第8話『帽子屋は常に嗤っている』
◇
嵐は止んだ。ハーパーの機体が沈黙したようだ。
戦闘地帯から数キロ離れたビルの屋上。風はすでに凪いでいた。
双眼鏡を降ろし、帽子屋は溜め息を吐く。
「やれやれ、肝を冷やしましたよ」
『思ってもいないことを口に出すものじゃないわ』
「いえいえ、とんでもない。これもまた、私の本心ですよ」
『何個も心を持っている人は大変ね。切り替えが面倒じゃなくって?』
「いやはや、これは手厳しい」
肩を竦め、長帽子を深くかぶり直した帽子屋は、観測用の機材を片付け始めた。
『あら、もう店仕舞いなのね』
「ええ、生憎と。あちら様には顔を合わせると気まずいお方もいらっしゃいますので」
『厚顔無恥を地で行く貴方に、そんな感情が残っていたとは驚きだわ』
「私にではなく、相手の方ですよ」
『相手を慮る思慮が残っていたことの方が驚きだわ』
紅いドレスの搭乗者は、辛辣な姿勢を崩さない。
「しかし、貴女の辛辣さは爽快でもある」
『あなた、
「そういうわけでは」
『そもそも性欲があったの?』
これは八つ当たりなのだ。
旧友との再会。それに同席できない彼女。そして、それに水を差さざるを得なかった状況の全て。
それら処理しきれない彼女の感情が綯い交ぜになって、帽子屋に向けられている。
そういった感情を観測するのが、帽子屋の密かな愉しみである。
感情を向けられていると云うことは、一個の人間として認められているということだ。クライアントは皆、帽子屋を人間として扱ってくれている。実際の事情はどうであれ、本人の認識はそういうことなのだった。
「さて、私は行きますが、貴女は場所を移動しなくても?」
『すぐに迎えが来るわ。心配してくれてありがとう』
「心にもない台詞をどうも」
『社交辞令っていうのよ』
「礼儀に関しては疎いもので」
機材を詰めたアタッシュケースを持ち、帽子屋は踵を返す。
エレベータを使わず、階段へ向かう。
一定のリズムで靴音を響かせ、階段を降りる。
一階。また一階。
やがて地上へ辿り着き、裏に駐めた車の下へ辿り着いた時だった。
「随分急いで帰るのね」
若い女が運転席に座っていた。
「おやおや、今日は先客万来ですね」
「乗りなさいな。送るわよ」
「助かります。
助手席に乗り込むと、車は走りだした。
車は、隣のブロックへと向かう、幹線道路に乗った。
「それで、今日はどういった御用向きで?」
「貴方、あちら側とも繋がっていたのね」
「申し訳ありませんが、クライアントの情報については守秘義務がございますので」
「皆まで言わなくても良いわ」
帽子屋の脇腹に、堅い物が突き付けられた。
女は帽子屋の方を見ることもなく、運転を続けている。
「私にアイザック・ウルフ・バーンスタインの情報を教えた時には、そんな話は一言も出なかったわよね?」
「ええ、アイザック氏は私のクライアントではございませんので」
「なら、そのクライアントを言いなさい」
「それはできかねます」
「何故?」
「先程申し上げたとおり、職務上の義務ですね」
「それは命よりも大事なものかしら?」
車内を沈黙が支配する。
車は工業地帯を避けて、商業ブロックへと向かっていた。
「私にはどちらも同価値かと」
「そう、なら仕方ないわね」
銃口が脇腹から離れる。
そして次の瞬間には、左脚が撃ちぬかれていた。
車内に火薬の匂いが充満する。
しかし、帽子屋は微笑を崩さない。
「話す気にはなった?」
「いいえ」
「そう。それならそれでも良いけど」
車は商業ブロックを抜け、宇宙港へと向かっていた。
女は端末を取り出し、電話をかけ始めた。
「ノアーズ。スズネよ。帽子屋を確保したわ。ハーパーの方は?」
やれやれ、と言った仕草で、帽子屋は左脚の止血を始めた。
弾丸は貫通している。これなら止血だけでも十分だろう。
車がドックの前に停まる。再び銃口が帽子屋に向けられた。
「さあ、降りなさい。歩けないなら、肩を貸すわ」
「いえ、なんとか歩けますよ。ご婦人の手を煩わせる程ではない」
片足を引き摺りながら、乗船用のゲートへ向かう。
銃口を突き付けられながら帽子屋は思った。
この船に乗るのも、久し振りだ、と。
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