#25 -マスターになるという事③-



 そして夜が明けて、何事も無かったかのように太陽が昇る。


 春から夏へと移ろいゆくその日の日差しはいつにも増して強く、目を差す陽光にシエルは少しだけ目を細めた。


 シエルの身体は帝国軍上級兵士の軍服と防弾防刃ジャケットに包まれ、腿には拳銃が、腰にはクリュサオルと予備のナイフ数本が吊ってある。


 そして肩から腰にかけて薬液の入った注射器がずらりと入ったベルトが提げられている。その色は葡萄酒の様なルビー色で、修復アンプルとは違うものだ。


 シエルの持っているものは強化アンプル。注入することで中に入っているナノマシンが体内のものと結合して変異し、一時的に通常稼働では出せないパフォーマンスを発揮する代物だ。


 当然ながらリスクもあり、無理のすぎる稼働を行うと電脳や人工筋肉にダメージが残る。また変異の際に何かしらのエラーで拒絶反応が起こればナノマシンが結合を維持できず身体が崩壊してしまう、まさに諸刃の剣なのだ。


 だが、そんなリスクすらシエルにはどうでも良いことだ。


 どうせ失敗すれば命は無いのだ。イレーヌは確実にシエルを廃棄処分にするだろうし、ロベルタ達がもう一度逃がしてくれるともシエルには思えない。


 そして逃げれば死罪スクラップだ。どらちにせよシエルには成功か死しか道が残っていない。そして成功の道は極めて細く、渡るのは至難だ。


 前門の虎後門の狼という言葉がしっくりきそうな、あまりに退っ引きならない状況。しかしそんな状況すら、今のシエルには愉しいと思えた。


 自棄になったからという訳ではない。寧ろシエルの電脳は今までにない程に冴えていて、いつになくすっきりとした気分に満ちていた。


 挽回のチャンスを与えられたことをきっかけとして、マスターのイレーヌと同じ様に、シエルも戦う悦びに目覚めたといった方が正しいのかもしれない。


「なあ、シエル」


 ふいに肩をぽんと叩かれて、シエルがはっとなる。


 振り返るとベルベットがシエルの肩に手を置いていた。


 イレーヌの前にいる時の常に揺るがぬ冷静な助言者ではなく、シエルの良く知る豪胆な将としての顔がそこにはあった。


「肩の力を抜け。あらゆる場合で最悪のケースを想定し迅速かつ的確に対処しな。


 今のあんたは戦場がゲームに見えてしまうだろうが――決して快楽に身を溺れさせず常に冷静であることだ。


 残念ながら戦場にはが無いんでね」


「……はい。気を付けます」



 ベルベットは、シエルのことはイレーヌ以上に理解していた。


 シエルからは何も聞かされていないが、彼女がフェイズⅠでどれだけの傷を負ったかも、それによってしまったことも全て分かっている。


 そしてそれに対する対処法も、ベルベットは全て知っていた。


「私の言う通りにやれば勝てるさ。……それに、ロベルタに恨みがあるのはあんただけじゃない」


 ベルベットがシエルの肩に置いていた右手を下ろし、左腕をぎゅっと抑える。一年前の嫌な出来事が、彼女の脳裏にちらついていた。


 ベルベットの電脳に蘇っていたのは、燃える丘。そしてそこにただ一人佇むロベルタの姿だった。


 周りには立つ者は誰もいない。勿論ベルベット自身も立ってはいない……否、立てなかった。


 その場にいた全員を突如襲った暴力と怒りの嵐。それは圧倒的なまでの憎しみで、それはあまりにも理不尽で美しかった。


 ロベルタが咆哮する。


 それは絶望と悲しみと呪いを全て濃い絵の具としてぐちゃぐちゃにかき混ぜたような真黒い叫びで、この世のものとは思えないほど痛ましく悍ましいものだった。


 そしてロベルタがゆっくりとこちらを見下ろして、その腕を振りかざし――


「――――っ」


 ベルベットの電脳に、黒い何かがちらつく。じわじわと領域内を浸食してくるその黒いものを、ベルベットは軽く唇を噛んで抑える。


 ――落ち着け、狂気は思考を鈍らせる。戦いで冷静さを欠けば敗ける。そして負ければ……私は


 ロベルタが天使、とりわけ自分を含めた数名に深い恨みがあることをベルベットはしっかりと理解している。


 ロベルタの目の前でロベルタの一番大切なものを奪った……否、のだから。


 だからロベルタが何故帝国を裏切ったかまでは分かるが、自分を壊そうとする理由はよく分かる。


 許して貰えるとは思っていないが、みすみす殺されるつもりも無い。


天使われわれは正しいことをしたまでだ。そしてあいつのやっていることは……間違っている」


 ――そう、我々は正しい。我々は我々の正義に基づいて、彼女を壊す為に動いたのだから。


 そう考え直すと、先程までベルベットの電脳領域内を覆っていた黒い靄の様なものがすうっと晴れていった。ベルベットはその時、覚悟が決まった、と感じた。


「……さて、二人とも。準備は整ったかな?」


 きっちりとした軍服に身を包んだイレーヌが二人の後ろから声を掛ける。振り返った二人の目の前にはイレーヌ、その背後に控える無数の人形の姿があった。


 対機械兵器駆除用人形兵器【スパルトイ】、その数三千体。一体一体が一戦級の実力を備えており……ロベルタ対策としてを備えている。


 イレーヌがぱちんと指を鳴らすと、それを合図としてベルベット達の足元が盛り上がり、円形の巨大な装置が出現した。


 帝国軍の出撃の際に使われる巨大転送装置で、特に最新型であるこの基地のものは一度に転送させられる物体の総質量や転送距離は天使型のそれとは比べものにならない程だ。


 目標の座標が決まっていれば、一瞬で部隊を現地へと急展開させられる。


「……ええ、勿論です」


 ベルベットが代表して応えると、イレーヌは満足そうに頷いた。


「よかろう。……それでは諸君!」


 ばっとイレーヌが振り返り、背後に控える三千の兵士を仰ぎ見る。その目には闘志が爛々と輝き、その身は喜悦が溢れていた。


 イレーヌが大きく息を吸い、そして号令を発する。


「目標は天使型十番機【ロベルタ】! 速やかにその四肢を千切りとり――私の前に引きずり出せ!」


 光が、全てを包み込んで粒子へと変換していく。


 そしてイレーヌの率いる部隊三千余名の姿は、転送装置の光の中へとその姿を消していった。

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