頃からか人や物の名前が剥がれ名前の象徴する事物に姿を変えて、どこかに散歩するようになっちまった。


 俺の仕事は逃げた名前「名前獣」を捕まえて持ち主に返すこと。ま、ちょっと変わった探偵みたいなものと思ってくれればいい。


 今回の依頼はこの街を脅かす連続人間透明化事件の調査。

 調べを進めるうちに俺は何者かがこの街全体を邪悪な儀式に巻き込むつもりだと知る。


 謎の儀式を止めようとする俺の前に立ちはだかる13年前に死んだ筈の俺の育ての親、久田晴尽蜂。

 戦いを挑んだ俺はおやっさんに叩きのめされ、気が付いた時は病院のベッドの上。

 だがおやっさんの言葉が事件解決のヒントだと気付いた俺はその示す場所へとひた走るーー。




 ーーーーーーーーーーーーーー





 東区の百段階段。


 その近くの入り組んだ路地の奥に近隣の住民にすら殆ど知られていない占い師の店がある。

 大陸に古くから伝わる「易経」に基づく占術を修めた主人の老婆は、知る人ぞ知るカリスマ占い師であると同時に、この街の大陸系の住民の相談役で元締めでもあった。


 人一人がギリギリ抜けられる路地の、更に室外機や錆びた雨樋のパイプやを避けながら、俺はようやくその占いの館に辿りついた。

 八角形のマークが描かれた朱色の提灯が、昼なお暗い路地裏に煌煌と輝く。

 焚きこめられた香の煙が提灯の灯りに仄かに朱に染まってたなびく。


 あれ?先客だ。珍しいな、おやっさんと何度か来たことがあったが、先客がいたことなんて……しかも女が二人。


「あれっ? 探偵長⁉︎」


 アズサ⁉︎……ってことはもう一人は。


「あらナナゴン。捜査に詰まって占い頼り?」


 ぐっ。当たらずと言えど遠くねぇな。

 お前たちは?表札探しはどうした?


「色々ありまして。これです!」

 スマホの画面に三本の直線からなる記号のようなものが写っている。


 ……これは?


「連続表札盗難事件の現場に残された落書きです。画像検索したらどうやら八卦の八つの基本図象みたいで」


「八卦のことならここのケンドウタイボって方がその道の権威とかで」


 コンドウタイボ、だろ坤道太母。

 悪いが俺に座を譲ってくれ。この街全体の危機なんだ。


「またそんな大袈裟言って……部下に事件解決の先を越されるのが嫌で割り込む気ですねっ」


 あのな……お前の中で俺はどんだけ小っさい野郎なんだよ。本当だ嘘じゃねえ!こうしてる間にも恐ろしい秘術がこの街の全てを……。


「恐ろしい秘術?いやですよ探偵長。Twitter企画のついのべモドキじゃあるまいし」


 アズサ。そこをどけ。さもないと……。


『 や め な ガ キ ど も ‼︎ 』



 頭のてっぺんからケツの穴まで抜けるような大声が、店の奥から俺たちを撃った。


『店先で揉められちゃ営業妨害じゃ‼︎ 入るか帰るかどっちかにしな‼︎』


 ……邪魔するぜ。おばば。久しぶりだな。


「久田晴んとこの小僧かい。図体だけでかくなって。礼儀知らずは相変わらずかね」


 おばば。この街がヤバイ。おやっさんが……久田晴尽蜂が何をしようとしてるのか知りたい。


「ふん。そんなことだろうと思ったよ。嬢ちゃん達も入っておいで。こいつと同じ用件じゃろ」


「へ?私たちまだ用件なんて……」

 アズサは不思議そうな顔をする。おばばはひゅっひゅっと笑った。


「同じ用件じゃ。さっさと話さんかいゴン坊。わしゃ忙しいんじゃ。6時からひひ孫とチャットの約束があるでな」

 おばばは弛んで閉じっぱなしの瞼を少しだけ開けた。



 ーーーーーーーーーーーーーー



「ひゅっ、ひゅっ」


 俺の説明を一通り聴き終えたおばばは、息を漏らすように笑った。


「こいつはとんでもないことを考えよる」


 とんでもないことってなんだ?おやっさんは何をしようとしてるんだ?


「『八卦命名陣』。……古い術じゃ」


 おばばはキセルを一息吸うと続けた。


「そもそもは皇太子が生まれた折、その命名に健康と覇道の安定の祈願を込める儀式じゃ。付けられた名の通りになるように」


 ……名前の通りに。


「徳の高い道士八人が赤児の八方に立ち、順番に自らの名を書いた紙を燃やして作った炭を筆に取り、一文字ずつを献上する」


 おばばはキセルからぷかりと煙の塊を出す。


「おぬしはそれを目の当たりにしたじゃろ」


 確かに何かを燃やして巨大な筆で……でも赤児なんてどこに?


「名前を付ける相手は赤児じゃあない。こやつらが名前を付けようとしてるのはもっと大きなものじゃ。とても大きくて今は名前の無いものーー」


 ……まさか‼︎

 この街に……名前を付けようってのか!


「街に名前を付けるなら、名前を書いた紙じゃ法力が足りない。もっと大きな、存在に力のあるものの名前札が必要じゃ」


 だから家の表札を。おばば、じゃあ現場に残されたあの文字は?


「事件の順に字を並べて見よ」


 人一叩夕口死之


 ……だからこれがなんなんだよ!


「縦に並べるんじゃ。漢字まで横書きとは情けない。西洋にすっかり毒されおって」


 ……縦に?


 人

 一

 叩


 夕

 口


 ……「 命 名 」?



 死


 之


「死之、ともう一文字を名付ける名前にするつもりじゃな。なんという字かは分からんが……」


 ……『 街 』だ。


「なんじゃと?」


 命名、死之街。

 おやっさんは名前の無いこの街に死之街って名を付けるつもりだ。

 何が起こるんだ?街の名がそうなったら。


「正しき作法に則った古き術は強い強い力を持つ。聞けばそやつらは何かの方法で濃い因果を文字に込めておる。術が完成すれば、死之街という新たな名前は速やかに街そのものに影響を及ぼすじゃろう。即ちーー理由のない突然の死が、この街を満たす」


 おばばはキセルに息を吹き込む。煙草玉が赤く焼けた。


「貴族、役人、商人やその飼い猫、どぶの鼠や小さな虫に至るまで。恐らく明日の夜明けを拝める命は、一つとしてあるまい」


 ……防ぐ手立ては?


「本来、字を献上するのは燃やした名前札の道士。だが今回は盗んだ表札の家の住人を無理矢理、生け贄にしとるようじゃ」


 なに……?


「八卦の卦は象徴する方角と暗示する人格を持つ。街を飲み込む今回の八卦命名陣の最後に残った方角は西。象徴する卦は兌(ダ)。暗示する人格は少女」


 表札を盗まれた家の……少女、だと⁉︎


「その子を護れ。さもなくばこの街はーー」


 おばばはキセルをカッ!と灰皿に打ち付けた。


「 ーー 死ぬ 」




 ーーーーーーーーーーーーーー




 俺の名前は七篠権兵衛(ななしのごんべえ)。


 この街じゃちょっとは知られた「名前捜索人」だ。

 この不思議の街ではいつの頃からか人や物の名前が剥がれ名前の象徴する事物に姿を変えて、どこかに散歩するようになっちまった。


 俺の仕事は逃げた名前「名前獣」を捕まえて持ち主に返すこと。ま、ちょっと変わった探偵みたいなものと思ってくれればいい。


 今回の依頼はこの街を脅かす連続人間透明化事件の調査。

 調べを進めるうちに俺は何者かがこの街全体を邪悪な儀式に巻き込むつもりだと知る。

 敵として俺を叩きのめした育ての親、おやっさんの言葉をヒントに八卦占術の大家、百段階段のおばばを訪ねた俺は、連続表札盗難事件を追っていたアズサ、ネモに出会う。

 二つの事件は繋がっていたのだ。


 敵は表札から作った炭と生け贄から抜き出した因果の力とを利用し、この街を死の街にする儀式を完成させようとしていた。

 残る方位は西の一箇所。生け贄にされるのはもう一人の依頼人、円舞リオ。

 おやっさん。

 悪いがそれだけはさせられねえ。必要なら、俺は、あんたを……!




 ーーーーーーーーーーーーーー



 事務所の時計の針は五時半を回った。


 俺は一人事務所のデスクの椅子に掛け、眼を閉じていた。


 これまでのこと。

 これからのこと。


 おやっさん。

 アズサにネモ。

 円舞リオ。西四寺警部。

 おばばを始めとするこの街のユニークな住人たち。

 そして……俺自身。



 俺は眼を開けた。



 もう、迷わない。


 金庫のダイヤルを回し、黄色い油紙の包みを出す。

 丁寧に中身を取り出し、装弾する。

 コッキングレバーを引いて初弾を薬室に装填する。

 そしてかつておやっさんがそうしていたように特製ホルスターで腰の後ろに取り付けた。


 立ち上がり、姿見の鏡の前に立つ。


 思い切り速く、銃を抜いて構えてみる。


 到底おやっさんの領域には及ばない。


 だが、逃げるわけには行かない。


 俺はーー。





 ーーおやっさんを、倒す。






 ーーーーーーーーーーーーーー




 俺たちが現場に着いた時、辺りは奇妙に静まり返っていた。


 ケントルム駅から少し離れた再開発予定地区。


 何年か前にこの街に高速鉄道の駅を誘致する計画が持ち上がり、用地買収が進んだ。

 しかし結局高速鉄道計画そのものが頓挫し、その土地は何年も空き地のままだ。

 その忘れられた空間に広がる異様な光景。


 サイレンを鳴らさず、くるくると回転灯だけを回すパトカー。

 様々な姿勢で固まったまま凍りついたように動かない警官達。


 西四寺警部……。


 警部は銃を構えて虚空を睨み付けたまま固まっていた。

 瞬間催眠術の術中に完全に堕ちる最後の瞬間まで警部は抵抗したのだ。


 多数のマネキンを使ったモダンアートのような景色の中、スーツに帽子のそのシルエットだけは動き、こちらへゆっくりと振り返った。


「待っていたぞ。ネームハンター」


 夕陽と夕闇の狭間。

 セピアに染まる街の、忘れられた空間。


 忘れられた男と、その男を忘れられない男が対峙する。

 交差する視線に互いへの静かな殺意を確かに載せて。


 街を護る虚しさに、護った街への破壊衝動を抱く男。

 虚しいものと知りながら、それでも街を護ろうとする男。


 功罪の天秤を誰が公平に計ることができるだろう。

 どちらが真に正義なのか。

 誰に決めることができるだろう。

 ただ一つはっきりしていることがある。

 数分の後、どちらかが果てるということだ。


 おやっさんの後ろに倒れているのはもう一人の依頼人、円舞リオ。

 そしておやっさんの背後からもう一人、巨大な筆を持った子供がひょこっと顔を出した。


「あいつは!」


 声を上げたのはネモだ。

 知り合いか?


「あいつはメメントゥ。記憶の悪魔よ。人間の記憶を食べ、記憶を弄び、記憶を具現化する」


 珍しくネモが嫌悪の表情を浮かべる。


 記憶を……具現化する?


「そう。対象にゆかりのあるものを媒介にして。これで解った。あなたの育ての親が生き返ったのも間違いなくあいつの仕業だわ。儀式の文字の材料はきっと表札の炭と住人の記憶。考えたわね。それならこの街と、そこに住む者に対してとても強い因果を発揮する」


 ゆかりのある媒介……。


「それは具現化するものによるわ。食べ物ならそれが乗っていた皿。動物なら毛皮や角。死んだ人間なら遺骨か、近しい縁のある別の人間」


 ……正体はこの際どうでもいい。

 それがなんであろうと、やることは一つだ。


「答えは出たようだな」


 朗々と俺に呼び掛けたおやっさんは、心なしか楽しそうに見えた。


「ボクが舞台を整えてあげるよ」


 手にした木の板ーー恐らく円舞家の表札ーーを弄んでいた子供の姿の悪魔はポケットから小さな玩具を取り出した。


 楕円のあれは、模型?

 あの形は!……忘れるものか。

 俺とおやっさんが乗り込んだ麻薬組織の密輸船。

 火災を起こしコントロールを失った船。

 おやっさんとともに爆発四散したおやっさんの……最期の戦いの舞台。


 広告飛行船、センデンブルグ号!


「あははははははははは!」

 唐突に筆の子供がけたたましく笑った。


 何かが大きく軋む音。

 周期的な振動。

 傾いた床。

 立ち込めるきな臭い匂いと、むせるような熱気。


 次の瞬間俺たちは、夕暮れの整理区画ではなく、「そこ」にいることに気付いた。


 墜落直前の、燃えさかる巨大飛行船の船内に。



 つづく



 ーーーーーーーーーーーーーー




 俺の名前は七篠権兵衛(ななしのごんべえ)。


 この街じゃちょっとは知られた「名前捜索人」だ。

 この不思議の街ではいつの頃からか人や物の名前が剥がれ名前の象徴する事物に姿を変えて、どこかに散歩するようになっちまった。


 俺の仕事は逃げた名前「名前獣」を捕まえて持ち主に返すこと。ま、ちょっと変わった探偵みたいなものと思ってくれればいい。


 今回の依頼はこの街を脅かす連続人間透明化事件の調査。

 調べを進めるうちに俺は何者かがこの街全体を邪悪な儀式に巻き込むつもりだと知る。

 この街を死の街に変える禁断の儀式。

 防ごうとする俺の前に立ちはだかる死んだ筈の育ての親「おやっさん」。


 一度は敗れた俺だが、おやっさんの形見の銃「スティング・ビー」を手に、再びおやっさんに戦いを挑む。

 舞台は悪魔が具現化したあの時の飛行船センデンブルグ号。


 仮そめの親子として。

 パートナーとして。

 一人の男として。


 交錯する二人の意地とプライドが、意志と運命が、空想の街の夕闇の空に今、火花を散らす!




 ーーーーーーーーーーーーーー



【リンゴン♬リンゴン♬ 火事です。火事です。係員は速やかに機体を着陸させて下さい。乗客の皆様は係員の指示に従って下さい】


 燃え盛る飛行船にどこか間抜けな非常放送が響き渡る。


「探偵長…」

 アズサが不安そうに寄り添ってくる。


「これだから嫌いなのよ。あいつ」

 忌々しげにネモはそう吐き捨てた。


 その視線の先に表札で遊ぶ子供はいるが、リオの姿がない。

 あの子に何かあったら術は完成しない。だから巻き込まなかった。

 つまり夢でも幻でもなく、ここで死んだらきちっと死ぬ……ってことか。



 ネモ、アズサを頼む。


「契約上、死んだらあなたの魂はあたしのものよ。スティックキャンディーにして永遠にしゃぶり続けてあげる。それを先延ばしにしたいなら精々集中するのね、ダーリン」


「探偵長…私っ、その…」

 アズサは見るからにテンパっていた。


「こんな時、何を言えばいいのか全然、さっぱり、全く……」


 大丈夫だ。


 ゆっくり考えろ。帰り道ででも事務所ででも、ちゃんと聴いてやるよ。

 ……これが終わった後でな。


「……はい」


 アズサはネモに歩み寄る。

 俺はおやっさんを振り返って一歩、前に出た。


「もう辞めねえか?抜けばどちらかが死ぬだけだ。つまらねえぜ」


 言葉とは裏腹に、おやっさん口元には笑みが浮かぶ。仕留め甲斐のある手強い獲物に出会ったハンターのような凄味のある笑みが。


 俺はおやっさんの正面に立つ。

 測ったように同じタイミングで俺たちは左足を半歩引いた。


 そこからは二人とも何も言葉を交わさなかった。

 一秒のようでもあり一時間のようでもあった。

 喜び。怒り。哀しみ。何とも言えない充実感。

 凡ゆる感情が俺たちを満たしていた。


 何故か相手も……おやっさんもそうなのだと俺は自然に理解していた。

 今から殺し合う敵同士が深く分かり合う奇妙なこの時間が、一瞬でも早く終わるように祈りながら、同時に永遠に続いて欲しいと願う自分がいた。


 しかしその奇跡の刻の終焉は前触れなく訪れた。


 蠢くスーツの模様。

 渦をまいて色を失う景色。

 一度催眠に掛かった俺はもう絶好のカモだった。


 出来損ないの合成画像のようにおやっさんの立ち姿が銃を構えた姿に一瞬で切り替わる。

 凍りつく時間。

 激発の閃光。

 滑り出す弾丸。

 女の悲鳴と押し寄せる懐かしい思い出たち。


 俺は半身の姿勢のまま、ゆっくりと眼を閉じた。


 眼を閉じてなお、思い出たちは心に次々と突き刺さってくる。

 無数の小さな画面が、無数の俺とおやっさんを映し出す。

 目頭に、鼻の奥に、胸の底に湿った塩の味が拡がる。

 俺は眼を開けると、一歩足を踏み出した。


 幾千幾万の、さんざめく思い出たちが形作るセピア色のトンネルの中を、俺はおやっさんに向けて歩き出した。


 おやっさんの構えた「ハウリング・ビー」は、俺が歩く間も次々に音響弾を吐き出し、幾条も女の悲鳴が俺のすぐそばを掠めて飛んだ。

 その度に鮮やかに、まるで今朝の出来事かのような鮮烈さでもって、思い出は俺に迫った。

 だが、もうどんな過去の思い出も、俺の歩みを止めることも、俺の心を折ることもできなかった。


 かちん、とハウリング・ビーが弾切れを示す空撃ちの音を響かせた時、俺は既におやっさんに手が届く程の距離に近づいていた。


 おやっさんは満足そうに眼を閉じて、だらりと構えを解いた。役目を終えたハウリング・ビーがその手から落ち、からら、と床に滑った。


 俺は腰のホルスターから銃を抜いた。


 スティング・ビー。


 俺がおやっさんから預かった改造拳銃。

 俺たち二人と共に何度もこの街を救って来た、世界で唯一の銃。

 俺とおやっさんの、絆の証。


 俺は淀みない所作でそのまま銃を構えると、絞るように引き金を引いた。



【ターン…‼︎】



 乾いた銃声が全ての思い出の幻影を祓った。


 俺は硝煙をたなびかせるスティング・ビーを手に燃え盛る飛行船のブリッジに立っていた。


「あ……え?」


 その銃弾で、眉間に穴を穿たれた筆の子供が驚いた表情のままぱたん、と倒れた。


「がががっががっ……」


 子供の姿の悪魔は激しく痙攣しながら手足をバタバタばたつかせた。

 すっとんだ円舞家の表札がアズサの足元まで滑って行き、彼女はそれを大事そうに拾い上げた。

 悪魔はいつのまにか子供服を着た黒い小鬼の姿になっていた。

 小鬼は痙攣、と言うより一際激しく振動すると、ざらっと音を立てて沢山の四角い破片の塊へと崩れた。


 よく見ればそれは、何千枚、何万枚という数のSDメモリーカードの山だった。



「馬鹿野郎‼︎」


 おやっさんに向きなおろうとした瞬間、罵声と鉄拳が同時に俺を打った。

 俺は足をぎりぎりで踏ん張って、咄嗟に銃を持たない左手で思い切り殴り返した。

 ふらつきながらも倒れなかったおやっさんは、血の混じった唾を吐き捨てながら俺をなじった。


「撃つ相手を間違う奴があるか‼︎」


 間違っちゃいねえ。分かったんだ。あんたを本当に殺す方法が。


「……」


 あんたは……俺の記憶、なんだな。

 どうやったかは分からねえ。

 だが間違いない。

 俺の中のおやっさんの、久田晴尽蜂の記憶。

 それがあんたを形作ってる。


 銃を腰のホルスターに納める。

 もう堪え切れない。

 俺の両眼からとめどなく涙が溢れた。


 できるなら、消したくねえ。いつまでもその姿をとどめて置きてえ。


 だが急がねえと……


 俺は首をふってネモとアズサを示した。


 ……あいつらが、死ぬ。


 さよならだ、おやっさん。

 育てて貰って本当に感謝してる。

 あんたが俺の親代わりで本当に良かったと思ってる。


 だけどあんたはもうーー




 ーー「死んだんだ」




 魔法は解けた。


 おやっさんの姿は古ぼけた写真のように色を失くし、褪せたセピア色になった。


 ぴし、と音を立てて、おやっさんの左足にヒビが入る。

 そのヒビは瞬く間に胸まで登ると、その隙間から細かな光の粒子を立ち昇らせ始めた。


 う、と短く呻いたおやっさんが倒れた。


「おやっさん!」


 涙を流れるままに、俺はおやっさんに駆け寄り、抱き起こす。

 その身体は急速に体温と、重たさ……存在の確かさを失いつつあった。


「見事だ……ネームハンター」


 おやっさん……。



 時折苦しそうに言葉を切りながらおやっさんは言った。

「ゴン。立派になったな。地に足が付いてないのは相変わらずみてえだが、それも突き詰めりゃ才能だ。今のお前の背中には……大きな翼が生えてるぜ」


 おやっさん!


「お前に言っておかなきゃならない事がある」


 おやっさんは遠い目をした。

 昔を……思い出しているのか?


「俺の名前、久田晴ってのは……俺が戦いに親類縁者を巻き込まない為の偽名だ。仲間も敵も皆が俺にくたばれ、と言うんでな。そう名乗っていた」


 おやっさん……消えないでくれ!おやっさん!


 おやっさんは大きな手で俺の頬に触れ、涙を拭った。


「俺の本当の名はーー




 ーー七篠。七篠尽蜂。


 親代わり、とお前は言ったが」


 ……。


「お前は最初から、俺の本当の息子だった」


 おやっさんは穏やかに、どこまでも優しく微笑んだ。


 細かいヒビは全身に及び、血のように光の粒子を流し続ける。


 おやっ……。

「仲間を、大事にしろ。

 自分を、大事にしろ。

 この街を、頼んだ……ぜ」


 おやっさんのアルパアルジムの靴が、オーダースーツのスラックスが、砕けて光の粒子にほどけて消えてゆく。


 ごわごわした手が、満足げな笑みを浮かべる顔が、光に包まれる。


「おやっさん!」

 行かないでくれ!俺にはまだ、あんたが必要だ!

「おやっさん!」

 俺はまだ、あんたになんの恩返しもできてねえ!

「おやっさん!」

 嫌だ……消えないでくれ!ずっと、一緒に居てくれ!





『おやじぃぃ……っっ!!!』







 つづく



 ーーーーーーーーーーーーーー




 俺の名前は七篠権兵衛(ななしのごんべえ)。


 この街じゃちょっとは知られた「名前捜索人」だ。

 この不思議の街ではいつの頃からか人や物の名前が剥がれ名前の象徴する事物に姿を変えて、どこかに散歩するようになっちまった。


 俺の仕事は逃げた名前「名前獣」を捕まえて持ち主に返すこと。


 ま、ちょっと変わった探偵みたいなものと思ってくれればいい。

 今回の依頼はこの街を脅かす連続人間透明化事件の調査。

 調べを進めるうちに俺は何者かがこの街全体を邪悪な儀式に巻き込むつもりだと知る。


 燃え盛る飛行船の中、その男「おやっさん」とそれを止めようとする俺は対決する。

 あらゆる思い出、あらゆる感情を乗り越え、おやっさんの死を受け入れた俺はついにおやっさんに勝利する。

 光の粒子にほどけるおやっさんを呼ぶ俺の絶叫が宵闇に染まる空に木霊した。



 ーーーーーーーーーーーーーー



 俺の腕の中で弾けた光の塊は、再び集まって形を取った。

 小柄な、髪の長い女の姿に。


 この娘は……。


 父親譲りの、はっきりした形のいい眉には見憶えがあった。13年振りだが、以前会った時の面影もあった。


 おやっさんの、実の娘……。



「探偵長ーっ!」

 アズサが駆け寄って来る。ネモはその後から普通に歩いて来た。


「無事ですか?お怪我は?本当は体調悪いのに隠したりしていませんか⁉︎」


 大丈夫だ。心配掛けたな。


「キャンディはお預けね。悪運の強いクライアントだこと」

 と、ネモ。


「ん……」

 腕の娘が息を漏らした。意識が戻りそうだ。


「探偵長、その方は?」

 おやっさんの娘だ。この子が今回の首謀者、か。


 ふんふんとネモが鼻を鳴らす。

「違うわね。この娘からは魔力の匂いが殆どしない。そそのかされて体良く利用されたんじゃないかしら」


「もっとも再生した久田晴尽蜂の、街に復讐したいとか七篠権兵衛をやっつけたいとかは、この娘起源のキャラクターかも知れないけど」


 じゃあ、本当の事件の首謀者は?


「それを調べるのはあなたの仕事でしょう?ダーリン♡」


「ああぁぁぁっっっ!!!」


 どうしたアズサ!


「思い出しました!私、事件の首謀者を‼︎」

 ……探偵が犯人を思い出して解決する手法は、流石にノックスの十戒も禁じてなかったな。


 その時だ。


【リンゴン♬リンゴン♬非常警報。非常警報。直ちに脱出して下さい。リンゴン♬リンゴン♬非常警報。非常警報。直ちに脱出して下さい……】


 いけねえ!タイムアップだ。

 この飛行船はあと数分で爆発する。

 ネモ、お嬢さんを連れて飛べるか?


 ネモは中身が半分ほどのペットボトルを取り出すと一息にぐい、と飲み干した。


「人一人ならギリギリね。変身に加えて飛行となるとハイコストだから」


 俺はコンポーネントからパラシュートを取り出した。

 一つしかない。

 他の乗員が持ち去った後だ。

 ……あの時もこうだったのか。


 アズサ、お前は先にこれで脱出しろ。


「え⁉︎あの、探偵長は?」


 このままじゃ燃える飛行船がこの街の真ん中に落ちる。

 海風に逆らって誰かがこいつを海まで運ばなきゃな。

 なに、適当な所で自動操縦にして俺も脱出する。

 先に行け。


 俺はアズサに半ば強引にパラシュートを着けると、無理やり扉の前まで連れて来た。非常コックを回し、ドアを開けると途端に冷たい風が強く吹き込んだ。


 あばよ、ポニテの主任捜査員。この街を……。


【がっ!】

 痛っっでええええ…‼︎


 アズサは俺の一瞬の隙を突いて、左の脛を思い切り蹴った。


 てめ、なにしやが……おわ⁉︎


 彼女はそのまま俺のネクタイをひっ掴むと、全体重を掛けて引っ張り、自分もろとも俺を街の上空、宵闇の虚空へと放り出した。




「この橘アズサがそばにいる以上ーー」

 刹那の無重力状態の後、俺とアズサの身体は回転し、もつれるようになりながら落下を始める。

「ーー探偵長に立つ死亡フラグは、片っ端から折らせて頂きます!」


 気丈にそこまで言い切った彼女だったが、張り詰めていたものが限界に達したのか、ふっとそのまま気を失った。


 おい!ここで気絶かよ⁉︎


 視界の隅で急速に遠ざかる飛行船。黒い大きな鳥。

 次の瞬間、回転の狭間に見た宵闇の空が一瞬真昼のようにフラッシュした。

 天地を照らすその光は、街全体をこの世界を揺り起こすかのように二度三度明滅する。

 そして「それ」が、水平線までを白く覆う凍てついた海を撃った。


【ぴしゃぁぁ……んんんっっ!】

【ズドドドド……ッッ!!!!】


 余りの大音響に、俺は思わず身を竦ませた。落雷だ。それも飛び切り大きな。

 同時に俺は視界の端に飛行船の爆発を捉えていたがそれどころじゃない。


 白く煙る緩やかな球面は落雷の落下点を起点に七色の光を放ちバキバキと大きな音を立てて砕け始めた。


「海呼鳴」ーーうみおこし。


 この不思議の街の春の風物詩。春の訪れを告げる落雷が凍てついた海の氷を割り、その日から縛鎖をとかれた海流が更に温暖な海水と風とを運んで来る。


 いけねえ!このままだとアズサは気を失ったまま鋭利な氷塊だらけの海に落ちる‼︎

 アズサ!おいアズサ‼︎


 ぐるぐる回転しつつ落下しながら、俺は彼女にしがみついて揺さぶる。目覚める気配すらない。

 パラシュートの開傘コードを取ろうとするがそれは風にばたついてひと時として場所を定めず、捕まえて引っ張ろうとする俺の努力を全てあざ笑った。

 ぐんぐん近づいてくる流氷に満たされた冬の海。

 その海が、海呼鳴特有の七色の光を再び放った。視界がそのサイケデリックな色彩に埋まる。


『大丈夫だ』


 えっ……?


 脳裏に響いた声。懐かしい、穏やかな低音の囁き。


『今のお前の背中には……』


 この台詞は……別れ際の……。


『大きな翼が生えてるぜ』


 脳裏に響くその声と、海の輝きに呼応するように俺の背中が光り出した。

 俺は咄嗟にアズサを強く抱え込む。

 背中の光は二条に長く伸びると、瞬く間に二枚の白く輝く翼になった。


 ……今の声……おやっさん。


 力強く羽ばたく俺のイメージはそのままの威力で翼を動かし、軋みを上げて輝く七色の氷山ひしめく海面すれすれで俺とアズサの体を縦方向にUターンさせた。

 翼が生む推力の余波が海面の氷山を激しく揺さぶるのを背後に感じながら、俺はアズサを抱えて高く高く飛翔した。


 落雷の威力は水平線の彼方に及び、高い空から眺める海はめくるめく光の饗宴のクライマックスだった。

 俺はさっきまでの別れの哀しみも戦いの疲れも忘れて、惚けたようにその神秘の光景に見入っていた。


「きれい……」


 いつの間にか目覚めたアズサが輝く海を見てそう呟いた。


 馬鹿野郎。何が死亡フラグは折らせて頂きますだ。別の死亡フラグに置き換わっただけじゃねえか。


 アズサはまだ正体を取り戻さない虚ろな表情のまま言い返した。

「でも生きてるでしょう、探偵長……」


 ……。


「生きてるじゃないですか……こうして……」


 返す言葉を失ってばつの悪さを感じた俺は、アズサの視線の先にある輝く海を見つめた。


 その光が徐々に弱く頼りなくなり、やがて完全に輝きを失うその瞬間まで。



 つづく



 ーーーーーーーーーーーーーー



 俺の名前は七篠権兵衛(ななしのごんべえ)。


 この街じゃちょっとは知られた「名前捜索人」だ。

 この不思議の街ではいつの頃からか人や物の名前が剥がれ名前の象徴する事物に姿を変えて、どこかに散歩するようになっちまった。


 俺の仕事は逃げた名前「名前獣」を捕まえて持ち主に返すこと。ま、ちょっと変わった探偵みたいなものと思ってくれればいい。


 今回の依頼はこの街を脅かす連続人間透明化事件の調査。調べを進めるうちに俺は何者かがこの街全体を邪悪な儀式に巻き込むつもりだと知る。

 最後の対決の舞台、燃え盛る広告飛行船センデンブルグ号の中、育ての親「おやっさん」と対決した俺はその戦いに勝利する。

 一時の邂逅を引き裂く飛行船の非常警報。

 絶体絶命の俺の命を救ったのは、他ならなぬおやっさんが俺に掛けた強力な後催眠暗示だった……。



 ーーーーーーーーーーーーーー



 薬っぽい匂い。

 糊の効いたシーツの感触。

 目を開けると白塗りの天井。

 賃貸事務所の二階じゃない。


「あ、気がつきましたか」


 茶髪の小柄な看護婦には見憶えがある。

 第一東西病院。

「だいいちひがしにしびょういん」と読むその病院名は捻くれた医院長のセンスの賜物だ。


「おはよう七篠君。気分はどうだい」


 現れた短髪眼鏡痩身長身の白衣の男は、これ見よがしに爽やかな笑顔でそう言った。


 おはようドクター。

 気分は……酷いな。ドクターがウザい。


「認知不調ありか。じきに良くなるよ」


 その点は悪くなる自信がある。


「なんだいその地味な反応は」

 ドクターは呆れ顔で溜息をついた。

「時空結節点の論理崩壊を防いだ英雄のそれが生還後の有様とは……僕は情けないよ」


 お前……普段どんな本読んでるんだ?

 ……んん!


 ドクター!お前、生きて⁉︎ 本物のドクターだな!良かった……間に合ったんだ……本当に良かった……。


 ……これでいいか?


「ありがちだけど及第点かな。よし、話を先に進めよう」


 ……この下りは必要なのか?


「さて、不気味なニュースと更に不気味なニュース。どっちから聞きたい?」


 ……お前をそういう面倒な奴にしたのは俺にも責任があるのかな?なんか逆に申し訳なくなるわ。


「どっちだい?」


 じゃ、不気味なニュース。


「気を失って担ぎ込まれた君を我が第一東西病院は総力を挙げて精密検査した。結果なんと!」


 魚の目でも見つかったか?


「歳相応に老化し始めてる以外、なんの異常もなかったんだ!」


 待て。歳相応なら別にいいだろ。

 で?更に不気味なニュースは?


「うちの看護婦。なんと君のファンなんだ。サインを貰ってくれと頼まれた」


 あのいつもの?医院長なら公私混同するなと一喝してやれ。


「彼女怒ると怖いんだ。背後から熱々のコンソメスープを静脈注射してくる」


 それは……普通に刑事事件だぞ。

 例の怪盗二十名称の時、タウン誌があることないこと面白可笑しく書きたてたからな。

 実像以上にヒーローとして伝わってるんだろ……普通に名前書く位しかできないが……ほら。


「ありがとう。これでまた一日、生き延びられる」


 お前俺以上に常在戦場だな。

 お前のサインをやれよ。


「七篠君。一つ言っておきたいことがある」


 もう行っていいか?俺、無傷なんだろ?


「怪盗二十名称の時、タウン誌の取材にあることないこと面白可笑しく情報を提供したのはこの僕だ!」


 サイン返せ。お前コンソメスープを血管に流した方がまともになるんじゃねえか?


「面白い着眼点だ。今度やってみよう。患者で試してから。……いつものように代金は領収済だ。いつ帰ってもいいよ。お大事に」


 冗談か本気かわからない言葉を残し、ドクターは去って行った。


「お加減は如何です?探偵長!」

 入れ替わりにアズサが来た。


 アズサ。先に言っておくが「とんがらし煎餅」は勘弁な。あれはつまり、その……俺にはアバンギャルド過ぎる。


「へっへー♬ご安心下さい探偵長殿。七篠名前捜索事務所主任捜員・橘アズサ。抜かりはござんせん」


 なんだその時代劇の木っ端役人みたいなキャラは。


「取りい出しましたるこちら、今回は病魔撃滅の願を掛けました霊験あらたかなこの『とんがらし饅頭』を……」


 ……違う。

 そうじゃない。



 ーーーーーーーーーーーーーー




 俺の名前は七篠権兵衛(ななしのごんべえ)。


 この街じゃちょっとは知られた「名前捜索人」だ。

 探偵のようなものと考えてくれればいい。

 最近ではネームハンター、なんて横文字で呼ぶ奴もいる。


「にゃー」


 ……分かってるよ。


 こいつは相棒の黒猫。

 名前はネモ。

 色々あって俺はこいつの言葉が解る。

 こいつ、見た目通りの只の猫じゃねえんだ。


 俺の仕事は失くした名前を探すこと。


 この街じゃ、何時の頃からか名前が人や物から抜け出してどこかに散歩するようになっちまった。

 俺は憐れな依頼人の失くした名前を見つけ出して、元通り人に名乗れるようにしてやるってわけさ。


【カランコロンカラン♬】


 さぁて仕事か。


 今日も危険でクールな一日が両手拡げてウィンクしながら俺を迎えに来たぜ。




 ーーーーーーーーーーーーーー





 私の名前は朱雀。




 名前を聖なるもの、また畏怖すべき偉大なものとし、崇めると同時にその支配に抵抗する「真理聖名教会」の生き残りだ。


 教団の仇、父の仇であるネームハンター七篠権兵衛とこの街への復讐はまんまと防がれた、と思わせた所に今回の成功の鍵はあった。


 街を殺せればよし、予備の生贄を利用して、この儀式が完成すればそれもよしの二段構えの作戦。


「ゴメンよ朱雀。あいつ殺せなかった」


 電話口で子供の声が謝る。

 この子供の名前はメメントゥ。姿は子供だがその正体は何万年の刻を生きる記憶の悪魔。私はある目的の為にこいつと契約し、使役している。


 気にしないで下さい。楽しみが残りました。


「始めるよ」


 街の中心でその瞬間を待つ私には見えないが、メメントゥは街の真西のそのポイントに描き始めた筈だ。因果のインクでその文字を。


 私を人ならざるものへと昇華させる、儀式の最後の一文字を。



「 翼 」



 術は完成し、私に街全体から黒い力の奔流が流れ込む。

 肉体はタンパク質の細胞から未知の合金のような何かに置き換わり、知覚は遙か彼方までを鮮明に写し取る。

 素晴らしい。

 人という枷から解かれ触れる世界のなんと美しく、脆く、儚いことか!


 成った。


 八卦の術とメメントゥの魔力。

 そしてこの街の、不思議そのものを糧として。




 私の名前は、もはや朱雀ではない。



 この街に災厄をもたらす者。

 ネームハンターに、七篠権兵衛に死をもたらす者。




 私の名前は死之翼。




 私は悪魔、死之翼 朱雀。




 私は蝙蝠のそれに似た漆黒の翼を拡げると、春の訪れを告げる海呼鳴に沸く街の夜空に、高く高く舞い上がった。




 ネームハンター

「The sepia tone requiem」



 〜〜〜 f i n 〜〜〜

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ネームハンター3 〜 The sepia tone requiem 〜 木船田ヒロマル @hiromaru712

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