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近江かをる

#1 冬の庭

 やじうまたちがいっせいにざわめくのを止めた。


 その時のおかしな顔なら鮮明に思い出すことができる。あたりはきな臭く、葉の落ちた細い木の下に煙が霧のように立ちこめていた。

 彼らはフェンスを遠巻きにして、事故の噂をうまく拾っていた。美奈子みなこもまた、派手な騒ぎに驚いて集まったやじうまのひとりにすぎなかったはずだ。事故に遭ったのが透でなければ。


 ほんの数時間前の出来事だった。けれど、美奈子の記憶はぶつぶつと途切れたまま、順序さえあやしくなっていた。さっきからずっとそうだった。くりかえし同じ時間を行ったり来たりしている。頭が痛い。どうにもならないまま、目を開けて現実に戻ってくる。

 隣に座るひとの手が、美奈子の手を覆っている。それで、また同じ場所に戻って来たと気づく。


「……たくみ?」


 呼ぶと彼は小さく頷いてみせる。美奈子は力を込めすぎていた指を、ゆっくりとほどいた。

 左手の薬指にあったはずの指輪は、どこかでなくしてしまっていた。ついこのあいだ、巧からもらったものだったのに。

 美奈子たちは警察署の廊下にいた。すぐ近くに座っている両親も、ひどく疲れたようすで床ばかりを見ていた。彼らはそこで、生きているはずもない透が帰ってくるのを待っていた。

 辺りは蛍光灯が明るく照らしているはずなのに、目を開けても暗闇の中にいるようだった。


 ――大丈夫。私は平気。


 巧がここへ駆けつけてきたとき、美奈子はまだそう言ってみせることもできた。彼のほうがよっぽど傷ついているような顔をしていた。

 本当に、平気だと思っていた。どうしてか、年の離れた弟が事故で死んだのに、何も感じなかった。記憶は混乱していたけれど、心の中は静かだった。

 今だって、悲しいわけじゃない。そう、思っていた。


 美奈子はうながされるまま、巧の肩によりかかった。まぶたをきつく閉じる。こめかみにつきまとっている鈍い痛みは、おさまる気配もなかった。頭痛をこらえ、何度となく繰りかえした問いに再び沈んでいく。


 どうして……どうしてだろう。


 透は今年の夏ごろから、美奈子の勤めている地元企業に、週に数回アルバイトに来ていた。彼はまだ18歳で、自宅からそう遠くない大学に通っていた。すでに家を出ていた美奈子は、透がアルバイトに来るようになってから、何年かぶりに頻繁に顔を合わせることになった。

 今日も横顔だけ見た。彼が雑用をしている部署の主任に、軽い口調でなにか頼み事をしていた。特に声を掛けることもなかった。それが最後だった。

 事故が起きたのは夕方で、短くなった日が落ちた直後だったろうか。まだ暗闇ではなかったけれど、薄暗く、照明は人の出入りがない中庭まで照らしていなかった。

 美奈子はそのころ3階の事務室で仕事をしていて、その日の作業に目処がついたところだった。ふと人の気配を感じて、顔を上げた。でも、そばには誰も来ていなかった。仕事中の人たちを見渡してから、気のせいかとパソコンのディスプレイに向き直ると、とたんに、衝撃と音が同時に襲って来た。

 爆発音だった。窓がびりびりときしみ、身体が下から押し上げられるような衝撃を二度、感じた。


 美奈子たちは驚いて声を上げ、顔を見合わせたあとで、音がした場所を確かめようと窓から下をおそるおそる覗いた。

 窓の下にある中庭は、ひょろりとした貧相な木が植えられているだけだ。初雪もそろそろ降るという予報が出ている今は、葉も落として寒々した姿をさらしている。その枝のあたりから煙が立ち上っているのようにも見えたけれど、地面近くの様子までは判らなかった。

 中庭の奥の建物にはコンピュータ室があるため、立入禁止のフェンスが築かれている。一階部分には、中庭に向いた窓もない。そこに人が入ったとは思いもしなかった。 


 まさか爆発物が、なんて物騒な冗談を言っていたら、遅れて警報機が鳴り始めた。避難誘導の指示に従って、美奈子たちはそろって階下へ降りていった。

 人が集まりだした駐車場へたどり着き――ざわざわと、中庭のフェンスに近いところでは人の密度が高くて、声がおかしな感じで反響していた。

 美奈子はそこで誰かに声をかけられた。

 どこかへ一緒に行こうとか、そんなことを言ったろうか。うまく思い出せない。呼ばれて、そこに行って、中庭のフェンスの扉をくぐって、枯れた下草をカサカサと音をたてて踏んでいき、髪の長い警備員の男を見上げた。

 その警備員は、警察が来るまで近寄らないほうがいいと言った。見ないほうがいいと。何を言っているのか判らなかった。


 ――呼ばれていたのに。


 ひとのざわめく声が反響する。こめかみに痛みを引き寄せる。

 ふりかえる人の歪んだ表情、無言の哀れみ、楽しげにさえ聞こえるひとたちのささやき声が、ノイズみたいに頭の中でくりかえされる。

 背後にある、のっぺりとした白い事務室のドアのむこうで何かが呼んでいる。ふりかえった。でも、そこにはだれもいない。

 白い壁の向こうに中庭の木々が透けて見える。枯れ草が焦げた跡がある。黒い染みのように広がっている。その上になにかが立っている。

 煙は低い位置でただよっていた。霧みたいで、嫌な匂いがして、ひどくむせて声なんか出なかった。


 混乱している。わかってる。どうにもならない。


 あのとき――透はどんな怪我をしていた? たくさん出血していた? 本当に心臓は止まっていた? 呼んでも返事をしなかった?

 どんな顔をしてた?

 ――どうして、


「美奈子さん、ちょっと立てる?」


 巧はそうささやくと、すぐに立ち上がった。支えを無くした美奈子は、ループする記憶からまたもや現実に引き戻された。巧を見上げる。彼は、まだぼんやりしている美奈子の手を引いた。

 訳がわからないまま美奈子も立ち上がると、母と目があった。何か言おうとしたけれど、彼女の心はそこにないようだった。その目に責められているような気がして、いたたまれなかった。


「すみません、すぐに戻ります」


 巧はそう言って会釈をすると、美奈子の手を引いて歩き出した。背の高い彼は歩くのが速く、美奈子はほとんどひきずられるようにしてついていった。


「巧? どうしたの? どこにいくの?」


 先を行く巧は答えなかった。振り返りもせずに先を急いでいた。

 逃げ出したいのかもしれない、と美奈子は思った。

 通り過ぎるグリーンの誘導灯がやけに目に付いた。静かな廊下に、靴音が響いていた。

 巧は非常口と書かれた明かりの下で立ち止まり、その扉を開けた。冷たい風が音を立てて吹き込んで来た。

 彼は何を考えているのか、こごえそうな風の吹く場所に美奈子を連れだした。


 らせんにつづく階段の途中、透けて見える暗い地面から、風が吹き上げてきた。追い打ちのようなタイミングで、通ったばかりの扉が重い音をたてて閉まった。


「美奈子さん」


 呼ばれて、巧を見上げた。慣れないと冷たく見える目をしてるけど、すごく心配してるのはわかる。

「大丈夫……」

「大丈夫なんかじゃないでしょう」

 指先はもうすっかり凍えていた。暖かな腕に抱き寄せられ、強く抱きしめられた。

「――――」

 うめき声を上げ、くぐもった声で、どうして、ひどい、ひどいとくりかえす。

 もう少しで、泣きたいことにも、気づかずにすんだはずだった。

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