第26話
「二人とも何か楽しそうじゃねーか。何かいいことあったか?」
色々と諦めたレインが左手をシルヴィアに預けたままテーブルの上に突っ伏そうとして、かけられた軽い声に視線を上げる。
そこに立っていたのは長めの赤毛をどこからともなく吹く風に揺らし、笑顔で小さく手を振る優男であった。
鍛え上げられていると一目で分かる細身の体に革鎧をまとい、腰からシャムシールを吊るしたこの男こそ、レインにとっては傭兵団の団長であり、兄貴分でもあるクラースである。
かけられた軽口に何事か返そうと口を開きかけたレインは笑うクラースの左頬にくっきりと分かるほどに真っ赤な手形がついているのと、そのクラースの背後に不機嫌そうな顔をした斥候の少女であるルシアの姿があるのを見て、思わず瞼で瞳を半分閉じてしまう。
「兄貴?」
今度はどこでいったい何をしてきた、という問いを滲ませるレインの呼びかけに、クラースの表情がはっきりと引き攣った。
その反応だけで何かしらの面倒事の匂いを嗅ぎ取ったレインは、クラースに聞いても何かしら言い訳めいたことを言いそうだと考えると、背後に控えているルシアに声をかける。
「何があったってぇんだ?」
「毎度のことだよ」
ルシアの声は冷たく、その返答は短いものであった。
だがそれだけでレイン達はクラースがまた何か女性関連のやらかしを行ったのだろうことを悟ってしまう。
悪癖と呼ばれるものは、そうそう簡単に治るものではないということは重々承知しているつもりのレインではあるのだが、またかと思ってしまう心の動きを抑制できるわけでもなく、それまで頬杖をついていた手で自分の額を押さえると天井を仰ぎ見ながらルシアへの質問を重ねた。
「誰とやったんだ?」
「胸の大きなギルドの女性職員」
胸が大きいと形容したルシアの声には結構なとげが含まれていたように感じたレインだったのだが、今はそれを気にしている場合ではないとスルーして、クラースの所業だけを確認しようとするレインへ、ルシアが不機嫌さを最大限に前面に押し出しながら語ったところによれば、クラースは本日も相変わらずギルドの女性職員達にコナをかけまくっていたらしい。
ただそれだけならば、大した問題になることはないはずであった。
何せギルドの職員達は女性といえども日夜、冒険者というあまり行儀のよろしくない連中を相手に仕事をしているのだ。
少しくらいの荒事や、下品な話題などには既に免疫や耐性ができており、今更騒ぎ立てるようなこともないはずだった。
ではそんなギルド職員に対してクラースが何をし、顔に大きな手形をこしらえるようなことになったのかといえば、その詳細を聞いてレインは自分の耳を疑うことになる。
「あいつらよー。あんまりスレた反応ばっかするもんだからつまんなくてよー」
「仕事中なんだから仕方ねぇと思うんだがな」
「だからよ。こう初々しい反応ってのが見たくてなー。俺も意地になっちまってよー」
「もう嫌な予感しかしねぇんだが、何をしやがった兄貴?」
「職員の中で一番胸のでけー娘を探してな。その娘ってのが近くに来たときに、正面から胸の先端に人差し指をこうぷすっと……」
丁寧にそのとき自分がどのようにしてそのようなことを行ったのかをやって見せるクラースに、レインは頭痛を覚えて低く呻き声を上げた。
あろうことか自分達の面倒を見てくれる相手に、犯罪と罵られても仕方のないことを、人の目を気にすることなく白昼堂々とやってみせたというのである。
いくらなんでもそれは酷過ぎるだろうと思う反面、よくも頬一つを張られただけで済んだものだと思ってしまうレインへ、ルシアが追い打ちをかけた。
「ギルドマスターに呼ばれてこっぴどく怒られたからね。なぜかボクまで」
ギルドマスターとは、ギルド各支部の責任者のことである。
この上にギルド本部にいるグランドマスターというものがいるのだが、これらに呼び出されて叱責を喰らうというのは余程のことがないとそんな事態にはなり得ず、ルシアの見せている不機嫌さの原因の大半はそれであったらしい。
おそらくはレインとシルヴィアが内容はともあれ傍から見ると仲良くしているように見える状況下で、手持ち無沙汰からクラースの近くにいたルシアは仲間だからという理由でクラースと一緒にギルドの責任者から叱責されてしまったというわけだった。
運が悪いといえばそれまでだが、原因はクラースの女性好きに端を発している。
「兄貴……俺達冒険者ギルドに出入り禁止にでもなったら、食っていけなくなるってことは分かってんだよな?」
「けどよー、ギルドの女の子ってみんな可愛いからどうしてもよー」
「コナかけるくらいなら俺もとやかくは言わねぇが、触ったらだめだろ!?」
これが酒場のウェイトレスが相手であったのならば、酔客に尻を撫でられたり胸を触られたりするくらいのことはよくある話で済まされたかもしれない。
しかし、少なくとも冒険者ギルドは酒場ではなく、そこの職員は酔客のあしらいに慣れているわけではないのだ。
「治んねぇかな、その悪癖」
「無理じゃねーかなー?」
あっけらかんとした口調と笑顔でそう答えたクラースは次の瞬間に顔色を変えてその場に蹲ってしまう。
何があったのかは股間を手で押さえるクラースと、その背後にいるルシアが今しがた蹴り上げた足を下ろしている姿から明白であり、レインは溜息を吐きながらルシアにテーブルに座るように促した。
「俺の兄貴が迷惑をかけた。すまねぇ」
「レインが謝ることじゃないけど……なんとか手綱をとれないの?」
「前の団長もこればっかりはお手上げってやつでなぁ」
一度でも致命的に近いような目に遭えば、話は少し違っていたのかもしれないとレインは考える。
だがクラースは要領がいいのか運がいいのか、この女癖を原因として命に係わるような目に遭ったことがこれまで一度もなかったのだった。
クラースの前に傭兵団の団長をやっていたクラースの父親も、この悪癖に関しては非常に心配していたのだが、結局これを治すことができないままにこの世を去っている。
「仕事に差し障らなきゃいいんだがな」
「それは大丈夫みたい。怒られてるときにギルドマスターが、ギルドの規定には引っかからないけれど、とか言ってたし」
ギルドの規定にひっかからなければ、何をしてもいいというわけではないのだが、ギルドマスターがわざわざその話題を持ち出してきたということは、この件に関しては特に処罰を考えているわけではない、ということではないかとレインは考える。
ただその温情がいつまでも続くとは思えず、クラースの所業が処罰の対象になるのが先なのか、それに目を瞑ってでもギルドが自分達を必要だと思ってくれるようになるのが先かと考えてしまうレインであった。
「べ、別に俺だって自分の趣味にばっかり没頭しているわけじゃねーんだぜ?」
蹴られた場所とその威力は、一朝一夕にクラースの体から抜け落ちるようなダメージではなかったようで青い顔をし、額にびっしりと脂汗を浮かべたクラースが椅子に縋り付くような態勢からどうにか椅子に座りつつそんなことを言う。
それに疑わしいといった視線を向けたレインへ、クラースはテーブルの上へ一枚の紙を滑らせた。
左手はまたシルヴィアの興味に捉われたままで動かすことができず、自由になる右手でその紙を摘み上げたレインは、そこに書かれている文字へと目を走らせる。
それはギルドの受付近くに設置されている掲示板に貼られている依頼票の中の一枚であった。
時間的にろくな仕事が残っていないはずのそこから、クラースは何かしらめぼしい依頼を見つけて持ってきていたらしい。
その辺りのことはそつがないというのに、話が女性関連となると途端に駄目になるのは何故なのだろうと思いながらも依頼票の中身を見ていたレインは、一通り読み終えると作業中のシルヴィアに渡すことは即座に諦めて、ルシアへその依頼票を渡す。
「商人の護衛任務? なんか少し前にも似たようなことしなかったっけ?」
「ありゃ盗賊共を釣り上げるエサとしてやっただけじゃねーか」
依頼票の中見は、とある商人が行う商品の輸送に護衛として同行して欲しいというものであった。
レイン達がいる街は道の途中であり、輸送先は街から南に徒歩で三日ほど行ったところにある別の街ということになっている。
依頼主である商人は、今回非常に高価な品物を運ぶにあたって十分な数の護衛を用意し、隊を組んで移動していたのだが、その護衛の内の何人かが体調を崩し、隊から脱落してしまったのが今回の依頼理由だという。
「仕事自体は往復四日で済むんだぜ」
青い顔のままのクラースの言葉に、レインは首を傾げた。
目的地の街まで片道三日かかるのであれば、護衛の仕事は少なくとも往復で六日必要になるはずであり、クラースの言葉が正しいのであれば途中で引き返すことになるからだ。
「南に二日も行くと国境を越えるからな。そこまでの護衛でいいらしいぜ」
レイン達がいる街はクレアシオンという街であるのだが、この街がある国はヴァルトハウゼン帝国という。
東西に長い形をしており、南北には狭い国家でクレアシオンはその国の南西に位置している街である。
その南側にはラインシルト王国という国家があるのだが、この二つの国家を分けている国境線までの距離がクラースが言う徒歩で二日という距離であった。
「国境を越えるとまた別の護衛が待ってるんだとさ。そいつらと合流する手前まで護衛するってのが今回の仕事だ」
「その仕事、もう受けちまったのか?」
依頼票を掲示板から剥がしてきたということは、そういうことではないのかと考えたレインだったのだがクラースは首を横に振った。
「さすがに俺も、お前らの意見を聞かねーうちに勝手に仕事は受けねーよ」
いちおうレイン達のパーティのリーダー役ということになっているクラースなのだが、そのくらいの分別は持っていたらしい。
そのことに少しばかり安堵しながらも、レインはルシアが覗き込んでいる依頼票の表面を人差し指で叩いた。
「依頼主の裏を取らねぇとならねぇだろ」
傭兵も似たような仕事を受けることがたまにある。
稼げそうな戦が近くにない場合に、食いつなぐために受けることが多いのだが、こういった類の依頼はたまに本来流通させてはいけない商品をこっそりと運ぶのに使われたりすることがあり、それが発覚すればろくなことにはならない。
だからこそ、依頼を受ける前に依頼主について調査するというのが当たり前のように行われていたのだが、レインの言葉にいくらかダメージから回復したらしいクラースは少しばかり得意げな顔を見せた。
「そっちは問題ねーよ。およそ調べがついてる。この街の北にある街で商いしている結構古い大店だ」
長く商いをしている店というのは、それだけで信頼性が高い。
しかも大店となれば危ない仕事に手を染める理由があまりなく、問題のある依頼をわざわざ出してくるというのは考えにくい話であった。
いったいどこでそのような調査を、しかもそれほど時間をかけることなく行ったのかという疑問が湧いては来るものの、クラースがある程度自信を持って言うからにはそれなりの確度を持った情報であるはずだとレインは考える。
「その用意周到さがなんで女絡みとなると鳴りを潜めやがんのかな、兄貴」
「そいつが俺も不思議でならねーんだ」
少しばかり皮肉を込めて言ったレインの言葉に、心の底からそう思っているかのように答えたクラースの言葉に、クラースを除いた三人は揃って呆れた視線をクラースへと向けたのであった。
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