#2 眠り姫

 日差しが強い。首の後ろがじりじりする。

 それでも、汗が噴き出すような不快な暑さではないのが救いだった。もともと暑さにはあまり強くない佐和さわだったが、ここに来てからの体調はすこぶる良かった。

 今日も気温の上がりきらないうちになだらかな山道を散策してきたところだ。

 手でひさしを作って、目の前の建物を見上げる。壁の白に夏の日差しが反射してまぶしい。


 その建物は二階建てで、小さな病院のような感じだった。佐和は数日前からそこに居着いている。小部屋が並び、ベッドが用意されているその清潔な建物は確かに病院のようなのに、入院している患者はたったひとりしかいなかった。

 

 彼は機械に繋がれて眠り続けている。けれど、医者も看護婦もここにはいない。

 彼を世話しているのはロボットだった。


 それはとってもかわいいロボットなのだ。小さな女の子の姿をしていた。佐和は彼女に、希和きわという名前をつけた。そして、子供のころに着ていた浴衣をうまくので、それを彼女にあげた。

 金魚柄の浴衣を着たヘルパー・ロボット。おかしなとりあわせだ。でも佐和はかわいくできて満足している。


 佐和の記憶は、かなり虫食いだった。ただ、ここには自分ひとりでやってきた、ということはわかっていた。旦那も子供もいるはずだけど、ひとりで来た。カミオカは佐和のことを『旅人』だという。

 眠っている彼のことは『帰還者』だといった。そう言うと帰って来たひとのことみたいだけど、カミオカとしては、「まだ帰らない人」「帰る予定の人」という意味のつもりらしかった。


 ――どこへ帰るんだろう?


「佐和!!」

 呼ばれ、はっとして顔を上げる。希和――ヘルパー・ロボットの少女の声だ。建物の裏手から姿を現す。転びそうな危なっかしい足どりで走って来ていた。

「そんなにあわてて、どうしたの?」

 希和の髪や浴衣には小さな葉や枯れ草がたくさんついていた。静電気でも起きてるみたいだ。払ってやりながら訊くと、希和は途方にくれたような目で佐和を見上げた。

「トオルが……トオルがいなくなったんです。見かけませんでしたか?」

「いなくなったって……あの子、目を覚ましたの?」

 彼はずいぶん長いこと目を覚ましていないと聞いていた。少なくとも、佐和がここに来てからずっと眠ったままだった。自発呼吸はあったが、たくさんのコードと点滴の管につながれていた。

「目を覚ましても、すぐにはたくさん歩けないはずなんです。靴も用意していません。このあたりにはいなくて、下の森のほうにも……」

 この建物は山の中腹にあった。周りはうっそうとした深い森に囲まれている。広葉樹が枝を広げて折り重なっているせいで、空も遠い。ましてやこの森のむこうなんて。

 山の上に向かうほうには、ケモノ道のような細い道や、ここに以前は人がいたのだという形跡がいくつか残されている。この建物もそのひとつだ。けれど、ここには、彼と佐和のほかに人間はいなかった。地図も時計もない。ひらけた場所では人の居場所を追えるという希和も、森の中までは力も及ばないらしい。


 脱走か。

 彼は眠り姫じゃなくてやっぱり『帰還者』だった。

 彼が目覚めたことを、もうとっくにカミオカは知っているだろう。喜んでいるだろうか。使命が果たされることを?


「とりあえず、歩きやすそうな道から探してみない?」


 佐和は今降りて来た道とは別の、ゆるやかな坂を指してそう提案した。建物の正面から山の中に進む、わりと歩きやすいルートだ。彼がもし、理由があって逃げたのなら下へ向かったかもしれないが、藪が深くて道らしい道もない。探して迷うのだけは避けたかった。


 彼がどこへ向かったとしても、どのみちこの神岡に逃げ場などないのだ。

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