#11 -決意②-
刃が肉を切り裂く柔らかい音と、鼻を突く血の匂いが薄暗い部屋の中を埋めている。
部屋の中は無数の手術器具と一つのベッドがあり、ベッドに一人の女性――ヴェロニカが腰かけて、メスを一定のリズムで自分の腕に当てては引いていた。
メスを引く度に痛みと熱を伴って、熱い血潮が迸る。
一年前までロベルタを凌辱していた手術室の中で、ヴェロニカはメスで自分の身体を切り刻んでいた。
「嗚呼……ロベルタ……。どうして私を裏切ったの?
私はこんなに……こんなにロベルタを想っているのに……。
世界で一番……いいえ、ただ一人だけあなたを愛していると云うのに」
ロベルタのことを想いながら、ヴェロニカがもう一度メスを当てて素早く引く。
ロベルタのことを想いながら身を切ると、痛い。とても痛い。
でも痛いということは、気持ち良いということ。
気持ち良いのは、相手のことが好きだから。
だから自分は痛みの分だけ自分の気持ちを再確認できると、ヴェロニカは考えていた。
ロベルタは誰よりも愛おしい。ロベルタだけが愛おしい。
これだけロベルタのことを想っているのだから、ロベルタも同じだけ自分のことを想っていなければそれこそ不公平なものだとヴェロニカはいつも信じている。
だがそれは――ロベルタを縛るヴェロニカの鎖とは何も関係ない。
ヴェロニカが絶対的なロベルタの主であることに何の手助けともなっていない。
これは運命で、それ以外の何物でもない。そのことはヴェロニカ本人が一番よく理解していた。
ロベルタがヴェロニカのモノであるということは――ロベルタでは決して変えられない事なのだから。
「……でもケルヴィムは可哀想ね。私を出し抜いてロベルタを手に入れる算段だなんて」
ケルヴィムのことを思い出してヴェロニカがくすくすと笑う。
現在、ケルヴィムとは通信を完全に絶っているので状況を把握することはできない。だがそんなものは確認するまでもない。
この勝敗がどうなるかは、ヴェロニカにとっては決まりきった結果だった。その結果の為なら命以外の全てを賭けても良いとヴェロニカは確信している。
ヴェロニカの確信に至るまでの材料は幾つもあったが、ある一つの特性が最も大きな要因だ。
ケルヴィムとロベルタには、ある決定的な違いがある。
その『違い』の前には
ケルヴィムがロベルタに戦いを挑むことそのものが、ヴェロニカには滑稽でしかない。
「あなたみたいな出来損ないが私の
そう呟いたヴェロニカの口から止め処なく笑いが垂れ落ちて、部屋中にヴェロニカの笑い声が響き渡った。
森の中に、二つの銃声が轟く。
ロベルタの髪が少し抉り取られて、木の幹に着弾し爆発する。もしロベルタに当たっていればどうなっていたのだろうとエリーゼは想像し、戦慄した。
「くそ……っ!」
ロベルタがクラリスに接近し、二挺拳銃を立て続けに放った手刀で叩き落とす。
武器を失ったクラリスをロベルタが間髪入れずに押し倒し、人差し指の腹から出した端子をクラリスのこめかみに接続し、侵入。
上官機権限で電脳を直接ロックしてクラリスの動きを止めた。
「……え、あの、どうしてクラリスさんはロベルタさんにこんなことを」
「敵の機能――【Pandora】だ。俺達の敵は今、この帝国にいる機体を敵味方問わず全て操っている。もうすぐここに全ての機体がやってくるだろうな……。ケルヴィムの奴とうとうヴェロニカと手を組んだか」
ロベルタが苦々しい顔で吐き捨てる。【Pandora】という名称は初耳だったが、全ての機体を意のままに操る危険な人形がいることやその機能の詳細は、エリーゼは父から聞いて知っていた。
一体何機がロベルタ達を狙っているのか。
今目の前にいる青年の様な形をしたナニカを見て、エリーゼは初めて恐ろしくなった。
何故ならば【Pandora】でできるのは電脳の中にある制御系、つまり動きの掌握であって記憶の操作ではないので追わせられる目標は必然的に知っている、もしくはダウンロードされた目標であるからだ。
しかし帝国内にいる全機ともなればダウンロードしたとは考えにくい。つまりロベルタ達はここに向かってくるであろう機械達全てにその存在を知られた機体であると言える。
どれほどの罪を犯せばそうなるのか、エリーゼには想像もつかなかった。
《警告:代理マスター規則第三条・第百八十条五項・第三百十七項の違反を確認。本部の許可無し。上官機からの要請無し。規則に基づきクラリスの代理マスター権限を凍結。ヴェロニカ大佐の権限凍結を確認。現在マスターが不在の為機能制限七十パーセント。推奨:速やかな代理マスターの設定》
クラリスの口から機械音声が流れ、ロベルタがエリーゼを見る。
「……エリーゼ、俺のマスターになってくれ」
「え?」ぽかんとした様子でエリーゼが聞き返す。
「ケルヴィムを倒す間だけでいい。必ず勝つから、一時的に俺のマスターになってくれればいいんだ。でないと、俺は――」
「おやおや、僕を差しおいて他のヤツ……よりによって人間を選ぶだなんて、よっぽど僕の気を引きたかったんだね。焼きもちを焼かせてくれてとても嬉しいよロベルタ」
声が、天空から降る。
酷く軽薄なことを言ってはいたがその声は凛としており、聞くものの心を奪う。そのオーラは機械達の頂に立つ王にふさわしいものだった。
言葉が切れると同時にケルヴィムがゆっくりとロベルタ達の前に舞い降りて、にっこりとほほ笑んだ。
「ケルヴィム……っ!」ロベルタが柄を取り出して剣に変え、ケルヴィムに向けて構える。
しかしケルヴィムはロベルタの方ではなく、エリーゼの方を見ていた。
そのことに気が付いたエリーゼが「え?」と声を漏らす。
「どうしたの、エリーゼちゃん? 早くマスターになりなよ。僕はこのお兄さんと戦いたいんだ。君がマスターになってくれないと、僕が戦えないじゃないか」
ケルヴィムがにやにやと笑いながら、エリーゼに問いかける。
「……でも……マスターなんて言われても、私……」
エリーゼは戸惑っていた。マスターというステータスを得ることを、どうしても受け入れることができなかった。
マスターになるということは、その機体に対して最大で無制限の責任を負うということ。
一生をその機体と共にしなければならず、これからの生涯を棒に振るということになる。
今ここで殺されて死ぬか、未来を殺して得られる生きる確率に賭けるか。
エリーゼはその二つを天秤に掛けて、戸惑っていた。
しかしその戸惑いは、ケルヴィムの計算通りだ。エリーゼが戸惑わなければ、ケルヴィムの降りてきた意味が無い。
ケルヴィムの笑みが優しげなものから黒々としたものへと変わる。
「――ねえ、エリーゼちゃん。迷ってるの? 迷ってるんでしょ?」
「聞くな!」
ケルヴィムから目を離さないまま、ロベルタが怒鳴る。
「どうして迷ってるのかなあ……君がマスターになる理由なんてとっても単純なのに」
「……理由……?」
エリーゼの問いに、ケルヴィムの笑みがこれ以上ないほどに禍々しいものになる。
「ねえ、もしも僕が一年前【Pandora】を使ってエリーゼちゃんの村を襲わせたって言ったら。軍の命令で君のお父さんを殺す為だけに村を壊滅させたって言ったら……信じる?」
――………………え?
その時、エリーゼの頭の中は完全に真っ白になっていた。
がくりと糸の切れた操り人形の様にエリーゼが地面に膝を着き、目を見開いてケルヴィムを視る。
ケルヴィムがけたけたと笑う。心底愉快そうに、何もかもを嘲る様に、笑い続ける。
「ははははははははははははははははははっっっっ!!! あれは最高の仕事だった!
ひひひひひひっ、お前の親父は逃げてきたお前を逃がした後どうしたと思う?
今まで自分を匿ってくれていた村人達を……ふふっ……盾にしながら妻と一緒に逃げようとしたんだ!
ははははっ! 自分達だけ助かろうとするなんて考えが甘すぎるよなああぁああ?」
――こいつは……こいつだけは……っ!
エリーゼの目尻から涙が零れ落ち、噛み締めすぎた唇から血が出る。
「だから――まず妻を殺した。首を斬り落とした後に全身を蜂の巣にさせてやったよ……はははははは。
その後できるだけ苦しんで死ぬように、爪の一枚一枚、指の一本一本まで丁寧に切り分けて殺させてやったよ。
でも、迷うんだろ? 大した根性だよお前。やっぱり連中の言う通り、お前は大罪人だ」
その時、エリーゼの中で何かがぷちんと音を立てて切れた。
――こいつだけは……こいつだけは許せない……っ!
地面に這いつくばって身体をわなわなと小さく震わせながら、エリーゼがロベルタに問う。
「……ねえ、ロベルタさん。いいえ、ロベルタ。私がマスターになれば、あいつをぶっ壊してくれる?」
「ああ、勿論だ。それがマスターの意志ならば」
エリーゼが立ち上がり、ぎろりとケルヴィムを睨み付ける。ケルヴィムの笑いがその時――ぴたりと止まった。無表情になったケルヴィムが、エリーゼを見つめる。
「お願い、今すぐ私をマスターにして。例えここで私の人生が台無しになるとしても構わない。私の全てを懸けて、
【エリーゼ・ソレイユからのマスター申請承諾を確認。
これまでの記録よりパーソナルデータを抽出開始――抽出完了。
虹彩記憶・声紋記憶・指紋記憶。現時点を以てマスターをエリーゼ・ソレイユとする全ての権限を委譲する】
その声を聞くと同時に、ロベルタはコートからチョーカーの様なもの……副脳ユニットを取り出して、素早く首に巻いていた。
巻き終わるとチョーカーがぴったりと密着し、中に入っていたナノマシンよりも小さい極小のフェムトマシンが頸椎から体内に侵入。全身を一個の電脳へと変えて演算能力を爆発的に上昇させる。
ロベルタが頷き、エリーゼが深く息を吸い込む。
「命令よロベルタ。何を使ってもいいから、あいつを――ケルヴィムを壊して!」
「了解――全兵装及び全機能の使用許諾確認。モード【Angel】起動シークエンス開始」
「……やっとお前と、戦える……」
ぞくぞくと全身を這う快感に震えながら、ケルヴィムが【Angel】起動シークエンスに入る。
「「モード【Angel】――」」
二機の最高性能兵器が、二人の天使が、対峙する。
その光景は壮観であり、神々しい。
エリーゼは何も言わずただじっと、対峙する二人を見ていた。
二人の唇が、同時に動く。
「「起動」」
そして戦いの幕が、切って落とされた。
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