#3 逃げ道
めまぐるしく変わる風景を抜けた処に、その森はあった。緑の濃い、夏の森だ。
(どこか間違ってる?)
トオルは、なにかひどく根本的な疑問にぶつかって、足を止めた。
ずっと走り続けていたような気がした。息があがっている。足の裏がひりひり痛む。見れば裸足で、靴下さえ履いていなかった。
そこは、遊歩道というには整備されていない山道だった。人がひとり通れるだけ草が倒され、背の高い木々と深い藪の茂る森の中で、行く先の道だけははっきりと示されている。
透は頭痛をこらえ、空を見上げた。目を細める。頭上に広げられた鮮やかな緑の隙間には、青い空が見えていた。まぎれもない夏の空、夏の光だ。おまけに暑い。
「ええっ、ドコココ?!」
ようやく我に返る。出した声はかすれて、自分でも笑えるほど裏返った。
首を何度も傾げ、せきばらいをする。口元に持っていった手が、変な感じがしてまじまじと見る。指がびっくりするほど白く、おまけに細かった。
ジーっというノイズだけが耳鳴りのように聞こえていた。
(おかしい。おかしいよ、これ)
トオルは、まわらない頭で記憶をたどる。
ついさっきまで、カイロを持って来なかったことを後悔しながら、かじかむ指でパソコンのキーをたたいていて、誤打の多さに時間をロスしている、と思っていた。冬の始め、雪の積もる前、けれど寒さで吐く息は白くなる。そんな季節だったはずだ。
ついさっき、いまさっきまで寒空の下にいたのに。夢でもみてたんだろうか?
混乱している。透は自分の指先をまじまじと見つめて考えこむ。
(こんなに細い指だったっけ? それに)
パソコン――姉からもらったいいパソコンも、PHSも持っていない。当然といえばそうだ。パソコンどころか、コートも、まともな服さえ着ていないし、靴も履いていない。着ているのはうすっぺらいパジャマみたいな、前あきの、水色の浴衣みたいなもので、ちょうど、人間ドックしてたひとがそのまま逃げて来た、みたいな格好だ。
「……人間ドックでも、パンツくらいはいてもいいはずだよね」
自分の声を確かめるようにしてつぶやく。また少し咳き込む。
指先は、女のひとのように爪がきれいに整えられていた。その指はまだ、キーを打つ感触を忘れていない。さっきまでここにあったのに。ありもしないものを探して、あたりを見回す。ここにはない。わかってはいるんだけど。
トオルはとりあえず考えてみる。
(逃げて、逃げて……)
暗いところをずいぶんしばらく走っていた。背後からなにか怖いものに追いかけられているような気がして、一生懸命、必死に走って、でも、走り続けていても疲れることはなかった。
悪い夢みたいに。
買ってもらったばかりの、大事なパソコンを手放したのはいつ?
季節が冬だったのは?
なにかが背後からおいかけてくるような気がする。
どこかにひっかかっていて、忘れてしまって、思い出したはずなのに、またとりおとしてしまった。
ざわざわと暖かい風が吹く。
何か、思い出しかけた。けれど、次に襲ってきた声のほうが強烈だったのですぐに忘れてしまった。
――トオル!!
耳元で、目が覚めるような声がよみがえって、トオルは小さいころに怖かったものをふたつ、思い出した。
ひとつは顔のど真ん中に巨大な目があるひとつ目のオバケで、……もうひとつは、お姉ちゃんだ。
「う、わあ、美奈子さん……?」
やっかいだ。えらくやっかいな声だ。怒ってるよあれは。怒ると怖いんだよあの人。思いもよらないことするから。
トオルは反射的に言い訳を考える。この場合、やっぱりアレでしょう。『彼』に、会いに行こうとか。そういうこと。あっちこっちのコンピュータとかネットに侵入して壊したり止めたりいじったりして……そういう一連のことに違いない。絶対そうだ。『彼』にたどり着く前に、わけもわかんないままこんな処に、こんな格好でいたりしちゃったりしてるってのは、それ以外考えられない。
心臓が、急に動き出したようにドキドキいいだす。
逃げなくちゃ、早く、早く。
どこに?
どこか、ここ以外のどこか、遠くに、早く。
後ろから姉に呼ばれているような気がして、しかたがなかった。たまに、彼女が本格的に怒り出す前に、わざとちょっと小さな声で名前を呼んだりするのだ。その声に似てる。
もう背だって追い越したのに、あの声を聞くと、今でも反射的に謝ってしまう。怖いというのとは少し違うかもしれないけど、怒る姉の前で、トオルは常に敗者と決まっていた。
「……トオルー」
と、背後から本当に呼ぶ声がして、トオルは身をすくめた。女の人の声。
トオルは痛む足を引きずって歩きだした。逃げてもしょうがないんだけど。
ごめんなさい美奈子さん。悪いことだというのはもう嫌ってほど判っていたのです。もちろん。金儲けのようなものじゃなく、もうただ単に好奇心で。崖があるから登るようなロッククライマーのように、トラップやプロテクトがあると入ってみたくなるのです。そりゃあもう、誰にもバレないように慎重に、サーバの処理能力もなるべく落とさないように努力を重ね……。
だけど、美奈子さんにも絶対バレないと思っていたのは浅はかでした。考えておくべきだった。自分を止めるのは、もしかしたら美奈子さんかもしれないって、そのくらいには。
確かに欲張りすぎた。深入りしすぎた。でも、好奇心は抑えられなかった。知りたかった。姉にその気持ちが判るだろうか。同じことはしない、と言うかもしれない。透とは違う方法で申請して、正当なルートをたどって『彼』に会いに行ったかもしれない。多分。いや、あんな姉の考えることなんて本当はさっぱり判らないけど!
『彼』の名前は、タキといった。
アクセスするためのアカウントは、姉が以前作ったものだ。何も問題なかったはずなのに、タキ――コンピュータによって作り出された疑似人格である彼は、ある日突然アクセスを拒んだ。
そして、透の元には、逆にタキからのメッセージが届いた。
――イツになったらミズキは会いにくるんだい?
タキは普通のメールじゃなく、透のパソコンの中にあったファイルの名称をすべてそのメッセージに変更する、という強引な方法でそれを伝えて来た。
ミズキ、というのはタキにアクセスするときに使う透の名だ。正確には透と美奈子の共用で使っていた昔からのハンドルネームだった。ただし、美奈子のほうは、ずいぶん前からタキにアクセスしていないはずだった。
そもそも、タキに会いに行く、というのはどういうことだろう? 透はタキと毎日のように会話していたし、小さなプログラムを作って遊んだりもしていた。
これはもしや、タキからの挑戦状なのでは?
そういうわけで透は手っ取り早くタキに会うために、タキを開発したという地元企業にアルバイトとして入り込んだ。姉が働いていたのでコネもフルに活用した。
それでも当然、アルバイトがコンピュータ群を管理している部署になんて入れてもらえるわけもなかった。結局は警備のシステムのほうに侵入して、ホストコンピュータの設置された部屋を調べ、監視カメラをごまかし、一番近い中庭に入り込んだ。ダクトをはって通り抜けることはできそうだけど、実際にやるかというとスパイ映画か、なんてちょっと冷静になっちゃって、笑うしかなくて。
その日、透はエアコンの室外機が並ぶばかりの中庭にいたけれど、実際にダクトに潜り込んだりはしなかった。……はず。
それが最後に記憶のある日だ。12月1日。冬の初めだ。
あの過剰なほどの警備システム。見えない柵のようにして、建物の内部にまで張りめぐらされた厳重なトラップ。
大変だったんだよ、あのシステムごまかすの。ああ、巧さんごめんなさい。巧さんの会社のネットに侵入しました。あーあ、そんなことしてるから、バチがあたるんだよ。
姉の婚約者は警備システムの会社にお勤めだ。あんな姉と春には結婚するとか言っていたはずだ。いいひとだ。物好きだ。それともあんな扱いをされるのは俺だけで充分ってことだろうか。
美奈子と透は十歳離れている。その姉より二つ年下の巧とも、透はすでに顔を合わせていた。あんな姉にはもったいないくらい、いい人っぽい印象だったっていうのに、恩をアダで――というだろうかこの場合。
とにかく、巧のところで構築した警備システムは出来が良かった。ユーザーに対しては存在を忘れるほど簡単で、突破するのは透もほれぼれするほどひどく難解だった。しかし、彼の会社のネットには既に抜け道が存在していた。
まともな言い訳も思いつかないまま、トオルはだらだらと坂を登っていく。つめたい草の上を選んで歩く。足の裏は草に冷やされてそれほど痛くはなくなっていた。でも、筋肉が落ちているらしく、歩くのがつらかった。ふくらはぎも、手足もぎょっとするほど細い。足の指さえ華奢に見える。
どこかに隔離――病院とか、施設とかに入れられてたとして、いったいどのくらいの間、意識が無かったんだろうか? まさか、本当に半年以上眠って……?
あのとき、なにが、あった?
あの冬の日、急にしんと冷え込んで、それでも風がないだけまだましかと思いながら、中庭の壁ぎわまでたどりついていた。そのとき、透はふと、背後に立つ人の気配を感じた気がして、危機感などないまま動いてしまったのだ。
そんなところで人の気配なんて感じても、本当に人間がいるはずはないっていうのに。
そこには警備システムに連動した警報と、それとは別に弱い電流を流すトラップが設置されていた。精密機械やケーブルを小動物――主にネズミの害から守るためのものだ。もちろん人間を殺傷するほどの高圧電流なんて流れているはずがない。
透はほんの一区画、ちょっとの時間だけそれらのシステムをごまかしてそこにいた。忘れていたわけじゃない。時間はひどく気にしていたのだ。制限時間まであと五分切った矢先だったことを憶えている。
そうだ、それで、移動したんだ。確かに誰かいたから。逃げようとしてそうしたら、バシッと衝撃が。
火花が、手から目に飛び込んだような感じがして前が見えなくなり、びっくりしてバランスを崩した。変に倒れて、背中を吐きそうなくらい強く打った。
そうしたら――。
「トオル!!」
「うっ……!!」
のろのろと歩いていたトオルは、駆けてきた人に捕まえられてしまった。うめき声を出して遠くを見る。
「透、トオル。私が見えますか? わかりますか。声が聞こえますか?」
げれど、トオルの前に立ちふさがってそう言ったのは子供だった。女の子だ。おかっぱで、ざしきわらしみたいな格好をしていた。すぐにもうひとりやってくる。トオルの腕をつかまえ、支えるようにする。髪の長い姉ではなく、ショートカットで、姉より少し年上に見える女の人だった。
「だっ、ダレ……!?」
気をつけたつもりなのに、トオルの声はまたもや裏返っていた。
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