第2話 登れない崖。




 こんな夢を見た。


 私は、途方もない高さの絶壁の前に立ち尽くしていた。ほとんど垂直にそそり立つ壁面を仰ぎ見て、阿呆のように口が開いていた。すぐに首が痛くなる。これを、私にどうしろというのだろう? 誰かに命令された覚えもないし、そもそも、こんな場所に来た覚えもなかった。


 暖かい風が吹いて、耳元を過ぎる。その流れに沿うように後ろをふり返ると、目下の断崖。恐る恐るのぞくと、如何にも未開の地といった風情の、鬱蒼とした樹海がひろがっている。群青の一面を、まるで白い傷跡のように、細い運河がウネウネとはしっていた。まさにアマゾンの奥地といった感じだ。私はうんざりした。


 どうやら、私はここを登ってきたか、ヘリコプターか何かで運ばれてきて、置き去りにされたようだった。まったく覚えはなかったが、どうもそうらしい。辺りを見回すけれど、灰色の岩肌ばかりがあるだけで、抜け道もなにもありゃしなかった。


 深い溜め息をつき、絶壁に向き直る。

 すると、いっしょに来ていたらしい従弟が、壁面の窪みに手をかけていた。おいおい。私は呆れて、声をかけた。


「おい、まさか登る気じゃないだろうな?」


 従弟はぼんやりとした素の顔に、薄ら笑いを浮かべた。


「登らんで、どうすんねん」


 どうすんねん、と言われてしまった。


「阿呆か、落ちたら死ぬぞ」

「ここに居っても死ぬだけやで」


 私は、思わず息が詰まった。


 そうなのか。ここで待っていても、誰も助けに来ないし、私たちは死ぬのか。


 私は、もう一度、目の前の絶壁を見上げる。

 確かに壁面には凹凸がある。凹凸だけ、確かにあるにはある。そこを一切の道具を持たず、命綱すらなく、登るのだという。

 想像するだに恐ろしい。またもや風が吹いてくる。もし、この風が、登っている間に吹いてきたらと思うと、背筋が凍った。馬鹿げている。何もかもおかしい。


「俺、行くわ」


 すっかり怖じ気づいた私を置いて、従弟はすいすいと壁面を這い上っていく。私は何も言うことが出来なかった。ずんずんと遠く離れていく背中を見送った。


 従弟は、まるで恐怖していないかのようだった。

 私は、もはや顔すら窺えない高所に至っている男子が、ほんとうに私の知っている従弟なのかを疑い始めていた。でも、従弟はやけに肝が据わっているところがあった。

 ……あったといっても、幼い間にホラー色の強いテレビゲームを、ケロッとした顔で難なくクリアするといったレベルの話だ。こんな絶壁を苦もなく登るような奴ではなかったはずだ。

 などと、その正体を疑ってみても、従弟はもはや米粒ほどの大きさにしか見えず、私は崖下で立ちんぼになっている。言いようのない寂しさが、私の胸を締め付けた。


「置いていかないでくれ」


 私は、ようやくそんな情けない言葉を吐いた。


「俺をひとりにしないでくれ」


 しかし、そのために従弟をこの崖下に留めておくことは出来なかった。


 あいつは、登ると言った。

 落ちて死ぬかも知れないが、何もせずにのたれ死ぬよりも、わずかでも生き残る可能性のある方に賭けた。単純な確率の話だ。そして、その選択が出来る人間だった。覚悟のある人間だった。


 覚悟のない私は、痛みと恐怖の予感に屈した私は、ここでのたれ死ぬ他ない。弱者は死ぬべきだ。いや、弱者は勝手に死んでいくのだ。今の、私のように。


 いや、


 いや、私は、


 私も、


 私だって、


 ……俺だって、やってやる。


 私は、強く強く目を閉じた。怖い、と思った。登るのも、落ちるのも、このままなにもせず、死んでいくことも。何もかも怖かった。だけど、自分よりも2つ年下の従弟の離れていく背を見つめて、寂しがっている自分の情けなさこそ、ほんとうに堪え難いことだった。それは、死ぬことと同じだった。死ぬ以上の無様だった。


 強く閉じたまぶたの間に、恐怖と不安と死の予感をすっかり挟み込み、潰して殺す想像をする。そして、ゆっくりと目を開けた。覚悟は決まった。あとは行動に移すのみである。……が、何故か私の視界はおびただしい数の六角形のマス目に覆われていた。は?


 は?


 その瞬間、私の視点は自分を頭上から見下ろすふうに変わっていた。第三者、神の視点に立った私の眼下には、ちっぽけなトンボが羽根を震わせて滞空している。これが私。どうもそうらしい。私はトンボ。トンボは私。


 なんじゃこりゃ!?


 私は、世の不条理のすべてにツッコミを入れるような気持ちで叫んだ。

 

 私の叫びを置き去りにして、トンボ=私は空を駆ける。絶壁を飛び越える。その一瞬、従弟と目が合った。ぽかーんとしていた。そりゃそうだ。

 そして、私はぐんぐんと速度を増し、樹海を越え、海を越え、街に辿り着く。

 張り巡らされた電線を編み目を縫うように飛ぶ。飛ぶ。


 ははは、これはこれで楽しい! でも、果たして元に戻れるやら。と思っている間に、トンボの私を大きな影が、後ろからぬぅっと包み込む。ちらっとふり向くと、真っ黒いカラスが、くちばしを目一杯に広げて、赤い舌をのぞかせていた。


 ああ、そう。


 私は、虫一匹の宿命に従って、カラスの餌になった。



「あ痛!」

 痛みと共に目を覚ました。頬に冷たく、硬い感触。視界が傾いている。どうやら、またベッドから落ちたらしい。小学5年生頃、私はまだ、ベッドで寝る生活に慣れていなかった。


 私は床に両手をついて、身体をベッドに押し上げる。

 そして、カーテンの開いた窓からのぞく、青々とした空を見上げた。雲はゆるやかに流れ、その下を飛ぶ雲雀が、ピーチクパーチク忙しなく鳴いている。私の頭は呆然としていた。もう昼のようだった。土曜日が半分も過ぎてしまった。

 ぼんやりとした私の脳裏に、こびり付く声があった。


 

 置いていかないでくれ。

 俺をひとりにしないでくれ。



 私は、確かにそう言った。

 だけど、私はトンボになって、それで何をしただろう?

 私は自分が空を飛べると知るや、従弟を置き去りにし、あいつをひとりぼっちにしたのだ。私は思わず、着ていたTシャツの胸元を握った。心臓が、冷ややかに脈打っていた。


 所詮は夢。夢の話。だけれど、そうとも言い切れない、誤魔化し切れない何かが、あった。自分はもしかしたら、途方もない卑怯者なのかも知れないと、思った。

  



 

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