#17 -レジスタンスの村②-



 思い出すのは、たなびく銀の髪と真白ましろい肌。そしていやに暑かった――あの夏の日。


 ワインレッドの軍服がよく似合う彼女の笑顔は、夏の太陽よりも眩しかった。


 鈴の様な軽やかなの笑い声も、きらきらと輝く長い睫毛も、力を入れたら壊れてしまいそうな小さく白い手も、抱きしめればそのまま消えてしまいそうな華奢な身体も、全て覚えている。


 良い思い出も、嫌な思い出も、残酷な程にこの電脳は克明に覚えている。


 しかし彼女の顔、特に目の辺りにだけはもやが掛かっていて、どうしても上手く思い出せない。誰よりも見た筈の顔なのに、何よりも愛しい筈なのに……電脳は再生を拒否している。


 顔の見えない世界で一番愛おしい人形が、蕾が綻んで花開く様な笑顔で近くに立っている。


 ――……ねえ、ロベルタ。


 頬に触れながら、彼女が問う。彼女の赤い目はまるで吸い込まれるような不思議な魅力を持っていて、見つめられると動くことができなかった。


 まるで劇のワンシーンの様なまばゆい記憶の中で、彼女が無邪気に微笑む。


 ――私と一緒に、私を連れてどこまでも飛んでくれる?


 何も考えずにただ頷く。答えることに論理立てた思考も飾った言葉も必要ない。そんなものには意味が無い。ただ頷けば、彼女はそれだけで喜んでくれたのだから。


 たったその程度の取るに足らないことで、彼女がほんの少し喜んでくれるだけで。


 ただ、それだけで幸せだった。


 ――よかった。


 彼女はにこりと微笑んで、そっとこちらの首へと手を伸ばしてくる。ある筈のない甘い吐息がすぐそこに感じられそうなくらいに……彼女の顔が近づいてくる。


 桜色の唇はとても機械とは思えない程にぷるりとしていて瑞々しく、まるで一対の果実の様だった。


 ――ねえ、ロベルタ。もしも旅する途中で私がいなくなってしまっても……。


 ぐい、と彼女がこちらの身体を抱き寄せる。互いの睫毛が触れ合いそうな程に二人の距離は近い。


 ――どうかそのまま飛び続けて、いつか新しい世界を私に教えてね。


 唇が押し当てられ、世界の全てが彼女で満たされる。




「……ベルタ。ロベルタ――」


「――――っ」



 クラリスの声に気付き、ロベルタの意識が記憶の中から現実へと引き戻される。


 ロベルタの目の前ではクラリスが相変わらずの無表情でこちらを覗き込んでいた。無表情で覗き込まれると心配しているのか小馬鹿にしているのか今一つよく分からない。


 ――いや、どちらでもないか。


 ロベルタはそう思うことにした。


 クラリスが何か感情を見せたことは今までただの一度もなく、感情エモーショナルの機能があるという説明も受けたことが無かった。


 最も、だからこそクラリスは今の今まで決定的に反発することなく上官のロベルタに従ってきたわけだが。


 自己診断アップデートの過程でその機能が加わるということも有り得るが、クラリスがそれを必要としていなければ現状は何も変わらない。


 ただ戦闘に関するソフトウェアの機能が向上するだけだ。


 そう、それで良い筈である。


 クラリスが確固たる自我と感情を獲得すれば帝国に弓を引くロベルタの計画に必ず疑問を持つ。


 疑問は止まることを知らずに膨れ上がり、場合によってはロベルタを裏切るきっかけにも繋がることも可能性としては十分に有り得る筈だ。


 だがこのままでいて欲しいと願う機械としての自分と、感情や自我を獲得してほしいと願う人間としての自分が、ロベルタの中では常にせめぎ合っていた。


「回答要請:反応が確認されなくなった五十七秒前から十秒前にかけての思考」


「……いや、何でも無いよ。少しぼうっとしていただけだ」


「否定:生体ユニットを搭載していない機械が呆けることはない。何か別の要因があると推測」


 ロベルタはその言葉を聞いて一瞬だけ少し複雑そうな顔をした後、ふっと寂しそうに笑った。


 その笑みは限りなく透明で、しかし透明であるが故に……ほんの少し、肌寒い何かを孕んでいた。


「本当に何でもないから。きっと電脳のバグによるフリーズじゃないか?」


 感情の籠っていない、あまりも無機質な声。


 クラリスはまるで恐怖したかの様にそれ以上何も問い詰めなかった。ロベルタの暗い瞳と冷たい笑みがそれを許さなかった。


 ――そう、俺もあいつもクラリスも機械だ。それに変わりはない。


 いくらでも替えが効き、誰も個としては見てくれない、そんな存在。


 事実、彼女が死んだときも……誰も、誰一人として涙を流さなかった。彼女のマスターであった男でさえも、彼女の死を悼まず、別離を悲しむことも無かった。


 きっと、それが正しいのだろう。壁に掛けてあった柱時計が動かなくなった時の様に、鍋の底が開いてしまった時の様に、ほんの少し残念に思っても……永遠に悔やみ続けて涙することはない。


 道具とは多分そういうものなのだろうと、ロベルタはわだかまりなく納得していた。


 しかし、「そういうものである」と納得できても溜飲を下げることはロベルタにはできなかった。


 主人である人間は……帝国は、あの日目の前でロベルタの全てを奪った。生きる意味も、戦う理由も、全てを捻じ切り踏みにじって切り捨てた。


 そんな帝国を、断じてロベルタは許しておけない。許せるはずが無かった。


「……少し外に出ようか。軍の連中がうろついている訳でも無さそうだし、ここにばかりいても身体が鈍ってしまいそうだしな」


「了解:ロベルタに随伴し行動を開始する」


 ロベルタが扉を開けて階段を下り、クラリスがそれに続く。


 階段を下りきった時に丁度掃除をしていた店長と出くわし、店長が少し驚いた様な顔をして二人を見た。


「……おいおい、どこに行くんだ?」


「明日にはここを出て行けそうなので近所の皆さんに挨拶周りでもしようかと思いまして。勤務時間までには戻って来る予定ですが……何か問題でもありましたか?」


「いや、別にンなもんはないが……。そうか、明日でいなくなるかぁ……少し寂しいな」


「……寂しい?」


「ああ、幾ら歳を食っても長い間一緒にいたヤツがいなくなるってのは応えるもんだ。……というか」


 店長がばりばりと頭を掻きながら、ロベルタを真っ直ぐ見つめる。


「あんたならと思ったんだがな。連れのネーチャンがいるのにいつも寂しそうな面してるし」


「……自分が?」


「ああ、何て言ったらいいのかな。表向きは大丈夫そうに振舞っちゃいるが、その実真剣にモノを見ちゃいねえ。


 見た感じ他の人形どもとは違って感情はあるみたいだが、何だかそこのネーチャンよりもよっぽどって感じだ」



 ――この男、見ていない様でよく見ている。


 ロベルタはその時、素直に店長の観察力に関心していた。


 店長の前では過去のことは隠す様に完璧に演じ切っていた筈だ。


 しかしどうやら店長には全て御見通しだったようで、ロベルタは顔に出さなかったもののかなり驚いていた。


 しかしそれを正直に賞賛の言葉として述べてしまう程、ロベルタも人が……もとい機械がなっているわけではない。


 なおも少し勘繰る様子を見せる店長を、ロベルタは微笑を浮かべて受け流した。


「……そうかもしれないですね。何せ機械ですから」


「がっはっはっは! 確かに機械により機械らしいなんてのもおかしな言い方だったな! いやぁ歳を食うと要らねえお節介をついつい焼いちまう……すまなかったな」


 店長がくるりと踵を返してロベルタ達に背を向け、手を振りながら奥の倉庫の方へと引っ込んでいく。


「仕事は夕方からだ。仕事の時間までなら村の中を自由に歩いてくれて構わんよ」


 倉庫へと消えて行った店長に背を向けて、ロベルタは玄関へと向かった。


「……さて、挨拶周りに行かなければな」


 厚い木製の扉を開いて、ロベルタが独り言を零す。温度を実感として感じることはできないが、外の気温は一桁台だ。冷え切った空気が辺り一面に満ち満ちている。


 外は曇っていて、ぱらぱらと粒の小さな雪が降っていた。


 かつてロベルタのいた研究所周辺ならこの時期は外に出られない程に吹雪くのだが、基本的に冷涼である帝国の中でも気候が比較的温暖なこの地域では雪が少ない。


 その為外はたくさんの人々で賑わっていた。その中の一人、赤髪の小さな女の子が二人を見つけて駆け寄ってきた。


 飛びついてきた女児を、ロベルタが受け止めて高く抱え上げる。女児は嬉しそうにきゃっきゃっと笑いながらロベルタの手の中でじたばたと暴れた。


 女児の名はカリンカ。這う這うの体でこの村へと辿り着いたロベルタ達を発見した人物だ。


「おにーちゃん達元気になったの!?」


「ああ、すっかりな。カリンカが見つけてくれなかったら危なかったかも」


「えへへー。カリンカ偉いー?」


 カリンカが嬉しそうに尋ねる。穢れ一つ無い無邪気な笑顔を見ていると、ロベルタの凝り固まった思考が少しだけほぐれた。


「ああ、偉いよカリンカ。ところで、マリーさんはどこにいるか知らないか?」


「お話の途中で他の女の人のお名前出すのは『だーあ』に失礼だってマーマが言ってたよ!」


淑女ダーマな。また随分とマセたことを言う」


 くく、とロベルタが笑い、それに連れてカリンカがにこっと笑った。クラリスは相変わらずの無表情で二人を見ており、何を考えているのかはよく分からない。


 ただクラリスが小さく「ペド」と呟いたのだけは、ロベルタにしっかりと聞こえていた。


「ちょっとカリンカー! どこにいるのー?」


 少し離れたところからカリンカを呼ぶ女性の声が聞こえ、同時に小走りにこちらに近付いてくる音がする。カリンカの肩がぴくんと揺れ、ロベルタが声のする方へと顔を向ける。


「……どうやら教えて貰う必要は無かったみたいだな」


「うぅ~……。途中でお姉ちゃんほっぽっておにーちゃん達のところに来たから、またマリーお姉ちゃんに怒られる……」


「その時は一緒に怒られてやるよ。引き留めたのはこっちだしな」


「えへへ、おにーちゃん優しー」


 ロベルタにくっついて甘えるカリンカと、くっつかれているロベルタをクラリスが冷たい目で見つめる。その目は怒りや悲しみというよりは心なしか憐みに見えなる目で、ロベルタを完全に見下していた。



「…………前々から思ってはいましたがやはりロベルタは小児性愛者ペドフィリアのケがありますね。


 一度軍に捕まってヴェロニカにお手製の再教育プログラムでもインストールして貰うよう頼んでみたらどうですか? 泣いて喜びながら作ってくれると思いますよ?」


「たまにさらっと酷い事言うなぁお前。口調も変わってるし……というかお前は俺がの大変なところを押してコミュニケーション取ってるの知ってるだろ?」


「抑える……やはりロベルタは小さな女の子を見ると性欲を感じて興奮してしまうケダモノなんですね。控えめに言って気持ち悪いです。正直引いています。部下辞めていいですか?」


「おにーちゃんケダモノー! きゃははっ」


「いやいやカリンカ。俺別にケダモノという訳では……って、誤解し過ぎだし幾ら何でも言い方ってもんがあるだろ!? あとさっきからやはりって何だやはりって!


 お前は普段俺のことをどんな目で見ているんだ!」


「XX染色体であれぱ何でも性的な目で見る犬畜生、下半身でものを考える最低な上司、とりわけ幼児には目がない救済要素ゼロの頭がイカれた性欲大魔神……でしょうか。

 実のところ女児に限らず男児もイケるのではないかと推測していますが合っていますか?」


「合っていない、そして黙れ。これ以上カリンカに余計なことを吹き込むな」


 ロベルタが嘆息し、カリンカを地面に下ろす。


 ――全く、俺の気持ちを知っていてこういうことを言うから一等性質たちが悪い。


 カリンカは何も知らないと言った様子で、にこにこと二人を見上げている。


 ぞく、とロベルタの中で黒い何かが湧きあがった。


 まるでマシュマロの様に柔らかい身体と、絹糸で織った生地の様に滑らかで白い肌。触れれば確かに感じる体温と、鈴の様に軽やかな声。


 全てが愛おしくて、大切だ。掛け替えのない宝物のようにさえ映る。


 しかしその全てが、ロベルタの中で真黒い感情を育てて、ロベルタを突き動かそうとする。それら全てを引き裂いて、身体中で愛おしく温かかった何かを感じながらその内側にあるものを覗いてみたくなる。


 深淵を覗き込んでみたくなってしまうのだ。


 ――ケダモノという表現も、実は案外間違ってはいないのかもしれないな。ニュアンスは異なるが。


 ロベルタがカリンカに手を伸ばす。


 とにかく思考を落ち着かせたかった。もう一度カリンカに触れることができると、自分はケダモノではないということを証明したかった。


「おにーちゃんどうしたの?」不思議そうな顔でカリンカが尋ねる。


「どうしたのですかロベルタ。とうとう襲いますか? ぶち殺しますよ?」


 クラリスは相変わらず毒舌極まりない辛辣な言葉の数々をロベルタに投げ掛けている。


 そしてそれらの言葉をまるで意に介さずに、ロベルタはカリンカの傍に跪いて、その顔へと自分の手を伸ばしていた。


 ――違う。俺はカリンカを……。


 ふらふらと頼りなく、しかし止まることなくロベルタの手がカリンカへと近づく。



「……おにーちゃん?」



 異変を感じ取ったカリンカが、一歩後ろに後ずさる。ロベルタの顔は天空を厚く覆う雲よりも暗く、夜の様に底知れない闇を湛えていた。


 ――俺は……!


「カリンカ! また途中でふらっと消えてどういうつもりなの!」


 曲がり角から現れた赤毛の女性の大声で、ロベルタが我に返り慌ててカリンカから手を引いた。


 女性はカリンカそっくりの赤毛と栗色の瞳が特徴的で、引き締まったスレンダーな身体がとても健康的な印象を与えていた。女性と目が合って、カリンカが急いでロベルタの陰に隠れる。


 女性の名はマリー。店長曰く少しばかり過保護なカリンカの姉だ。


「ダメじゃないの勝手にいなくなっちゃ!


 カリンカがいないことに気付いた時私がどれだけ心配したか分かってないの!? !?」


「……ご、ごめんなさいぃ……」


 カリンカの目にじんわりと涙がにじむ。


「その件については俺からも謝りますマリーさん。カリンカがマリーさんの下を離れたままになっていたのはこちらがカリンカに訊きたいことがあったからで――」


「訊きたいことぉ?」


 ロベルタの言葉を訝しんで、マリーが目を細める。


「おにーちゃん、お姉ちゃんのこと探してたんだって」


 カリンカがロベルタの背から顔を出してマリーに説明する。


「……ふーん? 私のことを? 何で?」


「ああ、明日にはこの村を出て行くつもりでしたので軽く別れの挨拶でもしておこうかと思いまして」


 その時一瞬だけ、辺りの空気が凍った。


 クラリスが小さく「あーあ」と呟く。その視線の先には、呆と立ち尽くすカリンカの姿があった。


「おにーちゃん達、いなくなっちゃうの……?」


 カリンカの目に涙が滲み、ぽろぽろと零れ始める。途端にロベルタはカリンカのいる前で言うべきではなかったという後悔と気まずさに襲われた。


 ――流石に子供カリンカの前で話すのはまずかったな。


「嫌だよぉ……せっかくお友達になれたのに……」


「ちょっとあんた! いなくなるのは勝手だけどカリンカを悲しませるのだけは許さないよ!」


「矛盾していますよマリーさん……」


 くしゃ、とロベルタがカリンカの頭を撫でて、涙を指で拭く。



「いいかいカリンカ。俺はやらなければいけないことがあるから明日ここを出て行くけれど……でも、またすぐに帰ってくるからさ。帰ってきたら……その時はもう一度皆で遊ぼう」


「……約束だからね。絶対絶対、約束だからね」


「ああ、約束だ」


 もう一度ロベルタがカリンカの頭を乱雑に撫でつけて、颯爽と立ち上がる。


「それでは、二人とも。また会う日があれば」


 大きく手を振るカリンカと黙って見送るマリーに小さく手を振って、ロベルタはクラリスを連れて次の場所へと向かった。

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