第30話

 夜通しでの移動で一番早く音を上げたのはシルヴィアであった。

 急に生活のリズムを乱されるというのは人の体に大きな負担を強いる。

 レインやクラースは、長く傭兵という稼業に就いており、どちらかといえば規則正しい生活というものの方が縁遠い生活を送っていた。

 そのおかげで、いきなり徹夜で移動といわれてもそれほど負担を感じなかったのだが、シルヴィアは神官だからなのか規則正しい生活をしていたらしい。

 途中までは明るく振舞っていたのだが、夜半頃から眠気に襲われ始め、頭や体がふらふらと揺れ出したのである。

 冒険者としてそれは大丈夫なのだろうかと心配したレインなのだが、シルヴィアは冒険者になってからまだ日が浅く、体が不規則な生活に順応していないのは仕方がないのかもしれないと考え直す。


「シルヴィア。背負ってやろうか?」


「うぇ? ……あー……しかしその……ふぁ……」


 眠気のせいでまともに開いていない瞳をレインの方へと向けて、言葉になっていない呻き声のようなものを口にしたシルヴィアの顔は、いつもとはかなり違って結構だらしのない表情になっている。

 徒歩の移動による疲れと、本来ならば寝ているはずの時間だというところから来る眠気の二重奏が、彼女から体裁というものを奪い去っていた。

 とはいえそれは、見苦しいというよりはどこか可愛らしいといった雰囲気のものであり、あまりまじまじと見るのをなんとなく躊躇わせるような光景である。


「らぃおうふ……れすよぅ」


「何言ってるかわかんねぇよ」


「だぃじょーぶ……ですよぅ」


 問題ないとばかりに猫背気味であった体を起こそうとしたシルヴィアなのだが、あまり無理やり勢いよく体を起こしたせいなのか、眠気のおかげで踏ん張りの利かない体が今度は仰け反って仰向けに倒れそうになる。

 もちろんそれはシルヴィア自身の力では立て直せるようなものではなく、慌てて手を差し伸べたレインがふらふらしているシルヴィアを有無を言わせずに背中へと背負う。


「ごつごつします……」


「そりゃ鎧の上に槍まで背負ってるから仕方ねぇよ」


「ご迷惑をおかけします……」


「気にすんな」


 レインに背負われたシルヴィアは、何かしら体に当たる色々な物の具合が悪いのかしばらくごそごそとレインの背中の上で体を動かしていたのだが、やがて具合のいい位置が見つかったのか動かなくなると、すぐに規則正しい寝息を立て始めた。


「大丈夫かレイン。なんだったら俺がすぐ代わってやるぜ?」


「兄貴にこれは任せらんねぇなぁ……」


 真面目な顔でそんな提案をしてきたクラースなのだが、レインとしてはクラースが何を企んでそのようなことを言っているのか即座に理解できるので、シルヴィアの身柄を渡す気にはまるでなれない。


「おいレイン。お前いつから兄貴分の俺をそんな目で見るようになった?」


「どんな目か知らねぇが……大体俺が何考えてるか分かってんだろ?」


 傷ついたような表情になるクラースを、半眼で睨みながらレインがそう答えると、すぐ直前までの表情から一変して真剣な顔になったクラースは、拳を握りながら力強く宣言した。


「どさくさに紛れてシルヴィアの尻を触りたい」


「兄貴と一緒にしねぇでくれや」


 どさくさに紛れてもなにも、結構しっかりとあちこちに触れてしまっているレインなのだが、それをクラースに言えばどんな手段を使ってでも交代しろといいかねない危険性がクラースにはある。

 シルヴィアを背負う権利の争奪戦で、兄弟喧嘩の挙句に血を見るような馬鹿なことにならなければいいのだがと思うレインは、ふと自分達のすぐ近くで元気そうに歩いているルシアの存在に気がつく。

 レインの背中で暢気に寝息を立てているシルヴィアとは異なり、ルシアの方には眠気の欠片も見えず、その足取りはしっかりとしたものであった。


「ルシアは平気なんだな」


「ん? ボク? そりゃ斥候だもん。五日までなら不眠でいけるよ」


 その言葉が嘘でないことを示すように、元気よく答えたルシアなのだが、レインとクラースは思わず顔を見合わせてしまう。


「兄貴、俺はあんまりよく知らねぇんだが、斥候ってのはそういうもんなのか」


「五日はちと盛りすぎじゃねーか?」


 レインもクラースも傭兵として、眠ることができないままに行動し続けなければならないような状況に置かれたことは、何度もある。

 しかし、ほんの少しでも仮眠のような時間を入れなければ、三日目辺りから意識が混濁し始めることを経験から知っていた。

 もしもルシアが言うような五日間不眠で動けと言われれば、もしかしたらできるのかもしれないが、五日目にはきっとまともな状態ではいられないだろうと二人揃って考える。


「ズルしていいなら九日まではやったことあるけど? 仮眠ありなら十四日」


「ズルって……?」


「その内容に関しちゃ、聞きたくねぇなぁ……」


 なんでもないことのように言うルシアなのだが、その内容はなんでもないことであるわけがなく、どこか呆然としてしまうクラースに、これ以上この話は掘り下げない方がいいような気がして明後日の方向へと視線を向けるレインであった。

 そんな会話をしながら、夜通し街道を歩き続けたレイン達は、商人が最初に口にしたように夜明け頃になってようやくその足を止める。

 疲れ果てたような様子で、街道沿いにある少し拓けた場所に次々と座り込む護衛達の姿を見ながら、レインは周囲を見回して御者台の上で水筒に口をつけている商人に話しかけた。


「なぁ、ちっとばかり場所が悪くねぇか?」


 商人が休憩場所として選んだのは、街道沿いにある空き地だったのだがその周囲はこじんまりとした森のようになっており、あまり視界が開けていない。


「俺も同意見だぜ。もうちっと無理してでも歩いて、この森は抜けちまうべきだろ」


 クラースも、森の中で休憩を取ろうとすることには反対であった。

 できるならば周囲に何もない平野のど真ん中辺りで休むのが、ベストだろうというのがクラースの考えである。

 周囲に遮る物がないというのは、身を隠すことが出来ないということではあるのだが、それは商人が心配している追っ手にとっても同じ条件であり、もし本当に追いかけてくる者が存在しているのであれば、その姿を早期に発見できるからだ。


「それは無理です。護衛達も少し休ませなければ」


 二人の主張に対して商人は首を横に振った。

 確かに商人が言う通り、地面に座り込んでしまった護衛達は少しでも休憩を取らなければ一歩も動けないのではないかと思わせる程に疲労の色が濃い。


「少しで済むのかよこれ?」


 クラースがそんなことを言うのも無理はなかった。

 地面に座り込んでいる護衛達の雰囲気は、今にもそのまま意識を失ってしまうのではないかと心配になるほどであり、とても商人が言うような少しの休憩で使い物になるとは思えなかったからである。

 だがクラースのそんな心配にも商人は自信ありげに答えた。


「もちろんですとも。うちの選りすぐりの護衛ですよ」


「そうかー? つーかその選りすぐりでもかなりやられた相手に護衛任務ってのはぞっとすんなー」


「まさか今更……」


「いやそりゃーさすがに不義理が過ぎんだろ。俺もそんな話はしねーって」


 クラースが商人との会話を続けている間に、レインはこっそりと護衛達を観察する。

 息が乱れ、肩で息をしているような状態の護衛の男達はクラースが言うようにすぐに復帰できるような状態には見えない。

 怪我をしているわけではなく、純粋に疲労が原因であることは明白であるので、休憩すれば問題はないのだろうが、レインは護衛達の様子から少なくとも数時間はこの場に留まる必要があるのではないかと考えた。

 しかしその考えは、護衛達がその荷物の中から革の水筒を取り出し、震える手でそれを持ち上げて口をつけた瞬間に違ったものへと変わる。


「兄貴。とりあえず雇い主の意向だ。時間が惜しい。俺らも休もうじゃねぇか」


「そうか? まぁそうだな。金を払う奴がいいってんだからいいんだろーな」


 商人との話を切り上げるように、レインがクラースの肩を叩くとクラースはあっさりと会話を終了させて、レインと共に商人から離れる。

 ちなみにそのレインの背中にはまだ眠っているシルヴィアが背負われており、レインの腰を叩く振りをしてシルヴィアの尻へと伸ばされたクラースの手を、レインは鋼の義手で少し手荒く振り払う。


「折れたらどーすんだよ」


 振り払われた手を、やや大げさに押さえながら文句を言うクラースへ、レインは疲れと呆れの滲んだ声で答える。


「兄貴。さすがに意識のねぇ相手へのそういうのは見過ごせねぇよ」


「お前はいいぜ? 触りたい放題なんだからよ。そういう幸運を兄の俺におすそ分けしようって気にゃーならねーか?」


「まるでならねぇな兄貴。というか触り放題とか人聞きの悪ぃこと言わねぇでくれ」


「事実だろーが! 尻も太股も! やりたい放題だろうが!」


 声を荒げたクラースの脳天を、レインの拳が強めに叩く。

 鋼の義手でそれをやれば、ダメージが洒落にならないことは分かっているので、今回振り下ろされたのはレインの生身の方の腕であった。

 しかしそれは右の拳ということであり、やはりそれなりに痛かったのかクラースは叩かれた頭を押さえて蹲り、レインはその傍らに身をかがめる。


「で、何が見えた?」


「水筒。中身を飲んだ途端に目の色が変わりやがった。疲労で一歩も動けねぇような半死人だったのが戦場の雰囲気にラリった新兵みたいな雰囲気を出しやがる」


 レインが見た光景から連想したのは、開戦直前にたまに行われることであった。

 それはこれから戦争という暴力行為に及ぼうとする兵達が、余計なことに気を取られたり、恐れから動けなくなったりすることを防ぐために施される処置だ。

 もっともそれは処置であることを知らされることなく、通常は糧食に混ぜられたり、振る舞い酒だと偽って兵達に渡されたりするものである。

 これは傭兵にも施されることがあり、知らないとそのままそれを口に入れることとなり、後はわけも分からないままに戦闘終了を迎えるか、或いは二度と戻らないかのいずれかの結末を迎えてしまう。

 レインも何度かそれを施されかけたことがあるのだが、幸運にも口に入れる前に戦いが始まったり、仲間の指摘を受けたりして逃れることに成功していた。


「投薬ってやつか。やっぱりこの話、キナくせーな」


「乗りかかった船じゃ、今更下船もできねぇけどな。兄貴の方は何か気づいたか?」


 尋ねたレインに対してクラースはしばらく沈黙する。

 どうやら言葉を選んでいるらしいと判断してレインはそのままクラースが口を開くのを待ったのだが、クラースはたっぷりと時間をかけてからぼそりと囁いた。


「あの馬車の周囲、ちとくせーんだよ」


「キナ臭ぇ話とは別か?」


 確認するレインにクラースは下を向いたまま小さく頷く。


「ありゃ排泄物の臭いだ。何のかまではわからねーけどな」


 やったと痛みが引いたとばかりに叩かれた頭をさすりながらクラースは立ち上がる。

 その姿を呆れたように見守るような恰好をしながら、レインは視線だけで商人が御者台から降りようとしない馬車の方をじっと見つめるのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る