異聞・夢十夜。

枕くま。

第1話 埠頭と山姥。



 こんな夢を見た。


 私は、真昼の苛烈な陽射しを浴びながら、どこかの港の埠頭を延々とはしっていた。周りには、赤茶けたコンテナが積み上げられ、異国へ渡るのを今か今かと待っている。私はどうしてこんな場所をはしっているのだろう? 

 疑問に思う間もなく、背後に誰かの気配。ふり向くと、同じクラスのK君がいた。私は小学校に上がったばかりで、K君とは席が隣同士だったのだ。しかし、どうしてK君は私とこんな場所をぐるぐる走り回っているのやら、と思うそばから私は仰天する。

 K君の背後に、もうひとりの影がある。

 それは鬼面のような底冷えのする眼差しをした、女だった。女は頬まで裂けた口から、デロリと舌を垂れ流し、は、は、と野良犬染みた浅い呼吸をくりかえしている。

 

 まともな人間であるはずがない。


「なんじゃありゃ!」

 私は世の不条理にツッコミを入れるような気持ちで言った。

 もはや、疑問のはさむ余地なし。

「逃げろ!」


 私は叫ぶ。


 私とK君は必死も必死。死に物狂いではしり通した。

 相手は大人の女で、あれは恐らく山姥か、何にしろ妖怪めいた某かであるのに違いない。山姥の足は驚くほどに速い。両手足をめちゃくちゃに振り回し、一心不乱に私たちへ追いすがってくる。捕まってしまったら、どうなってしまうのだろう? 考えたくもないことだった。


 小学校に上がったばかりの私たちでは、助かる見込みはありゃしない。それでも、はしる。少しでも、わずかでも、死の予感から遠ざかるために。私たちの足は、ただそのために付いているのだから。


 やがて、恐ろしい山姥の姿がK君に近づく。


 乾き切って、ひび割れた舌の様子までくっきりと見える。並んだ白い歯は、獰猛なサメを思わせて、私たちの柔らかな肌を食い破る様がありありと脳裏に浮かんだ。腹の底がきゅうっと締め付けられる。足が笑う。何故か、息は少しも上がらないのだけれども、足の感覚が鈍ってくるのがわかった。限界が近づいていた


 ――――その時、緊迫した空気を引き裂くように、鋭いクラクションが鳴り響いた。


 視線をあちこちにやると、コンテナの陰から、市営の交通バスがあらわれた。そうして、こちらに向かって突っ込んでくる。その乗客用の入り口が、開いていた。まるで、「乗れ」とでも言うように。


 助かった!


 僕はK君をふり返った。K君は額に珠粒のような汗をひからせ、希望に満ちた眼差しで、私に強くうなずいた。その力強さが、私をたまらない気持ちにさせた。


 私たちは、最後の力をふり絞り、全力で駆け抜けた。

 うしろをふり向くことはせず、追いつかれることの恐怖を膨らませ、萎えそうになる身体に鞭を打つ。呼吸を止める。視界がきゅっと狭まってくる。風になる。足音になる。心臓になる。はしる! はしる!!


「おりゃ!」


 私が先にバスのタラップに飛び移る。銀色の手すりを乱暴に掴む。じんとした冷たさが伝わり、私の熱がバスに滲む。助かった! 私はすぐにK君を見た。もう山姥がその背中に肉薄している。K君は表情を強張らせながら、あきらめて硬直したがる身体を無理矢理動かして、はしっている。


「早く!」


 私はそう言って、左手で手すりをしっかり握り、右手を外へ投げ出した。K君は歯を食いしばり、目をカッと見開いていた。そして、手を伸ばす。はしる姿勢が崩れたことで、当然のように速度が落ちた。山姥が迫る。


「掴んで!!」


 私は全身を投げ出して、K君の手を掴んだ。その手の熱さに、心が躍った。そして、バス内に倒れ込むように、思い切り引っ張り込む。K君の熱い身体がぶつかって、バスのざらざらした床を転がった。私は、笑っていた。生きていると、思った。


「あははは!」


 しかし、K君の笑い声が響くことはなかった。

 視線をふとバス内にやると、先ほど置いてきたはずの山姥が立っていた。


 私は、悲鳴と共に目を覚ました。

 となりで寝ていた祖母は、「どうした?」と眠たげな声で言った。私は荒い息を整え、今見た恐ろしい夢について、語ろうとした。けれど、言葉が出てこなかった。語る言葉を持つには、私はまだ幼すぎた。


「怖い夢を見たんやね」


 祖母はそう言って、私の頭を乾いた手で撫でた。

 私はその手を、首をふって拒否した。ただの怖い夢ではない。どんな怖い夢だったのかが、私には重要だった。

 私の不機嫌さに、祖母は呆れ、すぐに寝入ってしまった。

 その微かな寝息を聴きながら、私は今見た夢を、ずっと覚えていなければと思った。そういえば、夢の中でK君は一言も声を出さなかった。


 薄暗い畳敷きの部屋。室内灯の橙色の小さな明かりの下で、私は右の手のひらを見た。


 私は、K君の声をちゃんと聞いたことがなかったことを、思い出していた。

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