進まない実験レポート

結果から言うと、彼女——河合怜は怒っていた。拗ねていた。という表現の方が的確かもしれない。

とにかく、俺は初めて人を刺した。殺したのではない。


そう、俺は結局怜ちゃんを殺せなかったのだ。


ナイフを持っていざ突進したところまでは良かった。

しかしその時俺は目を瞑っていたのだ。

だって多分グロいだろ。


それともう1つ。

俺と怜ちゃんの間にはおよそ2歩分の幅が空いていた。

殺す際に間にあった机が邪魔だったので退けたら自然にその幅が生まれた。


1歩目は勢いよく突進した俺だが、いざ人を殺すとなると、ブレーキがかかった。2歩目で速度が下がったのだ。


それ故、ナイフは狙いの首を外して顔面に。

威力の下がった突進で顔の表面、いや、表面よりは少し深くナイフは刺さった。


顔面を抉るナイフ。しかも死にはしない程度の、ギリギリの威力。

……めちゃくちゃ痛かっただろう。


怜ちゃんは俺が刺した後悲鳴をあげ、俺の持っていたナイフを取り上げて自分の首に刺して自殺した。

もちろん数秒後に生き返ったが。


聞くところによると、彼女は生き返る時、身体は健康な状態になるらしい。

つまり、死ぬとその時あった痛み、怪我、病気が無くなるということだ。


とにもかくにも、俺は怜ちゃんを傷つけた。

治るとはいえ乙女の顔に傷跡をつけ、多分首より痛いであろう顔面にナイフを当ててしまい、しかも結局俺の手では殺せなく、彼女の1つの目標である「他殺」を今日も達成できなかった。


なので、俺は彼女に謝るべきだろう。


「いや……マジごめん……」

「いーよ別に。初めてだったんでしょ。怒ってない」

「お、怒ってるんじゃないの……?」

「怒ってないもん」

「嘘だ絶対怒ってるだろ……」

「うるさいな。怒ってないって」

「いやその反応は絶対おこ——」


ガンッ!


一瞬なんの音かと思った。

怜ちゃんがナイフを机に思いっきり刺した音だった。


「怒ってない」

「ハ、ハイ……」


こえぇ……今時のJKは怒らせたらいかんな……


2人の間に沈黙が訪れる。

それを最初に破ったのは怜ちゃんだった。


「でも……」

「え?」

「でも、どうしても謝りたいなら、反省したいなら……」


怜ちゃんはおもむろにスマホを弄り、画面を俺に見せた。


「……これ、買ってよ」

「え、これ……服?」

「うん。このブランドの服、欲しいんだけど結構高くて手出せないの」


そういえば趣味は買い物と言っていた。服を欲しがるとは、変な能力を持っていてもこの辺は普通の女子高生なんだなあと思う。

普通の人間に生まれてれば、こんな血生臭くない、もっとちゃんとした青春を謳歌できていただろうに。


いや今はそれどころではない。ホテル代は払わずに済んだものの、結局それより多い出費を求められている。


……高い。俺のような非リア充には聞いたこともないブランド名の下にその服の値段が書いてあった。


……服に5ケタもかけるの?

いわゆるリア充ならこれくらい普通なのだろうか。俺は布に数万円もかけたくないが。


でも……

俺はじっと怜ちゃんを見る。

よく見れば、いやよく見なくてもかなり顔は整っている方だ。髪もツヤツヤだしスタイルもいい。


流石にじっと見られて居心地が悪くなったのか怜ちゃんが口を開いた。


「……な、なに?」

「いや……」


映えるだろうな。

そう思った。


服に数万円もかけるのは俺みたいなイケてない人種からしたら考えられないが、彼女にならこれくらいかけていいかもしれないと思う。

言う度胸は無いのでもちろん口には出さないが。


「じゃ、買うか」

「えっほんとに?」


怜ちゃんはヤケに嬉しそうだった。


「うん。まぁ俺の中だとこれはかなり高いけどな……」

「え、大学生だからいっぱいお金持ってるんじゃ無いの?バイトとかさー」

「ははは……バイトね……」


俺は濁した。

言えねぇ……親戚からの仕送りだけで生活してるなんて言えねぇ……。


「私もバイト始めようと思ってるんだー。なんか、楽しそうじゃん?」

「そうか?俺には金貰える奴隷としか思えないけど」

「津崎くんそれじゃ社会で生きていけなくない……?なんかこうさ、新しい出会いとか!友達出来たりさ!とにかく一回やってみたいの!」


怜ちゃんは最後に「……まぁ津崎くんみたいな人は友達出来なさそうだけど」と小声で付け加えた。おーい、聞こえてるぞー。


取り敢えず今回の服は俺が買うとして、彼女がバイトを始めるのは賛成だ。

これからも俺が何か失敗した時に「これ買って!」とねだられるかもしれないからな。

まぁ俺が稼いだ金じゃ無いけど。


「……ま、いいんじゃね。ブラックには気をつけてな。せっかくなら楽しんでくれば?嫌になったらすぐ辞めればいいと思うし」


正直バイト経験がないのでちゃんとしたアドバイスは出来なかったがそれっぽいことを言っといた。


「うん!どこにしよっかな……」


そう言って彼女は楽しそうにスマホで求人サイトを検索し始めた。


「あ、そうだ。連絡先交換しよっ」

「え?俺?」

「津崎くん以外に誰がいるの……ほら、これからもよろしくってことで」

「え、これからも殺すの?」

「もちろん!津崎くんもこの関係続けなきゃ困るんじゃない?だって私津崎くんの首絞めについて訴えちゃうよ?」

「連絡先!交換しましょう!」


こうして俺の連絡先に女の子が増えた。

それにしても、またこんなしないといけないのか……


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


怜ちゃんと知り合ってから約1ヶ月が経過した。

未だに俺は彼女を殺せないでいた。


ある日は「今日は体の調子が悪い」と言い、

ある日は「今日は忙しい」と言い、

ある日は居留守を使い……

そうやって俺は逃げてきた。


……やっぱり、怖い。


普通の人でさえ怖いだろう。それなのに、俺みたいなメンタルが弱い若者になんて到底無理である。


そう。俺はメンタルが弱い。

小中高で真面目に勉強をしてきたし、若気の至りと言って変な騒ぎを怒ったりもしなかった。

だからだろうか、19年間の人生の中で、そこまで怒られた記憶がない。


つまるところ、俺は優等生なのだ……いや、だったのだ(過去形)。優等生は怒られない。だからメンタルが弱い。そうか、俺が優秀すぎたせいで俺はメンタルが弱かったのか……。


いや、違うのだろう。

本当に優秀な人間は、将来困らない程度に勉強して、それなりに遊んだりバイトをして人生経験を積み、自分の考えをちゃんと持って間違ってると自分が思うことは怖がらずに人に伝え、そして程々に、自分のやりたいことを行動に移せる人間のことを言うのだろう。


俺のように反抗するのを恐れて親の言うことを聞き、自分が心からやりたいと思ったことを出来なかったような人間は優秀でもなんでもない。ただの操り人形だ。


「自己完結したな……」


部屋の中で呟き、ふと時計を見る。

時間は10時20分。今日は2限から大学の講義があるので、そろそろ行かねばなるまい。


俺みたいな優秀ではない人間は、せめて大学の単位ぐらいは取らなければいけない。


そんなことを思い、俺は部屋を出て自転車のペダルを踏んだ。




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