1-5

僕は制服のズボンを脱いでいた。


これだけ聞けばただの変態である。放課後の校舎で小柄な後輩の美少女と二人、ズボンを脱ぐ先輩の僕。ある程度説明した所でより一層その危険度が増しただけだった。文系だと自負している僕としては大変遺憾だ。しかしこれ以上の説明を仕様がない。


「ほほーう!てんちゃん先輩はボクサー派!と!」


僕は能天気に僕の下着を見ている天來美心を無視し、脱いだズボンを彼女に投げ渡す。僕は決して脱げと言われた訳でもズボンを少女に投げて喜ぶ類の変出者でも無い。これは此処から出る為の第一歩であり、階段を下りる為の実験だ。


「天來、僕の下着事情はもういいから。それ履いて、階段の方を見てくれないか?」


流石に物は試しと言えども思春期真っ盛りの少年少女に何時迄もこの状態は良くない。早々に実験を済ませ、結果によってはズボンを返して欲しいと言うのが今の僕の心情である。まぁ天來は一切合切何も気にしている風では無いけれど。


「これで階段を下りられると!?」


天來は僕のズボンを鈍鈍と履きながら、言った。スカートの下に履いたとは言え、流石にかなり大きい様でベルトを締めても胴回りの不安定さや丈の長さは同仕様も無い。だが別に僕のズボンを女子生徒に華麗に着こなして欲しかった訳では無い。目的は勿論他の所にある。


「あれ?あれあれ?てんちゃん先輩!階段が!」


僕の予想は確信へと変わった。ズボンのベルトを緩め、上げ下げしながら困惑と愉楽を行き来する天來を他所に、僕は確信へと変わったこの事実をどう処理すべきか考えていた。スカートを履いているとは言えそのスピードでズボンを上げ下げされては思春期の高二男子の僕としては目のやり場に困る所だ。予想が当たったからと言って、そのまま解決に繋がるとは限らない所がこの階段問題の辛い所で、細かく言えば辛い思いをするのは僕ではなく、目の前で阿呆みたいにはしゃいでいる天來美心なのだけれど。いや、彼女はこれ位の事で辛さを感じる様な人格の持ち主では無いだろう。

彼女の精神はそんな些細な事では壊れない強固な鎖で雁字搦めにされているのだから。

しかし一男子、一先輩、一年長者としては、後輩である天來にこんな事を頼むべきでもこんな事をさせる訳にもいかない。それを差し引いたとしても、今回の件は僕のせいだ。諦め悪く僕をストーキングしていた彼女に少しばかり責任が有るとしても、概ね僕が招いた事態だろう。


「天來。これは僕と天來、二人だけの秘密だ。」

「ん?」



こうして僕はこの不可思議な校舎から脱出する為に自尊心と羞恥心を捨てた。


「なぁ天來。笑う門には福来ると古来の日本人は言ったけれど、こういう時には笑っていいよ。」


僕は笑いを堪え、頬を赤くする天來に対しそんな脈絡の無い事を言った。もう笑う門も福来るも本来の意味から掛け離れ、一人歩き所か一人遊びに一人立ちして気付けば二人になっている。一人歩きも遂に良い伴侶を見つけたみたいだ、良かった良かった。そう、僕は天來のスカートを履いていた。小柄な天來が履いていた事もあって、僕にとってはかなり短めの丈となった。いよいよ新手の変態である。


「てんちゃっ先輩っ!ぷぷ!」


最早笑いを隠そうともしない天來を横目に、僕は取り敢えず階段が見えるかどうかを確認した。よし、視える。それを確認し終えると、未だにお腹を抱えながらくくくと笑う天來を放ったらかし、階段隣の教室へと入った。天井に張り付く机と椅子を見て僕は心底うんざりしながら、教室の端から助走をつけジャンプし、適当な椅子の背もたれ部分を掴んだ。何だこの後半の体育会系全開の展開は。そんな事を考えた所でこの作戦には必要な物がある。必ず、要する物が。もしかしたらこの一回のジャンプでは手に入れられないかも知れないが、生憎時間は悔しい程ある。

僕は身体を捻り、掴んだ背もたれ部分に足を引っ掛けると手を離した。空中ブランコ宛らに両手の自由になった僕は、その椅子と対になっている机の引き出し部分に手を突っ込む。他人の机の中を探ると言うのは、些か良心の痛む所ではあったがこの際背に腹は変えられないし、背と腹がくっつきそうな程空腹を感じていたのも確かだった。早く帰って晩御飯を食べたいと言うのが正直な所。そうこう思考を巡らせている内に、僕はその机の中から目的の物を見事入手した。

僕が手にしていたのは何の変哲もない鋏だ。

その何の変哲もない鋏こそがこの危機的状況を打破する一筋の光であり希望だった。僕は手芸の類が得意な訳では無いけれど、これを天來に頼む訳にはいかない。これは僕一人で成し得なければ意味の無い事だからだ。僕は意を決して作業へと移った。他人の机を漁るなら未だしも、その他人の鋏でこんな事をする羽目になるなんて。名前が分かるなら明日、朝一でこの鋏の持ち主に謝りたい位だ。でも分からないから今謝っておく、ごめんね!

そしてここ一番とも言える作業を終えた僕は取り敢えず鋏を元あった机へとアクロバティックに戻し天來美心の待つ廊下へと戻ってきた。


「てんちゃん先輩!ナニしてたの!」

「その"何"の変換には悪意があるな。」

「性意だよ!」


是非ともそれには意を唱えたい所ではあったが、そんな生産性の無い雑談は此処を出てからゆっくりするとして


「天來。僕は今から文字通り自分を捨てる事になるけれど、僕が自分を捨てた瞬間。その一瞬だけ天來にも階段が見える筈だから。」


僕のズボンを履いている天來美心にはもう階段は見えない。視えるのは僕だけだ。この禍々しい程に貪欲な階段が本当に視えているのは、スカート姿の僕だけ。何だこの馬鹿みたいな図は。シリアスな場面だと言うのに気を抜くと笑ってしまいそうな程に間抜けな構図だ。


「分かったよ、てんちゃん先輩!視えたら美心は走ればいいんだね!」


察しの良い天來は疑心なんて全くないと言ったような瞳で僕を見上げた。出来る事なら見えた時、僕が迎えに上がってあげるのが筋と言うものなのだろうけれど、きっとそれは出来ない相談だろう。僕がもう一度階段を上がっているその間に強欲なこの階段は再び、ともすれば一生、閉じてしまうかもしれない。これは天來美心が僕を信じて飛び込み、僕が天來美心を信じて走り抜けるしか無いのだ。

深呼吸をして心を決めた時、僕の胸の当たりにすっと風が吹いた気がした。きっと履き慣れないスカートのせいだろう。嫌にスースーする衣類だ。こんな格好で体裁を保っても仕方が無いので、僕は軽く手を振り、笑顔で僕を見送る天來を背に階段を駆け下りた。

結果的に僕は一階へと、高等部の玄関口へと辿り着いた。見慣れた下足箱が並び、新入生勧誘のポスターの貼ってある掲示板が並び、空に夕日の自然な橙の差し込む。普通の。下校時間はとうの昔に過ぎているので、人影さえ確認は出来ないものの、至極普通の高等部の玄関口。


「っ天來!」


そんな安寧の風景に気を取られたのも束の間、僕は今し方駆け下りて来たばかりの階段を振り向く。其処には最後の階段のカーブを曲がり駆け下りてくる天來美心の姿があった。後、半分。僕は階段側にギリギリまで駆け寄り、手を伸ばす。階段の周りが黒く歪み、その口を閉じようとしていた。僕の誤魔化しに、嘘に、虚言に、この階段は気付いたのだろう。ゆっくりと、だけれど確実にその黒い淀みは天來を呑み込もうとしていた。


「っあ!」


ここで僕の誤算が一つ。天來美心が履いているのは僕の、男子生徒用のズボンなのである。僕のスカートが短い様に天來のズボンの丈もまた、長かった。折るのを忘れた。忘れたでは済まされないレベルのミスだ。長いズボンの裾を踏み、転けそうになりながら走る天來を嘲笑うかのように黒い淀みは彼女の足元に纏わり付いていた。しかし天來には視えないのだろう。裾が長いから走りにくい、程度の顔で階段を下りてきて来ている様に見える。階段の口はもう半分と開いていない。やばい。天來が。天來美心が喰われる。

僕はそう感じると同時に、階段の中へと、天來美心へと手を伸ばしていた。黒い淀みがチリチリと腕を焼くみたいだった。熱いのか痛いのかは分からないけれど、この中に全身を捉えられている天來の方が痛いに決まっている。そんな顔はお首にも出さないで彼女は伸ばした僕の手を取ろうと、その小さな身体で階段を蹴り、飛び上がった。

笑顔で。

その笑顔に目を奪われ美しいと思ってしまった僕の感情は場違いにも勘違い甚だしいのだが仕方ない。僕は腕が焼けるのも構わず天來の腕を掴み、自分の身体へと引き寄せると、抱き留める様な勢いで玄関先へと転がった。スカートの裾を気にしながら。

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