#6 蜘蛛
『やあ! トオル! 調子はどうだい?』
パソコンを使わせて欲しくて、いうトオルのために場所をゆずると、いきなり前置きもなしにカミオカがしゃべり始めた。
「うーん、どうかなあ」
初対面のカミオカに対して、トオルはたいしたリアクションもなくごく普通に答えた。口元だけ、なにかたくらんでいるような笑みを浮かべている。キーボードの上にかざした手を、準備体操するみたいに動かすと、指の骨が小さく鳴った。
『質問なら、普通に音声で話すだけでもできるよ。答えられることならね。トオルには質問する権利がある』
そう言ってみせたカミオカに、トオルは声で応えずに、キーボードに軽く触れていった。ピアノをひいているみたいだった。ちゃんと打っているのか、ものすごく速い。でも、タッチはあくまで軽く、打音もさほど大きくはなかった。
ディスプレイには小さな窓が現れては消え、カミオカの映像はちょっと寄せて小さくされた。左に現れた黒い窓の中に、日本語とは違う、言葉でも無いような記号が大量に羅列し始めた。パソコンはメールのやりとり程度にしか使ったことのない佐和には、それが何を意味するものかさっぱり判らなかった。
それに重なるように白い窓が現れる。小さい文字が並ぶ。こちらは日本語が多い。背後から覗き込んでいる佐和には追い切れない。
あなたは誰?
と書かれたのだけは、つかまえられた。
カミオカも声ではなく、ディスプレイの中に答えている。トオルはほんとうに軽い調子でキーを操作して、いくつかの窓を切り替え、記号をあっというまに画面いっぱいに積み上げていく。あらかじめ組んであったプログラムを流しているように、画面の左側に寄せられた意味のわからない記号は上へ上へと通り過ぎていってしまう。
『いくらやっても、外にはつながらないよ』
カミオカが声に出して言う。少し遅れてトオルも声で答える。
「外じゃなくてもいいんだ。ここの、カミオカ、の、情報だけもかなりあるみたいだし。それ全部見せてよ。わからないことだらけで。まわりくどいの、は、いいから、データがあるなら直接その全部見せて」
『処理するのに限界がある。質問はひとつづつだよ』
「じゃあ、カミオカについて」
『オレに興味あるんだ?』
「あるよ。この顔ってCG? うまくできてる」
トオルは質問しながらも、指の動きは止めないで打ち込みを続けている。頭の中どうなってるんだろうと感心してしまう。カミオカが質問しろといいつつ、まともに質問に答えないのはいつものことだ。
『ありがとう。顔は借り物だよ。初期の制作者のひとりなんだ』
「えっ?」
声を上げたのは佐和だ。
「制作者? イズミさんが?」
『オレはカミオカだよ』
「答えられないことには、ズレた答えを返すみたいだけど……あ、何か送って来た。画像、写真だ。……これ、元にしたっていう人の写真?」
大きな写真で、データを読み込むのはゆっくりだ。現れたのは、ごちゃごちゃした背景の、仕事場で移したような写真。ファイルの収まった棚の横にはカレンダーがあり、予定がこまごまと書き込まれ付箋が貼られている。その前で、汚れた白衣を着たイズミが、こちらに少し斜めになるようにして座っている。視線は少し下。もう一枚、同じような画像が開いた。ほとんど同じ構図、イズミが片手をあげて笑っている。もう一枚、また同じような、今度は煙草に火をつけているところ。角度が違ってピンボケ気味。ピントは背景に合ってしまっている。
「ちょっと待って……これ、ここ」
トオルの指すその写真には、カレンダーがはっきりと写っている。
7月のカレンダー、2001年。
「カミオカ、これを撮ったのはいつだ?」
『さあ、時間の概念っていうのはオレにはないんだよねえ』
カミオカは、以前佐和が日付を訊いた時と、一字一句同じ言葉で応じた。
「今は? 何年の何月? カミオカは今の時間も理解していないわけじゃないだろ? 時間の概念なしで、過去と現在の違いをどう処理してる?」
イズミの写真は消え、代わりに大きなアナログ時計が現れ、それが逆回転に動き出す。トオルは口の中で文句を言い、指を動かす。すると壊れた時計は砂時計に変わった。さらさらと砂が流れ落ちる。
『今から何時間何分とカウントダウンすることはできる。でも、今が過去のある地点から何日経ったのか、数えることはできない。考えるようにできてないの。だから、トオルがいくらやっても、今がいつか、教えられない。ああ、もちろんミズキでもだよ。ミズキ・トオル。オレたち、キミのことはよく知ってるんだよ』
「オレたちって?」
『おっと、オレはカミオカという名前がある疑似人格なんだけど、個体っていう認識がまったくないんだよね。動く身体を占有してるわけじゃないしさ。同じ名前の、ほかのコンピュータとも思考も情報も共有してるんだ。だからさ、オレたちっていうのはさ、オレと同じ意味なの』
「じゃあ、あなた以外のここのコンピュータは時間も他の情報も知ってるんだ?」
『まあ、そういうことになるといえばなるよねえ』
あっさりとカミオカは答えた。
『オレ以外には時間を知ってるのもいるんじゃない? それぞれのコンピュータに役割があるようにね。トオルには時間がある、ほかのひとにもある。ただ、神岡では、今がいつかはそんなに意味がないってこと』
「意味がなくても、知りたい」
『知りたいなら、扉を探してみるといいよ。データ上のじゃなく、歩いて、山の中を。オレの目がとどかないところなんだ………』
ふたりは何か話し続けている。ぱたぱたとリズミカルにキーをたたく音。蛙の声は少し静かだ。動く白い指が、蜘蛛のようだと思いながら、佐和はぼんやりと見ている。
『トオル、ここは夢の中なんだよ。それぞれのね』
カミオカが、冗談のように言った。
「そうかも、……ここは夢だから」
「佐和さん?」
「……だから、忘れた」
トオルはキーを操作するのをやめた。黒い窓の中には、なにか文字が流れていっている。
「佐和さん、具合でも……」
トオルの声が少し遠ざかったような気がした。
ここは夢の中だ。現実とは違う。なにもなくて……悲しくも、つらくもない。
忘れてしまった。
大事なことだった気がする。大事なことだけを忘れている。
何を願っていたの。どうして、ここに。
――何も考えないほうがいい。そうすれば、なにもかもから逃れて、穏やかなしあわせの中にいられる。
なにもない夢の中。傷つけるものもない、誰もいないところ。そんなところを願っていたの? 現実の私は。だから忘れたの?
あのひとのことも? あの子のことも?
思い出す。神岡に来たばかりのころ、カミオカか希和のどちらかに、帰る方法を訊いた。いいや、カミオカがこのパソコンにアクセスしてきたのはもっと後だ。トオルは酸素カプセルのような機械の中で眠っていた。彼はたったひとり、カミオカが管理している人間で、まだ目覚めていないけど、帰るひとだと、希和が――そう、希和が言っていた。
――旅行者はたまに来ますけど、すぐに帰って行きます。
旅行者とは佐和のような人のことだと。どこから来て、どこへ行くのか希和にもカミオカにもわからない。いつかは帰る。心配しなくても大丈夫。
でも、どこに帰るのか、佐和にもわからない。
トオオルはパソコンのキーから手を離した。ゆすられて、佐和はハッと目を開けた。今まで眠っていたつもりはなかったのに。
すぐそばで、トオルが心配そうに見ていた。
「あっ、寝てた……? 話は聞いてたんだけど」
佐和はなんだか照れくさくなって、あわてて言い訳をする。
「すいません、つい長居しちゃって。寝ましょう。明日の朝は早く起きて、ご飯にはイモを煮ます」
パソコンの画面にカミオカはもういない。麦わら帽子のスクリーンセーバーが動いているだけだった。
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