第四章 死闘・前編
「私を殴ってください」
唐突に発せられた相棒の言葉にユカリは固まった。何も事情を知らない人間が聞いたならば少女にマゾの気があるか、または何かやらかしたのかと感じるだろうが、そんなことは一切ない。グラウンドの隅に連れてこられるなりただただ意図がまるで読めない言葉のナイフを突き付けられたのだ。
「あ、失礼しました。流石に衆人の目がある場所ではあまり良くないですね」
言って二人の周囲に壁を展開するリンス。高さはユカリの頭上を遥かに超えていた。今頃外で活動している運動部は突如起きた変化に目を見張っていることだろう。
「これで周りからの目は無くなりました。遠慮せずやってください」
ニッコリと笑うリンス。
そういう問題ではない。ユカリには彼女の言っていることがまるで理解出来なかった。
「いやいやいや、女の子を殴るなんて出来るわけないだろ!」
言った途端、背筋に悪寒が走った。そしてつい先程まで柔和な表情をしていた少女が厳かになっていることに気づいた。
「マスター」
やたら重圧のある声。
呼吸をすることすら咎められているような気がした。
「マスターは本当に勝つ気があるんですか?」
信念を確かめるような一言だった。生半可な心意気では目標を達成出来ないことを示唆しているようでもあった。
無論勝つ気はある。自分の肩に市民の自尊心が掛かっているのだ。
簡単に逃げ出すわけにはいかない。
「もちろん」
「そうですか……」
残念そうに呟くリンス。彼女がこの特訓に終止乗り気じゃないのは企画が決まった時から分かっていた。恐らく今この時も先日行った暴君との打ち合わせを思い出しているのだろう。
★
本格的に夏が近付いてきたことを感じさせる日の夕方。
リンスは川市市役所の会議室から聞こえてくる怒号を耳に本日三回目のため息を吐いた。リンスに与えられたデスクから会議室はあまり近くはないのだが、《議論》ではなく《罵倒》がヒートアップしているようで互いの悪口が嫌でも聴こえてきた。そのせいかユカリが会議に参加している間に片付けようと考えていた報告書が未だに本文が三行から先カーソルが動いていない。
「あーもう! 何でそんなしょっぱい方向に行く訳! 貴女の脳みそはミトコンドリアでも詰まってるの! 信じられない!」
「お前こそ何でお前ばっか目立とうとすんだよ!五十回は言ってると思うがお前がメインのイベントじゃないからな!」
この通りである。
今日は特別地域交流課が結成されてある程度月日が経過したことにより、川市市と志野習市、更に橋船市の地域活性化に繋がるようなイベントを企画するよう市長から命を受け集まった訳なのだが――、
「何時間続けるつもりでしょうか……」
案は出ているようだが一向に話が進んでいるようには感じられなかった。十時から始まった打ち合わせは既に五時間も経過しようとしている。罵声を聴き続ける職員一同のメンタルのためにも早く終わって欲しかった。
「気が済むまででしょう。ですが、これ以上は流石に不毛かと」
「私もそう思います。止めましょうか」
「はい」
隣で働いているジークも同じような感想を抱いていたのか簡単に意気投合した。
そして二人して立ち上がるや否や更にヒートアップした声が伝わってきた。
「もう良いわよ!それなら闘って決めようじゃない!」
「上等だ! 表出ろ!」
いけません! マスターが勝てない勝負をしようとしています!
主人の愚行を止めようと急いで会議室へと向かう。
入り口へと近付くとちょうど憤慨した主人達が部屋から飛び出してきた。また同時に、階段から表情に怒りを滲ませた男性が上がってるのが見えた。
「いい加減うるせぇぞ若者ども! 会議は喧嘩する場じゃないってその辺の小学生でも知ってるだろうが!」
二人の姿を確認するなり叱りつける男性。髭を生やし髪はややボサボサ。少々身なりがだらしないものの、立派なこの市の代表である市長である。
「も、申し訳ありません」
市長の姿を確認するや否や慌てつつも珍しく素直にエルナが謝った。流石に現職の市長に喧嘩を売るほど馬鹿ではなかったらしい。
「ごめんなさい」
続いて彼もまた頭を下げる。
二人の態度から反省の色が読み取れたようで、まだ若々しさを感じる市長はそれ以上追求することはなかった。
「分かればよろしい。だが、その分だと進捗は期待出来なさそうだな」
痛いところを突かれ押し黙る二人。ただ、二人の反応を予想していたのか、市長は更に続けた。
「そんだけお互いのことが気に入らないならいっそのこと本当に闘ってみたらどうだ? 数値禍根を残したまま話し合ったって良い意見なんて出ないし、今後の活動にも支障が出るだろ」
何てことを言うんですか、魔王様! 人間が物理特化の猛獣に勝てる訳ないでしょう!
「あの――」
「なるほど。その意見いただきですわ」
リンスが止めようとした瞬間、エルナに言葉を被せられた。
「良いことを思い付きました。闘いましょう。但しこんなところではなく正式な場所で。それが地域の活性化にも繋がりますわ」
不敵な笑みを浮かべるエルナ。彼女が言っていることは市民なら誰もが思い当たる節があることで、リンスも例外ではなかった。
「確かに色んな金が動くから活性化には繋がるだろうが」
「話題にもなるにはなるけど」
芳しくない反応を見せる市長とその息子。メリットとデメリットを考えた上で迷っているようだった。
「大義名分が必要なら先程市長が仰られたことをこねくりまわせば問題ないでしょう」
「私は反対です!」
淡々と答えるエルナに対し、リンスがはっきりと反対する。柔和な表情を浮かべる暴君の顔が一瞬歪む。
「マスターはエルナ様に比べ戦闘能力が欠如しています。勝負が成立しません。一方的な暴力は引くことはあっても興奮することはないでしょう」
「……そうね」
同意してエルナは顎に手を当て考え込む。しかし直ぐに晴れやかな顔に変わった。
「一ヶ月だけ時間を上げましょう。その間に貴女が彼を鍛えなさいな。どうせ準備や広告に最低でもそれぐらい掛かるでしょうし」
「いえ、そういう問題ではなく」
相変わらず人の言うことを聞かない。話にならない。いっそのこと自分がこの場でぶん殴ってやろうかと、リンスは密かに思った。
そんな時不意に優しく肩を叩かれる。柔和な表情を浮かべた市長だった。
「まあよくよく考えてみれば悪くない意見か。長年無意味に敵対してきたんだ。ちょっとやそっとのことで仲良くなんて出来んさ。これぐらい乱暴な方が解決として早いかもだしな。スケジュールが短過ぎるのがやや気になるところだが」
「しかし!」
意見が賛成に寄ってきている市長に噛み付く。リンスとしては彼に与えられた使命よりもまず命を大事にして貰いたいのだ。
「良いよリンス。ありがとう、心配してくれて」
「マスター……」
いけませんマスター。それ以上言葉を続けては。
「でも俺やるよ。友好関係を結ぶとか大きなことを言ってても、その代表同士がいがみ合ってるのはおかしいと思う。てか純粋にこいつとどういう形であれ決着をつけたい」
少女の主人はやや熱くなっているのかやる気満々だった。リンスとしては何がなんでもやめさせたかったが、この場でエルナを罵る言葉を使うのは好ましくなく、結果押し黙る形となってしまった。
「じゃあ二人ともそれで良いんだな」
「ああ」「勿論ですわ」
両人ともやる気に満ちた声色で返す。
「んじゃ、関係各所への説得と手続き、宣伝はこっちでやっとくから。お前らは当日の段取りと試合ルールを考えて、三日後までに案を提出な」
「分かりましたわ」
「それからユカリ」
気だるそうな顔で市長がユカリの方を向く。
「ちゃんと特訓しろよ。一方的だと盛り上がらないし、市民も落胆するからな」
「わ、分かってるよ」
「ならいい、頑張れよ」
ユカリに地味な激励を振り撒き階段下に去っていった。
「それではやることも決まったことですし、今日は解散としましょうか。市長様から承ったことはそれぞれ素案を持って明後日にでも話し合いましょう。進行とルールとなると、ジークや真壁さんも加わった方が良いでしょうね」
「そうだな。俺達だけだと穴がありそうだし」
「承知しました」
暴君の提案にリンスだけ上手く返事が出来なかった。自分以外全員が賛成したことに異議を唱え続ける無意味さは重々理解している。しかし、主人が進んで危ない目に合うことに心が追い付いていなかった。
彼のために体を張るのは自分の役目なのに。
「貴女、大丈夫? 体調でも悪いの?」
「いえ……何でも」
絞り出すように言葉を紡ぐ。
「そう。それなら今日は解散でいいかしら。最低限必要な情報はメールで共有しましょう」
「ああ。了解」
「それではまた」
闘うことを提案してから常に余裕な表情を浮かべた少女が階段を降りていく。「失礼します」と、一言残し従者もそれに続いた。
張り詰めていた空気が僅かに弛緩する。そして、主人が恐る恐る秘書の様子を伺おうとしたタイミングでリンスは彼を会議室に引きずり込みドアを閉める。
「どういうつもりですかマスター?」
余りに端的な言葉。しかしそれでも真意は伝わったようだった。
「理由ならさっき言ったばかりだけど」
「あの人はただの人間じゃないんです! 自分のステータスを九割筋肉に振った怪物ですよ! 逆立ちしたってマスターが勝てる相手ではありません!」
「妥当な評価だね」
「分かっているなら今からでも止めるように言いましょう」
「それは出来ない」
「何故ですか!」
「俺にだって維持がある」
「プライドの為に命を粗末にするのは馬鹿のやることです!」
ユカリの言うことに対して反発し続ける。大事な人間だからこそ引くことが出来なかった。
「分かった。それならどうやったら賛成してくれる?」
彼の妥協案に
このまま言い争いをしていてもお互いに納得しない。平行線のまま無駄な時間が続くだけだ。それなら彼が納得する形で引かせる手段を取るのが最善の行為だろう。
「明日の放課後テストをします。それに合格すればマスターのお好きなようにどうぞ」
「分かった。テスト内容は?」
聞かれて内心ドキッとする。言い出したもののこれと言って考えていない。
「明日お伝えします」
「分かった」
簡単に引き下がった主人にほっと胸を撫で下ろし、改めてリンスはユカリの目をみた。
芯のある強い目をしていた。
リンスにとって主が強くなることは悪くないことである。それでも今だけは不安の方が遥かに大きかった。
★
テスト内容を告げられ、従者が環境を整えてくれてもユカリは未だに困惑していた。テストの意図がまるで理解出来なかったのだ。
「殴るのは顔でお願いします。勿論本気で。手を抜いたと私が感じた場合は合格とはみなしません」
淡々と言うリンスに益々迷うユカリ。
「さっきも言ったけどそんなことして何の意味があるんだ。リンスを殴るなんて俺には出来ないよ」
ユカリの反論にリンスは静かに溜め息を吐いた。失望に似た思いを感じさせる重い息だった。
「良いですか、マスター。貴方がこれから戦おうとしているのは曲がりなりにも女の子と呼ばれる人種です。女の子と戦うのに女の子が殴れなくてどうするのですか?」
「む、確かに。でもリンスは俺の大切な人間だし……」
言うや否やリンスはほんの少し固まると後ろを向いた。そして、何度か深呼吸を繰り返し再度主人の方を見た。
「それではダメなんです。私を躊躇なく殴れるくらいにならなければ彼女に攻撃することも出来ないでしょう。戦闘力で負けているマスターがこれ以上ハンデを負ってどうするんですか」
「そんなこと言ったって」
「闘いを嘗めないでください! 一時の感情に任せて出来るほど戦闘は甘くはないんです!」
「っ……」
言い返すことが出来ずユカリは押し黙った。
初めて受ける彼女の冷たい視線はユカリの闘争心をじわじわと奪い取っていく。早くこんな馬鹿げた行いを止めるようにと示唆しているようでもあった。
「あと五分だけ待ちましょう。時間内に達成出来なければ約束通り辞退して貰います」
言ってリンスは腕時計を一瞥した。
時間がない。たが、大切な人を傷つける度胸もない。
刻々と時間だけが過ぎていく現実を前にしてもユカリは何も出来ずにいた。
自分の思いを突き通すなら殴ってしまえばいい。だが、それをやってしまうと自分の中の倫理観や正義感が壊れてしまう可能性がある。だが、殴らなければ状況は進展しない。
二律背反。全く動けずにいるユカリに対して従者としての気持ちが働いたのか、リンスは複雑そうな表情で助け船を出した。
「マスター、人を殴るというのは通常の感覚では出来ません。普通はやろうと思っても理屈や罪悪感がストッパーになって、そんな考えそのものが吹っ飛ぶんです。その点マスターは常軌を逸脱していない極めて正常な人間なんです」
「リンス……」
「私にはもうその感覚はありません。マスターを守るためなら誰だって殴ってみせます。ですが、私はマスターにはそうなって欲しくないんです。だから――」
「止めましょう」と言葉が続いた。
リンスの気持ちは彼女の哀しげな表情から痛いほどよく分かった。恐らくユカリを支える為に彼女自身も通ってきた道なのだ。
そんなことを思うと、身体の芯に熱が灯った。
「やるよ俺」
「マスター!」
「俺はリンスが普通じゃないなんて思わないけど、リンスがそう思うならそうなんだと思う。それなら俺は、リンスの横に立ちたい。リンスを支えられるなら普通の感覚なんて要らない!」
「っ、支えるのは私の仕事です!」
「俺の仕事も本質的には市民をサポートすることで、市民の中にはリンスも含まれるよ」
「それは詭弁です!」
「詭弁だよ。でも、俺がリンスを支えたいと思ってることは本心だから」
ユカリの最早告白に近い言葉を聞くなり、リンスの頬や耳がはっきりと紅くなった。また必死に何かに耐えるように噛みしめながら、小さく全身を震わせていた。
「リンスさん?」
「だ、大丈夫ですから!」
彼女が赤面する顔を隠すように手を当ててから約一分。まだ皮膚は赤みを帯びているが、感情の波との戦いに決着がついたようだった。
「大丈夫?」
「正直ぶん殴られた気分です。脳が揺れています」
「それはもしかして試験合格ってこと?」
「いえ、それとこれとは話は別です。とは言え私も厳し過ぎました」
呼吸を整えるように一度重い息を吐きリンスは言った。
「取り敢えず全力で無くともよいので殴ってみてください。マスターにやる気があるなら話はそこからです」
言われて恐る恐る素人丸出しのファイティングポーズを取り、目標を眼前の少女に定める。
彼女は肩の力を抜いた自然体を取っていた。しかし目線はあくまでもユカリに。たったそれだけなのに正面から不思議な重圧がのし掛かった。
彼女の許可を得ている。
全力で殴る訳ではない。
そもそも彼女は壁の魔族。耐久力には目を見張るところがある。ユカリにぶん殴られたところで屁でもないはずなのだ。
頭で分かっていても心が動くことを望まない。だが、折角やる気になってくれた彼女を失望させたくないという思いもある。
結果、腕を無数の鎖で縛られているかのようなユカリのパンチは非常にゆっくりと宙を進み、ぺちっという何とも情けない音を出しながら少女の柔肌にぶつかった。
痛くもなんともない攻撃にリンスが呆れたようにジト目で主人を見る。
「全力でなくて良いとは言いましたが、流石にこれは」
主人のパンチに文句を唱えるリンスに対して、ユカリの心は罪悪感で一杯だった。生まれて初めて女の子に手をあげてしまったことが思いの外衝撃的で、軽く当たっただけの手は今もなお震えていた。
そんな彼の気持ちを察してかリンスが咳払いを一つ挟み、気遣うように口を開いた。
「余裕で赤点ですがまあ、大まけにまけて今日は合格としましょう」
「え、いいの!? あんなに反対してたのに」
「それは今も変わりません。ただ、マスターは私が何を言っても意志を変えるつもりはないのでしょう。それなら私がやるべきことは少しでも被害を減らすための努力をすることですから」
言うとリンスは僅かに視線を逸らした。理屈と心がリンクしきってないのか、主人が自分を殴ることが出来たという結果を前にして、少しだけ拗ねているように見えた。
彼女がユカリに対して露骨に不満を見せることは非常に少ない。そもそも彼女が負の感情をぶつけてくること自体があまりない。それこそユカリの記憶に残るほどのものは、最近だとこの間行われた迷路大会ぐらいだ。
無論、親愛度が上がってきた結果だと考えると非常に喜ばしいことだ。
「では本日から特訓を開始しましょう」
言い放つなり周囲の壁が霧散した。
「まず、先程の『私の顔を殴る』というテストですがこれから毎日行って頂きます。あの方の性格と今までの経験を思うにマスターに対しては平気で頭を狙ってくるでしょう。こちらだけ顔を攻撃出来ないのは非常に不利です」
「ふむふむ」と頷くユカリ。
「次に、マスターには基礎体力をつけてもらいます」
と、彼女は壁の外に放置していた鞄の元に行くと一枚の紙を取り出した。
「このメニューをこれから毎日こなして頂きます」
表計算ソフトで作られたのであろう紙に目を通す。そこには運動部も逃げ出すような高負荷のトレーニングが裏面にまで渡り記載されていた。
「かなりきついでしょうが、まともな勝負になる確率を一%でも上げるためには仕方がありません」
どうやら驚きが顔に出ていたらしい。但しユカリが驚いたのは、ユカリが試験に合格する前から彼女がトレーニングメニューを作成していた点なのだが。
「戦闘中は極度の緊張状態にある為、通常よりも遥かに体力を消費します。正直なところ、ここまでやったとしてもこの短期間では付け焼き刃程度でしょう」
「体力勝負じゃ勝ち目はないと」
そもそも肉体的な勝負でエルナに勝ってる点はあるのだろうか。単細胞だけど勝ち負けとなると、途端に頭も良くなったりするからな。
「作戦プランについては私が考えておきます。試合の一週間前を目処に当日の動き方について練習を開始しましょう」
ユカリは黙って頷いた。
「ところで」
「うん」
「マスターの戦闘面における行動の幅を広げる為に聞きますが、マスターは何か特別な能力は保有されてますか」
ユカリは魔族。それも魔王の血を引いている魔族の中でもトップクラスに稀有な存在だ。彼女が壁を自由自在に造り出せるように、ユカリも何か持っていても可笑しくはない、と考えるのは極々自然なことだ。
「そう言えば教えたことなかったっけ?」
「ないですね」
ユカリも確かに教えた覚えがないと納得するように頷いた。
「そっか。まあ、まずはリンスの位置が把握出来る力と」
「はい」
これはリンスも把握している。今更驚きもしないだろう。
「虫が近寄って来ないようにする能力」
「……はい?」
「それから物凄く死にそうな時にとてつもない力が発揮する能力。要は火事場の馬鹿力」
言い終わると同時に何故か沈黙が訪れた。また正面の従者が酷く呆れた顔をしていた。
「言いたいことは沢山ありますが時間の無駄なので一つだけ。何故そんな使い所が限定された能力を選んだんです? 魔王様の血筋なら色々と選択肢もあったでしょうに」
「そりゃ便利なものも沢山あったし勧められたりもしたけど」
「けど?」
「覚えるのが大変そうだったから」
ユカリが述べるなり、リンスの呆れ顔が更に濃くなった。完全に面倒さの一点で能力を選んだように思われたようだ。
「いやいやいや、意外と便利なんだよ! それに覚えるのも多少は大変だったし!」
補足するや否や残念なものを見るような目をされた。どうやら今度は言い訳に聞こえたらしい。
あ、これ何言っても駄目な奴だ。
「……ひとまずそれらの能力も考慮して戦法を考えることにします」
「お願い」
「承知しました。それでは始めましょうか」
リンスの顔つきが変わった瞬間、穏やかだった空気も一変した。まるで温かみのある春の気候から秋の寒空にまで落とされたようだった。
「地獄の特訓スタートです」
この日、ユカリは死を覚悟した。
★
「何度言えば分かるのですか! 拳を打ち出す時は腰を使うんです! 腰を回転させなさい!」
「イチイチ目を瞑らないでください! そんな反応であの方の攻撃をかわそうなんて夢のまた夢ですよ!」
「そこっ! 泳ぐ手を緩めない! こんなことでへばっていたら本番は開始三分も持ちませんよ! 残り百メートル追加!」
特訓を初めて早二週間。死にそうになりながらも必死にトレーニングをこなす主人に感銘を受けながらも、リンスは内心頭を抱えていた。
彼がエルナに勝てるプランが全く浮かばないのだ。いや、正直に言えば勝てなくても良いとリンスは考えている。ユカリがただ五体満足で勝負を終えてくれるだけで彼女には満足だ。それだけ彼と馬鹿の実力差は離れている。
しかし、トレーナーの自分がそのような軟弱な思想では頑張っている彼に対して失礼極まりない。決闘の盛り上がりもこの際どうでも良いが、せめてあの破壊の化身に食らいつけていくぐらいにはしなければならないだろう。
「一体どうすれば……」
プールサイドに設置した椅子に座り、膝の上に置いたノートにシャープペンを走らせる。
相手がパワーに特化しているなら立ち回りで有利を作っていくべきなのは分かる。ただ、ここで重要なのはあの馬鹿は決してスピードや瞬発力が低い訳ではないことだ。
運動分野でマスターが勝っているところは幾ら贔屓目に見ても見当たらない。大人数の戦闘ならば知力や対応力が活きもするでしょうが残念ながら今回は一対一。非常に絶望的です。
一旦ペンを走らせるのを止め、目の前のプールに目をやる。
全部で八コースあるうちの一つを占有して慣れないクロールを駆使して泳ぎ続けるユカリがいる。疲れからか時に息継ぎが上手くいかず悶える姿が確認出来たが、それ以外はこれといった粗は見当たらない。隣のコースで流暢な泳ぎを見せる水泳部と比較すれば雑なのは認めるが、目的は基礎体力や肺活量の強化であってその点は問題ではない。
戦いにおいてスタミナは非常に重要だ。戦闘中は想像よりも早く体力を消費する。どんなに名高い格闘家も一試合フルで戦えば疲労困憊する以上、戦うという行為の壮絶さは想像の範疇を越えているのである。
あの人その辺には真摯に取り組んでそうなんですよね。やはり奇をてらった戦法しかないでしょうか。
ふと彼を見ると泳ぎがかなり乱れていた。表情も苦悶に満ちている。
それも当然だ。泳ぎを開始してから二時間、適度に休憩は入れているが基本は泳ぎっぱなしだ。疲労も溜まるだろう。
「マスター! もう少しです! 頑張ってください!」
声を掛けると、彼の口角が小さく上がりバタ足の勢いが増した。
非常に健気だ。それ故に愛おしく感じる。
いけない、いけない。今の状況に甘さは不要だ。私がそんなんでどうする。しっかりしなさい私!
煩悩を振り払い再びノートに目をやる。
「やはりルールの穴を突くべきでしょうか」
勝利条件は対戦相手が失神する、もしくは降参した場合。武器の持ち込みは有り。但し仲間は認めない。
他にも細々なルールがあるが大まかにはこんなところだろう。
私が陰ながら援護するのは論外として、どのような武器を持っていくのかが鍵でしょうか。
主人は人を傷付ける為に造られた武器など触れたこともないはずだ。そもそも初心者が振るう武器が彼女に通用するとは到底思えない。
武器を武器以外の用途で使用する。結局これしかありませんね。
ノートに思い付いたことを次々に書き込んでいく。戦法と言える段階まではまだまだ遠いが、切っ掛けレベルぐらいまではアイデアを捻り出せたことだろう。
ほっと一息吐きノートを閉じる。再び彼に視線を移すと疲弊していながらも泳ぎ続ける彼に対して、何人かの水泳部員がエールを送っていた。
知らない顔ぶれですが、同級生でしょうか。
声を掛けている多くは男性だが、中には女性の姿も見られた。微笑みながら見守る者もいれば、運動部らしい熱血振りで応援する人間もいる。ついこちらも明るくなるような光景だった。
少しだけ羨ましいですね。
リンスにも笑いながら話題を共有できる友達はいる。ただユカリに集まる人を見ると、何故か自身が築いた関係が劣っているように思えた。
「あれ……」
何故だか猛烈に外に出たい。劣等感に苛まれてこの場から逃げ出したい訳でも、プール独特の生温かな空気が嫌になったからという訳ではなく、ただ何となく外に行きたい。
時計の針が進むごとに整理のつかない感情が徐々に大きくなる。
気持ち悪い。
謎の感情に従わないだけだというのに吐きそうなほど。
耐えきれなくなりノートとペンを椅子に置き、この場から逃げるように離れた。そして温室と廊下を繋ぐドアを通り玄関へと急ぐ。
プールから離れれば気持ち悪さも消えるかと期待したがそんなことはない。だが、外に近付くほど嘔吐感を上回る幸福感があった。
スリッパから靴に履き替えプール棟から抜け出す。そして何かに誘われる様に校門を目指した。
頭がぼやける。足がふらつく。視界がぐらぐらする。腕に力が入らない。
インフルエンザに罹った時の感覚に似ている。一つだけ違うのは何処からともなく湧いてくる意思が身体のバランスを保っているということだけ。彼女自身には他所からきた力に立ち向かえる程の意識は既になかった。
ぼんやりとしたまま所々錆び付いている校門をくぐり外界へと出る。比較的車通りが少ない道であるが自転車の交通量は侮れない。通勤通学者は勿論、買い物袋を籠に詰め込んだ主婦も多い。足元がおぼつかない今の彼女には危険が多い場所だった。
しかし一度道路に足をつけるともつれ気味な足は普段と変わらないぐらい正常になった。但し低下した思考能力は変わらずに。
自分の意思とは無関係に身体が進んでいく。どれだけ気持ち悪くても吐くことさえ許されなかった。そして我慢の限界を迎えた時、リンスの意識は飛び完全に何物かに掌握された。
次に頭を僅かに覚醒させた時には正面に誰かがいるのを知覚できた。目に映る光景は一昔前のテレビ以上に乱れており、人を人と認識出来ないほどだった。
「実験――せいこ――すね」
何を言っているの?
「もう――意識を――」
分からない、分からない。私をどうする気?
「――――。帰って良いですよ」
やけにクリアな一言を聞き取った瞬間、身体を蝕んでいた吐き気や倦怠感が失せていくような感覚を覚えた。脳内や視界はまだまだ霞がかっているが、数分前よりかは遥かにマシだと思えた。
「早く行きなさい」
威圧的な命令を受け入れ踵を返す。不思議と相手の命は不愉快に感じず、何一つ疑問を感じなかった。正体を知ろうという好奇心すら今はない。
看板の横を通り、呼ばれた場所が最近学校の近くに出来たスーパーの近くだと気付いた。段々と感覚が戻ってきているのは喜ばしいことだが、考えられる頭が帰ってきているだけに碌に思うように動かない体が腹立たしかった。
舗装されたばかりの歩道を通り、来た道をのんびりと帰る。
「お姉さん、綺麗だねー。そこの高校の人? ちょっと俺達と付き合わないー?」
緑のコンビニの横を通り掛かった時、真面目とは正反対の位置に属するような者に話しかけられる。一応は人間のようだが一人は髪の一部を赤く染めており、一人は耳にピアス。最後の一人はリンスを値踏みするような気色の悪い目でガムを噛んでいた。
「ちょっと付き合ってくんないかな。なーに、悪いことはしないって」
「お前誘うの下手くそかよ。もっと笑顔でいけよ、バーカ」
和気藹々としながら自然に一人が彼女の肩に手を回す。普通であれば速攻で振り払うものの未だに腕は動かった。
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!
「なんだ拒否らないってことはOKってことじゃん?」
今度はガムを噛んでいる屑が腰に手を回した。生理的嫌悪感で頭がどうにかなりそうだった。
気色が悪い、虫唾が走る、気に障る!
ふざけるなふざけるなふざけるなー!
「清楚な顔して意外と。いやーそういうの大好きよ」
そんなわけがあるか。誰がお前達なんかと。
「今日は、楽しもうぜ」
耳元で囁かれ身体中に悪寒が走る。鳥肌が立つのを感じ、呼吸は自然と早くなっていた。
今の彼女は無力そのものだった。
嫌、助けて。誰か。マスター!
★
最愛の少女がいつまで立っても自分の元に帰ってことないことに気付いたのは、彼女がプールを離れてから二〇分後のことだった。きっかけは水泳部の同級生。リンスの見た目に気押され、話しかけたくても話す勇気を持てずにいた女子部員が声を掛けてきたのだ。
お付きの女の子がおかしな様子のまま飛び出すように外に行ったっきり帰ってこないと。
すかさずお礼を言うと、温水から出たユカリは身体も洗わずロッカー室まで行き彼女のスマホに電話を掛けた。しかしながら繋がりはしたものの相手からの反応がない。
「リンス」
心の中で悪いと思いながら目を閉じて集中する。
彼女の魔力は移動している。動くスピードから車や自転車ではなく徒歩のようだ。重要なのは彼女が校内にはいないということだった。
重要な用なら俺に一言あるはずだ。逆に重要でないなら今学校の外に出るはずはない。
嫌な予感が確信へと変わったことで、ユカリは水滴がまとわりついた身体を碌に拭きもせず、最低限の衣服だけ纏うと飛び出すように更衣室を後にした。
携帯以外の荷物を置き去りにし真っ直ぐ彼女の元へと急ぐ。長時間水の中に入っていたせいか重力の重さがやたら気になり、度重なるトレーニングで筋肉が、特に太股が悲鳴を上げているのが感じ取れた。
彼女の魔力の動きが止まる。そこが何処を示しているのかは分からなかったが大した距離では無い。全力で走っていけば一分程だろう。
何事も無ければ良い。
真にそう思う。特に最近は彼女にとって良くないことが頻発している。従者の精神の安定の為にも心配が杞憂で終わって欲しかった。
「ここか!」
辿り着いたのは何の変哲も無い空き地に佇んだプレハブ小屋。しかもこれといった特徴は無く、平べったいイメージ通りのものだ。
リンスがこの場所を訪れる必要性は無いよな。もし何らかの事情で俺の認識が誤っていたら謝れば良いだけだ。
覚悟を決めてドアノブを捻り手前に引く。すると鍵を掛けていないのかドアはあっさりと開いた。
最初に目に飛び込んだのは数人の男。全員が全員突然の来訪者に目を丸くしていた。
そして三人の中央には最愛の女性がいる。長身な男に羽交い絞めにされ、赤毛の男に制服を脱がされている最中だった。腰から胸にかけて彼女の白い肌が露になっており、女の子らしいピンクの下着ははっきりと視認出来る。下半身はというと、耳に大きなピアスをした男にスカートを掴まれていたがこれからだったのだろう。特にはだけた様子もなかった。
「誰、お前?」
赤毛が言う。彼にとってはユカリは突然聖域に踏み込んできた邪魔者だ。当然の反応である。
ユカリは答えない。最愛の人間が辱めを受けていたのだ。頭の中は熱が煮えたぎっており罵詈雑言をわめき散らしたい欲望が強くあった。
彼女はユカリが駆け付けても声一つ上げてない。目も何処か虚ろだ。普通じゃないのははっきりと分かった。
そのせいか怒りの感情に囚われてもユカリは冷静だった。即座に力を発動させ事態を収拾させようとする。
「なんだてめぇ、出てけ!」
罵声に怯むことなく土足で上がり込む。暴力の化身と接していたせいで、不当な言い掛かりや乱暴には耐性が上がっているらしい。幾度も死にかけたユカリには大した問題ではない。
「その娘、離して貰えますか?」
彼等の前まで歩を進め言う。
再び唖然とする三人。物怖じしないユカリの行動が癇に障ったのか、ピアスをした男が掴み掛ろうとする。
「はぁ、うっせ――何だ、うわっ! こいつくっせぇ!」
だがユカリの胸元を掴もうとした瞬間、彼の顔は大きく歪んだ。そして不良の一人が放った感情は他の二人にも伝播する。
「コイツきもい、息出来ねっ!」
「やべー吐きそう」
三者共に共通した感想をぶちまけながら部屋から逃げ出すように一目散に出ていく。それらを横目にユカリもまたリンスの傍に寄った。
「大丈夫リンス!」
声を掛けるが反応がない。奴等に何かされたのか、と疑問を覚え彼女の名前を呼び続ける。
「リンス、リンス聴こえる! リンス!」
従者の名を繰り返し叫び続けるユカリ。一度彼女の名を呼ぶ度に語気に力が入り、五度目になる時には語調が乱れに乱れていた。
「リンスっ!」
呼び掛けても返事が無い。
ユカリは救急車を呼ぼうとポケットからスマホを取り出し画面をタップしようとする
「マ……スター」
聴こえてきたのは酷くか細い声。それでも長い時を共にしたユカリには直ぐに声の持ち主が誰か分かった。
「――! 大丈夫? どっか痛む所とかない? 気持ち悪くない?」
「まだ少し……ぼーとしますが……大丈夫です」
ユカリはほっと胸を撫で下ろすと、今更ながら少女の胸元を隠すようにそっと上着を掛けた。汗とプールの水滴で少しばかり湿っており、逆に不愉快ではないのかと疑問がよぎったが深く考えないことにした。
「歩けそう?」
更に質問を投げる。
リンスはあまり身体の言うことがきかないのか、顔を動かさずに小さく「いえ」とだけ返した。
「りょーかい」
言ってリンスの背中と太股裏に腕を入れ抱え込むように持ち上げる。俗に言うお姫様抱っこという奴だ。
「ママママ……!マスター!」
「マが多いけどどうしたの?」
「だってこんな……その、あの!」
赤面しながら何かを訴える少女。彼女の気持ちは分かるが、分かったところで期待に応えようとはしなかった。
「えっと、まあごめん。そりゃ恥ずかしいよね」
「それなら……」
「うん、でも俺はリンスの身体が一番大事だから」
軋む関節を気にかけつつドアまで歩く。
肝心の従者の重さはさほど気にならない。やはり重要なのはどれだけ羞恥心に耐えれるかだろう。
「だから、我慢してね」
一言伝えて無理やり会話を切ると、扉を開けて外界へと出る。外にはまだ三人組がおり罵詈雑言を浴びせてきたが、ユカリが発する臭気に抑え込まれているのかユカリ達を追ってくることはなかった。
通行人の視線を受けながら保健室へと急ぐ。少女は抵抗しても無駄だと感じたのか、すっかりと静かになっていた。
学校にたどり着き真っ直ぐ保健室まで行き、保険医に事情を話しリンスをベッドに連れていく。部活動に最も精が出る時間ということもありすれ違う生徒も数人と少なく、また保険医の女性も詳しい事情を話すまでもなく快くベッドを貸してくれた。ちなみ保険医の先生は紛れもなく人間で人当たりが良く評判も悪くない。
当の彼女はとうと顔全体が真っ赤になっており、何となく「もういっそ殺してくれ」と言わんばかりの表情だった。
そんなリンスを静かに寝かすと、ユカリはそっと保険医が用意してくれたパイプ椅子に腰を下ろす。そして保険医が視診や触診、軽い質問でリンスの体調を確認していくのを傍で眺める。まだ二十代後半だろうが診察には慣れている様子で流れるような動きだった。
「身体は特に何ともないように見えるわね。不調は精神面のせいかな」
「大丈夫そうですか?」
ユカリの質問すると、先生が指を顎に当てながら言葉を紡いだ。
「彼女がどうしてこうなったか聞かせてくれる? 軽く調べただけじゃその質問には答えられないわ」
言われて事情を話すユカリ。時折たどたどしい言葉遣いで従者が補足してくれた為、全量を伝えるのにそう手間は掛からなかった。
「可能性として考えられるのは外部から精神的な攻撃。それも催眠術のようなものかも。もしそうなら今はまともに会話は出来ることに加えて体も多少は動かせるから、ほぼほぼ解けかけている状態ね。放っておけば治るわ」
「催眠術ですか」
軽く首を傾げたユカリが呟く。
テレビでたまに見るが嘘っぱちだと思っているだけあって一概には信じられない。但し、自分が触れたことがない分野ということだけで全否定するのも間違っているとも思う。この世には普通の人間でない種族が沢山いるのだ。自分の知らない誰かが使えたとしても可笑しな話ではない。
「あくまで可能性だけどね。私はこれから職員会議で席を外すけど、保健室は開けておくから動けそうになったタイミングで帰りなさいな」
言って、机の上のノートを手に保健室から出ようとする。
「十中八九大丈夫だと思うけれど、もし心配だったら病院に連れていきなさい」
「分かりました、ありがとうございます」
「それじゃお大事に」
戸が閉まり、静寂に包まれる室内。視線を出入り口から従者へと移すと自然と目が合った。
何となく居たたまれなくなり慌てて言葉を紡ぐ。
「体の調子はどう?」
「少しずつ感覚が戻ってきました。腕くらいなら動かせます」
「そっか、安心した」
小さく笑うユカリ。
ほっとしたのは本当だ。
「……マスター」
「ん、何?」
「最近私、マスターに迷惑ばかり掛けていますか?」
「俺は迷惑だなんて思ったことないよ」
「……そう言うと思いました」
言うと、リンスは動くようになった腕で目元を隠した。
従者としての責務を満たせていない自分恥じているのか。
それとも一般人に辱しめられそうになったことに憤りを感じているのか。
あるいはそのどちらか。
ユカリには分からなかったが、似たような経験は迷路大会でもしている。立て続けに二度失態を犯せば彼女が自分を卑下するのも分からなくはない。
だが、感情に身を任せ暴走した前回と違って今回は他者からの干渉が可能性として浮き上がっている。また手段はどうあれ誰かがリンスを操ったのは状況から言って間違いないのだ。考えるまでもなく、彼女が自身の行いを責めるのは間違いだろう。
そしてその結論に辿り着かないほど彼女は愚かではない。
「しばらく……寝ていても構いませんか」
「うん、ごゆっくり。その間リンスの寝顔でも見て楽しんでるよ」
「うぅ、悪趣味ですよマスター」
言い放つや否やリンスは真っ白な掛け布団で顔を隠した。
そして数秒後、巣穴から飛び出すウサギのようにひょっこりと目元まで顔を出すともごもごしながら言った。
「手を……手を繋いで貰えます?」
「それは構わないけど」
乱れた感覚が不安なのだろうか。
突然の要求に少し戸惑いながらもユカリは椅子ごとベットに寄り右手を差し出す。
「マスターの手は冷たいですね」
「リンスの手は温かいね」
彼女の手はユカリのそれより小さく指も細かった。また何より体温が高く温かみが感じられた。
好意を持っている女の子の手を握る。とても幸せな一時だが、緊張が少女に伝わらないか気になってしょうがなかった。思えばこうやって手を触れ合ったのは何時以来だったろうか。
「そういえば」
満足げな顔つきしたリンスがそっと切り出す。
「強姦魔が逃げ出したのはどうしてですか?」
「寝るんじゃなかっの?」
「気掛かりがあると寝付けないんです」
きっぱりと言い放たれる。
思ったよりもメンタルへのダメージは少なかったのかな。
「まあ大したことじゃないよ。虫が近寄ってこなくなる力を使っただけ」
「そのような能力でどうやって――あっ」
リンスは何かに気付いたかのように一度押し黙った。手にも僅かに力が入ってしまったようで微細な圧力を感じた。
「単なる言葉遊びじゃないですか!」
飛びつくような勢いでリンスが叫ぶ。かなり調子が戻ってきたようだった。
「でも効果はあったでしょ」
「それはそうですが……。でも何処か腑に落ちません」
「リンスはいつでも愚直に真っすぐだからね」
「それは褒められてるんでしょうか」
「褒めてる褒めてる」
シュンとするリンスを宥めながら笑う。小馬鹿にされていると感じたのか、リンス分かりやすく不機嫌な表情を向けると再び布団の中に潜った。しかしながら手の位置はそのままであり、握る強さは先程よりも強くなっていた。
「何にせよ無事でよかったよ」
言って、布団の中でもぞもぞする少女を眺めながらユカリは左手をポケットに伸ばしスマホを取り出そうとする。だが、従者の温もりを感じる機会を無駄にしているような気がして動きを止め、静かに窓の外に視線を移した。
夜と呼ばれても可笑しくない時間ではあるが、夕陽に照らされた世界はまだまだ明るかった。
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