第一章 怨恨

 空腹によって集中力が切れた四時間目。

 ユカリは定年間近の男性が奏でる歴史の授業に耳を傾けていた。

 内容は教科書から多少脱線しており、魔族と勇者御一行の歴史。本来ならば安土桃山時代の講義を行うべきなのだが、待ちに待った瞬間なのか心なしか声に熱が籠っている。とは言え、聞いている生徒の方は退屈だ。何せこの町に住んでいれば誰もが知っていることなのだから。

 十七世紀初頭。ヨーロッパ、それもドイツ周辺に暮らしていた魔族はただ人間と容姿が違うというだけで迫害を受けた。自らの粘液から化粧水を生成することを生業にしていたスライム種族も、トマトの存在を世に広めようとしていた吸血鬼一族も見事に殲滅された。

 しかし、ただ殺されることだけを良しとしなかった魔族は種の存続を掛けて命からがら日本へと逃げ出した。残った種もいたが軒並み駆逐されてしまったのが現実だ。

「ただ、祖国を捨てた先祖も長期の船旅は非常に過酷だったようである。補給を行うだけでも命懸け。見世物に捕らえられる者、食料として八つ裂きにされる者。百人以上いた種も日本に辿り着いたのは五〇にも満たない。辛かっただろう、苦しかっただろう! 私は胸が痛いよ」

 スーツの上から胸部を擦る教師。

 残念ながらその光景を目にし、教室にいる大半が同じことを思ったことだろう。

 胸ないんだよなぁ。

 先生は人と魔族の混血であるがゾンビであり、身体に大きな穴が開いている。しかもそれを自慢にしている節があるので困ったものである。

「それから苦難を乗り越えた祖先達は力を使いつつも、どうにかこの川市市へと移住することが出来た。最初は恐らく先代の魔王様の御力に依るところが大きかったのだろうが、魔族は基本的に温厚な民族だ。人間とも上手く共生し、今に至るというわけだ――、と今日はここまで」

 話のレールが切り替わったままチャイムが鳴り、委員長の号令と共に授業が終わる。

 そうしてクラスがざわめき始め、ユカリは机の袖に掛けていた弁当箱の袋に手を伸ばすと、暑苦しいことこの上ない仲良し三人組が寄って来た。

「ユカリ! 俺達今日弁当忘れて学食なんだけど行く?」

「あー、そうなんだ。じゃあ俺も一緒に」

 クラスメイトの佐藤と鈴木と高橋に誘われ承諾するユカリ。それぞれオークの血筋だけであって体格が良く顔つきもごついが、性格は人並み以上に優しい集まりだ。

 そして弁当袋を掴み、立ち上がろうとした時である――、

「ユカリ様ああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ‼」

「おわああああぁぁぁぁ、べんとうがああああああああああぁぁぁぁぁぁ⁉」

 突然廊下から一人の生徒が廊下から颯爽と現れ、ユカリの机に向かってヘッドスライディングしてきた。それも迷惑なことに顔から盛大に粘液らしき液体を飛ばしながらである。

 しかしユカリはぶつかってきた人間や衝撃のことよりも、手から離れた昼飯へと気が飛んだ。

 ユカリの机が転がる音と共に、窓の方へと吹き飛ぶ愛が詰まった弁当。宙に浮いた弁当箱へ向かって咄嗟に手を伸ばすが、反応が今一つ遅れたせいで掴み損ねてしまった。

 うわああああぁぁぁぁ! もしぶちまけたりした日には一週間は母さん特製のキャラ弁になるぅぅぅぅ! ご飯に文字通り『愛』が書かれる! それだけは絶対嫌だぁ!

 慌てて空中でキャッチしようとするが、無情にも弁当箱は主人の手に届かず地面へと落下していく。そして、どうすることも出来ない現実に打ちひしがれそうになりかけた瞬間、

「お、とっと、と」

 肌色の触手が一本凄まじい速度で飛来し、弁当袋の持ち手を絡め取った。

「危ないところでしたね」

「貴方のせいですけどね!」

 額に汗を滲ませながらも満面の笑みで渡してくる知人に嫌味を飛ばしつつ弁当を受け取る。ついでに騒ぎの張本人はもう一本左腕から触手を生やすと、何事もなかったかのようにユカリの机を戻した。

「それでどうしたんですか生徒会長。何事ですか」

「それが大変なんですよユカリ様ぁ! 助けて下さいこのままだと死んでしまいます!」

「会長の触手液で俺の弁当とクラスの平和が死にそうでしたよ。取り敢えず落ち着いてください。それと《様》は止めてください」

「しかし魔王様のご子息にそんな!」

「《市長》の息子ですよ。特別偉い訳ではありません」

「分かりました。そこまでおっしゃられるなら《ユカリさん》とお呼びします」

 ようやく頭が冷えたのか、床や机にこびり付いた液体に文字通り腕を伸ばし、スポンジをくっつけるかのように回収していく。生徒会長は魔族である触手と人間の血を受け継いでいるので見た目は眼鏡が似合う好青年なのだが、魔族本来の力が発動すればこの通りである。

 正直いつ見ても異様だな。

 話が長くなりそうなのを察し、佐藤と鈴木と高橋にジェスチャーで謝罪を伝えると、憐れむような表情を浮かべながら部屋から出ていった。同時にクラス内の熱も冷めたようで、生徒会長が飛び込んでくる前の賑やかな日常に戻った。

「それで助けて欲しいことってなんですか?」

「本当に困りましたよ。予想外のことにストレスで胃に穴が開くところでした」

 胸を抑えつつ、生徒会長は空いていた前の席に座った。

「来週の修天学園との打ち合わせに関してなんですが……」

「もしかしてあんまり上手くいってないんですか?」

 ユカリが尋ねると生徒会長は神妙な顔つきで顎を下げた。

「マジですか。まあすんなりいくとは思ってなかったですがきついですね」

 ついつい重い息を吐いてしまうユカリ。

 実のところ生徒会長が抱える悩みに関しては、僅かであるがユカリもまた絡んでいた。

 修天学園は志野習市にある高等学校である。生徒の殆どが魔族を虐げてきた一族で構成されており、生徒会長はユカリが行う二つの市の友好活動を支援する一環として学校間交流を提案したのだ。

 一〇〇%善意の行動である為、彼の提案を知った時はユカリも喜んでいた。だが、嬉しいという感情以上に不安が心の大範囲を占めてしまっていたのだ。 

 志野習市の住民は魔族を敵視している。と、言うのも志野習の人間は魔族がヨーロッパに居た時から排斥活動をしていた民衆の子孫。魔族を殺す為に日本まで付いてくるほどのしつこさ、また志野習の原住民を追い出すほどの横暴さを兼ね備えた集団の子であれば、一筋縄ではいかないことは明白だ。昔は《勇者の一族》と呼ばれていた程であるが、魔族からすれば恐怖の対象でしかない。

「いえ、学校間交流の段取り自体は上手くいっています。私も最初はもしかしたら殺されるかも何て思ってましたが、驚くほど友好的でしたし。意外と魔族に興味津々な方も多く、若い人は敵対視する数が少ないことも教わりました。ただ――」

「ただ?」

 急にテンションが下がり、言葉を濁した生徒会長を気にせず尋ねる。

「今まで打ち合わせに参加していなかった相手方の副会長がその、修天学園の学校見学に同行することになったんです。ただ会議に不参加だったのは公務でしたので、時間に余裕があるのなら当然と言えば当然の帰結なのですが」

「あー、あっちの副会長って確か」

「エルナラ・シノン・ヴァイザー氏です……」

 やっぱりか。反友好派勢の頭角じゃないか。

「やっと話が理解出来ました。つまり学校見学に付いてきてほしいと」

「話が早くて助かります」

「でも俺生徒会役員じゃないですよ」

「そこは臨時生徒会役員として扱いますから大丈夫ですよ。うちの生徒会、志野習市民が持つ《聖気》に対する耐性が低いメンバーが多いせいで、学校見学に参加出来そうな人は魔族じゃない書記の女の子だけですので……。流石に二人では見学も何もあったものじゃないでしょう」

 苦笑しながらしみじみと述べる生徒会長。

 哀愁に満ちた瞳の前にして、掛ける言葉がこれと言って浮かばなかった。

 魔族が種族毎に特別な力を持つように、勇者の一族も全く正反対の性質とはいえ同じような能力を持っている。身体能力の強化。厳しい環境への耐性。利点を上げれば限りはないものの、スポーツの大会の出場には制限があるといった欠点もある。

 志野習は聖気に満ち溢れてるからなぁ。確かに人を選ぶか。

「それなら仕方ないですね。エルナが居るとなれば代わりの生徒を探すのも難しいでしょうし」

「それでは!」

「但し、条件があります」

 高揚した声を上げる生徒会長を制止するようにユカリは見つめる。

「一年の真壁リンスも同行させてください」

「それは構いませんが、真壁って、ユカリさんの秘書の方ですよね?」

「はい。想像されているような銀色の髪の子ですよ」

 仕事上表舞台に立つことは滅多にないリンスだが学校内となれば話は別だ。高等学校というものは、容姿端麗な彼女が一度も話題に上がらないほど大きな社会ではないのだ。

「失礼ですが、どうしてまた? 今回は仕事というわけではないのですから、彼女を同行させる理由がないような」

 当然の疑問をユカリにぶつける生徒会長。

 生徒会長の疑問は最もだが、とても大切な前提が抜けている。

 ユカリにとって一番とも言える程の必須要素が。

「理由ならありますよ」

「はぁ……。それは?」

「エルナに殺されない為ですよ」

 微笑みながら告げるユカリを前に、生徒会長はただただ呆気に取られていた。

 自身の昼ご飯の予定を忘れる程。


             ★

 

 志野習市は人工的に清浄された土地である。勇者の一族は聖気によって力を得ているが、聖気を維持するのは清らかな場所に暮らすことが必須となる。故に勇者の一族にとって、元々何の変哲も無い環境を身勝手に浄化した理由としては十分過ぎる程のものだった。

 かと言って、ただ聖気を養う為だけに無機物までに気を払うかねぇ。

「マスター、大丈夫ですか?」

 丁度電車を降り、ホームへと降り立ったところで銀髪の少女に声を掛けられる。

「あ、うん。大丈夫。ちょっとぼーっとしてただけ」

「そうですか。それなら安心しました」

 心底気を遣ってくれたのだろう。ユカリの言葉を聞いて安堵している彼女は非常に可愛らしかった。

「聖気ってそんなに魔族の負担になるものなんっすか?」

 質問してきたのは同行するメンバーの中で唯一生粋の人間である書記の田中。隣を歩くリンスに比べると容姿は劣るものの、無垢な表情と人懐っこい性格は今日初めて会ったユカリでも男に人気があると思えるような雰囲気を漂わせていた。むしろコミュニケーション能力に優れた性格であるからこそ、魔族の多い学校で問題無くやっていけているのかもしれない。

「私は幼少時から訓練を受けているので、正直これと言って違和感はありませんね。ですが、聖気に慣れていない人にとっては二日酔いの朝のような感覚、というのはよく聞きます」

「吐き気や眩暈、頭痛とか?」

「酷い時はインフルエンザに掛ったような体調になるらしいよ」

「へぇ、あんな感じっすかね?」

 一旦立ち止まって後方へと振り向く田中に釣られてユカリも後ろを見る。すると、ふら付きながらも必死に付いてくる生徒会長の姿があった。

「だ、大丈夫ですか会長!」

「あぁ、はい、まあ何とか大丈夫です。先程聖気による症状を抑える薬も飲みましたし」

 声に覇気は無いが、これと言って問題は無さそうだ。

「普段平気でも体調に左右されやすいのが聖気の厄介なところですね」

「魔族の皆さんも大変なんっすねー」

 そう言って軽快に階段を昇っていく同級生。魔族にとって悪名高き聖気もただの人間の前には普通の空気と同じらしい。

 彼女に続き改札前の空間まで上がると、様々な飲食店や薬屋、売店が飛び込んできた。駅には必ずと言っていいほどある蕎麦屋どころか肉まん屋やスープバーといった凝った店もある。駅中という単語で済ませるには惜しいと思えるほど活気づいた風景だ。

 ただ、何処と無く視線を感じるのはユカリ達が魔族であることを認知しているからだろうか。

「あ、あそこじゃないっすか」

 改札の向こう側。南口の一角を指差した田中が全員を先導するように歩いていく。段々と目的の場所へと近付いていくうちにつれ、柔和な彼女の表情がどんどん明るくなっていくのをユカリは見た。

 改札を通り、ブレザーの制服姿で一人佇む少年に近付く。

 すると彼もまたこちらに気が付いたのか、慌てる様子もなく静かに口を開いた。

「お久し振りです。ようこそ志野習へ」

「こちらこそお久し振りっす。今日の案内は会長さんだけっすか?」

「いえ、副会長が学校で待っていますよ。そちらの方々はもしかして、川市の――」

 どうやら向こうはユカリとリンスの立場を知っているようだった。物腰の柔らかさと言い、口調の丁寧さと言い、生徒会長のお手本のような素晴らしい人物だ。

「川市市、特別地域交流課長――ではなく、今日は会計補佐の市河ユカリです」

「同じく、書記補佐の真壁リンスです」

「やっぱりそうですか! 初めまして、修天学園生徒会長の伊藤です。お二人については、同年代の方が市の友好の為に働いているのを知ってからずっと尊敬していました。本日は宜しくお願いします!」

 深々と綺麗なお辞儀を見せる伊藤。同じ生徒会長という立場でも、熱意や礼儀といった点では触手よりも遥かに勝っているようだった。

「いえいえ、こちらこそ宜しくお願いします」

 ユカリの謙虚な言葉と礼に続き、リンスもまた軽く会釈をする。隣で自校の生徒会長が死にそうになっていながらも、気にせず社交的な笑みを浮かべているのは伊達に秘書業をやっていない、といったところだろうか。

「それでは行きましょう。こちらです」

 南口へと歩を進める伊藤に付いていく一行。広場と横断歩道橋が隣接したペデストリアンデッキへと進むと、広大な敷地に複数のビルが建っているのが目に入った。

「あれが修天学園っすかー。予想以上に大きいっすね」

「元は大学のキャンパスでしたからね。五年程前に大学が移転した為、建物ごと買い取ったらしいですよ」

「へー、だから一つ一つの建物が新しく見えるんですね。隣の商業施設よりも綺麗ですよ」

 ユカリの発言に皆が皆、正面の某有名電気店やスーパーが入ったデパートに視線を移す。色褪せた塗装が目立つデパートに比べ、修天学園の人工物は定期的に手入れをしているのか荒が見当たらなかった。

「そうですね、学園長が大変綺麗好きな方なので。清掃の回数は他の学校の二倍以上だと思います。勿論教員や生徒も清らかな人が多いですよ」

「これも志野習の聖気に溢れた土地が影響してるんっすかねー」

「全く関係ないとは言い切れないと思います。私達魔族は温厚な人が多いですが、犯罪者率で言えば全国平均より僅かに高い傾向にあります。その点志野習市の治安は非常に良好です。種族の違いもあるでしょうが、土地柄や空気も影響しているでしょうね」

「ただ、清らかであるというのと攻撃的でないということは、決してイコールではないのが残念なところですが……」

 溜息にも似た重い息を吐きながら言う伊藤。その発言に共感するようにユカリは小さく頷いた。

 十中八九エルナのことだろうなぁ。お気の毒に。

 同情の念を抱きながら歩道橋を渡り正門へと辿り着く。小部屋程度の警備室の中で立っている警備員に会釈をしながら通り抜けると、先程頭の中に浮かべた人物がドヤ顔で通路の真ん中に仁王立ちしていた。

「あぁ、予測はしてたけど面倒なことになりそうだ」、と内心思った瞬間、

「っっ!」

 突如彼女から放り投げられた球状の物体が凄まじい速度で眼前に迫ってくる。

 避けようにもスピード以上に勢いと音に圧倒され身体が動かない。そもそも回避行動を取れたとしても、ユカリの身体能力で無事に回避出来るかと言われれば大変怪しかった。

 よってユカリが目を瞑ることしか出来ずにいたのも仕方ないことで、

「危ない!」

 と、一言述べながら飛翔してきた物体をリンスが受け流したのも二人にとっては当然のことだった。ただ、弾いた方向に魔族が居たのはユカリにとっては予想外だったが。

「おっぐぇ!?」

 蛙の断末魔に似た声が響き渡ると同時に生徒会長の腕が吹き飛んだ。

 呆気に取られる伊藤。田中の方は生徒会で見慣れているのか特に気にした様子はなかった。

「危ないところでしたね、マスター。お怪我はないですか?」

「うん、ありがとう。誰も怪我がなくて良かった。流石リンス」

「いえ、それほどでもありません」

 些細なこととはいえ、ユカリからの謝辞が嬉しかったのか、そっけない言葉を述べながらも僅かに口角が上がったのをユカリは見逃さなかった。そしてそんな素直になれない彼女に対して改めて可愛いと思えた。

「ちょっとまるで何とも無かったかのように流さないでくださいよっ! 思いっ切り私に被害が被ってますけどぉ! 腕吹き飛んでますけどぉ!」

 肩から粘り気のある体液を吹き出しながら生徒会長が絡んでくる。痛みや腕がもげたことへのショックよりも無視されたことへの怒りの方が上回っているようだった。

「逆に考えてください。それほど会長の再生能力を信頼していた、と」

「無理して私の方にやる必要はなかったですよねっ! 上方でも良かったですよね!」

「空に飛ばしては落ちてきた時に他の方に被害が及ぶ可能性があります。その点生徒会長に飛ばせば悲しいことになるのは会長のみです」

「『何を可笑しなことを』みたいな表情で言ってますけど、痛みはありますからね! もっと触手を労わってください!」

 「善処します」と、リンスは心にも無いような発言を残しそっぽを向いた。どうやらリンスの生徒会長に対する評価は非常に低いらしい。もしかしたら過去に何かあったのかもしれない。

「あの、大丈夫っすか? すみません、うちの生徒会長が気持ち悪くて。すみません」

 触手が宙を舞ってから時間が止まっていた聖天学園の二人を気にして田中が声を掛ける。すると、エルナの方は空想世界から現実へと戻って来たかのように、緩んでいた顔が一瞬で強張った。

「べ、別に聖天学園の副会長である私が、こ、こんなことぐらいで動じる訳ありませんわ! たかが腕一本やられただけですわ!」

「いや、やったのはお前なんだが」

「厳密に言えばリンスさんっすけどね」

 田中のツッコミに視線を逸らす銀髪の少女。目線の先には飛び散った体液をせっせと回収する不審者がいただけで、これと言って変わったことはなかった。

「と、とにかく、ようこそ聖天学園へ。私は副会長のエルナラ・シノン・ヴァイザー。個人としては別に歓迎はしませんが、私達の学び舎について全力で見識を深めていくと良いですわ!」

 エルナは偉そうに宣うと、付いて来いと言わんばかりの圧を振り撒きながら敷地奥の施設へと歩みを進めた。

「攻撃してきたことは特に謝らないんっすねー」

 田中がエルナの背中を見ながら呟く。

「エルナが俺に対して先制攻撃してくるのはいつものことだからね。いやー、やっぱりリンスを連れてきて正解だったよ」

「マスターの護衛も私の仕事ですので」

「素晴らしい信頼関係っすねー。見ていて目の保養になるっす」

 田中が茶化したところで揃ってエルナの後を追う。生徒会長コンビは未だに呆然と立ち尽くしていたが、ユカリとリンス、ついでに田中はこれと言って気にせず進んだ。

 こんな些細なことを一々気にしていては己の役目など果たせない、と言わんばかりに。


             ★

 

「中々小さな嫌がらせが続くっすねー。やっぱり嫌われてるんっすかね、私達」

「そうみたいですね。ただ、ここまで露骨だと逆に清々しさも感じますね」

 後方にいる女性陣の感想を聞きながら、ユカリは食堂入口の食券機の前に立った。午前中に遭遇した嫌がらせの数々を考慮すれば、機械のボタンや現金投入口にも細工されている可能性はある。しかし、直前に伊藤が使用していることを考え警戒心を解き、五〇〇円玉を投入した。

「私は御手洗いの蛇口に聖気をこれでもかと込めていたのは評価が高いですね。どうしても油断が生じがちな場所に対し、ターゲットだけに有効な罠を張るというのは中々思いつかない芸当だと思います」

「それなら図書館のゲートも殺意があって良かったっすよ。ゲスト用のカードキーでタッチした瞬間に対魔族用のガスが噴出されるなんて一般人の発想じゃないっすよ。流石修天学園の学生は違いますね」

 褒めてるのか貶してるのかどっちなんだろう。

 素朴な疑問を浮かべながらきつねうどんのボタンを押す。お釣りと食券を回収すると、既に買い終わって通路の隅で仏頂面をしていたエルナの隣に移動した。ふと彼女の持つ食券の内容が気になり視線を向ける。

「A定食か。意外と普通なんだな」

「私もここではただの学生ですもの。当然ですわ」

 思った内容がつい言葉に出てしまっていたらしい。エルナが鼻を鳴らし、強い語気で反論してきた。

「そういう貴方こそきつねうどんじゃない。平凡」

「別に良いだろ、きつねうどん。美味いじゃん」

「それは言えるわね」

 当然のことながらすぐに会話が止まる。相性が悪いのも関係しているが、公務の仕事を除けばお互いのことを全然理解出来ていないのも一因だろう。しかしそれ以上にエルナが発する負のオーラが話を阻害しているようにユカリは思えた。

 何か、苛立ってんなこいつ。トラップ自体は上手くいってるように思えるけど。

 修天学園に来た目的である学校見学という面で見れば今回の活動は成功している。授業風景や施設の見学、また少数の生徒会メンバーと職員だけとはいえ触れ合えることが出来た。しかし、行く先々で罠を張られて被害が出ていることも事実だ。成果と問題が同じ程度で存在しているのはやはり問題である。

 やっぱエルナが仕掛けてきてんのかなぁ。ただなぁ。

「お待たせしました――って、大丈夫ですか?」

 隣の少女の浮かない顔に気を取られていると、食券を持った伊藤に呼ばれ思わず身体が跳ねてしまう。それが滑稽で面白かったのか、つまらない表情を浮かべていたエルナに自然と笑みが零れていた。

「愉快なものも見られたことですし、行きましょう。席は取ってありますわ」

 上機嫌になったエルナを先頭に食堂の中に入っていく。

 建物内は高校とは思えないほど広く、机や給水機、食券を渡すカウンターから僅かに見える厨房までも非常に綺麗だった。やや時間をずらしていることもあり生徒の姿は見られないが、全員の注文を受け取る頃には人で溢れかえることに違いないだろう。

「麺類は一番奥、定食と丼はその手前、軽食系は入り口横のコーナーになります」

 伊藤の案内を受けて、伊藤と触手は軽食に。エルナとリンスは定食コーナー、そしてユカリと田中は麺類のカウンターへと向かった。

「田中さんは何頼んだの?」

「スペシャル味噌ラーメンっす。こんな豪華な高校が提供するラーメンが業務用のスープなのか自前なのか気になりません?」

「確かに」

 きつねうどんの食券を田中に見せつけた後、銀色のカウンター上に差し出す。すると、いかにも食堂のおばちゃんといった風貌の女性が食券を確認し、威勢の良い声で注文内容を口に出した。

 調理者の一連の作業に目を奪われていると、あっという間に正面の受け取り台に盆の上に乗ったうどんが置かれていた。麺の湯で時間が同じくらいだったのか、続いて田中の頼んだラーメンも隣に置かれる。

「良い匂いっすね。お腹が鳴ってるっす」

「田中さんは正直だねー。じゃ、行こうか」

 お盆を持ち上げた途端、四時間目の終了を知らせるように聴きなれた音程のチャイムが館内中に鳴り響いた。そして、それに呼応するかのように何処からともなく食堂の前に大勢の生徒が集まり始めた。

「めっちゃ殺気だってるっすねー。あの人なんて人間の目をしてないっすよ」

「こわっ! 定食のおかずめっちゃ睨んでるよ。昼の食堂は種族の枠とか関係無いんだな……」

 たまにしか行かない自分達の学食を想像しつつ、ユカリは田中と共に一足先に着席していたエルナとリンスの元へと向かう。一区画丸々貸し切っている様でテーブルの中央には青い札が置いてあった。

「定食も美味しそうだね」

「はい、近頃お弁当ばかりでしたので新鮮です」

 チキンカツ定食への感想を述べ、エルナの向かいへと座っているリンスの隣に腰を下ろす。

「あ、伊藤さん達も来たっすね」

「《早くて安くて美味い》がこの学食のモットーですから」

「どっかの牛丼屋みたいだな」

「良いところは見習うものよ」

 眼前の金髪少女に鼻で笑われるものの、特に気にせず残った二人の到着を待つ。過去に散々馬鹿にされれば流石に慣れるというものだ。

「お待たせしました」

 一言断ってから手持ちのお盆を机に置いて席に着く聖人と触手。二人の前に並んだサンドウィッチは同じだが、伊藤の方が心なしか美味しそうだとユカリは思った。

「全員揃いましたね。それでは頂きましょう」

 特に祈り事や感謝を述べることもなく淡々と各自が「いただきます」の一言と両手を合わせ食事に手を付けようとする。

 流石のこいつでもご飯には何も仕込まないか。

 食事においても魔族と勇者の一族で変わりないこと、そして宿敵が攻撃してくる様子が皆無なことに安堵しユカリも箸を取る。器を持ち、湯気が立ち上るつゆに恐る恐る口を付けると、鰹節の柔らかな風味が口の中に広がった。塩加減も甘さも丁度良い塩梅だった。

「うどんなら七味を使ってみては如何ですか。ここの食堂長が調味料には五月蠅い方で、ご自身で厳選されたものだそうですよ」

「へー、そうなんですか」

 サンドイッチを片手に持った伊藤から助言を貰うと、自然と隅の調味料置き場に佇む銀の容器に目がいった。するとすぐさま「どうぞ」という声と共にそれが差し出される。

「ありがとう、リンス」

「いえ、従者として当然のことです」

 一旦両手に持った丼を下ろしそれを受け取る。出し口が回転式であることを確認し右に回す。が、蓋の内側の淵に粉が溜まっているのかピクリともしない。

 今度は更に力を込めて捻る。動かない。

 もっと力を込める。ビクともしない。

「うぐぐぐぐっ、ぐっぐ!」

「市河くん、顔が凄いことになってるっすよ」

「いや、めっちゃ硬いんだって。やばいってこれ!」

「本当っすかぁ。ちょっと貸してもらって良いっすか?」

 一応沽券に関わる問題なので素直に容器を渡すユカリ。田中は余裕そうに容器を受け取ったものの、蓋に力を込めるや否や瞬時に真顔になった。

「ダメっすね。疑ってすみませんでした」

「では、次は私が。仮にも魔族の血統がたかが調味料に負けたとなれば末代までの恥です」

 相手が銀色とあっては負けられないところがあるのだろうか。大口を叩いたリンスは手に渡った七味に対し一旦睨みを利かせる。

 意味があるかどうかは分からない。しかし気合は入っているようだった。そして数秒後。

「馬鹿にして申し訳ありませんでした。このリンス、一生の不覚」

「ダメなんかい!」

「申し訳ありません。如何なる処罰も受ける所存です……」

「高々容器回せなかったぐらいで何と戦ってるんっすか」

 田中の言葉を聞いて更に凹むリンスを宥めながら、机の上に置かれた連戦連勝中の相手へと目を向ける。ひょっとしたら聖気がある人間にしか開けられないようになっているのだろうか、と疑ったところで不意に容器が宙に浮いた。

「やはり開きませんね。何か細工してあるのでしょうか?」

 伊藤が考え込むように言い放つ。どうやら橋船市民でも開封不可能のようだった。

「副会長もどうです?」

 開けられなかった悔しさなど微塵も見せずにエルナに促す。勿論挑戦の誘いを断るような性格でもなく、エルナは自信たっぷりな笑みを浮かべながら容器を受け取った。

「良いでしょう、貸してみなさい」

「ではどうぞ」

 っ、何だ今の⁉

 一瞬背筋に走った悪寒に戸惑うユカリ。隣の銀髪美少女も違和感に気付いたのか柔和な顔が一転、訝し気な顔つきで眼前の調味料を睨んでいた。

 もしかしてまた変ないたずらが!

「ちょっ、エルナ! 待っ――」

「あ――」

 ユカリの声が彼女に届くよりも前に、エルナは全力で調味料の容器を捻った。

 そして、今まで接着剤で固定されていたかのように締まっていた蓋はいとも簡単に開き、

 力加減を間違えた少女を嘲笑うかのように豪快に中身を外にまき散らした。

 訪れたのは一瞬の静寂。

 畳一畳ほどの小さな空間の空気を見事に凍らせた事象に誰しも反応出来なかった。

 それもそのはず。エルナが容器を開けた時の角度が悪かったのか、七味はユカリとリンスの二人の食べ物だけに直撃していた。

「ぁ、ごめんな――」

 流石の高慢なエルナでも謝罪を言い掛けた瞬間、

「何やってるんですか! 幾ら皆さんの事を快く思ってないからと言ってこれは酷過ぎます!」

 食堂内そのものを震撼させる怒号が伊藤から発せられた。あまりの怒号にユカリどころか同席していた全員が怯んでしまった。傲慢で自信家なエルナでさえも。

 たった一人の叫びが新たな騒ぎを生み、人から人へと広がっていく。ユカリが事態の面倒さに気付いた時にはギャラリーの好奇な目と好き勝手な言葉で溢れていた。

『うわぁ、酷いな。うどんが真っ赤だよ』

『あの人達魔族って本当? 気の毒だね』

『いやでもあれ意図的じゃね? 副会長魔族嫌いだし』

『流石にあれはねーわ。ちょっと軽蔑するなぁ』

 推測が疑惑を呼び、真実を捻じ曲げながら蔓延していく。ものの数分で悪者と認定されたエルナは自慢の高慢さで事態を乗り切ることも出来ず、ただただ戸惑うことしか出来ずにいた。

 違う、エルナは悪くない。悪いのは容器の異常なまでの締まりであって、エルナには非は……ないはず! 言って誤解を解かないと!

 しかし午前中に受けた嫌がらせが不意に脳裏に浮かび、ユカリの行動が一歩遅れる。

 結果、言葉が出る前に彼女の方が悪意無き台詞に折れた。

「ごめんなさい。食欲が無くなったので少しの間席を外します。食事の変えは調理師に一言伝えれば変えて貰えると思いますわ」

 逃げるようにこの場から去ったエルナに誰もがフォローを入れることも出来ず、ただただ自信を無くした彼女の背中が視界から消えるまで見ていた。事の次第を見ていた周囲の人間も徐々に熱を失ったかのように元居た場所に戻っていく。

 残ったのは七味がぶちまけられた定食とうどん。加えて赤く汚れた机。腹が減っているとはいえ、とても食事を続けられる気分ではなかった。

「申し訳ありません。お見苦しいところをお見せしてしまって」

「いえ、気にしてないと言えば嘘になりますが平気ですよ」

「そうですよ。人間失敗はあるものです」

 何度も頭を下げる伊藤に対して、全くやり取りに絡んでいなかった触手が平然と言う。

 今日この場で一番失敗しているであろう人間が言うと説得力があるな。

「そう言って頂けると助かります。私は副会長の様子を見に行きますので、皆さんはこのまま食事を続けて頂いても構いませんし、ご紹介した図書館の上の会議スペースで休まれていても構いません。食事の方は先程副会長が述べた通り、調理師の方にお伝えすれば取り換えて貰えると思います」

「分かりました。では後程」

「はい、ご迷惑お掛けして申し訳ありません」

 小さくお辞儀を行うと、伊藤はエルナが消えた方向に小走りで向かって行った。そして彼が完全に姿を消すのを確認した途端、ユカリは気を引き締めるように席を正した。

「さっきのあれ、何か可笑しくありませんでした?」

 うどんの上の七味を器用に箸でナプキンの上に移しながらユカリが述べる。

「何がっすか? 完全に事故に見えましたけど。てかそれ食べるんすか?」

「うーん、まあ勿体無いしなー。一味なら兎も角七味だし。会長は何か気になるところありませんでした?」

 ようやく話を振られたのが嬉しかったのか、暗かった表情に明るさが戻った触手が元気に答える。

「ええ。私の気のせいかもしれませんが、容器の蓋を開ける際に僅かに聖気を感じました」

「私もです。もしかするとあれは故意かもしれませんね」

 備え付きのウェットティッシュで机を拭きながらリンスが言う。

 信頼している女性と、ついでに生徒会長が予想していたことと同様の感想を持てたことが嬉しく思い、つい七味を退ける作業を止めうどんを啜ってしまう。

「えふっ、ごが――美味いけど辛っ! かっら!」

 唐辛子が放つ喉を襲う痛みを消し去る為に、慌てて水を流し込む。

 辛味が先走り過ぎて、旨味を感じる暇が全くなかった。

「あれがわざとっすか? それにしては真に迫ってたっすけど」

「彼女なら有り得ます。何せ魔族を叩き潰す為なら手段を選ばない女です」

「言葉からやたらと棘を感じますが何かあったんですか?」

「質問に質問で返して恐縮ですが、今日だけで何度襲われましたか会長?」

「なるほど、確かに」

 銀の少女の圧力に負けたのか、生徒会長が納得した顔でサンドウィッチを口にした。一番被害を受けていたのは彼なのだから、触手が納得するのも当然だった。

「まあ真相はどうあれ、これ以上俺達に飛び火さえしなければ気にする必要ないと思いますよ。聖天学園内の揉め事に口を出す権利も義理も無いですし」

「同感です。あの方に関わるといつも碌なことになりません」

 言って、定食の味噌汁に口を付ける美人秘書。

 辛さに耐性があるのか、汗一つ浮かべることなく赤みが増した定食を味わっていた。

「そうっすか。でもちょっと可愛そうっすね」

 田中が同情の眼差しを入り口に向けながら呟いた。

 その姿が僅かに胸に刺さり、ユカリのうどんを食べる速度が落ちた。

 フォローを入れるべきだろうか。だが、《特別地域交流課長》に選ばれてから彼女と何度衝突し、物理的にも社会的にも殺されそうになったか数え切れない。今日だって悪質な悪戯を幾度となく受けた。目立った被害こそないが、一歩間違えれば大怪我しても可笑しくないようものもあった。

 あいつを……エルナを助けるなんて有り得ない!

「マスター、どうかされましたか?」

「あ、いや、えっと何?」

「いえ、食べ終わってもなお遠くを見るような目を丼の中に向けておられましたので」

「ごめん、ちょっと考え事してて。大丈夫だよ」

「それなら良いのですが」

 どうやら食事をしながら一〇分程度呆けていたらしい。何時の間に丼の中の麺は無く、ユカリを含めた全員が食事を食べ終えていた。ぼんやりしていても適当に相槌を取っていたのか、それほど不信感を持たれなかったのが救いだった。

「午後からの会議は一時半からでしたっけ? あと一時間ほどありますけど、皆さんどうするっすか?」

「私は会議スペースで休んでいます。まだしんどいので」

 と、会長。

「では私は折角ですので他の施設を見て回ろうと思います」

「あ、私も付いていくっす! 市河くんはどうするっすか?」

「じゃあ俺は図書館で本でも読んでよっかな。面白い蔵書とかあるかもしれないし」

「それなら私とユカリさん、真壁さんと田中書記で分かれることになりますか。意図せず男女別々のチームとなりましたね」

「会長、市河くんと途中まで同じだからって破廉恥なこととかしちゃ駄目っすよ」

「私を何だと思ってるんですか、田中書記!」

「それは勿論触手っすよ」

 悪魔のような微笑みで言い放つ同級生の少女。場を和ませようとしているのか、それともただ単にからかっているのか真意は分からないものの、クラスで人気がありそうな人間だとユカリは思った。

 だが、男同士だぞ田中。

「やはり私が同行しましょう。専属秘書としてマスターをお守りしなければなりません!」

「大丈夫だって! 会長を少しは信じてあげて!」

「信じられないから言ってるんでしょう!」

「辛辣っすねー」

 涙目になっている触手を宥めた後、半ば引きずるように書記が下級生の少女を連れていく。不満気ながらも為すがままになっているのはやはり気が合うからだろう。

「じゃあ俺達も行きましょうか」

「はい……」

 食べ終えた食器を乗せたお盆を返却口に返し、食堂を後にする。

 昼休みも残り少ないのか食堂前の人通りも僅か。それでも制服の違いからこちらを気にする視線を感じるが、それよりも授業の準備の方が大事なのだろう。ユカリ達を一瞥しては教室があるであろう建物に入っていく生徒が殆どだった。

 あ、ベンチで日向ぼっこしてる人居る。この陽気だし授業ギリギリまで寝てるんだろうなぁ。

 空を見上げると雲一つない空。外で寝るには絶好の天気と言える。

 歩きながらユカリ自身も春の暖かさを感じつつ、図書館がある館内へと入る。そして、ドアを潜った後の階段の踊り場で会長と分かれると、ゲートキーに臨時カードを押し当て静寂に支配された空間へと足を運んだ。

「何か珍しいものは、っと」

 ソートされた本の背に人差し指を当てながら本棚の迷路を進んでいく。図書館の司書は返却された本の片付けに忙しいのか、軽くユカリの顔を確認した程度で特別興味を持たれることはなかった。

「あんまり面白そうなものないなー」

 気になる本を手にとっては数ページ捲り元の場所に戻す。

 同じ作業を繰り返す内に一階の奥へと辿り着くと、目当ての本を探している内に自然と視線が上がった。直後、天井に下げられた看板にジャンル毎の場所が記載してあることを発見し、小さく息を吐いた。

「二階じゃん……」

 落胆しながらも本棚の迷宮を抜け、図書館内の階段に足を延ばそうとする。と、

「うぉっと! 何だ、何だ?」

 すぐ傍の窓が大きく揺れる音にビビり、思わず身構えてしまう。地面が揺れていないことから地震では無いことに胸を撫でおろすと、好奇心に負け元凶を求めて窓際へと近寄った。

「っっ!」

 外界に視線をやると飛び込んできたのは仇敵。

 先程の出来事に怒っているのか近くの樹に拳をぶつけるエルナの姿があった

 エルナ! 何でこんなところに。

 彼女に視認される前に咄嗟に壁に張り付き、彼女の様子を伺い続ける。

「って、何やってんだろ俺」

 エルナに関わるのは面倒、という先入観が身体にこびりついていることを実感させられ、つい溜息が漏れてしまう。だが、今だけは自分の直感が正しい自信があった。

 殴る。蹴る。殴る。殴る。殴る。蹴る。

 まるでサンドバッグでも叩いているかのようにリズミカルに打撃を加える彼女。過去に同様のことを行っていたようで、攻撃の対象となっている幹は外皮が剥がれ白い身が露出していた。

「ひっでぇ。あいついつもこんなことやってんのか?」

 一心不乱に攻撃を加えて幾分か満足したようで、反転してユカリの方へと近付いてくる。そしてユカリが逃げようとする前に、図書館の壁に向かって拳を叩き付けた。

「おっわぁぁぁぁっ!」

「さっきから何を覗いてるのかしら? 殺しますわよ」

「もう殺そうとしてんじゃねーか! マジモンのバケモンかよお前!」

「魔族に言われたくないわね」

 外壁を豆腐のように簡単に貫き、ユカリの細首を掴むエルナ。ついでのように窓を盛大に叩き割ると、獲物となっているユカリを視認してきた。まるで悪魔のような形相に思わず息を呑んでしまう。

 とうとうこいつに殺されるのか俺。やっぱエルナに関わるとロクなことにならない……。

 どうにか拘束から逃げようと暴れてみるも、騒ぎに駆け付けた司書の姿が視界に飛び込んできただけで、特に何も起こらない。しかもエルナの凶暴さが知れ渡っているのか、司書に助けを求めて手を伸ばしたものの、我関せずと逃げるように受付の方に逃げられてしまった。

「どうして監視してましたの? もしかして尾行してきたとか?」

「たまたまだよ! たまたま! 図書館で歴史の本探してたらお前が見えたんだよ!」

「はい、うそー。歴史書ならそっちにでもあるでしょう。わざわざこっちで探す必要がないわ」

 首を掴む力が一層増す。呼吸をするのも辛い程の握力だった。

 この脳筋め!

「勇者の一族特有のこととかっ、解釈の違いとかあるかもしれないだろ!」

「ふぅん……。ま、いいわ」

 ユカリの回答に満足したのか、それとも興味を無くしただけか手の力を緩めユカリを解放した。締め付けが無くなったことで、酸素を求めて全力で呼吸を繰り返す。

「情けない。そんなことで私達の仕事が務まると思って?」

「少なくとも頭は使ってるつもりだよっ」

「足りない脳味噌フル回転させても出来ることなんてたかが知れてるわ」

「筋肉馬鹿のお前より――ってててて!」

 再び首を掴まれ外へと無理矢理引きずり込まれる。

 そしてゴミを投げるように、先程までサンドバッグにしていた木へと投げつけられた。

「ったぁ! ほらっ、そういうとこだぞ! てかどうすんだよその壁の大穴は」

「あー、これ? こんなのはこうすれば――」

 言うのと同時に彼女の右手にやんわりとした白い光が灯る。

 そして瓦礫の破片を穴の前まで持っていくと無理矢理それを押し込んだ。聖気を使用して接着しているようだったが、雑な上に隙間が目立った。

「後はまあ、誰かが何とかするでしょう」

「適当だなぁ、おい」

「五月蠅い」

 ガスガスとそれなりの強さで蹴られる。

 傍から見ればいじめに見えるだろうが、先程の攻撃を含めて立派な傷害行為である。

 いや、いじめも犯罪行為に違いないか、って、

「良い加減痛いわ! 流石に今日くらいは止めろよ!」

「貴方と交流する気はないから問題ないわよ」

「そうやって敵ばっかり作って! 生き辛くないか、そんな生き方!」

「貴方に言われる筋合いは無い! それに私が敵を作ってるんじゃなくて、周りが勝手に私の敵になるのよ!」

「やることはストレートなのに口は屁理屈ばっかだな本当!」

「五月蠅い、死ね!」

 大きく振り被った彼女の蹴りがユカリの頭を狙う。

 当たれば軽く済んだとしても顎か歯か鼻骨を失う。そんな鋭さを持った攻撃を前にユカリは咄嗟に目を瞑り現実から逃避した。

 痛みに対する覚悟はない。

 しかし、真っ向から足蹴を受け止める度胸もない。

 あるのはただ一つ。

 主人のピンチに駆け付けてくれる従者への強い信頼だけだ。

 と、思っていたのだが、

「ふぁげらぁ!」

 見事にエルナの外履きがユカリの顔にめり込んだ。

 靴の先端ではなく甲の部分に直撃した為、鋭い痛みではなく鈍痛が顔一杯に広がったのが唯一の幸いだった。とは言え、それでもキックを放ったのはステータスを全て力に注ぎ込んだ脳筋な訳で、ユカリが綺麗な放物線を描いて飛んでいくのは自明の理だった。

 脳が空虚になる感覚を受けながら、駐輪場目掛けて落ちていく。

 自転車に当たれば大怪我。コンクリートなら当たり所が悪ければ最悪死ぬ。

 どちらにしろ待っているのは酷い運命であることに変わりなかった。

 あぁぁぁぁ、やっぱ関わるんじゃなかったぁ! 俺の馬鹿ぁ!

 後悔の念を強さに比例して落下スピードも上がっていく。受け身の取り方も、魔力を用いた一時的な身体強化も覚えていないユカリにとって諦めることが最善の選択肢に違いなかった。

 但し、ユカリ自身以外の要素となると話は別だった。

「何やってるんですか、マスター!」

 地面に落ちる直前、ユカリの身体が柔らかな物体に包まれる。

 ユカリを地上で受け止めたのは一旦分かれたはずのリンスだった。

「大丈夫ですか! お怪我はありませんか! あぁ、鼻血が出てるじゃありませんか!」

「こ、これぐらい問題ないよ。ありがとう」

 図書館の壊れ具合と主人の作り笑顔、そして詰まらなそうに二人を見つめる仇敵の姿を確認し状況を察したのか、彼女は静かにユカリを地に下ろそうとする。懇切丁寧にユカリがこれ以上傷付かないようにゆっくりと。

 あくまでも従者としての振る舞いを取る彼女だったが、ユカリにはリンスが発する雰囲気に覚えがあった。

 これ滅茶苦茶頭に血が上ってる奴だ。やべーよ、やべーよ。どうしよう。

「貴女と言葉を交わすのは非常に不愉快極まりませんが、一応聞いておきます。貴女がマスターをやったんですか?」

「だったらどうだっていうのかしら、無能貧乳秘書」

「万死に値します、脳筋奇乳課長」

 お互い火花を飛ばしつつ、言いたいことを言い切ったところで砂埃が舞い時間が飛んだ。

 ただ、相手を叩きのめすことのみを重視した動き。お互いに顔面に拳をぶち込もうと接近し、空気を裂くように利き腕を突き出した。

「「こっのおおおおおおおおぉぉっっっっ‼」」

 結果、ユカリが止める間もなく鈍い音が轟いた。

 拳と拳が密着する間から鮮血が零れる。

 そして、数滴雑草に落ちたところで我に返ったユカリが喉を震わした。

「おい止めろ! こんなところ見られたら交流どころじゃなくなるぞ!」

「っ!」

 ユカリの叫びが通じたのか、はっとした専属ボディーガードが機敏な動きでユカリの元へと帰る。対して、志野習市の交流課長は心底がっかりした顔で魔族の二人を睨んでいた。

「結局貴方達も自分の都合でしか動かないのね」

「そりゃそうだろ。背負ってるものが重すぎる。寧ろお前は軽率過ぎる」

「ふんっ、まあいいわ。興醒めよ」

 不満気に鼻を鳴らして退散していく宿敵。

 しかし、ユカリはそんなことに気を取られることなく真っ先に少女の手に注意を向けた。

「大丈夫かその手! 急に飛び出すからびっくりしたよ」

「それはこっちの台詞です。私が居なければ大怪我していたところですよ、マスター」

「ごめんごめんって。まあ魔族の身体は素で頑丈なところあるし。ほらそこの水道で傷口洗うよ」

「これぐらい問題ありません」

「洗うよ!」

「……分かりました」

 ユカリの気迫に押されたのか、渋々ながらも図書館横に設置されている水道へと連行されるリンス。守るべき者の為なら強気に力を振るう彼女も傷には弱いのか、手に冷水を当てると僅かに身が跳ねてしまっていた。

「これでおっけ」

 ハンカチで水気を取り、念の為制服の内ポケットに常備している絆創膏で傷口を覆う。

「申し訳ありません、マスター。しかし、ここまでしなくても私は――」

「いいの、いいの。助けてくれたんだから、これぐらいは当然だよ」

 彼女の言葉を遮りながら気持ちを伝える。

 少女の言いたいことはユカリには分かっていた。魔族の血が濃いリンスは生命力が人間とは桁違いに高い。特に顕著なのが治癒能力であり、擦過傷や切り傷の類ならば治療をせずとも直ぐに治ってしまう。だが、幾ら身体が強くとも絶対ということはない。魔族でも雑菌によって軽い怪我が化膿し重傷になった例は数多くある。

 加えて、ユカリはリンスの身体に傷が残って欲しくなかった、という思いもあった。

「ありがとう。リンスが来てくれて助かったよ」

「い、いえ。これぐらい秘書として当然です!」

 耳たぶを僅かに赤く染めながら、リンスは自分を卑下しながら言った。

「それにしても、良く俺のピンチに気付いたね。田中さんと校内を廻るんじゃなかったの?」

「嫌な予感がしたので、教室棟に入る直前にマスターの後を追いかけてしまいました。田中さんには悪かったですが正解でしたね。最も、マスターと別行動を取らなければ、こんなことにならなかったことを考えると、秘書失格かもしれません。クビでもおかしくありません」

「いやいや、んな訳ないでしょ。おかげで助かったよ。死ぬかと思った」

「マスターはもう少し危機管理能力を培った方が良いかもしれませんね」

「違いない」

 敬愛する少女と会話を交え和やかな雰囲気になったことで、頭の中に幾分か余裕が出来る。考えるのはこれから行われる聖天学園生徒会との会議のこと。様々な妨害活動とエルナの愚行を加味すると、双方にとって残念な結果で終わるのは自明の理だった。

 そもそも今回の嫌がらせは何か腑に落ちない。一般生徒が魔族との交流に反対しているならば書面で訴えるか、はたまた抗議の一つぐらい見せるだろう。と、なるとエルナの仕業と考えるのが普通だが、食堂での一件が何処か彼女らしくない。

 衆人の目があるとはいえ、俺のことが気に入らなかったら、あんなまどろっこしいことせず直接ぶつけるよなー、多分。さっきよりも避難轟々だろうけど。

「しかし酷いですね。勇者の一族の末裔とはいえ人間の手でこれは流石に」

「本当にね。むやみやたらに物を壊すなよなー」

 すっかりボロボロになった幹を見ながらユカリがぼやく。

 無意識に指で表面をなぞると、傷跡の中央に来たところで電気が走ったような痛みが生じた。

「いっつ⁉」

 思わず後ずさり指の腹を見ると、血は出ていないまでも僅かに赤く腫れていた。

「大丈夫ですか、マスター! どうしました!」

「いや、何か急に痛みがして」

「棘でも刺さりましたか?」

 リンスは怪訝な顔をしながらユカリの指と幹を交互に視線を配った後、優しく包み込むように主人の右手に触れた。

 先程とは逆の立場に無意識に胸が高鳴る。

 彼女が治療を拒否した気持ちが分かった気がした。

「聖気の反応があります。それも悪意の籠った。ただ、この程度なら問題ないと思いますので、時間が経てば直ぐに腫れが引くと思います」

「聖気ってことはエルナの?」

「いえ、癪に障りますがあの方の純粋で高貴な聖気とは異なります。聖気にしては不純物に満ちています。まるでその人間を現しているかのように」

「エルナ以外にもこの木に何かしてた人が居るってことか」

「恐らく。良からぬことだと思いますが」

「……エルナの奴が俺達への罠を壊していた可能性は……ないか」

「万に一つもありません!」

 全力で同意され納得してしまう。

 確かに彼女がユカリ達魔族の為に働くとは到底思えなかった。しかし、エルナが無意味に建物や植物を破壊するのも妙に感じた。

「リンスさ」

「何です?」

「悪いけど、一応そこの壁にも聖気の反応があるか調べてくれる?」

「――分かりました」

 嘆息し、渋々壊れた壁に向かう相棒を見ながら思考を働かせる。

 考えることは三つ。一連の妨害工作の数々とエルナの行動。

 そして、散々虚仮にしてくれた犯人へのほんのささやかな仕返しだ。


             ★


 本日の学校見学の締めとなる会議は意外にもこれと言ったアクシデントを迎えることなく、順調に進行していた。修天学園のメンバーは相変わらず伊藤とエルナのみであるものの、学食での事件を何処かに置いてきたように、見た目ではそれぞれ温和に話し合いに協力している。

 しかしながら所々ギクシャクする様子が見られたが、魔族陣営は特に突っ込むことはしなかった。下手に介入し、更に関係が悪くなればこちらにまで飛び火する。勇者の一族同士がいがみ合うのは勝手だが、被害が自身や自分達が属する学校にまで飛んでくるのは避けたい、という何とも情けない保守的な考えによる行動だった。

 だが会議終盤。魔族と一人の人間の姿勢を嘲るように、強烈な火種が投入された。

「では最後の議題となります。内容はこれからの学校間交流のメンバーについてですが――」

 わざと一拍貯め注目を集める伊藤。一瞬エルナが苦い顔を浮かべる。

「私達聖天学園生徒会からは私と、今日は参加出来ていませんがもう一人の副会長と会計の人間を主な担当に据えようと考えています」

 会議が始まって初めて沈黙が流れる。

 誰もがどう反応すれば良いのか分からずただただ無言を保った。

「良いっすか?」

 しかしただ一人、唯一の純粋な人間である田中が話の流れをぶった切って手を挙げる。

「どうぞ」

「ヴァイザーさんは外れるんっすか?」

「元々彼女は担当ではありませんのでそうなりますね」

「なるほど。それならもう一つ聞きますが、それはそちらの生徒会役員全員の意向で合ってますか? その言い方だとこの場に居ない役員からも意見を聞いてその結論に至った、という認識になるっす。学校間の交流ともなれば本人の意志が重要だと思います」

 良い指摘だ。仮に本日起きたこと全てがエルナの仕業でそれが原因でメンバーから外したのだとしても、生徒会長一人で決めては横暴に他ならない。ましてや俺達はクレームどころか小言すら彼らに向けて発信してない。

「ストレートな言い方で申し訳ないっすが、ヴァイザーさんが確実に行ったと言えることは校門での攻撃だけで、他の嫌がらせや学食での出来事は確証がないっすよ」

 あくまで淡々と事実のみを述べる田中に伊藤が押し黙る。しかし反論があることを想定していたのか、すぐさま回答を口にした。

「まず今回の妨害工作の数々については大変申し訳ありませんでした。魔族と交流するに当たって反論もあったのですが、私達の意識が足りておらず対策までには至っておりませんでした。その点については重々反省すると共にこれからの活動に活かしていこうと思います」

 原稿を記憶しているかのように澱みなく口にする。

 少々饒舌過ぎるが、事前に事態を予測し考えていた、と言われればそれまでである。

「彼女についての処遇はご指摘の通り私の一存です。確かに私だけの思いで決めるべきことではないのかもしれません。彼女がトラップを仕掛けた証拠もありませんし」

 言って、伊藤がちらりとユカリを見る。

 品定めをするような気色の悪い瞳にユカリの背筋に寒気が走った。

「ですが、少なくとも副会長が市河さんを襲ったことは事実です。また、先程図書館横でも市河さんに暴力を振るってましたのを私は見ました。これは生徒会長として看過出来ません」

「それは本当ですか、ユカリさん!」

 と、触手。休憩によって気力が戻ったのか声に覇気があった。

「ええ、まあ、事実です。でも怪我は特にしてないので気にしないで下さい」

「ユカリさんがそうおっしゃられるなら。これは何か理由があってのことですか?」

「いえ、完全に八つ当たりのようでした。それに訳があるからといって他校の生徒に危害を加えて良い理由にはなりません」

「正論っすねー」

 道理にかなった主張を前にエルナの旗色が一気に悪くなる。彼女自身もそれは理解しているのか、議論の重要人物でありながら一度も言葉を発しようとしなかった。逆風のまま弁解したところで多勢に無勢なのを知っているからだろう。

「では、メンバーから彼女を外す、ということで問題ないでしょうか」

「ありません」「はい」「残念ながら異議なしっす」「大丈夫です」

 エルナを除いた面子の返事を聞いて伊藤は満足そうに微笑んだ。

 対して議事録を担当していたリンスは顔に出してないまでも非常に不満気そうだった。伊藤の思い通りに計画が進んでいることよりも、主人がこれから為そうとしている行いに、だ。

「それでは会議を終了致します。本日はお忙しい中ありが――」

「あ、すみません。今度はこちらから議題の提案を宜しいですか?」

「はい? はぁ、構いませんが」

 言質を取れたことを内心ほくそ笑み、ユカリは伊藤と交代する形で前に出た。

 代わりに伊藤とエルナは席に着く。これから何が始まるのか全く分かっていない様子だった。

 さて、復讐の時間だ!

「それでは私達からも提案させて頂きます。これからの交流の代表者についてですが、大変不躾なお願いで恐縮ですが、伊藤さんにも外れて頂けないでしょうか」

「は?」

 余りにも素っ頓狂な声が響く。

 気付かれないように小さく鼻で笑ってユカリは続けた。

「今日一日の妨害活動を見れば当然でしょう。私達は歓迎されていないようですし」

「ですが、それはこれから私が正していきます! もう二度とこんなことは起こさせません」

「それは伊藤さんには無理だと思います」

「……どうしてですか?」

「図書館の横で自分が彼女に暴力を振るわれている時、伊藤さんはただ『見て』たんですよね? 何故止めてくれなかったんです?」

「それはっ! 勿論止めようと行動はしましたが物理的に距離があったもので」

「窓から怒鳴るだけでも充分制止出来たと思いますが」

「っ……」

 淡々と述べられる事実に言葉を失う伊藤。

 やはり高校三年生で生徒会長と言えど、まだ子供なのだとユカリは思った。

 本当に性根が腐っている悪者なら自分がどんな不利な状況下に置かれても徹底的に自分の非を否定する。それこそ行ったことが悪ければ悪いほどだ。

「と、言うことで伊藤さんには学校間交流に外れて頂いて別の方に――」

「待ちなさい!」

 突如強い口調ながらも優雅さを保った声色で言葉を遮られる。

 それも先程まで糾弾されていたエルナに。

「たかが私が貴方に攻撃したことを止められなかったぐらいで、うちの生徒会長が責められる謂れはありませんわ。普通の人間なら壁を壊す様を見ただけで竦むのが普通ですもの!」

 お前がそれを言うのか!

 突っ込みたくなる衝動を全力で抑え、ざわついた心を沈める為に静かに息を吐く。

 確かにエルナ個人にとって伊藤さんを庇う理由は微塵もないが、聖天学園生徒会として、そして志野習市の特別地域交流課長の立場として考えると説明がつく。自分に僅かな利があったとしても、仲間が虚仮にされて黙ってられるほどこいつは賢くない。

「仕方ない。百歩譲ってその時はエルナの恐ろしさに体が動かなくなったとしよう。しかし、妨害工作については弁解しようがないだろう。これは正当なクレームだ」

「確かにそれはこちらの過失です。ですが、会長が外されるほどの事案だとは思えませんわ」

「これから気を付ければ今後このようなことは無くなるとでも?」

「私が対処すると約束しましょう。この会議以降私は担当外になるのですから、裏でどう動こうと気にする人はいないでしょう」

 こいつ物理で制する気か!

 言葉に詰まったことでエルナが心底楽しそうに見下してくる。落ちた自分の立場を利用してまで他人を蹴落とそうとする様はまさにクズの所業だった。

 こういうところ本当大っ嫌いだわ。でも、そっちがその気ならこっちにも考えがある。あんまり使いたくはなかったけどな。

「それはつまり伊藤生徒会長を処罰するってことで合ってるか?」

 一瞬室内に沈黙が走る。

 しかし僅かな静寂は少女の笑い声によってぶち壊された。

「何を言ってますの? 会長に何の関係があって? 長時間の拘束で脳細胞が蕩けてしまったのかしら」

「脳が働いてないのはお前だろう――ぐふぇ!」

 暴言を吐いたところ殴られた。それも思い切りグーで。

「容赦無いっすねー」

「本当ですね……」

 そう思うならもう少し気に掛けて欲しい。

 左手で殴られた左頬を抑えつつ、リンスが全力で席を立とうとするところを右手で制止する。そして相棒が仕方なく席を正したことを確認し、睨み付けてくるライバルと伊藤を見た。

「そもそも不思議に思わなかったのかお前は?」

「何のこと?」

「食堂の七味暴発。ここにいる全員が開かなかったのにお前が開けた瞬間爆発した」

「ん……? 確かにあれはあまり力を入れてなかったから、可笑しいと思うけれど」

「そう。あれは仕組まれたものだ。そこにいる伊藤生徒会長にね」

 改めて犯人を見つめる。

 伊藤は両手を上げとぼけたような仕草を取ると、自信満々に告げた。

「その件に関して、私は彼女の嫌がらせだと思ってますが?」

「あの容器には聖気の反応がありました。加えて、エルナの前に触ったのは貴方です」

 食堂から回収してきた調味料入れを見せつける。それでも伊藤の表情は変わらなかった。

「それに関しては、私が力を入れた際に聖気が漏れてしまったのでしょう。良くあることです」

「そうですか。そういうことは頻繁にあるのかエルナ?」

「ないことはないわね。自分の聖気がコントロール出来ていない未熟者に多いイメージよ。あと貴方、さっきから馴れ馴れしいわよ」

 エルナの文句を無視し、《未熟者》と称され初めて表情が揺らいだ伊藤に集中する。明らかに今の台詞が気に障ったようだった。

「もう良いです。面倒です。私が犯人だと仰るなら証拠を見せて下さい」

 何の意味もない見た目だけの笑みを浮かべながら告げる。初めて出会ったときは聖人君子のように思えた彼も、酷くちっぽけな小者のように思えた。

「そこまで言うなら見せましょう」

 残念ながら証拠らしい証拠はこれと言って見つからなかった。伊藤が仕掛けたのであろうトラップを片っ端から調査しても、聖気の反応がそれぞれ異なり伊藤が犯人だという確証は無かった。図書館のゲートに壁、付近の木。そしてトイレの蛇口。どれも実行犯は違う人物なのだろう。もしかすれば本当に彼が真犯人ではないのかもしれない。

 しかし、食堂でキレた伊藤がどうしてもユカリの頭に引っ掛かった。

 誰にだってミスはある。それは勇者の一族だろうが魔族だろうが同じだ。

 伊藤が小さなことで怒る人間ならば、既に校門でのエルナの攻撃で憤死していても可笑しくない。また正義感に溢れる人間ならば、生徒会長が各トラップに引っ掛かり体調を悪くした段階で何らかの打開策を打っていただろう。

 つまり伊藤という人間は少なくとも清い心の持ち主ではない。

 そして、本日の交流をどうしても続けたい目的があったと考えるのが普通だ。

「証拠はこれです」

 言って先程から持っている銀の容器を伊藤に向かって差し出した。

「ふざけてますか? これについては私が先程否定したばかりではないですか」

「いいえ、ふざけてなどいませんよ。証拠はこれの中見です」

 怪訝な顔をする伊藤の前で容器の口からほんの少し中身を掌に出す。

「七味が……証拠っすか?」

「それが何故証拠になるのですか、ユカリさん」

 その台詞を待ってました、とばかりにユカリは手の七味を生徒会長の眼前へと払うように置く。机の上に零れた粉末を触手が触ると電流が走ったように全身を震わせた。

「うぎっ! これ聖気が宿ってますか!」

「当たりです。この七味には伊藤さんの聖気が籠っているんですよ」

「そんな馬鹿な!」

 血相を変えたエルナが近寄りかっさらうように粉を掴むと、現実を受け入れるように静かに拳を握り込んだ。

 幾ら伊藤が《未熟者》だとしても、中身にまで影響を及ぼすとは考えにくいからな。

「何か弁解の余地はありますか、伊藤さん?」

 苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべた伊藤が睨んでくる。唐突に彼が放った《清らかであることと、攻撃的でないということはイコールではない》、という言葉が脳裏に過った。

「残念ながらここまでのようですね。まあ、別に構いませんけど」

「それは犯行を認めるってことっすか?」

 田中の言葉に伊藤が首を振る。

「まさか、食堂の一件だけです。確かにあれは私の行いです」

「理由を聞かせて貰えますか、会長」

「貴女が鬱陶しかった。ただそれだけです」

「たったそれだけのことで!」

「それだけ! 今それだけって言いましたか!」

 エルナの放った不用意な一言で伊藤の感情に火が付いた。

 一心に自校の副会長の目を見ながら、責め立てるように次々と言葉を重ねる。

「副会長という身でありながら、どんな時も公務を盾にして生徒会に出席しない! その癖面白いと思ったことには段取りを破壊して自分のやりたいように首を突っ込む。そして、責任の全てを私達生徒会、いえ私に丸投げして利益だけを掻っ攫っていく! 正義の名の元に乱闘騒ぎは当たり前。気に食わなければゲストでさえも平気で殴る! 分かりますか私の気苦労が! 知ってますか、私が何度学園長に頭を下げたかを!」

 伊藤の悲痛な叫びが木霊する。

 マジでクズだな、エルナ。

 誰が被害者で誰が加害者か分からなくなってきたが、少なくとも伊藤がエルナを陥れたことやそれにユカリ達を利用したのも確かである。残念ながら彼がどれだけ鬱憤を解き放とうと、同情を寄せることはなかった。

「はぁ! 生徒会長が自由に活動出来るのは誰のおかげだと思っているのですか! 学園に点在する反生徒会の掃討! 生徒会長の家柄を快く思わない教師への根回し! 生徒会予算の援助! 正直に言いますが、私が手を尽くさなければ早急にお役目御免となっていましたわよ!」

「なっ⁉ あ、貴女が幾ら裏で手助けしていたとしても、貴女が迷惑を掛けていたことに変わりありません! 私は貴女が嫌いです!」

「その台詞はもう少し能力を付けてから言ってくださいな! 私も生徒会長は好きではありませんわ!」

 ゲストそっちのけで言い争いをする二人をよそ目に溜息を吐く。思わず味方に視線を送ると、誰もが諦めたように窓から外を見ていた。

 もういっか。別に謝らせたい訳じゃなかったし。二人が納得するならそれはそれでいいや。

 今もなおヒートアップする他校の生徒会長と副会長に小さくお礼と労いの言葉を送って全員で外へ出る。最後に会議室を出たリンスにも気付かないほど熱が入っているらしく、扉を閉めても罵声の嵐が壁を通して聞こえてきた。

「はぁー。結局今回の学校間交流は失敗でしたね。申し訳ありませんユカリさん。こんなことになってしまって」

 見るからに落ち込みながら頭を下げる触手。

 物理的にも精神的にも一番被害を受けた会長が謝る姿に僅かながらも罪悪感が溢れてきた。

「いやいや生徒会長が謝ることじゃないですよ。それに俺は失敗したなんて思ってないですし」

「どうしてっすか?」

 自然な口調で田中が疑問を口にする。

「特別歓迎はされませんでしたが、勇者の一族とその学び舎である聖天学園について学ぶことが出来たじゃないですか」

「それは皮肉っすかぁ」

 田中の煽りによって一気に場の空気が弛緩する。同時に、突っ込んで貰えて良かったと安堵した。突っ込まれずに余計に雰囲気が悪くなる可能性もあったが杞憂だったらしい。

「ふふ、確かにそうですね。相手の環境も勉強出来て、最低限今後の打ち合わせも出来ました。目的は一応果たせてますね」

「渉外活動というのは一筋縄ではいかないものです。いちいち凹んでいては身が持ちませんよ会長」

「肝に銘じておきます」

 再び笑い声が辺りに響く。

 談笑しながら階段を降り、建物の外へ出ると心地良い風が流れ込んできた。聖気による刺々しさにも段々と身体が順応してきているらしい。来た時よりも違和感がなかった。

 ちょっとだけ嬉しくなりつい深呼吸してしまう。

「どうしましたマスター。急にそんなことして」

「いや、特には。あー、でもやっぱ安心してるのかも」

「えっと、何にですか?」

 それは勿論、

「今日もエルナに殺されなかったことにかな」

 銀の少女がきょとんとした表情を見せた後、小さく笑みを浮かべた。

「帰ろっか」

「はい!」

 最愛の相棒の笑顔を見れたことで幸せを感じつつ、校門に向かって歩を進める。ユカリに続く三人も悪くない顔をしていた。

 学校間交流は始まったばかりだ。


 後日、聖天学園生徒会からお詫びと文句のメールに精神を暴走させた触手が現魔王の息子がいる教室に飛び込んできたが、銀髪の下級生によって無残に退治される光景を生徒会書記が目撃したという。

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