そんな人は、一人もいないと、彼女は強く言う。

 立ち上がろうとして、でも、一度止まってしまった足は言うことを聞かずに、その場にへたり込む。

「もう、限界だったんだ」

 ぽつり、呟いた声は、静かに響く。

 りょうの顔には、相変わらず、なんの表情も浮かんでいない。

 浮かんでいないけれど、それは酷く苦しそうだった。

 手を伸ばしたいけれど、その手を失ってしまっているような、そんな心が、透けて見えた気がした。

「ね、沙也加さやか。俺、気付いちゃったんだよ。俺の両親が生み出したこの花人病を、消す方法」

「え?」

「それは、俺が死ぬこと」

 頭を殴られた気がした。

 なんで、どうして、そんな方法で病が消えるのか。

「意味、わからないんだけど……」

「まあ、そうだよね」

 了が動く。

 その手には、鈍く光る杭が握られている。

 なにに使うものか、なんて、私たちの世代ならまだぎりぎり知っている。


 悪いことをした吸血鬼は、心臓を杭で刺されて、頭をはねられて、殺されてしまいました。


 小さい頃に母親が読んでくれた絵本。

 めでたしめでたしで終わるお話。

 その最後のページは、こと切れて横たわった吸血鬼の肩から下と、それを囲む子供と親のイラストが描かれていたのを、思い出す。


 あの頃は、吸血鬼は悪いことをする生き物だと思っていたから。

 だから、めでたしめでたしで終わるお話に、違和感なんて抱くはずがなかった。


 だけど、今は違う。


 私は彼を知っている。

 彼が、吸血鬼に対してどんな感情を抱いているのか、花人病に対してどれだけ苦しんでいるのか。

 そして、彼は罪を犯してもいる。

 行方不明者の血を、おそらく、了は吸ったのだ。彼らを枯らしたのだ。

 でも、だからって殺してしまっていいのか。


 私は首を振りながら腕で這うようにして後退る。すぐに、冷たいドアに背が当たる。

「嫌だよ、了。理由を説明して。お願いだから、私にもわかるように、この状況と、そう思った理由を教えて」

「勘……って言ったら?」

「ふざけないで」

 震えないように、腹筋に力を込めて私は彼を見上げる。

 彼は、一つ息を吐くと、私の真ん前にしゃがみこむ。

「ふざけてないよ」

「じゃあなんで」

「二人が、置いていった子供だから」

 ずん、と重たいものが心に乗る。


 置いていかれた。


 そうか、そうだ、残されたんだ、この人は。

「でも、二人はあなたが死んでしまわないように、親戚のおばさんにあなたを預けたんでしょ?」

「そうだね。俺を置いて、二人は復讐のために命を差し出して、花人病を生み出した。なんで、俺をわざわざ置いていったと思う?」

「それは……」

 あなたのことを、了のことを思ってじゃないのか。違うのか。

 そう言いたいけれども、苦しそうなその瞳が、それを言わせてはくれない。

 だって、私は彼の両親ではないから。確実なことなんてわかるはずがない。

 それなのに、無責任にそんなこと、言えなかった。

 助けを求められているのに、どんな言葉を、どんな動作を、彼に渡すのが正解なのかわからなくて。

「……」

 私は、黙ってしまう。そんな私に、了は目を細めて、口角を緩やかに上げる。

 杭を持っていないほうの手が伸びてきて、優しく私の頭を撫でる。

 柔らかい表情は、泣き顔のように見えた。

 涙なんて、一粒もこぼしていないのに。

「ごめん。困らせちゃったよね。でも、俺、もう限界なんだ」

「限界……?」

「俺の親が、花人病を生み出した。そのせいでいろんな人が、心身ともに傷つく姿を見て。いろんな人が咲いて、枯れて。正直いっぱいいっぱいだった」

 こぼれだすように、薄い唇から言葉が落ちてくる。

 それを、一つも漏らさないように、私は耳を傾ける。

「沙也加が、俺のせいで吸血鬼になっちゃって。いろんなものがこぼれだしかけて、でもなんとか表面張力で耐えて。だけど……いばらが、誰かに作りだされた花人が、現われて、その血には、花人を枯らす力があって……もう、無理だった。俺はもう、心が、折れたんだよ……」

「……だから、たくさんの人の血を吸ったの? 咲くために?」

 了は、頷く。

「それでも、咲けなかったんだ?」

 また、頷く。

「……それはきっと、了は生きていくべき人だからだよ」

 違う、そんなことが言いたいんじゃない。

 それなら、了に吸われて枯れた人は、死ぬべき人だったのか。

 それ以外で咲いた人は? 枯れた人は? 襲われて亡くなった人は? 咲いてしまったいばらや、枯れかけている薫は?


 死ぬべき人なんかいない。

 きれいごとなのかもしれないけれど、でも、死んでいいはずがない。


 たとえその人が、大罪を犯していたとしても。


 大罪を犯した人と同じ種族だとしても。


 血が、繋がっていたとしても。

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