第五章 死闘・後編

 落ち着かない。

 手が震える。唇が乾く。

 意識が何処か虚ろで目の焦点がやたらとぶれる。また、やたらと尿意を感じる上に自身の呼吸音も耳障りだった。

 緊張しているのは自分でも理解している。少しでも緩和するために過呼吸になりそうなほど深呼吸を行った。だが効果がない。それほど自分にとって戦いというのは未知の体験であり恐怖の対象だったようだ。

 何時も行ってきた喧嘩とは違う。控室に居ても壁の向こうから聞こえてくる歓声は心を刺激し、≪戦いたい≫と思っていた気持ちを≪戦わなければいけない≫という使命感に変化させてくる。正直何もかも投げだして逃げ出したかった。

「し、失礼します!」

「へ――」

 突如、挨拶と同時に体の自由を奪われた。もとい抱き付かれた。

 男のものとは違う柔らかな感触に、高まっていた心に水をぶっかけられたように静まっていく。一方的に抱き締められているというのに、自身の全てを預けられるような優しさがあった。

 慈愛に満ちた抱擁から解放されると柔和な表情を浮かべる従者がいた。ただ、やはり恥ずかしかったのか僅かに顔を背け頬を紅潮させていたが。

「少しは落ち着きましたか?」

「う、うん」

「それは良かったです」

 従者の言葉を最後に沈黙が訪れる。

 リンスはこの場の空気に耐えきれなくなったのか更に顔を背けてしまった。対するユカリも今になって恥ずかしくなってきたのか、照れ臭そうに鼻頭をかくと口を閉ざしてしまった。

 今のって俺の緊張を解すためだよなー。あー、それなら言わないとダメだろ俺。いや、でも、リンスがあんな大胆なことをしてくるとは思わなかったし。

 ユカリは鼓動する心臓を煩わしく思いながら恐る恐る言う。

「もう一回やってもらって良い?」

 あまりの高揚感につい感謝を伝えるつもりが本音が飛び出た。

 流石に予想だにしない反応だったのか、少女ははっとした表情をすると、もじもじしながら銀の髪を弄りつつ言った。

「えっと、それは、その。今はちょっと」

 当然の答えである。始まる前にエンディングを迎えてしまっては締まらない。

「そりゃそうだよね。ごめん、変なこと言った」

「いえ、ですがその」

 髪を触るのを止めリンスが主人の目をしっかりと見る。

「あんな作戦プランを立てておいてなんですが……無事に帰ってきて頂ければマスターの望む限り何度でも」

「うん、出来る限りご期待に沿えるよう頑張ってくるよ」

「危機を感じたら何時でも降参してくださいね。絶対ですよ」

「分かってるよ」と返したところで、舞台へと続く通路から案内人が出てくる。

「市河様。時間になりましたのでこちらに」

「あ、はい」

 従者の傍から離れ、立て掛けていたユカリの身長程ありそうな巨大な斧を手にし若々しさに溢れた男性職員についていこうとする。

「マスター!」

 会場へと歩を進め始めるや否や呼び止められ後ろを向く。

「一人に……私を一人にさせないで下さいね!」

 彼女の必死の叫びを胸に受けユカリは応える。

「りょーかい」

 言い残し再び前を向き歩みを進める。

 会場に近付くほど耳に入る音が大きくなり、指定の位置に止まった時には観客の熱気が直に伝わる程であった。

『大変長らくお待たせ致しました!これより対抗試合の方を始めさせて頂きます一一が、改めて場内ルールについて説明させて頂きます!』

 実況の声で一度歓声が沸き上がり、少しずつ終息していく。決して安くない観戦費を払っているのだ。客層はモラルのある人ばかりだろう。

「この後名前を呼ばれたら出てください」

「分かりました」

 この辺の段取りは進行表に目を通しているし、リハーサルも行っているので把握はしている。しかし闘争心が高まっている今となっては出来るだけ補助して貰えるのは有難かった。

『それでは登場して貰いましょう!』

 まるでライブ会場のように室内が暗くなり様々な色のスポットライトが円を描くように交差する。地上からでは迫力が伝わらないが、観客席からは臨場感のあるBGMと共に感情を昂らせてくれることだろう。

『川市市代表! 身長171cm、体重60kg。頭の悪い金髪に好きにはさせねぇ! 魔王の血筋は伊達じゃない、市河ユカリの登場だぁ!」

 鼓膜が破れそうなほどの歓声とライトの光を浴びながら闘技場中央へと進めるユカリ。地面から見る会場は孤独感を覚えるほど広大で、そして目が眩むほどの観客に圧倒された。

 まさか一ヶ月でここまで集客出来るとは。

 自分だけの力ではどう足掻いてもここまで人を集めることは出来なかっただろう。広報については全て市長に一任している。大人の力は凄いとユカリは素直に感心した。

『志野習市代表! 身長160cm、体重は秘密。魔族に分からされるほど落ちぶれてはいない! 勇者の名に懸け敵を葬る! 破壊の聖女、エルナラ・シノン・ヴァイザー!』

 客に手を振りながら正面から剣を腰に下げた宿敵が登場する。緊張を纏ったユカリとは違い、動作に余裕が溢れていた。

 エルナは観客に送っていた視線をユカリに移すと不敵な笑みを浮かべた。

「少しは鍛練を積んできたようね。先月とは体つきからして違うわ」

 誉めてはいるがどこまでも上から目線の口振り。ユカリが少しばかり訓練してきたところで自分の勝利が揺らぐとは一切思っていないのだろう。

「勇者様を倒しに来たんだ。これぐらいはね」

 皮肉を込めたものの鼻で笑われる。やはり遅れを取るとは微塵も思っていないらしい。

「準備は大丈夫ですか?」

 白いローブを来た審判が間に入り言う。一応闘技場スタッフの正装らしく、非日常感が強いが趣はある。

「問題ありませんわ」

「大丈夫です」

 二人の返答を聞いた審判は襟元に付けたマイクに小声で何かを囁く。すると、実況の声が今日一番の音量で場内に響いた。

『まさか半世紀以上使用されていなかったこの闘技場に闘技者が現れるとは誰が予想したでしょうか! 暴力はいけない! 闘いなど野蛮人がすることだ! んなこたぁ分かってる! それでも闘わなければ理解出来ないこともある! 今日この場でこの二人が! それを証明してくれるでしょう』

 認めたくはないが実況の言う通りである。言葉では伝わらないこともあるのだ。

「構えて!」

 審判の声で付け焼き刃に練習した斧を構える。相手は手袋を整えるだけで戦う姿勢は取らなかった。

「始めぇぇぇぇ!」

 甲高い叫びが落ち着いていた緊張を呼び覚ます。

 見ろ。絶対に目を離すな。相手は野獣だ。一瞬の油断が即命取りだ。実況の声に耳を貸すな。集中、集中、集中!

 警戒するユカリを他所にエルナは堂々と腰に差していた剣を抜いた。長さは一メートル程度だろうか。ユカリが持つ斧ほどではないが、リーチがある武器であることに違いはない。特徴的な装飾はなく、形も創作物で見かけるロングソードに近い。ユカリの目にはとてもではないが彼女が用いるような業物には見えなかった。

「一応聞いておくけれど、本気で私に勝つ気はあるのかしら?」

 心底つまらなさそうに言う。学校の木を殴っている時の方がまだ感情豊かだったと思えるほどに。

「もちろん。無かったらここに立ってない」

「そう」

 少女は嘆息するや否やルーチンワークのように自然な動きで剣を地面に突き刺すと、躊躇なく獲物をぶん殴り、破壊した。

「えっ?」

 瞬きをする間もなく、虚を突かれたユカリに突如訪れる腹部への衝撃。痛みよりも前に身体がくの時に曲がり、視界に入っていたエルナの距離が急激に遠ざかった。

 そして円形の壁に叩き付けられたユカリに雷鳴の如く腹と背中に痛みが走り、重力によって地面に落とされる。

 何が起こったのか全く分からずにいる観客は誰しもが息を呑んでいる。いくら身体能力が高い種族であっても高速過ぎる彼女の攻撃はただの線にしか見えなかっただろう。

 しかし最初に静寂を打ち破ったのは他ならぬエルナ自身だった。

「まさかこの程度で終わらないわよね?」

 彼女にとって先程の先制パンチは小手調べだったかのように宣われる。未だに地に張り付けられている少年に対する言葉としてはかなり酷なものだ。

 ユカリが叩き付けられた壁の破片がぽろぽろと地面に落ちる。すると近くにいた観客の顔に再び力が戻った。

「っ! やっべ、久々に死ぬかと思ったわ!」

 割れた壁の傍から離れ、腹と背中を擦りながら再び彼女の間合いへと近付くユカリ。ダメージが無いわけではないが、誰もが予想した程重くはなかった。

「まさか魔王のご子息ともあろう者が従者の力に頼るなんてね。恐れ入ったわ」

 エルナが殴った右手を払い、辟易としながら言う。

「≪破壊の聖女≫様と闘うんだ。使えるなら何だって使うさそりゃ」

 まさかリンスの力を借りて一時的に防御力を上げる作戦がこんなにも早くバレるとは思わなかった。流石戦闘に掛けてだけは一流なだけある。ただ、その効果も今の強烈な一撃を防ぐだけの短い間だったけど。

「そう。それは素晴らしい覚悟なことで――」

 砂埃が舞ったと思うや否や、再び宿敵の姿が消える。

 相手の力の先は知覚出来ない。一旦ガードを固めて出方を――、

「反応が遅い」

「ぐっ、が」

 視線の右下に出現したエルナの拳が低い軌道を描いてユカリのボディを抉る。

 胃が圧迫され喉の奥から内容物が込み上げてくる。幸いなことに吐瀉は防げたものの、コンマ数秒息が止まった。

「せっ、っの!」

 流れるようなコンビネーションで放たれる回し蹴りを大きく前方に倒れこむことで運よく回避する。自分の意志ではなくボディーブローの衝撃が予想以上に大きかったことが影響しているのだが、それでも避けられたのは幸いだった。

「こっ、の!」

 弧を描いた暴君の右足の真下へと潜り込む。そして、前に倒れた勢いを利用してお返しとばかりに右腕を彼女の腹部へと叩き込んだ。

 ――と、思わされた。

「ぁ、ぅが!?」

 鈍い音と同時に頭の頂点に電流が走り、突如夜が訪れたように眼前が闇に覆われる。

 今……何をされ、た。

 訳も分からずに身体が沈んでいく。勝ちたいという意識とは裏腹に精神も肉体も重力に押し潰されていく。

 もしかして、負けた?


 ★


 綺麗だった。

 格闘技は野蛮なものだと。それこそ美からかけ離れた存在だと勝手に思っていた。

 途轍もないスピードで繰り出された蹴りは息を呑む暇も無い程の加速度で途中で横方向へのベクトルから縦へと変わった。

 円を描くものだと勝手に勘違いしていたが、彼女の狙いは途中で変わったらしい。蹴りの被害者である彼の知人としては惚けるのは喜ばしく無いことなのだろうが、それほど彼女のかかと落としは美しかった。

 直撃を受けた彼が地面に崩れ落ちる。観客席は一瞬の静寂の後、凄まじい熱気。に包まれたが田中の周辺は冷えきっていた。

 左隣で固まっている触手もとい生徒会長はどうでも良いので気にしていない。気掛かりなのは右隣で彼の勇姿を見守っているリンスだ。

 彼女がユカリと特訓している姿は学校で何度も目にしており、遠巻きに見ても熱が入っているのが容易に分かった。普段感情を顔に出さない彼女が最愛の人の戦いを遠い距離から見守っている。田中には想像もつかないほどの感情が胸の中で渦巻いているに違いない。

 本当は自分が戦いたいとか思ってそうっすもんね。

 しかしながら自分達に出来ることは応援することだけだ。それなら少しでも劣勢の彼の力になれるように応援するべきだ。

「リンスさん大丈夫っすか?」

「あ、はい。私は別に」

 表情が曇っている。やはり口では否定してもきついのだろう。

「なら応援するっす。こういう時こそ仲間の声が重要になるっすよ」

 言うとリンスは苦しそうに笑みを浮かべた。

「お気遣いありがとうございます。ただ――」

 リンスは一度こちらに向けた顔を再び彼へと向けた。

「ここまでは想定内ですので」


 ★


 憎たらしい筋肉馬鹿が嘲る姿を思い浮かべ飛び掛けた意識を現実へと戻す。

 最初に視界に飛び込んできたのは舐めろと言わんばかりに突き出された赤い靴。普通の状態であれば問答無用で頭を踏みつけられていただろうが、辛うじて気を保っている相手に対して追撃を行うほど無情な奴ではなかったようだ。

 震える膝に手を突きながら必死に立ち上がる。誰の目から見ても屍同然だったが、気合で持ちこたえていた。

「よく立ったわね。正直終わったかと思った」

 何処までも上から目線だ。不愉快なことこの上ない。

「何処かの頭の悪い女が呼び戻してくれてね」

「そう。なら後でベッドの上で感謝しておきなさい」

 言い終わるなり、軽いステップを踏みサッカーボールを蹴るようにユカリの肉体を宙へと飛ばす。そして、重力が働く前にユカリの胸に二発拳を叩き込むと、止めとばかりに回し蹴りを頭に捻じ込み吹き飛ばした。

 終わった。詰まらない試合だった。誰もが脳裏に似たような言葉を思い浮かべ、批判的な思いを作り始める。無論、それは闘っていたエルナとて例外ではなく倒れるユカリに対し冷ややかな目を向けていた。

「っ!」

 突然慌てた表情を浮かべ倒れた相手から距離を取る暴君。観客にはその行動の意図が分からず一同に首を傾げていた。そして、彼らの集中力が途切れ脳内の意識が悪態へと伸びようとした瞬間である。

「う、っぐ!?」

 寝ていたはずのユカリの真っすぐな拳が少女のボディを抉った。

「はああああああああっっっっ‼」

「っ!」

 続いて間髪入れずにユカリは左と右の連撃を躊躇なく叩き込もうとする。対してエルナは焦りこそ表情に出しているものの、ギリギリのところでガードを挟んでいた。

「こっの! しぶといっ、なぁ!」

 素人丸出しのジャブを当て、僅かに怯んだ隙を突き蹴り飛ばす。

 今日初めて苦痛に顔を歪ませたエルナに更なる追撃を加えようと吹き飛んだエルナ目掛け地面を爆発させる。

「――つけあがるなっ‼」

「うるさいっ!」

 空中で脳筋が繰り出す左手の払いを右腕で押しのけ、左手を馬鹿の顔面に押し当てる。すると地面で少女を削り取るように身体が擦れた。

 攻撃モーションを終え、彼女の咄嗟の反撃が無いことを確認して立ち上がる。乱れた息を整えながらつい頭から溢れる血を腕で拭うと、べっとりと黒く変色しつつある紅い集合が付着した。

 身体へのダメージは大きい。しかし痛みは全くと言っていいほど感じない。極度の興奮状態でアドレナリンが効いているのもあるが、大部分は能力のおかげだ。

 火事場の馬鹿力。諺の意味の通り切迫した状況であればあるほど身体能力が向上する。ユカリの能力は死と隣り合わせの状況でのみ発動する制約の都合上、効能は見ての通りエルナを抑え込むほどだ。

 お互い健常であればエルナの勝ちは揺るがない。

 せめて一矢報いるという発想ではダメだった。生半可な対策では圧倒的な力の差に分からさせる。

 勝つ為に。

 闘う為に。

 五分五分に持ち込む為に。

 自分を追い込む必要があった。

『まさかまさかの復活劇ぃ! 一方的な試合が完全にひっくり返りましたーっ!』

 集中力が途切れてきたのか実況の声がやたらと耳に障った。集中しようと、乱れた息の中、必死に肺に空気を送ろうと呼吸を繰り返す。

 現状押してはいるもののギリギリだ。身体が限界に近いのだからそれも当然である。大きく底上げされた身体能力をもってしてもエルナの攻撃が1回でも当たれば終わり。

 やられる前にやる。簡単な話だ。

 エルナがこのまま終わるとは思えない。目を離すな、絶対!

「はぁ……く――」

 土で汚れた少女が片手を地につけながら起き上がろうとする。動きに精彩は無く、苦悶に満ちた顔をしていた。

 相手がいくらゴリラでもダメージを与えることは出来る。当然の話ではあるが今のユカリにとっては希望に満ち溢れた事実だった。

「うああああああああああっっっっ‼」

 考える前に飛び出す。

 起き上がる前に決着を付ける!

「調子に乗るなぁ‼」

 先程と同じ要領で顔面に手を押し当てようとしたところで今度は振り払われる。

「そう何度も、同じ手が通じるものか!」

 流れるように巴投げを繰り出され世界が反転する。しかし勢いが付いていたおかげで、地に叩き付けられる前に回転しどうにか着地するこたが出来た。

 舞った衝撃で割れた頭から血が粉状に散り視界を汚す。

「――っ!」

 居ない。

 ほんの一瞬気をそらしていただけだというのに、眼前に居たはずのエルナが消えている。

 何処だ。何処に行った? 慌てるな、よく考えろ。そう簡単に人は消えない。

「爆ぜろっ!」

 左斜め空中から襲撃してきたエルナの回し蹴りをすんでのところで首の捻りを利用して回避する。風圧が鼻筋を掠めていく感触に背筋が凍った。

「運だけで!」

「それでも勝てるなら!」

 着地後の連撃を目で確認し防ぐ。

 右、左、右、足払い。

 強化している状態だからこそどうにか防げているが、普通の状態であれば全て被弾しているところだ。

「貴方さえ居なければ――私は!」

 胸部目掛けて真っすぐに放たれた左をバックステップで避ける。

「私は……もっと上手く生きれたのにっ!」

 続けて放たれた右ストレートと悲痛な叫びを左手で受け止める。馬鹿のパンチよりも言葉の方が神経を逆なでされた。

「それはこっちの台詞だ! お前のせいでどれだけ苦労させられたか!」

 握った拳に力が入る。

 初めて会った時のこと。エルナが通う聖天学園を訪問した時のこと。迷路大会のこと。その他の思い出を振り返ってみても良い思い出はまるでない。罵倒や殴られた印象が強すぎる。何よりも腹が立つことが一つある。

「お前が協力的ならもっとスムーズにことが進めたんだ! お前のせいで!」

「ふざけるなっ! 最初に拒絶したのは貴方の方だ! だから私は!」

 取っ組み合いになったところを急にエルナは距離を取る。

 視線を逸らさずじっくりと見ると、今にも飛び掛かりそうな程目つきを強張らせていた。

 恐ろしい。

 肉体強化で押しているとはいえほとばしる殺気は間違いなく本物だった。

「こんな道しか取れなかった……!」

 ユカリには思い当たる節がない。こんなことを言われても覚えがまるでないのだ。普段の日常で言われたなら小首を傾げていたことだろう。

「何を言ってるのか全く分かんないんだが」

「当然ね。貴方は私のことを全く覚えていなかったのだから!」

「え、は、あれ? どっかで会ってたっけ?」

 聞くや否や漏れていた殺気が爆発的に増えた。そして空気が破裂する音がしたと同時に鋭い一撃がユカリの手に収まった。

「そうでしょう。そうでしょうね。所詮貴方と私は交わることのない道に居る。勇者と 魔族が手を取り仲良くなんて出来るわけないのよ!」

「訳の分からないことを好き放題言って!」

 膝で突き出てくる前腕を拒否する。即座に隠れた左からの打ち込みが放たれると、幸い腰の横をすり抜けるも冷たい汗が流れた。

 熱くなっていても本能は冷静だ。人間というよりも獣に近いが。

 一旦回避行動に重きを置き、兎に角当たらないように動く。寸前ではなく余裕を持って避けるため、牽制すら最低限に。全ては話を聞く為。

「どうして、この――戦え卑怯者!」

 流石に一向に攻撃しないユカリに気付いたのか更に連撃が激しくなる。彼女にとってみれば馬鹿にされてると思われているのだろう。

「っ、くっそっ!」

 卑怯者らしく土を蹴り上げ馬鹿の目を潰す。そして視界を失った隙を利用して全力で距離を取る。エルナも不利な状況を分かっているのか、器用に目を覆いながら後ろに飛んだ。

「そういえば学校間交流で聖天学園に行った時にお前のピンチを助けたことがあったよな」

「それが何? 戦いと関係あって?」

「あれは貸し一つじゃないか。少しでも反論に詰まるようなら返済扱いにしてやるから今すぐここでさっき言ったことを話せ」

「……最低ね」

「極めて公平な取引だと思うが?」

「過去の私のことよ、馬鹿」

 罵倒した瞬間、エルナが瞬時に距離を詰めてきた。

 ユカリは予想外の行動に高度な反応が出来ず、暴君に手を捕まれ押し合いのような形になってしまった。

「何のつもり――」

「他人に聞かれたくないの。良いから黙って聞きなさい。あと怪しまれるから少しは抵抗している素振りもみせて」

 言われるがままに従い、全力で押しているように見せ掛ける。本当は全くと言っていいほど力を込めてないのだが、向こうも同じ行動を取っているため傍目には激闘を演じているように見えるだろう。

「貴方と私は子供の時同じ幼稚園に居た。別に貴方との親交は特になかったけど、ある日私は貴方に告げた。『同じ立場として仲を深めていこう』と。けれど貴方は強く拒絶した。たったそれだけの話よ」

 は? 幼稚園?

「……悪いが全く記憶にないんだが」

 確かに幼稚園は何故か川市ではなく橋船に通っていた。しかし幼過ぎてまるで覚えがない。彼女が嘘を言っているように思えないが、簡単に受け入れるも出来なかった。


 ★


「お二人、何か話してないっすか」

 隣の田中が呟く。

 言われるまでもなくリンスにも主人達が取っ組み合いをしながら何か言葉をかわしているのは分かっていた。また、その間は本気で戦っていないのも。

「大方煽り合いでもしているのではないでしょうか」

 嘘だ。もしそうであればもっと熱が入るはずだ。恐らく周りには言えないことを話しているのだろう。勝負の行方、駆け引き。又は二人だけの秘密とか。

「あー、あり得そうっすね」

 田中は納得して軽く流した。

 気付いているのは戦闘経験がある人だけ。反応を見るに、この会場だけで言えば一割にも満たない。

「…………」

 一瞬彼の顔が困惑し、すぐに元に戻る。

 これで内容は予想出来る。正直なところ一番現実に起こって欲しくなかったことだ。あれは知らなかったことに驚いている表情なのだから。

「――っ」

 胸よりも下。へその奥が締め付けられるような痛みが走る。

 嫌だ。マスターとあの馬鹿とに私が知らないことがあるのは嫌だ。あの二人に恋愛感情なんてないのは分かっているけれども、これは理屈じゃない。嫌なものは嫌なのだ。

 唇を噛み欲望に塗れた嫉妬に耐える。自分の醜い部分は理解しているつもりだったが、馬鹿が絡むとこうも増長するとは思いもよらなかった。

「ぁが――っ!」

 突如頭の奥が削られるような錯覚を覚える。

 視界の至る所で砂嵐やブラックアウトが巻き起こる感覚。覚えがある。それもついこの間のことだ。

 やられた。警戒していたのに、感情が揺れ動いた瞬間を狙われた。

 いや、違う。犯人は最初から技を解いてなどいなかった。ただスリープ状態にして、ターゲットの体調によって自動発動するようにしていただけだ。

「リン――ん大丈夫っ――か? 顔色――っすよ!」

 耳から入る情報も徐々に失せていく。

 ああ、酷い。酷すぎる。こんな過酷なことが起きて良いのだろうか。

 犯人はまた――、

 また私をマスターの枷にする気だ。


 ★


「まあそうでしょうね。でも覚えておきなさい!」

 エルナが叫んだ途端、急に相手からの力がなくなり前によろめくユカリ。すると腕を捻り手のホールドを外した勇者が後方へと下がった。

 そして一拍置き指をこちらに向ける。膨大な熱量を瞳に込めながら。

「一度壊した信頼は簡単には戻らない! 貴方がいとも簡単に否定した言葉を私は二度と忘れない!」

 頭の奥に響く怒声をまき散らしながらエルナが距離を詰めてくる。

 彼女の放った言葉は酷く衝撃的だった。知らない、覚えてないでは済まされないことなのだから当然だ。だが、だからこそ言いたいことがある。

「そうだとしても、特別地域交流課に属する今のお前が魔族を否定していい理由にはならない!」

 反論されると思っていなかったのかエルナの顔が歪む。

「黙れ! 私がどれだけ傷付いたのか知らないくせに!」

 今日一番の早さで懐に潜り込もうとするエルナ。それを咎めるようにジャブを繰り返すが無駄と言わんばかりに突破された。

 しかしエルナの攻撃に精彩さは感じられない。一撃に気迫は無く、ただ手なりで撃っているように感じられた。

「いい加減に!」

 当たらないことに苛立ってきたのか大ぶりな右フックが視界によぎる。

 この戦いで初めて見せる隙らしい隙。叩き込むならここだ!

「貰ったぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!」

 全身全霊の左カウンター暴君の右頬に叩き込む。

 砂塵とともに盛大に吹き飛ぶエルナ。美少女が壁に直撃し血反吐を吐く姿に戦慄する観客を他所に、ユカリは骨を折る感触を身に刻みながらひっそりと片膝を付いた。

 呼吸は荒く、強く意識しなければまともに酸素が肺に行き渡らない。身体も精神も魔力さえも既に限界だった。

 まだだ。油断するな、気を保て。起き上がるな。頑張れ。ふざけるな。もうやめたい。いける。進むぞ。足が折れそう。前を見ろ。立ち上がれ。ベッドで寝たい。

 相反する気持ちをいくつも抱えながら膝を叩き、己を鼓舞するように意識を無理やり覚醒させる。

 まだいける。まだ終わってないっ!

 気を――抜くなっ!

「うああああああああああああああああああああっっっっっっ‼」

 雄たけびを上げながら突撃し、無防備な馬鹿の腹に更なる一撃を叩き込む。

 確実に内蔵へ損害を与えられたのか、彼女の生温かな血がユカリの髪に降り注ぐ。そして、呼吸すら忘れるほどの速さで追撃を繰り返す。

 初めて聞く女らしい喘ぎ声。それも非常に小さな音量で自分にしか聞こえないと思える程だった。

 六発目のパンチが脇腹を破壊したところでエルナは両膝を付いた。

 何処にでもいい。あと一撃入れればこの闘いにけりが付く。

 大した攻防もないどちらかが一方的に攻める見応えの無い試合だっただろうが、当人達にはそんな都合知ったこっちゃない。お互い必死にやった結果なのだ。例え安全な外野から何を言われたとしても何とも思わない。

 意識が飛び掛けている勇者の顎を目掛けて最後の一撃を繰り出そうとするユカリ。普段何の躊躇いも無しにぶっ飛ばしてくるエルナがぐったりしている。野生の嗅覚を持ち、戦闘だけでいうならプロ顔負けのエルナが、素人の前で――、

「いっけぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ‼」

 勝てる! 勝って、帰って、寝れる!

 リンスにも良い報告が出来る!

 これで終わりだ。やった――。

 ユカリの手が皮膚を捉えた瞬間、世界が止まったかのように沈黙した。


 ★


 分からなかった。

 自分が何をしたのか。

 自分が何をしているのか。

 自分が何をすべきなのか。

 身体が勝手に動いた。

 私の意思ではない。

 私の取りたかった行動ではない。

 では何故私は――、

 主人の敵であるエルナを庇っているのか。

 敬愛する主人の攻撃を防いでいるのか。

 私は。

 今の私は――。

 何だ?


 ★


 目を覆いたくなるような現実が立ち塞がる。何よりもまず口にしたくなったのは疑問だった。

 何故。どうして。どういう訳で。

 受け止めきれない状況が精神を蝕んでくる。考えを働かせるだけでどうにかなりそうだが、現実逃避しなければ意識を保てないのも事実だった。

 神は残酷だ。

 わざわざこのような試練を与えなくとも自分は大したことも出来ないのに、上手くいっている時に限って上げて落とすような真似をする。一体何に不満があるというのか。

「えがっ――あ、ぁなた、一体、何を……」

 痛みに悶えるエルナが気力を振り絞って言う。

「…………」

 それもそうだ。

 敵対する相手陣営の人間が手を貸したとなると言いたくもなる。それが今まで数え切れない程衝突してきたリンスともなれば尚更だ。

「くっ、そ!」

 従者によって遮られた手を引き寄せ距離を取る。

 実況すら唖然としている会場内。勝敗の反復横跳びによるざわついた空気は遥か彼方に飛んで行ったかのように静かだった。

 だが、ユカリには呆然とする時間は無い。火事場の馬鹿力は行動を起こさなくとも魔力を消費する。このまま発動していれば負傷が原因ではなく、燃料不足で命が危うい。

『ど、ど、ど、ど、どういうとでしょうか! 魔族がっ! 勇者にっ! 手を貸した――――――‼ というかこれ、反則に当たるのでは無いでしょうか』

 場内がざわつき始める。だが、ユカリはを保ったまま敵対する相手への警戒を緩めず、序盤に落とした巨斧へと近付いた。

 エルナは片膝を付いたまま肩で息をしている。リンスはそれを守るように立ち、此方への様子を伺っている。目は虚ろだが敏感だ。僅かな動きでも反応する。まるでエルナを守る為に作られた機械だ。

 隙を見せないように斧の持ち手の下に靴を滑り込ませ上空に持ち上げる。そして視線を従者に向けたまま右手で斧の歯の横っ面を叩き割った。

「はぁー。ふぅ」

 壊れた武器から飛び出た魔力を吸収し呼吸を整える。

 やったことはエルナと同じだが向こうは隙を作る為のパフォーマンスに近く、こちらは前もって仕込んでいた準備の賜物だ。

「っ――」

 火事場の馬鹿力は解除。回復した魔力は全て肉体の強化に割り当てる。能力使用時に比べ純粋な力は大幅に下がるが、魔力効率はこちらの方が遥かに良い。また攻撃力に全振りしている馬鹿力よりも防御力が高い。

 リンスと相対するならこちらの方が良いはずだ。

 と、魔力によるガードと決意を固めながら思う。そしてリンスの名誉を守るためにもはっきりとさせないことがある。

「リンス! 一体どうしたんだ、リンス!」

「…………」

 わざとらしく叫んでみるが案の定リンスに反応はない。

「もしかして誰かに意識を奪われてるのか!」

 流石に演技が過ぎると感じざるを得なかったが効果は悪くない。感想が感想を呼び、瞬く間に観客席の群衆に伝播した。勿論それは実況にも。

 リンスが自らの意思でエルナを庇ったのでは無いことが伝われば良い。リンスの性格や俺との関係性は一緒に働いたことのある人達、学校の人間なら分かっているだろうし、この会場に来ているならばら蒔いた真実を変な尾ひれを付けずに広めてくれるだろう。

『おっと場内が騒然としていますがこれは一体――え、あ、はい。どうやら乱入してきた女性は市河選手の秘書の方で意識が無く――えー、更に操られていようです』

 ちょうど今話が飛び込んできたようだ。

『ただ今ルールの方を確認しましたが、これといって抵触するルールはありません。秘書の方が自発的に動いている訳ではなく、エルナ選手の技の結果であるのなら咎めることは出来ません!』

 厳密にいえばエルナの力では無いだろうが、そこに関してはどうでもいい。今はリンスの体裁を守ることが出来ただけでも上出来だ。

「――あぁ、ふっ! っ!」

 獣のような息を吐きながらエルナは壁を頼りに立ち上がった。まだまだダメージが残っているようで身体を支えるのでやっとのようだった。

「――なさい」

 周囲の騒めきでかき消されそうな声がユカリの耳に届く。

「お前! それは!」

 はっとさせられ反射的に叫ぶ。なりふり構ってられないのはお互い様だと分かっていなかった。あちらもまた勝つことに必死なのだと。

「倒しなざいっ! そいづを!」

 死ぬ気で腹の底から振り絞られた叫びに反応し、従者は真っ直ぐにユカリとの距離を詰めた。

「クソッタレ!」

 ひとまず両腕を立て頭の前に付きだし防御を固める。直後に訪れる骨を軋ませる殴打、殴打、殴打。

 エルナよりは衝撃は少ない。だが、足りない威力やスピードは精度で補っており的確に同じ箇所を狙ってくる。

 膨れ上がる痛みの一つ一つは我慢出来る。だが、それが一点となると話が違ってくる。痛みは苦痛となり命の危険を呼ぶ。既にエルナに身体中を破壊されている後だ。衝撃が身体中を突き抜けるたびに涙が出るほどの痛みが走った。

「リンス!」

 呼びかけるや否やガードが崩れる。

 そしてがら空きとなった顔面に腰の入った重い一撃がユカリの顎を抉った。

「ぁ――ゃ」

 ヤバい……これは逝った。

 あれだけ明るかった世界が徐々に隅から黒く染まっていく。肩や膝に力を入れることが出来ずに崩れていく。

 気持ちはふわふわしているのに落ちていく感覚だけが分かる。

 目ってこんなぐにゃぐにゃな世界を映すんだ。

 息ってどうやってするんだっけ?

 俺は何がしたかったんだっけ?

 まあいいや。良く分からないけど終わったんだ。

 これで心置きなく寝れる。

 強い心地良さに降参し信念が徐々に折れていく。何もかもを安らぎに身を任せようとするとただでさえ狭い視界が遠ざかっていった。

 ユカリから見える景色が点になった時――溢れ落ちていく雫が見えた。

 泣い……てる……?

 苦しいのは自分だけじゃない。

 肉体の損傷は我慢出来る。だが、精神的な苦痛はどうだ? 気丈なリンスが人前で泣く程のレベルなど想像もしたくない。

 救いたい、いや救わなければ。

 今まで自分を支えてくれた人が絶望の淵に居るのだ。今自分が支えなくてどうする!

 動けっ! 動かせっ! 意識を――

 保て! 

「――ぁ!」

 世界に精彩さが戻ってくる。

 倒れ込む直前で意識を覚醒させたおかげで思い切り地面に背中を打つ振動が伝わったが、顎の痛みに競べれば些細なものだった。

 急ぎ立ち上がり従者を見据える。彼女の表情は虚無のままだ。感情を表情に乗せることが下手とはいえ今の彼女は度を越えていた。本当は悲しんでいるのにも関わらず、だ。

「リンス」

 リンスに届くようにはっきりと言う。しかし同時に手刀が飛んできた。

 手首を受け止めようとするも地面から生えた土の柱がそうはさせないとばかりに飛び込んでくる。だが、すんでのところで手を引き九死に一生を得た。

 違う。それじゃない。

 今度は膝狙いのローキック。ここも反転することで回避。続く柱のフォローも極力小さな動きだけでいなした。

 これも違う。

 一連のコンビネーションを見せた後に飛び出た柱を利用して飛ぶリンス。人間離れした跳躍を前に興奮極まった実況の甲高い声がプラスされ、辛い気持ちが吹き飛びそうになる。

「あ、っつ!?」

 背後から突き出してきた塊に気付かず後頭部に鈍い痛みが走る。

 眩む頭とちかちかする世界を振り払おうと手掌で強く側頭部を叩いた。が、安易な行動を咎めるように重力が加わった鋭い一撃がユカリの胸を直撃した。

 身体の芯から骨が軋むような嫌な音が響く。子供向けの特撮番組であればこれで爆発四散していただろうが、まだ諦めるわけにはいかないのだ。

 接地した足を掴もうとするものの、伸ばした手は空を切る。彼女は反動を利用するとすぐ軽やかに後ろに宙返りしたのだ。

 エルナは暴力的だった。

 ユカリは泥臭かった。

 乱入してきたリンスは行動の所作がどれを取っても美しかった。

 普通攻撃にはリスクが伴うものである。何をしようとも大なり小なり必ず隙が出来るものだ。戦闘に長けたエルナであっても、大ぶりな攻めの後にはユカリの放った攻撃に当たっていた。

 だが、従者は違う。必ず自分の穴はフォローする。自分の特性を把握し攻守のバランス良く動き回っている。本当に壁の魔族なのかと疑いたくなるほどに。

 傍目から見ればユカリは手も足も出ないでいる。主従関係で少女が洗脳されているのだから当然かと思う人間もいるだろう。

 観客の皆が皆熱が引いていくのを感じている中、ユカリは観衆の予想とは全く違うことを考えていた。

 助ける――絶対に助ける!

 失意のどん底に沈んでいる暇は無い。考えるべきは思い描く方向にどう誘導するか。体力は限界。エルナが復活して同時攻撃を仕掛けてくる可能性も否定出来ない。時間がない。

「くっ!」

 飛び込もうとして壁に阻止される。

 鬱陶しい!

 壁を形成する能力がここまで面倒なものだとは思ってもみなかった。距離が空けば牽制に使われ、至近距離であれば本体との連携に織り混ぜてくる。無論発動に魔力を消費する以上、連発は制限されているだろうが今のところ絞っている様子が無い。魔力消費量が微量で使用に躊躇いがない可能性もあるが、まだまだ余裕があることは確かだ。

「もうっ!」

 石柱に苛立ち不用意に膝を前に出す。

「あぐえ!?」

 顔面に壁をぶち当てられ身体が宙に浮く。同時に激しく鼻血が噴き出た。

 脳を揺らされ、正面に空が映る。会場に来る時にも見上げた時には比べようが無い程赤く黒く汚かった。

 やばいやばいやばいやばいやばいやばいやばい――けどっ落ち着け!

 何かの接近を知らせるように頬に風が当たる。

 考えろ! リンスならこの状況どうする! どう動く! 相手を打ちのめす絶好の状況だ! リンスならっ!

 思い出すべきは練習風景? 違う。それならエルナと彼女の喧嘩シーンか?

 違う違う違う違う――思い出すべきはっ!

 今まで一緒に触れ合ってきたリンスの全てだ!

 刹那、目の前にリンスの顔が出現する。ユカリに当てた石壁を踏み台にしたのだろう。足を空に振り上げ今にも放とうとしているのが見えた。

 とてもではないがスカートでやるべき攻撃ではない。だが的確。相手が隙だらけなのだが大技を放ったとしてもリスクが無い。

 そうだ。敵を仕留めるチャンスに突っ走らない訳がない。それも全く反撃される可能性が皆無な今。やるならこの時、この瞬間だ! だけど――、

「こ、のっ!」

 自らを吹き飛ばした柱の角に右足を伸ばし小さく蹴る。飛ぶ方向を変えるのではなく、足掻く力を得る為に。

「……!」

「ここぉ!」

 全身を九〇度捻り渾身のかかと落としを避ける。

 額の皮が持っていかれたことを気にせずに、空中でリンスの腰を両腕でホールドする。まさか回避された挙句反撃されるとは思ってもみなかったのか、二人とも盛大に地面に倒れこんだ。

「リン――っ」

 倒れ方が悪かったのか従者にマウントを取られ、言い切る前に殴られる。彼女の指にべっとりとユカリの紅い血がこびりついた。

「リンスっ――」

 また殴られ今度は舌を切る。乾いていた口の中に鉄の味が広がった。

 絶え間ない拳の嵐が吹き続ける。

 痛覚はとっくの前に麻痺している。唇や頬は腫れているのが知覚出来、顔がマグマのように熱かった。時間にして十数秒程度であったものの酷く長く感じられた。

 息を切らし始めたリンスが初めて手を止める。ユカリの返り血によって雪のように白かった肌は見るに堪えない程汚れていた。

「リンス!」

 息をする度に肺が痛む。喉がいがいがして気持ち悪い。

 でも、今言わなければ。言わないといけないことがあるんだ! 

 リンスを取り戻すために言うべきことが!

「俺は……俺は、俺はリンスことが好きだ!」

 叫ぶや否や激しく上下していたリンスの肩の動きが止まる。

 言えた。言いたかったことがようやく言えた。

 あれほど辛く、気持ち悪く、抜け出したかった嫌な気持ちが不思議と消える。今だけは無敵になれたような気がした。

「ずっと言いたかった! 好きだって! 大好きだって! 付き合って欲しいって!」

 脳よりも先に脊髄が言葉を構築していく。言ってることが無茶苦茶でも構わない。想いが伝わればそれでいい。

「俺も迷ってた! 今だって本当に言って良かったのか分からない! でもリンスの心を誰かに利用されるくらいなら俺は言う! 好きだ! 俺にはリンスが必要だ! ずっと一緒にいてくれ!」

 叫びに胸打ってくれているのか、無駄にすましたリンスの表情が僅かに歪んだ。

「秘書とか従者とか上下関係とか関係ない。好きっていう気持ちに嘘をついて誤魔化して迷うくらいなら、リンスも自分に正直になれ!」

 息を切らしながら本音を叫ぶ。

 言いたいことは言った。後は彼女の気持ち次第だ。

 ユカリが次の言葉を紡ごうとしていると、ふと目元に雫が溢れ落ちた。


 ★


 心を閉ざすしかなかった。

 そうしなければ耐えることが出来なかったから。

 最愛の人を自らの手で壊しているのだ。可笑しくならないはずがない。

 私は何をやっているのだろう。

 何時も彼の邪魔ばかりしている気がする。

 私は必要だったのだろうか。

 私はいない方が良かったのではないだろうか。

 私は何のために生きているのだろうか。

 人を傷付けるため?

 それとも守るため?

 分からない分からない分からない。

 自分がしてきたことが分からない。

 今行っていることが分からない。

 止めたい死にたい還りたい。

 私なんていない方が皆幸せなのだ。

 あぁ、私も早く。

 母のところに行きたい。

『俺は……俺は、俺はリンスことが好きだ!』

 ――ぇ?

 疲弊した心にも響く程の言葉が聞こえた気がした。気のせいにしたい気持ちと気になる気持ちが衝突し、結果世界を拒絶していたリンスは外界の声に耳を傾けた。

『ずっと言いたかった! 好きだって! 大好きだって! 付き合って欲しいって!』

 荒んでいた心に熱が灯る。

 腹の奥から込み上げてくるものが涙腺を刺激し、目頭が熱くなった。

『俺も迷ってた! 今だって本当に言って良かったのか分からない! でもリンスの心を誰かに利用されるくらいなら俺は言う! 好きだ! 俺にはリンスが必要だ! ずっと一緒にいてくれ!』

 自身が無意識に作ってしまった感情の壁に次々と波が押し寄せてくる。

 肉体の自由が全く無いにも関わらず、自然と嗚咽と涙と鼻水が零れた気がした。

『秘書とか従者とか上下関係とか関係ない。好きっていう気持ちに嘘をついて誤魔化して迷うくらいなら、リンスも自分に正直になれ!』

 私は!

 私も!

 私だって!

 身体の何処かで詰まっていた思いが彼の心からの叫びで爆発する。

 整理が付かなかった。いや、自らわざと背けてきた愛情という名の感情。怖かったのだ、彼に否定されることが。また自分が必要とされなくなることが。だが、蓋を開けてしまえばそんな恐れは杞憂だったことが分かった。

 立場に戸惑うことはもう止める。

 心に壁を作って大事な人を傷つけるのはもう嫌だ!

「私はもう、幼い日の自分じゃない!」

 突如光が戻った。

 世界が輝いているような錯覚が起き、眩しさに目を細める。数秒経ち光に目が慣れてくると、正面には敬愛する主人の顔があった。

「マスター……?」

 顔の至るところが腫れ、唇や目蓋は切れており飛び散った血が額や頬にへばりついて固まりかけていた。

「マスター!」

 即座に自分がこれをやったのだと理解する。帰ってこれたのは良いが、また胸に汚いもやもやとしたものが生まれそうになる。

「リンス……良かった。意識が戻ったみたいだね。気分はどう?」

 まるで何時もの日常の一時のように優しく声を掛けてくれる。彼の深い想いが再度涙腺にまで響き、リンスは大きく口を開いた。

「最低で……最高です」

「そう。それは良かった」

 今にも力尽きてしまいそうな覇気のない彼の声。どうしようもない従者を取り戻すために力を使い果たしたと思うと、リンスはいてもたってもいられなかった。

「マスター!」

 伝えないといけないことがある。

 言わなければいけないことがある。

 決壊したダムのように溢れてくる涙を無視して叫ぶようにリンスは言った。

「私も、私もマスターのことが好きです!」

 言えた。やっと言えた。だが、まだ続けたい言葉がある。

 しかしながら強い意思が前に出過ぎてリンスは気付かなかった。

 身体の自由が完全にはまだ戻っていないことに。

「マスターが私を救ってくれた時からずっと。だから、だからこれからも――ひゃっ!?」

 上半身を支えていた両腕の力が入らなくなり、頭が重力に引かれて下に落ちた。

 落ちた先には地面はなく主人の顔の顔がある。そうなると力が戻っていないリンスに取れる選択肢があるはずも無く、

「っ――!」

 唇が主人の口唇に直撃した。

 っっっっ! っぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ――――――――――――――!

 悲しかった時とは別のベクトルで思考が白く染まり何も考えられなくなる。しかし状況に頭が付いていく前に直ぐに羞恥心が込み上げて来た。

 過去に同じようなことはあったが比較にならないほどの熱が顔に集まった。

「ご、ごめ、ごめんな――」

 何故か顔を上げられたものの恥ずかしさと居たたまれなさによってユカリの顔が直視出来なかった。あまりの感情の激流にこの場から抜け出そうと奮闘するが、彼に腰をホールドされている為、無意味に上半身をくねらせるだけで終わった。

 ああああああああああ――――! 死にたい! 消えて無くなりたい!

「あ、いや、こちらこそごめん」

 パニックに陥っているリンスとは反対に冷静なユカリ。痛みで。

 怪しく頭を振っているうちにようやくリンスは気付く。

 今自分は闘技場の中にいることに。

 大観衆が見守る中自分の主人に愛を告げたことに。

 マスコミがカメラを向けている試合の中でキスをしてしまったことに。

「はわ! はわわわわわわわわ!」

「はわ?」

 トマトのようにリンスの顔が完熟していく。恥ずかしさは限界点に到達し、完全に訳が分からなくなっていた。

「ご、ご、ごめんなさい!」

 後方に柱を出現させ、その柱から枝分かれするかのように角度を付けて横に伸ばし、彼の手に押し当てる。

「あ」

 そこでようやく主人が気付いたのか、両手の組を外した。

「うぅ――」

 解放されたと同時に勢いよく立ち上がると一心不乱に柱を生み出す。そして、踏み台にして駆け上がり観客席へと飛び込んだ。

 全身を真っ赤にしながら飛び込んできたヒロインに戸惑う観客。しかしながらパニックに陥っているリンスが気を遣えるはずも無く、スピーカー越しに実況の上がりに上がったテンションによる叫びを身に受けながら関係者通路へと駆けた。

 扉を開け辺りを見渡し、誰もいないことを確認して壁に背中を預ける。そのまま深呼吸繰り返しているとズルズル上半身が下がり、最後には臀部が床に付いてしまった。

 消えて無くなりたい。

 植え付けられた強烈なイメージが頭から離れない。彼の声も表情も、そして何より生温かなあの柔らかい感触が。

 無意識に人差し指を下唇に押し当てる。

 血液が沸騰しそうなほど体温の高まりを感じる。観衆が見守る中穴があれば入りたいほどの思いをしたこともそうだが、他にも原因は思い当たった。

 告白してキスをした。いや、あれは――、

 告白されて……告白してキスをした?

 何度も何度も同じ光景が頭の中でフラッシュバックする。操られていたことなどどうでもよく思えるぐらいの衝撃がする。胸が苦しくなって、へその下のあたりがきゅっと引き締まり、最後には頭がくらくらするほどの熱を感じ、そして霧散する。

 それが何度も何度も繰り返される。嬉しいが苦しく。辛いが心地良かった。

「大丈夫ですか真壁様?」

「ひっ!」

 己の感情と激しくぶつかり合っているところに第三者の割り込みがあり、身体が飛び上がる。

「ジ、ジークさん」

 見ると正面にはエルナのお付きがいた。

「申し訳ありません。驚かせてしまいましたか」

 心配そうにこちらを気に掛けてくるジーク。へたり込んでいるリンスに向け手を差し出してきた。

 しかしながら作り物の好意に甘えるほどリンスも馬鹿では無い。リンスは彼の右手を思いきり跳ね除けると自分の足でジークの前に立った。

「これ以上私を馬鹿にしないで下さい!」

 怒声を浴びせられてもジークの穏やかな表情は変わらない。ただ何処か残念そうに手の平を擦っていた。

「流石にバレましたか。何度も使える手では無いと思っていましたが、ここまで気付くのが早いとは」

「この短い期間に何度も操られれば当然でしょう!」

「それはそうですね。愚問でした」

「主人を勝たせたいという気持ちは理解出来ます。ルールの穴を突いた計画も見事です。ですが、貴方に受けた屈辱は絶対に許しません」

 言い放つや否や温厚という仮面を被っていた人間から柔らかさが消えた。

「それで、私をどうする気でしょうか」

「決まっているでしょう。私を操り人形にする呪いを解くとともに痛い目にあって頂きます」

 立ちながらこっそりと右手の開閉を繰り返す。感覚は完全に戻っているとは言い難いが戦闘を行えない程ではない。

「元より能力については今日が終われば解除する予定だったのですが。何度も使用すると効果時間が薄くなるばかりか私への負担も相当ですし。第一もう使用する予定もありませんので」

「それはジークさんの都合です。私の知ったことではありません」

「仰る通りですね。私にはリンス様の怒りを受ける義務があるようです。ですがこちらもリンス様を操作するのに随分骨を折ったことをお忘れなく」

 言われて記憶を手繰る。確かに近頃彼と触れ合うことが多かった。必要以上に接する機会が多かったのではないか、と疑問持ってようやく確かにその通りだと感じる。その全てが今日の為の準備とすれば非常にしたたかであると言わざるを得ない。

「それこそ私には関係の無いことです。むしろ以前から私を操る気があったと知って更に不愉快さが増しました」

「そうですか。ですが――」

 ジークが軽く手を払いワイシャツの襟を正した。

「私も勇者の一族の末裔。簡単には――ぁが!?」

 言い終える目にジークの身体が折れ曲がる。

 そしてリンスはすかさず左アッパーを彼の顎に叩き込むと、虚ろな世界に旅行くジークの左頬を渾身の力で殴り飛ばした。

 そのまま壁に叩き付られうずくまるジーク。リンスは一息吐き呆れながら彼に近づきそっと安否を確認した。

 鼻血は出ており前歯も折れているが命に支障は無いだろう。またこの程度であれば現代医療の力で元通りになるはずだ。

「心に受けた傷はこれでチャラとしましょう。ただ一つだけ言っておきますが」

 聞こえていないことを承知で告げる。

「喧嘩をするのに構えを取るまで待つ馬鹿がいますか……。私を舐め過ぎですよ」

 気絶した人間を前にらしくない発言をしてしまったことに小さく笑う。そしてすっかり本調子になった感覚を嬉しく思うと、飛び散った前歯を探し始めた。

 同業者を治療室へと運び、一刻も早く主人を見守る為に。


 ★


 頭が痛い。

 意識しなければ呼吸をすることすら辛い。

 今なら分かる。

 平気で話せていた数分前の自分はアドレナリンに酔っていたのだと。

 愛する従者が立ち去ったことで気を緩めてしまったことが良くなかった。辛うじて立ってはいるものの戦えるかどうかと言われると非常に怪しかった。

「随分な感動劇を見せてくれるものね」

 余裕しゃくしゃくな表情に釣り合うような皮肉っぷり。だが、顔にこびり付いた塊となった血は優雅さの欠片もなかった。

「そういうお前は……随分元気そうで」

 こちらも精一杯の強がりを返す。喋る途中で肺が痛み、心が折れそうになった。

「お生憎様。肋骨と内臓がいかれているせいで立ってるのもやっとよ」

「そうかい」

 お互い満身創痍だったらしい。それでも余裕そうに見えるのは場数の差か。

「いい加減決着を着けても良い時間でしょう」

「そうだな」

 なるべく短い言葉で返す。

 ユカリは小さく構える。対照的にエルナは大きい。とは言ってもお互い気力だけで立っているのだから、構えの差で何が変わるとは到底考えられない。

 視線を真っ直ぐ相手を見据える。

 観客の発する雑音には耳を傾けない。

 全身全霊を拳に捧げるつもりでいく。対面のエルナもきっとそのつもりで挑むはずだ。

 二人にとって不要物が世界から消える。お互いがお互いに相手の存在のみ知覚していた。

 最初に一歩踏み出したエルナ。軽やかに、それでいて重厚に空間を駆ける。

 対してユカリは動かない。ただ、静かに腕をやや後方に引いた。

 勇者が接近する。魔族が間合いに入るのを待つ。

 目を瞑るな。相手をよく見ろ。

 今頃になってリンスの教えを思い出す。今に至るまで自分は彼女から学んだことを実践出来ていただろうか。だがそれも今ここで分かるはずだ。

 互いに拳が当たる間合いに入る。

 そのタイミングに合わせてユカリは腰を捻ると同時に右足に溜めていた体重を右拳に乗せ解き放つ。そして、エルナもまた同様に同じ攻撃を繰り出していた。

 会心の右フックだった。川の流れに乗るように自然と振りぬくと、得も言われぬ爽快感に襲われた。

 頭が真っ白になり気持ち良さだけが溢れてくる。右や左どころか上下すらも分からないが確かに絶頂に達しそうな程の快感がそこにはあった。

 そうして気持ち良さに囚われながらユカリは反動に身をまかせ地面に倒れこんだ。

 そして達成感に包まれながら静かに、右手を天へと掲げた。

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