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僕は相変わらずいつも通り、朝七時過ぎに家を出て、赤頭赤尾高等学園へと向かっていた。高校二年生の健全な学生である僕にとってこの時間に学園へ向かうと言う行動は誰が見ても当たり前で、昨晩、正確に言えば夜の12時を回っていたので今日の朝方なのだけれど。丈の短いスカートを履いて、悪魔的な美少女とアレやコレやすったもんだの騒動があったとは擦れ違う誰もが思うまい。

もしこの事が露見すれば、僕は赤頭赤尾高等学園を追われる事も宛ら今後の未来、明るいかは別として暗雲立ち込める訳だが。見る人が見れば、もしかしたら分かるかも知れない。僕が今通学している最中に履いているこの指定の制服のズボン。

6月には珍しく冬服である。

少し他の生徒とは色の濃い、それも並べて良く見なければ分からないような色の違いだけれど。成程、冬服といった温かみが感じられる厚手の生地である。僕の自宅から学園までは徒歩で四十分そこらなのだけれど。これは暑い。この時期にこの生地で四十分。普段、運動の類を一切しない僕には珍しく薄らと汗が滲むほどには暑い。もう今日は休んでしまって、家で怠惰に過ごしてしまおうか?何て考えがふと頭を過ぎった時


「おはようだよー!」


元気なストーキング娘、天來美心の声がした。昨晩(今朝方)から最早、後ろから突然現れるのはお馴染み。寧ろ二ヶ月の間にどれだけ奇想天外で神出鬼没だったのか、一度ここに記したい位だ。僕は特に天來の方を見る事もなく、おはようと軽く返した。


「てんちゃん先輩!見て見て!」


僕が折角そちらを見ずに済んだと言うのに天來は前に回り込み、器用にも後ろ向きに歩行しつつ僕に何やら文庫本サイズの、然し見る限りは薄い冊子のような物を頭上へ掲げていた。僕の目線に合わせてくれているのか、律儀な後輩である。だがその冊子と目線が合わさった所で、僕はそれが何かまでは理解出来ない。その深緑色と言うかアルパインと言うのか分からない微妙な色の和紙っぽい素材の冊子には真ん中に白い縦長の紙が貼り付けられており、其処には凄く達筆なのに何処か素人っぽい感じで"般若心経"と書いてあった。あぁ、成程。


「昨日、てんちゃん先輩から頂いた有難い壱萬円札で有難いお経を手に入れました!」


スパーーーーーン!!


天來がそう言い終わるのが早いか、僕はその有難いお経とやらの書かれた経本を奪い取り、そのままそれで天來の頭をすっぱ抜いた。昨晩からやたらと暴力的な僕である。


「天來。いや、天來美心さん。僕は昨日何て言った?その有難いと言う壱萬円札でスカートをクリーニングに出せ。と言わなかったか?言ったよな?言ってない?いや、言ってなかったとしても嘘臭い経本を買えとは断じて言っていない。」

「でも!これ!悪霊退治できます!って銘打ってたよ!これでっ!昨日のっ!階段怪談も!退治っ出来るかなっ!て!」


天來は僕が奪った経本を取り返そうとピョンピョン跳ねながらそう反論してきた。


「いやいや誰がこんなの壱萬円も出して買うんだよ。あ、お前か。そもそも読めもしないのに経本買うなんて、買う以前のお馬鹿さんだ!」

「え?美心は読めるよ!」


おっとそれは失礼致しました。申し訳ない。いや読めた所で未熟で経験不足など素人に祓える訳が無いだろう。そんな読んでぱぱっと祓えるお手軽経本なら聖書より売れてるわ!重版ものだわ!僕は取り上げたもののこれといって要る訳では無かったので、経本を天來へと返したのだが、それでも天來は何やらブツブツ言いながら隣を歩いていた。


「そもそも残念ながら天來。昨晩の出来事は夢だ。」

「夢!?」

「そう、夢。覚えていないかも知れないが、お前は僕を待っている間に高等部の玄関先ですやすやと寝てしまっていたんだ。」

「Too good to be true!」

「いやだから夢だったんだ。って嫌に流暢な発音だな。」


僕は天來の本場さながらのイントネーションに驚きつつ、夢であった事を念押した。


「でもてんちゃん先輩!美心の夢だったなら、如何しててんちゃん先輩が美心の夢の内容を知ってるのー?昨晩の出来事を知ってるのー?」


ちっ。天來は只の馬鹿では無かった様だ。


「僕が起こしに行った時、それはそれは天來の寝言が酷かったからだよ。それはもう短編の小説を語るかの様に粗筋から完結まで、将又エピローグまで。余すこと無く寝言で語っていたからだよ。」


僕の流れる様な虚言に天來美心は小さく嘘つき。と呟いただけだった。この反応は僕の中では意外であり、もっと駄々をこねたり無理を言って聞き出そうとしたり、下手すれば壱萬円の有難い経本を投げ付けてきたりするものかとばかり思っていたのだけれど。天來は少しだけ、ほんの少しだけ眉を下げ笑っただけだった。

何故だか僕はそんな彼女を見てチクリと胸が傷んだ。



それから僕達は一言の会話も交わすことなく、赤尾高等学園の正門へと辿り着いた。普段なら静かで清々しい朝だなと思わなくも無いこの晴天の日に、この二ヶ月笑顔しか見た事の無い、笑顔しか顔が無いのではと疑う位の存在であった天來美心の感情を読み取れない表情。しかめっ面でも膨れっ面でも知り顔でも諦め顔でも無い、感情の読めない顔。これには流石の僕にも堪えるものがある。然し、ここまで造形の整った顔立ちの少女がこんなにも表情から感情を切り取ると、本当にお人形さんの様だ。日本人形的な黒髪でありながら、何処か西洋を思わせる顔立ちはそれに相まって尚の事美しさを増している。

そんな取り留めの無い事を考えている間に、天來はそそくさと校内靴に履き替え、特に別れの挨拶や再会の吟じを交わすことなく一年生の教室があるであろう方角にとぼとぼと歩いて行った。僕も思う所はあるものの取り敢えずは校内靴に履き替え、自分の教室がある三階へと足を進めた。階段。怪談の階段。もう全ては昨晩終わったと、終わらせたと思ってはいても心做しか一歩一歩力が入る。天來美心が有難い経本を購入したと言うのは強ち間違いでも的外れでも無かった。

この階段には確かに怪談が存在していたのだ。

天來が聞けば飛んで喜ぶ様な真実だけれど、今回だけは決してそれを語る事は出来ない。僕の言った事を嘘だ虚言だと、そんな事を言い出す彼女で無いことは重々に承知なのだが、如何せん今回の事は僕の名誉に関わる事なのだ。

階段には大体の場合、男が棲み憑く。

これは僕が今まで経験してきた中で十中八九言える事だった。駅の階段、家の階段、公園の階段、学園の階段、小道の階段、横断歩道の階段。有りと有らゆる階段が日本中に存在しているが、その有りと有らゆる階段に突然なんの前触れもなく異変が起こったとしたら。それは大体、大抵にして男のせいだ。他に細かな例外があるにしろ、例えば階段下だけ。だとか、この段数だけ。だとか。色々、本当に数え切れない程に色々ある中で、昨晩の階段怪談はとてもシンプルな分かり易い、其れこそ有難い階段だった。とは言え、あの時天來美心が現れなければもしかしたら僕はそれに気付けていなかったかも知れない。

長い間そんな数多のモノと関わらないように気を付けていたのに、つい気が緩んだのだろうか?もしかしたらこの二ヶ月で僕は天來美心の笑顔に毒されたのかもしれないな。


まぁそんな事はさて置き、原因が分かれば結果も自ずと導き出せる。男は欲深い生き物で、何に欲深いかと言われればそれはスカートを履いた昨晩の不名誉な慙愧に耐えない僕の姿を思い出して欲しい。いや思い出さないで欲しくもあるけれど。つまり僕が言うのも何だが女性。女性なのだ。では何故、階段なのか?本当に馬鹿馬鹿しくて、愚鈍で愚劣で愚盲かつ阿房臭く阿呆臭い、間抜けな滅茶苦茶な荒唐無稽で並べれば霧がないほど蔑む言葉が出て来るのは確かなのだが…彼等、いやこの際僕達。

僕達、男と言う生き物は女性のスカートの中が死んでからも尚、気になる愚かしい生き物なのである。

だからこそ女である天來美心は階段を一生上り下りさせられ、男である僕には階段さえ見えなかったのである。スカートの中を除きたいと言う一点にのみ特化した階段なので男女の基準が曖昧なのが救いだが。こんな事、後輩である天來に、ましてや女子である天來に言える訳が無かった。僕でさえ夢だと思いたい。その上僕は、階段の気を削ぎ、混乱させ、出入口を開かせる為に自分の下着を脱ぎ捨てると言う荒療治までやったのだ。ご丁寧に鋏でその形に切り抜いてまで。つまり感動的に僕が天來美心の腕を取り、階段から引き寄せ、抱き留めたその時。僕はそれ故にノーパンティーだったのだ。悪夢だ。悪夢以外の何物でもない。

僕は勿論その後、下足箱の影に隠れながら天來に貸した踏まれ焼かれ六部丈になったズボンを履き、履き替えても別段変わらず間抜けな格好で天來を家(まさかの同じ方向、隣のマンションだった。わざとだろう。)まで送った後、六部丈パンツで問題の階段の後始末へと向かった。

男物の下着を掴まされた階段、最早闘士煮えたぎる男としては僕の話に聞く耳なんて持ってくれないと思っていたのだけれど、問題無い。頭に血が登った方が冷静な判断を欠くと言うものだ。まぁ騙せばまた戻ってこられて終わりなので、此処で嘘をつく必要は無い。僕はゆっくりと丁寧にノーパンティーのまま、その階段の男へとある提案をした。

それは、東京地下鉄。

木場から門前仲町区間の何処か好きなホームの階段へ移ると言う話だ。僕が知りうる中で一二を争う程通勤ラッシュの激しい場所である。それが駄目なら世界一利用者数の多い駅、新宿駅。二番目の渋谷駅。三番目の池袋駅。四番目の梅田駅から二十番目の目黒駅。と、世界のトップ20を占拠しているのは名だたる日本の駅である。ここ辺りなら階段の入口を閉じて、女性を閉じ込めてるまでもなく、毎日スカートが覗き放題である。自分で言っていて嫌になるほど、劣悪な勧誘の仕方だった。

だが階段男は確かに納得したのか、取り敢えずは東京に行く。と、夢を抱きながら東京へと旅立ったのだった。何だか息子を送り出す時の親の様な気持ちでそれを見送った僕は、階段の半ばに悲しくも朽ち果てた自分の切り刻まれた下着を拾い、もう何が何だかよく分からない感情と共に帰路に着いたのだ。


それは天來に夢だ白昼夢だと嘘を言いたくもなるだろう。こんな御座なりでお粗末な結末を誰が話せるものだろうか。其れこそ今朝の無表情宜しくドン引きされるに違いない。兎に角、この件は夢だ絵空事だで終わらせるしか無い。今朝の無表情だった天來の事は気になるが、仕方無い。どうせあいつの事だ、一時間目の休み時間辺りにはまたひょっこり部活勧誘と言う名目で僕の学園生活の妨害に勤しんで来るだろう。僕は一時の安息と束の間の休息に一息吐き、自分の席へと腰を下ろした。

教室の時計の針が一瞬だけ逆回転したのを見逃して。

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