第4話
昼食も後回しにしてるり子の大学に直行し、研究室を外から観察する。ドアの上にあるガラスから、なるほど光が漏れていた。隣のるり子の部屋は授業中なのかドアが閉められていて、上部のガラスの奥は暗い。ただ今日は手伝ってもらうことはないとるり子からすでに連絡をもらっているし、用があるのは廣谷だ。相変わらず仮締りの引っかかっているドアを二回ノックして、返事は聞こえないまま入る。ドアノブをひねって仮締りも含めきちんとドアを閉めて、奥へと進む。
入口にそびえ立つ本棚を回り込んで部屋の奥を覗くが、そこに廣谷の姿はなかった。鷹村からもるり子からも廣谷の研究室にはしばらく一人でいないほうがよい、と言われたばかりなので、少々戸惑ってしまう。授業中は電気を消して行くと聞いたから、おそらく担当授業の時間ではないのだろうとは思うのだが、すぐに戻ってくるかどうかはさすがにわからない。まだ昼すぎなので会議でもないだろうけれど、一応一度外に出る。廣谷の隣の部屋、るり子の研究室とは逆方向の研究室を見ると、ドアの上にあるガラスから光が漏れていた。やはり会議ではなさそうだ。それとも昼すぎだから食事でもしに行っているのだろうか。
携帯電話を携帯しているのか甚だ怪しいが、メールでもしてみようかと鞄から取り出すと、あの、と声をかけられた。
「はい」
国文学の研究室から顔だけを出していた女性は智枝子が返事をすると、にっこりと笑って研究室から出てきた。この前廣谷の研究室に相談に来ていた学生だ。愛想よく笑顔で近づいてくる彼女は、服に頓着しない智枝子から見てもおしゃれで、一般に想像する女子大生然としていた。この大学は確かに身なりに気を遣う学生が多い傾向にあるけれど、そのなかでも垢抜けて見える。
智枝子と同じ、肩にかかるか、かからないかくらいの髪を耳にかけながら、彼女は言った。鋏をかたどったピアスがきらりと光る。
「前に波間先生の助手をしてるって言っていましたよね? 波間先生に御用ですか?」
目の前に立たれると、背が高い。智枝子があまり背の高いほうではないというのもあるが、女の子にしては見上げる角度に首が傾く。足下を見ると厚底の靴を履いていた。ヒール分がなければ、おそらくそう背丈も変わらないだろう。この靴でよくこけないなと感心する。智枝子には一生縁のなさそうなヒールの高さだ。
「あ、いいえ今日は……」
「廣谷先生ですか?」
重ねるように言われる。
「よく廣谷先生の研究室にいますよね」
彼女は相変わらずにこにこと愛想よく笑っているが、その声に圧迫感を覚えた。
確かに今日は廣谷に会いに来た。鷹村から話を聞いてどうするのか、それとももう何か行動に移したのか。そういったことを聞こうと足を運んだ。
けれど今、それを答えてはいけないとどこかで感づいている。ごまかそうにもるり子に会いに来たのではないとさきほど否定したばかりであるし、どう返そうかと考えていると、彼女はさらに続けた。
「実は廣谷先生に本をお借りする約束をしているんですが」
「本ですか」
「それがいまどこにあるのか、わからないみたいなんです。もし先生の部屋に行かれたときに見つけたら教えてください」
廣谷が自分の研究室で、自分の本がどこにあるのかわからないなんてことがあるのだろうか。少なくとも微塵も覚えがないということはないはずだ。だいたいの場所は把握しているだろう。ただし興味のない人に貸していなければ、だけれど。興味のない人に貸してしまうと、名前が思い出せないので所在がわからないというのは何度か耳にした。
露わになった耳についているピアスをいじり、彼女は小さな溜息とともにもらす。
「徳冨蘆花の『不如帰』なんですけど」
それはわたしの鞄のなかです。――などと言うわけにもいかず、はあ、と生半可な返事をしてしまう。その対応が気に入らなかったのか、一瞬だけ鋭い目線を向けられた。おそらく気づかれていないと思っているのだろうが、人の悪意は案外簡単にもれる。
肩にかけた鞄を背負いなおし、智枝子はすみません、と小さく頭を下げる。
「申し訳ありませんが、廣谷先生の部屋に行くのは基本的に波間先生のお使いなので、あまり知らないんです。今日も用事があるのは廣谷先生ではなくて」
「でもさっき、廣谷先生の部屋から出てきたところを見ましたよ」
見ました、と言うあたりが言い逃れはさせないという念押しのようだ。ミステリー小説ならつまらない科白だなあなどと失礼なことを思いながら、智枝子は携帯電話に目をやる。
「それは鷹村さんからここにいるとメールがきたので」
鷹村? さすがに想定していなかったのか、彼女の表情が崩れる。
「そのピアス、かわいいですね」
相手が構えを崩したところで、話をすり替える。目に入ったので言っただけだが、少しアンティークっぽくデザインされていて、実際かわいかった。智枝子はピアスを開けていないのでするとしてもイヤリングしかできないものの、同じようなデザインがあれば買ってしまうかもしれない。
「鋏とか、文房具が小物になっているとかわいいですよね」
「ああ、そうですね。ありがとうございます。でもこれ、片方なくしちゃったので、今つけているのは両耳ばらばらなんです」
ほら、ともう片方の耳が見えるように髪を後ろに流してくれた。こちら側にはリボンの形をした、鋏のピアスとだいたい同じ大きさのピアスがされている。
「こういうデザインみたいで、それもかわいいです」
かわいいしか言っていないが、よろこんでくれているようだ。髪や小物や服装や、ちょっとしたところを褒めると女性がよろこぶのは年齢と関係ないなと考える。舞子に一言「今日の髪型かわいいね」と言えば、そんな歳じゃないわよ、と言いつつもどこか浮足立つのを思い出す。智枝子は格好よりもブックカバーや文房具を褒めてもらったほうがよろこぶが、なんにせようれしいことに違いはない。
このままごまかしきれないかと思っていたのだが、そうは問屋が卸してくれなかった。
「耳といえば、鷹村はこの曜日は耳の検診に行っているはずなんだけど」
自分で種をまいてしまった。そこまで把握していない。これが本当なら、メールがきたという嘘がそのまま露呈してしまう。
にわかに疑いの目を向けられたが、しらを通すしかない。仕方なく口を開いたところで、ぽんと後ろから肩を叩かれた。
『二人で何をしているんだ?』
思わず声をあげそうになる。そこには鷹村の姿があった。目の前でおかしいなという顔をしている彼女に、智枝子はほとんど体ごと振り返って鷹村と向き合う。
「メールがあったから来たのに、どこに行っていたの?」
なんて安い芝居だろうと自分でも呆れる。鷹村が乗ってくれることを期待するしかない。難しいが声で芝居をして、手話で鷹村に事情を話せればと思いもしたが、彼女が手話を理解している場合それは通用しない。
案の定鷹村は何度か目を瞬かせたが、智枝子の表情を見て察したのか、すぐに申し訳なさそうに手を動かした。
『ごめん、ちょっと急な呼び出しがあって』
見れば学校で会うときいつもは研究室に置いているという鞄を肩にかけている。呼び出しも何も、おそらく今来たところなのだろう。
「鷹村、今日検診じゃないの?」
先ほどよりゆっくりと、そして口を大きめに開けながら彼女は言った。なるほど、普段の様子が垣間見える。
言われた鷹村は鞄からノートを取り出した。どうも彼女に手話はできないようだ。これまで使っていたやつから新しくなっている。ペンも取り出さずにぱっと頁を開いて見せる。今日は聞かれるだろうと想定していたのか、太めのペンで大きく書かれていた。
「今週は火曜日に変更になったから。」
用事があるから、と慌ただしく別れた日だ。あれは検診に行っていたのか。
あとは会話のなかでさっきまで智枝子が言っていたことと、鷹村の言うことが矛盾しなければ問題ない。それがもっとも難しいのだけれど、もうこうなれば祈るだけだ。味方を求めて、鷹村に半歩分寄った。
「なに、付き合ってるの、二人」
頭になかった質問に反応が一つ遅れてしまった。その質問はもう何度目かだ。素直に答えればよいのだが、もしかして頷いていたほうが都合よく展開するだろうかと余計な考えがよぎる。
しかし下手に嘘を大きくして、のちのち鷹村に余計な気遣いをさせても悪い。
「つ、付き合って、ないです」
口を開いてみると、家族に否定をするよりも変な羞恥が伴う。真実をそのまま伝えているはずであるのに、妙に詰まってしまった。一瞬沈黙が走る。不自然だっただろうかと一人で戸惑っていると、彼女は揶揄するような笑みを浮かべながら、鷹村の肩を軽く叩いた。その勢いに押されたのか、鷹村の体が少しだけ揺れる。
二人の間に何があったのかわからず、顔を見比べてみるが、なんとも判断がつかない。
「そうだ鷹村、廣谷先生知らない?」
彼女の両耳につけられたピアスが光る。その質問の答えによっては先ほどまでのやりとりが全部無駄になってしまう。変に横から口を出せば疑われるだろうし、はやいところ退散しておくべきだった。
しかし鷹村はあっさり『知ってる』と手を動かした。彼女は手話がわからないものだと思っていたが、憶えているのか、それとも簡単なものなら知っているのか。鷹村は彼女の後ろを示すように手を動かし、つられて智枝子もその方向に目を向けると、そこには確かに廣谷の姿があった。
本来なら助かったと思うべき場面なのだろうけれど、相手があの廣谷となると、あっさり今までのことを否定する一言が飛び出しそうで、正直なところ困ったと言うしかない。
今度こそさっさと退散しよう、と心に決めたあたりで、向こうもこちらに気づいたらしく、ぱっと表情を明るくさせた。
「山宮さん!」
「はい」
確かに山宮だが、自身の学生が二人そろっているのに第一声をかける対象はそれでよいのかと思わずにいられない。というより、今は勘弁してほしかった。
走りこそしなかったが、片手で抱えていた複数の本をもう片方の手で助けるようにして、大股で素早く寄ってくる。
「今日ははやいですね。ちゃんとお昼ご飯食べましたか」
「いやまだですが」
「何が食べたいですか」
それよりと言いかけた口が、半開きのままとまってしまう。用事が済めば学食で何か食べて帰ろうと考えていたのだが、そうなると話が違う。今日は麺類が食べたい気分を持ちながら、燃費が悪いので遅い昼食には向かないなと諦めていたところだ。これから食べられるなら問題ない。
「いいなあ、先生私にも奢ってくださいよ」
彼女の言葉にはっとする。餌づけされている場合ではない。ぱっと鷹村と目線がぶつかり、その瞬間に彼の咽喉仏が揺れた。耐えきれないとばかりにくつくつと笑われる。食い意地を張っているのが途端に恥ずかしくなり、俯くしかなかった。
「あなたはさっき研究室で食べていたのを見ました」
その間に廣谷がばっさりと切り捨てていた。名前は憶えられなくとも(憶える気がない、のほうが正しいか)、そういうことはきちんと記憶しているのだから不思議だ。
またぱっと智枝子のほうに向きなおり、どこかへ行ってしまうのを危惧しているのか、早口で告げる。
「少し待ってください、本を置いてくるので」
「あ、でも鷹村さんが」
鷹村と会う、というような言い訳をした手前、少なくとも彼女がいるうちはそれを突き通さなければ辻褄が合わない。先ほどの彼女に対してと同じく、タカムラ? と鷹村がこの場にいるにも関わらず鸚鵡を返してくる廣谷に、彼女の視線が鋭く光る。
次こそ繕いようがない言葉が飛び出してくるかと思ったが、意外な一言だった。
「ああ、あなたも来なさい」
普段なら考えられないような言葉だ。それが学生だろうと目上の相手だろうと関係なく、廣谷は他人をひどく拒絶する。本人の主張では他人が廣谷を拒絶しているらしいのだが、智枝子から見れば逆だ。
なんとなく察してくれてはいるが、事情をすべて把握しているわけではない鷹村に目線を送る。ここまでのやりとりは読みとれているようだ。いつの間にかノートもしまわれており、いつもの笑みを浮かべて、ぱっぱと手を動かした。
『廣谷先生とご飯を食べるなんて初めてだ』
かちゃ、と小さな音がして、前を見れば廣谷がいない。言っていたとおり研究室に本を置きに行ったのだろう。
「お弁当なんて作るもんじゃないわ。あとでどこで先生が何食べたか教えてね」
目の前の彼女は鷹村にそう言うと、すれ違い際、一瞬智枝子をにらみつけた。今度は先日とは違い、しっかり目線が合ってしまった。美人な子の吊りあがった目はおそろしく、迫力がある。
ぱたん、と研究室のドアが閉まったのを確認すると、ほっと安堵する。冷静に考えればいくつか穴があった上に、廣谷本人が出てきて智枝子にいつもの反応をしてしまった手前、もはや何の意味もないごまかしになってしまった気もするが、一先ず乗りきれたと思ってよいだろう。おそらく。
「あの子?」
何がなのかは、言わなくても伝わったらしい。うん、と鷹村は頷いた。
「かわいい子だね」
首を小さく傾げながらも、鷹村はまたうん、と頷いた。いつもの笑みが少し鼻にかかったので、つい軽く腕を叩くようにしてしまう。それにはさすがの鷹村も頭に疑問符を浮かべて、理由を聞きたそうにしていたが、手を後ろで組んで静かに拒否をする。肩を殴られたり腕を叩かれたり、災難だなとは思うのだが、叩いたと言っても、手を当てた程度のものなのでかまわないだろう。少なくとも痛くはないはずだ。
「いま来たところだった? ごめんなさい、巻き込んで」
代わりにそう伝えると、すぐにいつもの笑みに変わる。
『研究棟にはいま来たところだけど、今日は午前中だけ授業があって、学校には朝からいたんだ』
だから昨日の話も、もう廣谷には伝えたと鷹村は続けた。
「お待たせしました。では行きましょうか」
ドアを開けると同時に、廣谷が言う。帰るわけではないからか白衣は着たままで、本を置いて財布だけ取ってくる。廣谷はちらと智枝子を見て、何が食べたいのかと目で聞いてきた。それで「つけ麺が食べたいです」と答えると、隣の鷹村がまた笑う。
答えられた廣谷は一人先頭を歩きながら、どこに行くか考えているようで、二人のやりとりには特に頓着しなかった。興味もないのだろう。
階段で授業を終えてきた様子のるり子とばったり出会い、
「昼食に外行くならあたしも行くわ」
と言うので、結局四人で行くことになった。るり子を苦手だと言う廣谷は、あからさまに溜息をついて小さく肩を落とした。しかし当然そんな廣谷を気にする風もなく、荷物を置いてくると宣言して、るり子は一旦研究室に向かっていった。
『仲悪いの?』
先に車に向かいながら、鷹村がこっそりと聞くようにして智枝子に手を動かす。
『あれが二人の交流の仕方だから、気にしなくていいよ』
それで智枝子も口は動かしつつ、声を出さないようにして手で答える。内緒話のようでたのしかった。
つけ麺という智枝子の要望と、それならあの店がよいというるり子の要望に応えて、廣谷が慣れた様子で車を走らせるのが、鷹村にはおもしろかったようだ。車中で会話はなかったが、目線を窓に向けながらも何か愉快そうに笑っていた。
その様子を見ながら、なぜか初めて廣谷の車に乗ったときのことを思い出した。車どころか、そもそも廣谷が免許を持って(それもゴールド)いたのが意外だったので、顔には出さなかったがなんだかおかしかった記憶だ。それが今ではもう慣れるくらい乗っているというのも不思議な心地を覚える。
店に着けば智枝子と向かいがよいと駄々をこねる廣谷に対して、今度はるり子が慣れた様子で、廣谷の向かいに智枝子をさっさと座らせた。自身はその横に座り、鷹村はるり子の向かいに座ることになった。普段三人で食事をする際はこの並びなので、ただ空いた場所に鷹村が座ったというだけなのだが。
次の授業は空きだという教授二人と、今日は午前で終わりだという学生二人(もっとも智枝子は授業が終わらないとあの大学には行かないが)だったので、そう急がなくてもよい。店にも余裕があり、世間話を二、三挟みながら注文をする。
「廣谷の本が盗まれてるんだって?」
本題を切りだしたのはるり子だった。真正面でゆっくりと、口を大きく開けながら話しているので、鷹村にも何を言っているかはわかったはずだ。ああはい、と廣谷は水を飲みながら目線を明後日の方向に向けている。盗まれているのに黙ってどこにも報告していなかったことを咎められるとわかっているのだろう。
「あんた知ってたの」
廣谷には申し訳ないが首肯する。学校より何より廣谷がばれたくなかったのはるり子であって、それをわかっていたからこそ、前に会議のことをなぜ今さら知りたがるのかと聞かれたとき言葉を濁した。そしてよく考えれば当り前のような、そうでもないような智枝子の気遣いを「僕のことを考えてくれた」と廣谷はよろこび、口を利かないという小学生みたいな言い分を撤回したのだが、ずばり問われるとごまかすのは難しい。嘘をつくのはいやだ。
これまで調べたことと経緯を簡単に話し終えたあたりで、人数分のつけ麺が運ばれてきた。いただきます、と智枝子が箸を合わせると、横から大きな溜息が聞こえてきたが気にしない。いつもの説教が始まるだけだ。戸惑っている様子が見えた鷹村に「気にしなくていいよ」と伝える。それでも鷹村はしばしるり子の剣幕とそれに対して耳をふさいで青ざめている廣谷を見守っていたが、やがて箸を合わせた。
ここのつけ麺は麺も汁も両方温かいので、るり子の要望ではあったが智枝子もすきだ。店によっては麺だけが冷たかったり汁だけが冷たかったりするが、両方温かいか両方冷たいほうがおいしいといつも思う。もう少し夏の盛りになると温かいほうか冷たいほうか選べるようになるのだが、今日はまだ温かいほうしかやっていなかった。
そのためはやく食べないと冷めてしまってもったいない。二人の日常に付き合ってなんとなく味の落ちたものを食べるより、おいしいものはおいしいときに食べたい。廣谷もどうせ途中で満腹になって智枝子に渡すだろうから、はやめに食べてほしいなあというのが本音なのだけれど、それどころではなさそうだ。
説教の内容自体は流していたので聞いていなかったが、一旦落ちついたと見えて、るり子がいただきます、と手を合わせた。少し遅れて廣谷も同じようにして、しばらく全員無言で麺をすする。鷹村は俯き気味だったが、肩は若干震えていた。何に笑っているのか具体的にはわからない。おそらく三者三様の自由さに呆れているのだろう。
智枝子が先に食べおわると、案の定廣谷が麺の入った器を智枝子のものと交換した。いつものことなのでそのまま続けて食べる。思っていたよりも冷めていなかった。同じく大喰らいのるり子は最初から一人、並ではなく大を頼んでいた。舞子もよく食べるが、結衣と巴の食欲は人並みであるから、これはやはり山宮家の血なのだろうなとしみじみ思う。
全員が完食すると、るり子が全員分の飲み物を頼んでくれた。店内がきれいで、サイドメニューも充実させて長居させようとしているところが他のつけ麺屋とは違って心地よい。
「で、今度はどうするんだい」
飲み物が運ばれてくると、やはりるり子が口火を切った。一度絞り絞られしたあとはさっぱりしているのがこの二人の長所だ。頼んだ飲み物ではなく、来たときに置かれた水を飲んで、廣谷はテーブルを何回か指で叩いた。結論は出ているくせに悩んでいるふりをしている。
「今度は、ってなに?」
その言葉が引っかかり、聞いてみる。
「あの子が廣谷のものを盗むのはこれで二回目だから」
るり子が答え、鷹村は困ったように笑っていた。智枝子だけが知らないことのようだ。
「前は何年生だった?」
『一年生の終わりです』
ということは三年前だ。そんな話は聞いていない。さらにもっと前の、廣谷が院生だったころの話しか。前にも盗まれているのに、今でもあんな杜撰な部屋の管理なのかと呆れてしまう。考えてみれば、今日も鍵を閉めていなかった気がする。思えばまさに今この瞬間、格好の狙い時なのではないだろうか。もっとも彼女が求めているらしい徳冨蘆花の『不如帰』は智枝子の鞄のなかにあるのだけれど、来る前に鍵の注意をしてくればよかった。
「鷹村が気づいて、あたしが叱って、廣谷が興味なさそうに許して終わったが、今回は盗まれたものが多すぎる」
『前は手帳でした』
るり子の説明に鷹村が補足するようにして言う。そのとき叱ったので、彼女はるり子のことを敬遠しているらしい。もしかするとそれで前に彼女が廣谷の研究室にいたとき、素気なく接していたのだろうか。学生思いのるり子にしては珍しい態度だと思ったのだが、るり子の性格を考えれば、本人が嫌がっているところにわざわざ和解しようと声をかけるようなことはしないだろう。
そのときは鷹村が気づいたということは彼女には告げずに、どうやって解決したものかと思っていたら、別のものを盗もうとしているところをるり子が発見して露呈と解決を見せたらしい。
「そういえばあのときの手帳はどうしたのですか?」
手話を解さない廣谷に鷹村はいつの間に出したのかノートに文字を書きこんで見せた。
「捨てました」
あっさりとした回答だった。その物言いと対処法に智枝子はなぜか少しどきりとしたのだが、そのあとに続いた「ちょうど新しい年度のものを買おうと思っていたので」という言葉に小さく息を吐いた。それならわかる。
もし自分のものが何か盗まれたとして、その後手元に返ってきたら、そのまま変わらず使うだろうか。はたして変わりなく使えるだろうか。知らない人であれば気持ち悪くなって捨てるかもしれない。だけれどそれがどうしても大切なものだった場合でもそうだろうか。あるいは知っている人が盗んだとしても、途端に汚らしいものに見えてしまったりするのだろうか。
「今回の場合は智枝子を犯人に仕立て上げようとしているのも問題だね。廣谷の本がなくなっていることをわざわざ嫌っているあたしに言いにくるなんて、自分を疑ってくださいと言わんばかりで詰めが甘い限りだが」
一理ある。そもそも智枝子と廣谷の関係というか、間柄を知っていれば絶対に言いそうにない言葉だ。
三人で話している間も、廣谷はずっと目線を下に落として、コップについた結露を指で伝ってつなげていた。やがて縁を指で弾き、
「では報復をいたしましょう」
と、何でもないことのように言った。
報復などという外聞の悪い言葉が出てきたことにまず驚き、次にそんなことを廣谷が言うとは思わなかったのでそれにも驚いた。誰に何を盗まれても、戻ってきたら気にせずそのまま使い続けそうな廣谷であるから、なおさらだ。それとも盗んだ相手に対する感情はまた別にあるのだろうか。
「報復とは穏やかじゃないな」
頬杖をつき、呆れたようにるり子が言った。鷹村は黙って廣谷の口元を見ている。横顔なので読みとりにくいのかもしれない。
「別に真実が知れればそれでよいというわけでもないでしょう。初期の明智小五郎ではあるまいし」
少年探偵団も怪人二十面相も出てくる前の、警察と連携していなかった頃のか。確かに江戸川乱歩の描いたかの超人探偵のような人物はこのなかにはいないけれど、あえて名前を挙げるなら満場一致で指されそうな廣谷に言われると、そうですねと相槌を打つしかない。
「二回やればもう一回やりますよ。さすがに僕もよい気分ではありません。山宮さんを巻き込むやり方はなおさら気持ちが悪い」
「教授としての立場を考えて言っているか?」
「言っていません」
単純に窃盗と考えると犯罪であり、私生活ならば警察に相談するところだ。教員と学生という立場が、対応を変えさせる。
ずっと黙っていた鷹村が、ノートを廣谷に示した。ノートの背をこちらに向けるようにしたので、何と書いてあるのかはわからない。ただ例の射るような目でじっと廣谷を見つめている。
廣谷が何かを答えようとしたが、その双眸に圧倒されたのか、小さな溜息とともに頷いた。
「わかりました。そうしましょう」
にこりと鷹村が笑い、また一旦ノートを閉じる。目が合ったので何て書いたのかと聞いてみる。しかし同じようににこりと笑顔を向けられるだけで、答えてはくれなかった。
「撤回します。報復はしません。反省はしてもらいましょう」
「妥当だな」
教授としては、とるり子が小さく呟いた。本来なら学校や親に通達するべき事柄だ。反省するだけで済むなら処置としてはかなり甘い。
頑固な廣谷の意見を変えるなんて相当だが、本当に鷹村はいったい何を言ったのだろうか。
「廣谷さんは、本が戻ってきてほしいんですか」
気になっていたことを聞いてみる。盗みに対して興味なさそうにしたり憤りを露わにしたり、いまいち一貫性がない。智枝子もその場で何も思わなくとも、あとからだんだんと腹が立ってきたという経験があるので、そのときそのときの気分や状況と言われてしまえばそれまでなのだが。
「商売道具でもありますからね。趣味のほうはなおさら、手元に戻したいとは思っています。また古書店をめぐるのも面倒ですし」
最後の一言が本音ではないのか。店員との決まったやりとりもいやがる廣谷を思い出しながら、智枝子は飲み物を口に運ぶ。
「でも聞いてみて、しらを切られたらどうしようもないよね」
鷹村から聞いた、という言及の仕方は、彼女の強気な態度を考えるとあまりよいとは思えない。名前を濁したとしても、誰に本を見せたかくらいは憶えているだろう。下手に彼女の意識が鷹村に向いてしまうのは避けたい。
かといって、前のように現行犯で、となると、うまく現場を見つけられるとは思えない。るり子もそうだね、と首を傾げたところで、鷹村の手が動いた。
『カマをかけるのはどうでしょうか』
前に倒した中指に親指をつけたあと、人差し指から薬指までの真中三本の指を立てられて、一瞬理解に遅れる。手話に表現がない言葉を一文字ずつ表されると、どうしてもそうなってしまう。
「何かあるのかい」
『今日研究棟の階段で拾ったんですが、これが』
鷹村が鞄から取り出したものを見て、なるほどと思う。るり子はよくわかっていないようだったが、智枝子が言葉を添えると、同じように納得した顔になった。
「だが、廣谷の部屋に落ちていても別に不思議じゃないだろう。相談に行ったときに落とした、と言われたらどうしようもない」
「僕の机の近くで拾った、と言えばよいんです。たとえば、机と本棚の間に落ちていた、と言えば、相談しに来たとしてもそんなところに立たせた記憶はありませんから」
机のすぐ傍の棚に仕舞われた広辞苑を思い出す。廣谷は第五版と第六版の場所が入れ替わっていると言っていた。彼女もそこの本棚を触った覚えがあるだろうし、場所として申し分ない。
答えながらも、廣谷はねむそうにして目をこすっている。誰の話をしていると思っているのだろうか。いちいち気にしていたらきりがないのだが、今は対するのが智枝子一人ではない。
「廣谷さん」
それで注意するように声をかけると、廣谷ははい、と素直に返事をする。
「盗まれたのは廣谷さんの本ですよ」
「はい。僕はそれを手元に戻したい。ついでに少し痛い目に遭わせたいと思っています」
そういうことを口にするのでまたるり子にじろりと睨みつけられ、目線を余所へと向けるはめになる。もっとも立場を忘れて考えれば、盗んだ相手に対してそう思うのも道理かもしれない。気味が悪いだけではなく、二回目ともなれば腹が立つのもわかる。
顔をるり子のほうへは向けられないまま、それでも廣谷ははっきりと続けた。
「波間先生に何を言われようとも、山宮さんを悪人にしようというその根性が気に入らないのです。ただ僕に対してだけの被害ならどうでもよいことですが、山宮さんを巻き込むのはおかしいでしょう」
「先にわたしをこの件に巻き込んだのは廣谷さんじゃありませんか」
「僕はいいんです」
どういう理屈だ。智枝子に対してのその自信はいったい何なのだろうか。
「まあ約束なので彼女には何もしませんが」
隣の鷹村にも再びじっと射るような視線を向けられているのに気づいて、廣谷はしぶしぶとばかりにそう言った。別に押しによわいわけでもないはずだが、二人がかりだとさすがに気圧されるのだろうか。
長居しすぎても店に悪いからそろそろ出ようかというるり子の一言で、四人は席を立った。会計はるり子と廣谷が出してくれた。
車で改めて話しあい、廣谷が彼女を呼びだして問うという結論になった。当事者なのだから妥当だろう。気持ちはわかるがあまり強く言いすぎないようにとまたるり子に釘を刺されて、廣谷は不満そうな声で頷いていた。
会話は読みとれているのかと鷹村に聞くと、開いた右手の親指を体の前に垂直に立てて、そのまま真下に切るように落とした。そのあと手をその形に留めた状態で、左右に何度か軽く振った。『半分くらい』。店内であまり話さなかった鷹村の姿を思い出す。廣谷の口の動きをなるべく見落とさないようにしていたので、口を挟む間合いが掴めなかったのかもしれない。
「あの子と仲いいの?」
『仲がいいというか、中高と一緒だったから』
「けっこう長い付き合いなんだ」
『中学のときの記憶はないけど、高校はクラスが一緒になったこともある』
そういえばクラス替えというものもあったな。遠くないはずの記憶をかき分ける。中学のときは毎年あったが、高校は理系の特別科に入学したので、三年間クラス替えはなかった。担任は毎年変わっていたものの、同級生に代わり映えはなく、成績がそのなかで上がろうが落ちようが普通クラスに編入ということもなかった。
しかし中学校生活の半分ほどは耳が聞こえていた鷹村は、当然声を使って会話をしていたのだろうと思うと、無意識に目を細めてしまう。中学生のときの彼女との記憶は特にないと言っているし、六年以上前となればたとえ彼女が鷹村の声を聞いていたとしても忘れてしまっているだろうけれど、それでも聞いたことがあるかもしれないというその可能性自体がうらやましい。
(うらやましい)
無意識に浮かべた言葉に、鷹村の声が聞ける日がくるのだろうかというぼんやりとした希望は、聞きたいという確かな願望に変わっていることを胸のうちで知る。
話しているうちに学校に戻ってきていた。車を出ると廣谷が速足で寄ってきて、智枝子の視線に合わせるように腰を曲げた。いつも斜め上にある廣谷の顔が目の前に差し出される形になる。
「今日です」
きっぱりとそう言った。何がと聞くまでもなく、彼女に本について聞くのだろう。だからそれまで研究室には入らないように言いたいのだとわかり、頷く。
「鷹村さん」
曲げた腰をもとに戻し(そうでなくとも彼は猫背気味だが)、今度は鷹村に声をかける。先ほど鷹村が見せたあれを求めて手を出し、受け取ると、白衣のポケットにしまった。
「彼女を僕の部屋に呼んできてください」
言うだけ言って、一人でさっさと行ってしまう。いつもの調子だったので鷹村が聞きとれているのか覗きにいくと、大丈夫、と右手の親指を除いた四本の指を左胸、右胸と当てた。笑みは浮かべていたが、少し動揺しているようだった。
動揺するようなことがあっただろうかと思ったが、すぐにはっとする。そういえば、廣谷が鷹村の名前を呼んだ。あまりに憶えないので、本当は記憶しているのにわざと憶えていないふりをしているのかと疑いたくなるくらいの廣谷が、である。
昼飯に鷹村を同席させたこととよい、どこかおかしい。犯人を見つけたからといって、感謝してそれまでの態度を変えるような人ではない。二人の間で智枝子の知らないことがあったのだろうか。
気づいたらるり子もいない。廣谷とのやりとりを見ることもなく、一人研究室に行ってしまったようだ。
戻るかと鷹村に聞かれて、頷く。改めて隣に並ぶと、背も高ければ、手も大きい。同じように足の大きさもまったく異なるのに気づいて、一人で感動する。
観察されていることに気づいたのか、鷹村が首を傾げた。智枝子は歩いていた足をとめ、手を差し出すと、つられたように鷹村も足をとめて手を出した。それを両手でぱっと掴み、小さく上下に振る。ますます首を傾げる鷹村を尻目に、互いの手の平を合わせる。間接一つ分、智枝子のほうが小さかった。
「大きい」
それでそう呟くと、傾げていた首をもとに戻し、ふっと鷹村は笑った。わざわざ立ちどまってまで手を合わせているのに、感想があまりに簡単なので、呆れたのかもしれない。
「なんだそれ」
「いや、どれくらい大きいのかなと」
思って、と続けようとした声が、消え入るように小さくなる。合わせた手がじんわりと熱くなり、汗ばんできたが、それがどちらの手なのかはわからなかった。気づいた瞬間に、聞こえていたはずの周りの音が全部耳に届かなくなってしまう。手だけでなく、耳の奥まで痺れたようだ。おそらくはずっと鼓動している心臓のどっ、という音が一度やけに大きく響いたかと思うと、そのあとはうるさいくらいに心音が体を揺さぶる。
今のは間違いなく、鷹村の声だった。
合わせていた手を離され、初めて自分の手が震えていることに気づく。ついさっき鷹村の声を聞きたいという願望をはっきり認識したばかりであるし、まさかその機会がこんな不意にくるとは思わなかった。いや何気ないタイミングだったからこそ、もしかすると鷹村からすれば別に智枝子の前で話さないだけで、少しの受け答えなら普通のことなのかもしれない。まして今は片手を智枝子と合わせていたから、満足な手話もできなかったはずだ。そうなるとこんなにも過剰に反応しているのは鷹村に失礼だろうか。
驚くほどの興奮を覚えている自身に、落ちつけと言い聞かす。なんでもない表情で顔を上げよう。唾が咽喉を伝う音がこくりと鳴った。その音が大きかった気がして、また動揺する。
体の前で震えを押さえるようにして合わせている両手に、鷹村がやさしく触れた。それが智枝子の手を包み込むようだったので、やっぱり大きい、などとやけに冷静に思った。
顔を上げると、鷹村は眉間をつまむようにしていた親指と人差し指を離しながら体の前に持ってきた。
『ごめん』
何を謝られているのかわからない。そのおかげで意識が分散して、少しだけ落ちつくことができた。
『驚かせた』
先ほどの無表情から、表情をつくることを思い出したように、ぎこちなくも笑いながら口ではなく手で続けた。やはりあれは鷹村の声だった。
それにしても様子がおかしい。明らかな動揺を前にして、智枝子の興奮はすっと冷めていく。気にしているとすれば声を出してしまったことだと思うのだが、ここまで動揺するものなのだろうか。ただ少なくとも智枝子の前に限らず、普段は声を発したりしないらしいことだけはわかった。
行こうかと促されて、今度は隣ではなく斜め後ろをついていく。前を行く鷹村の手が小さく震えていることに気づいたが、その手を取るのは図々しい気がしてできなかった。
研究棟につくと、ちょうどドアが開いて、彼女が顔を出した。耳元には変わらずピアスが光り、凶器にもなりそうな厚底を履きこなしている。
「おかえり」
『どこか行くの?』
ノートではなく手話で鷹村がそう聞いた。その手はもう震えていなかったし、表情もいつもの笑みに戻っている。
「バイト。廣谷先生の話は明日聞くから。それかメールして」
またね、と手を振り、鷹村と、今度は智枝子にも笑顔を振りまいて、行ってしまう。廣谷は今日問い詰める様子だったが、これでは無理だ。鷹村と二人で顔を合わせて、肩をすくめる。予定は明日に変更だ。
調べ物があると言う鷹村と研究室の前で別れたあと、廣谷に彼女が帰った旨を伝えれば、そうですか、と素気なく言われた。智枝子はソファに腰を下ろし、廣谷の淹れた珈琲を飲む。
廣谷は昼間会ったときに持ってきていた本をソファの前のテーブルに置き、智枝子の隣に座ってそのままぱらぱらとめくり始める。目当ての頁を引き当てると、組んだ足の上に乗せた。
鷹村の様子も気になるが、ここに着くころにはすっかり落ちついているように見えた。どこまでつっこんで話を聞いてもよいのかわからず、小さく唸ってしまう。
そんな智枝子の唸りを気にもせず、廣谷は本を読み続ける。特に可もなく不可もなく、ぼんやりとした表情で字面を追っているように見えるが、その速度はとてもはやい。前に聞いたときは「研究に関しては必要分しか読んでいないので」と言っていた。何度か線を引こうとしては直前で押しとどまり、廣谷はテーブルにペンを投げる。本には図書館のシールが貼ってあった。
「少し彼女と話したんですが」
「はい」
智枝子が話しかけると、目線は本から逸らさないまま、返事がくる。集中して何かを読んでいるときでも対応できるのは廣谷のすごいところだ。もっとも、それがゆえに誰が相手でも本を読んでいるときは顔を上げようともしないのは問題なのだけれど。
「もちろんはっきり聞いたわけではありませんが、次は本当に徳冨蘆花の『不如帰』を狙っているようです。すごいですね」
おそらく廣谷の本が盗まれていることを智枝子は知らないだろうと思っての発言だったのだろうが、それにしても思い返せばいろいろと詰めの甘い会話だった。疑ってくれと言わんばかりだ。
廣谷はちらと智枝子を横目で見やり、そうですか、と呟いた。そこから感情を読みとることはできなかった。
「あれが見つかれば恋の鳥が鳴いたも同然だとでも」
静かに頁をめくる。自分の本には頓着なくとも、廣谷は借りてきた本はきれいなまま返す。
「思っているんですかね」
また冷ややかな声だ。あの作品自体は恋愛的に考えるとそうよいものでもない気がするのだが、題名がそのまま「ほととぎす」である以上、内容など関係ないのだろうか。
「何にせよ他の本が新たに盗まれないのであれば、それに越したことはありませんから」
その言葉に、ふと引っかかるものを感じる。
「廣谷さん。次に彼女が狙っているのが徳冨蘆花の『不如帰』というのはわかりましたが、どうしてそれが他の本に手を出さないという理由になるのでしょうか」
「『不如帰』が見つからないと、彼女の性格上、手に入れるまで躍起になるだろうと想像がつくからです」
彼女の性格上。口のなかで転がすようにして繰り返す。何かおかしくはないか。
廣谷は手に持っていた本を、頁を開いたまま智枝子に渡した。このまま開いていてくれということだろう。テーブルに置いた別の本を手に取ろうとする廣谷を確認したあと、目線を落とす。鷹村が教えてくれた「ほととぎす鳴くや五月のあやめ草あやめも知らぬ恋もするかな」の歌が載っていた。解説に「鳴き声によって恋心をかきたてられることが暗示」されているとある。なんとなく勘違いをしていたが、ほととぎすの姿を見かければ恋愛的に吉であるとか、鳴けば成就をするというわけではないのか。
「山宮さん」
「はい」
廣谷とは異なり、智枝子は本から顔を上げて答える。呼びかけられて、先ほどまで考えていた疑問が霧散してしまった。
「最近鷹村さんと仲がよさそうですね」
「そうでしょうか」
「そうです」
本から目を離した廣谷が、大きく頷く。もう完全に名前を把握しているようだ。本来自分が受け持つ学生で、それも四年目なら覚えているのが普通のはずだが、廣谷が相手だとむしろ違和感だ。
「おかしいと思いませんか」
廣谷の目が少しだけ細くなる。口元は本で覆われていて見えなかった。
突然何を言い出すのかと、怪訝な顔になる。おかしいのはここにきて名前を記憶しだした廣谷のほうではないのか。
「前から知り合いだったんですか」
「いいえ。学科の研究室で何度か見かけはしましたが、きちんと話したのはこの前です」
思えばまだ知り合って一週間も経っていない。そう考えると今週は怒涛のようだと、ついさっきまで感じていなかった疲れがどっと肩にのしかかった気がした。
「では僕が山宮さんに相談してから、二人は仲良くなったわけですね」
「そうなります」
「山宮さんが協力を仰いだからですか」
「わたしが協力を仰いだからです」
含みのある言い方が感じ悪かったので、廣谷の本意を確かめるより先に反論が口をつく。
「鷹村さんに協力を仰いだのは偶然です。廣谷さんが会議に行って、わたしが一人でこの部屋に残っているときにたまたま鷹村さんが入ってきたんですから」
「それは偶然なのでしょうか。学生がどれくらい把握しているのか知りませんが、会議であることを知っていてもおかしくないでしょう。他の部屋はすべて閉まっているのですから」
「それはきっと電気です」
畳みかけるように投げられてくる廣谷の言葉に、負けじとすぐに返す。
部屋に廣谷がいるかどうかの判断は、電気ですると鷹村は言っていた。ドアの上にあるガラスから漏れる光で判断すると。あのとき部屋に智枝子が残されたことと、るり子に引きずられるようにして廣谷が出て行ったことで、電気はつけたままだった。それに鷹村は会議の時間を把握していないと言っていたし、不思議なところは一つもない。
それでも廣谷は納得しきれていないようで、片眉を持ちあげた。口元は変わらず本で覆われている。
「どうしてそれが嘘だとは思わないのでしょうか」
どうしても何も、嘘だと思う理由も必要もない。鷹村が嘘をつくことによって何かを得するということもないだろう。
「実際電気がついていれば光が漏れていて、いるのかなと思いました」
「そこではありません」
本を閉じ、テーブルに置くと智枝子に渡した本をまた手元へと戻した。
「会議の時間を把握していないというほうです」
放たれた言葉に、廣谷を睨みつける。普段は少しでも智枝子が機嫌を悪そうにすると慌てるのにも関わらず、また目を細めて口角を上げた。目は細められただけで笑っていないが、愉快そうな顔が映る。自分が仕掛けた悪戯に引っかかったことをよろこぶ子どものようだ。しかしもし仮にこれが悪戯であるのなら、たちが悪い。
「そもそもこれを持っているというのもおかしくはありませんか」
白衣のポケットから廣谷が出したのは、鷹村がカマをかけてはどうかと店で見せたあれだ。鋏の形をしたピアス。今日まさに、智枝子が彼女本人に褒めたものである。確かに片方なくしたと言って、反対の耳には別のものをつけていた。
「これが本当に彼女のものだとして、いつ見つけたのでしょうか」
「今日と言っていたではありませんか」
「どこで見つけたのでしょう」
「研究棟の階段だと聞いたでしょう」
「本当に?」
廣谷が手に持っている本を奪い取る。はずみで頁が折れたりしてはいやなので、普段なら絶対にしない取り方だ。
言った、聞いたとはいっても、廣谷からすれば手話ができないので智枝子が通訳した言葉になるが、間違いなく鷹村はそう言っていた。
「怒りますよ」
「もう怒っているではありませんか」
言葉とは裏腹に、智枝子が怒れば怒るほどにこにことして廣谷は両手を脇に上げる。それが降参のようでも、指同士を離しているためにおどけているようにも見えて、また腹が立つ。
こんなに廣谷に対して怒りがわきあがるのは初めてで、智枝子のほうこそ動揺してしまう。突拍子のないことを言いはしても、少なくとも誰かを根拠もなく疑ったりするようなことはない人のはずなのだが。
「では聞きますが、彼女はいつピアスをなくしたのでしょう」
それは、と口ごもる。知るわけがない。彼女との記憶は数えるほどだ。最初は智枝子が廣谷にあからさまな態度を向けられるようになったあと、廣谷とどういう関係なのかを聞かれた。それと廣谷の研究室に相談に来ているところを半ば無理矢理同席させられたことがある。それでもまともに会話をしたとはいえず、どちらも二言三言交わしただけだ。ピアスのことなど今日ここに来たとき初めて気づき、話しただけにすぎない。
しかし言われてみれば、彼女の反対の耳には別のピアスがきちんとつけられていた。もし仮に今日なくしたとすれば、別のピアスなどつけているだろうか。あんな小さなものをいくつも持ち歩いているとは思えない。それともそれは智枝子がピアスを開けておらず、持っていないためにそう思うだけなのだろうか。
「確かに落としたのは今日ではないかもしれませんが」
「ですがあの階段は毎日清掃員が掃除をしているはずです。小さなものではありますが、鈍くとも金に光っていますし、そう何日も見落としたりしないと思いますが」
証拠だと言わんばかりに、今は廣谷の手のなかにある彼女のピアスが蛍光灯に反射して存在感を示している。
今日対峙したときの彼女の様子を思い出す。智枝子に話しかけたのはそれこそカマをかけるのが目的だったのかもしれないが、ピアスを褒めたとき、素直によろこんでいた。それで髪に隠れていた反対側のピアスも見せてくれたのだから。あのとき焦っている様子は彼女にはなかったし、なくしたことによる落胆も見られなかった。
廣谷の指摘は、あながち的外れでもない。
混乱が生じ、眉根を寄せる。おそらくいま、ひどい顔をしているだろう。
「おかしいと思いませんか。どうして彼がこれを持っていたのか」
思わず智枝子が手を伸ばすと、ぱっとピアスを手中に収めて、またポケットへ戻す。
「今日の廣谷さんは、意地悪です」
宙に浮かんでしまった手を軽く握り締めて、それだけ伝えると、廣谷はにんまりとした。実にうれしそうなその顔に、平手でも入れたい気分になる。
「はい」
素直に頷いた廣谷は、智枝子の手からまた本を取り返す。先ほどの智枝子とは違い、ごく自然に。
「僕はですね、山宮さん」
ソファの背もたれに肘を置き、智枝子のほうに少し顔を近づける。突き合わせるようになった顔を智枝子も逸らさぬまま、目を合わせた。廣谷は本当にうれしそうにしていた。こんなに満たされた様子は初めて見たかもしれないと思うほどに。
「山宮さんが利用されたり、誰かの手の平で踊らされるようなことは心底気分が悪いのです」
肘を置いているのとは逆の手で、智枝子の手を取る。腹を立てているのにも関わらず、どこかで冷静な自分が、ああやっぱり廣谷さんの手のほうが大きい、などとぼんやり思う。手を取られているだけで合わせているわけではないのだが、間違いなくそうだと思った。
「それでもあなたが望むのなら、僕はそれを許容します」
次は何の話だ。相変わらずひんやりした指に触れながら、だんだんと怒りがしぼんでいくのを感じる。もしかすると指先から毒素を抜かれているのだろうか。それとも単に怒りを持続させるのが苦手なせいだろうか。
煽られて応えてしまったが、廣谷が言ったことは一理ある。彼女がピアスを落とした時期と、鷹村がピアスを拾った時期にどれほど間があるのか。
廣谷が言った誰かの手の平で踊らされるような、という言葉を反芻する。店でも言われたが、なぜそんな話をするのだろう。いつもの突拍子もない言い分なのだろうか。
いろんな考えが頭をめぐって、整理がつかない。
「なぜですか」
「ん」
「なぜわたしの望みを優先するんです」
取られた手に視線を落としながら問う。廣谷の指先はいつまでもひんやりとしていた。
「山宮さんが僕をすきでいてくれるからです」
またそれだ。何度目かの言葉に小さく溜息をつく。いつもどうして智枝子にだけ寄ってきてわかりやすい贔屓をするのかと聞けば、答えは決まっている。何度思い返しても智枝子は廣谷にすきだなんて言った覚えはないし、そうとられるようなあからさまな好意を向けた覚えもない。それでも廣谷は「山宮さんが僕をすきでいてくれるから」と繰り返す。
世界中にきらわれていると思っている彼は、すかれているというだけでやさしくなる。単純なようでおかしいその理屈に、智枝子はいつも据わりの悪さを覚えながらも、ただ黙って頷くしかない。説明を求めたところで同じ言葉が返ってくるだけだ。
目線を上げると、廣谷はまたにこにこと笑っている。それでもう完全に毒を抜かれて、何度目か小さく溜息をついた。
「だから文句があるわけではありません」
はあ、と生返事をする。何に文句がないのかよくわからないものの、先ほどから飛びだしてくる言葉に振り回されて、いちいち尋ねるのも億劫になった。重なった手は廣谷が玩ぶようにして指先を絡めたり、軽く握られたりしているが、されるがまま受け入れる。
「山宮さんはとてもやさしい」
「次は何ですか」
「山宮さんはとてもやさしい」
同じ言葉を繰り返して、ふふ、と一人で廣谷は笑った。
距離が近いために、廣谷の睫毛が思いのほか長いことを知る。ピアスの彼女がなぜ本を盗むに至るほどこのひとのことがすきなのだろうという疑問は、間近で見ても悪くない廣谷の顔に少しだけ納得する。多少野暮ったい目をしているにせよ二重もくっきり出ているし、髪も薄くなければ、鼻筋も通っている。ただ顔では覆いきれない諸々があるような気もするが、廣谷のことは鷹村も慕っているようだったし、何が琴線に触れたのかは本人にしかわからない。
「それで僕は安心して山宮さんだけの味方であるんです」
言い終ると、するりと手をほどく。置いていた肘もどけて、何事もなかったかのようにまた本を開いた。
掴めないひとだ、と思う。まだ知りあって一年弱、こうして名前を覚えられて話すようになってからでいえば、たった半年程度の付き合いだ。おそろしく子どもっぽいと感じることもあれば、やはり大学教授だと感心することもあるし、かと思えばその突拍子のなさに混乱を来すこともある。
味方か。言われてみれば無条件に廣谷を信じている部分はある。鶏がはやいか卵がはやいか、それで同じように廣谷も智枝子を信じるのだろうか。
「廣谷さんに恋人はいないんですか」
否定の言葉が返ってくることなどわかりつつ、戯れに聞いてみる。そもそも恋人がいたことはあるのだろうか。告白されたことはあるとは言っていたが、付き合ったかとなるとまた別問題だ。
「います」
「えっ、嘘」
「嘘です」
今日一番の緊張と驚きが走ったというのに、嘘か。表情も声音も変えないまま平然と言うので一瞬信じてしまった。何気ない質問だっただけにまだ若干どきどきしている胸を落ちつかせながら、横を向いてしまったために今はもう見えない、廣谷の目があるだろう前髪の奥を見つめる。
改めて考えても、廣谷と恋は結びつかない。もし授業の一つでも受けていれば、和歌や源氏物語やらで恋に関連した解説が聞けたのだろうけれど、智枝子からすれば廣谷は大学教授というより、ただの伯母の同僚である。年齢や立場を考えれば友人というわけでもないし、関係を一言で説明するのは難しい。
「山宮さんは」
廣谷が頭を上げて、ソファにもたれながらも智枝子のほうに顔を向ける。
「知っているので言わなくてもいいです」
「何ですか、それは」
そのままの意味です、と廣谷はやはり表情一つ変えずに言った。
「でも、あの人の……ものを盗むのはわかりませんが、彼女のような熱量でと言われると、自信はないです」
「人の熱量やその向け方なんて、個人で異なるでしょう」
ばっさり切り捨てられて、智枝子はそれもそうですね、と頷くしかない。
事あるごとに智枝子の家族が廣谷のことを言うのは、智枝子が家で話す内容のほとんどが廣谷についてだからだ。基本的に学校は授業を受けたらさっさと帰ってしまうのに対して、智枝子からしても気の置けない相手であり、またいちいち返答が他の人とはずれているので、話題に事欠かない。ただそれだけのことだ。
「廣谷さんは、周りが見えなくなるほど誰かに夢中になったことはありますか」
言いながら、ある意味では間違いなく廣谷から智枝子への態度そのものだとはっとする。聞き方が悪かった。それで質問を変えようとしたが、首を傾げ、耳の後ろあたりを軽くかくようにしている廣谷は、智枝子が言いなおす前に答えた。
「あれは誰かに夢中なのではなくて、誰かを思っている自分自身に夢中なんですよ」
別に彼女のことを言ったつもりはなく、廣谷個人のことを聞いたのだが。しかしそう言われると、あれだけの好意を廣谷が別に自分のことがすきなわけではないと主張するのもわかる。
「たとえば」
持っていた本をテーブルに投げる。ソファ脇に積み上げられている本のなかから雑誌を一冊取り出して、廣谷はその表紙を指で二回、軽く叩いた。宇宙の絵が描いてある。智枝子もたまに読む科学雑誌だ。こんなものも読んでいるのか。
「僕に宇宙の法則でもすきにできるような力があったとしても、きっと人の移ろう気持ちというのは制御したりできないでしょう」
「壮大な話ですね」
「そうでもありません。解明できない、目に見えない、何か自分では手に負えないような大きな影響という点において、宇宙も人の心も同じようなものです」
わかるような、わからないような、いややはりわからない。そこまで深く考えたことはない。
怪訝な顔をしている智枝子に気づいた廣谷が、「とにかく得体が知れないということです」と一言で表した。そうやって言われるとなんとなくわかる、気がする。気がするだけだが。
「いつまた次に移るかもわからないのに、誰かに夢中になるだなんておそろしくてとてもできません」
小難しい言葉を並べられたが、簡単に言えば変化がこわいということか。相手が自分に興味がなくなることだけではなく、自分が相手に興味がなくなってしまうことをおそれている。その瞬間がいつくるのか、そもそもくるのかどうかさえわからないのにと思うが、言われてみれば無責任にそんなことはないなどとは言えない。幼いころ気に入りだったあの人形はどこにやったのだろうかとか、小学生のときに仲良しだったあの子は今どこにいるのだろうとか、思い当たることは少なくない。
それでももう一定の年齢を越えているのであるし、そこまで気負わずともよさそうなものだが、おそらく誰かに夢中になられることはあっても、自分から夢中になったことはあまりないのだろう。今回の件もそうだが、極端な好意を向けられる例が邪魔をしているのかもしれない。
しかしそうなると、智枝子はいったい何なのだろうか。自分で言うのも何だが、廣谷から受ける言動は夢中という言葉で表現しても差し支えない気がする。
「じゃあ、廣谷さんにとってわたしは何なのでしょうか」
質問のおかしさは重々承知しつつも、思わず聞いてしまう。廣谷はまた首を傾げたかと思うと、いつもの調子であっさりと答えた。
「何か表すような言葉が必要でしょうか」
絶句する。そう言われてしまうと、もう何も言い返すことはない。しばらくかたまったのち、小さく首を横に振る。どうせ何も考えずに思ったことをそのまま述べたのだろうが、ひどい殺し文句だ。変化がどうだとか移ろう心がどうだとかいったことはどこかに忘れてきている。宇宙はどこへ消えた。
「僕はですね、山宮さん」
「はい」
手に取った雑誌を開き始めた廣谷に、はっとして返事をする。ついさっき同じ呼びかけを聞いたばかりな気がするが、本人は気にしていない。
「山宮さんと名前のある関係になるのはいやなんです」
それは、と思いをめぐらす。それは、友人だとか、恋人だとか、そういうことだろうか。
今の廣谷との関係を一言で表すのは難しいと思っていたが、それは廣谷の望んだ状態ということか。
「名前がついて、わかりやすく切れる関係になりたくない」
返事に悩んだ末、はい、と頷く。肯定というより、単なる受け入れだった。安易に励ますことも、自分はそんなことはないと断言することも、智枝子にはできなかった。
廣谷が開いている雑誌に目を落とす。横書きで文章が書かれているなかに、小さく惑星の絵が載っていた。そんな広いところに目を向けていないで、もっと狭く受けとめればよいのに、と思う。それこそ昔の人がほととぎすの鳴き声を聞いて自分の気持ちを表したように、そのときの激情に従ってもよいだろうに。最近は都市化であまり見かけなくなってしまった鳥らしいが、それでも宇宙よりははるかに身近なはずだ。宇宙から見れば、人間の一生なんて一瞬のものなのに。
何度か瞬かせてその絵を見つめたあと、廣谷に目線を移す。やはり宇宙だなんだというと、智枝子にはよくわからなかった。こうして目の前にいる廣谷が何を思っているのかなんて理解できるはずもないが、少なくとも一緒にいていやな気持ちにはならない。
「そうですか」
と、智枝子が答えれば、
「そうです」
と、廣谷も智枝子に目線を向けて返した。
またすぐ雑誌を読み始めた廣谷を見ながら、呟くように智枝子は言う。
「さっきの話、少し考えてみます」
「さっきの話?」
「あの子のピアスについてです」
しかし問題提起をした当の廣谷は雑誌から顔を上げて、空を見つめたあと、「別に考えなくていいです」と言った。
「僕はこれが本当に彼女のものかは知りませんが、学生同士近しい仲で断言するのならそうなのでしょうし、山宮さんもそうだと言うし、実際に手元にあるのだからなくした時期や、拾った時期なんてものはどうでもよいことです。この件に関しては重要ではありません」
振り回した挙句の言葉とは思えない。智枝子が文句を言うより先に、廣谷は続ける。
「ただ僕が少し、嫌がらせをしたくなっただけです」
言いながら首に手を置いて、こちらを見ようとしない。そうやって言われると普段好意を向けられているだけに嫌がらせという言葉が刺さりそうになったが、目を合わせないとはいえ廣谷から後ろめたさは感じられない。おそらく嫌がらせというのは智枝子に対してではなく、鷹村に対してなのだろうと察しがついた。
「テストはいつからですか」
「再来週にレポート提出のある授業がいくつか」
唐突に変わった話題に、戸惑いながらも答える。そうやって聞かれて改めて考えると、来週の中ごろには手をつけていたい。
「それではやはり、明日には決着をつけましょう」
今度はしっかり目を合わせて、廣谷は言った。淡々とした、いつもの廣谷だった。
廣谷の研究室を出たあと、やっぱり手伝ってくれと言うるり子の手伝いをして、帰路についた。手伝いの一つで学科の研究室に出入りもしたが、そこに鷹村の姿はなかった。知らぬ間に帰ったのかもしれない。別に帰る前に言葉を交わす必要はないし、黙って帰るなんてと憤慨したりもしないが、寂寞とした気持ちがどうしても尾を引いてしまう。電車のなかでも本を読む気になれず、ぼんやりと外を眺めた。
家につくと誰もいないとわかっていても、ただいまと声に出して靴を脱ぐ。鞄を部屋に置いたあと手を洗いうがいをして、水を飲む。日課というほどでもないが、いつもの帰ってからの一連の流れを終えると、やっと落ちつくことができる。
先日鷹村と出かけたときに買った本を手に取り、読み始める。現代短歌は今まで意識していなかった分野だ。祖父が短歌を詠むのがすきなので関心はあったし、祖父のつくった短歌を聞いたりしていたが、あれもよく考えれば現代短歌ということになるのか。
鷹村がこの本を薦めてくれたときの、さびしそうな顔を思い出す。人の死に触れて心を震わすひとはすてきだ。
「いつかきっとただしく生きて菜の花の和え物などをいただきましょう」
収録されている一つを、声に出して歌ってみる。やさしい言葉に力を感じた。
文字には侵せない何かがある。だから本には本であるというだけで魅力を感じられるし、論文は確かな形として受けとめたいし、手紙には魔法がかかっている。それらに対応するには、やはり文字でありたいような気が、智枝子にはしている。幼いころから本を読んでいる間にはさびしさを忘れられて、たのしさを与えてもらっているからかもしれない。同じように小説を書いてみようと思ったことこそないけれど、何か読んだ感想をと言われれば、まず文字にして書き出してからにしたいとどこかで思うだろう。
だからこの本も、文字としてそこにある以上、不可侵なものだ。たとえばここはひらがなであるからこそうつくしいだとか、ここは鉤括弧がついているからこそだとか、そういう言い分はきっと誰かが持っているのだろうと思う。それでも鷹村が言っていたようにこれは確かに歌であるから、なんとなくだけれど、声を出すと瑞々しく響く気がする。
鷹村の言った「音楽をやっていた」ということが、具体的にどういうことなのか智枝子にはわからない。歌手が歌うような曲に関わるものなのか、クラシックなのか、言葉だけだと意味はいくつもある。
けれどもし歌詞のついた音楽をやっていたとすれば、声を出すということは、どこか特別な意味をはらむのかもしれない。ここで作曲や楽器を演奏することと、歌うことは違うと言われてしまうと智枝子にはもうお手上げだが、何にせよ、音楽と密接したものではある。
表情をどこかに忘れてきてしまったような、顔面蒼白の鷹村が脳裏に浮かぶ。確信を持っているわけではないが、声を発したことに動揺しているようだった。普段頑なに閉じられ、あるいは開いても絶対的に声を出そうとしない様子と合わせて考えると、「声を出す」ということに、何か大きな抵抗を感じているのかもしれない。
研究棟に戻ったころには落ちついていたが、今までの様子を思い出すと、あれも実は繕っていただけなのだろうか。動揺を隠して心配させまいとしただけなのかも。
悩んだ末に、携帯電話を取り出す。もしかしたらまだ学校にいたのを見つけきらなかったのかもしれないし、メールを送るくらいはよいだろう。そう考えたのだが、鞄から出してみればちかちかと橙にライトが光っていた。暗い画面を起動させてみると、鷹村からのメールだ。智枝子がまだあの大学にいた時間に送られている。鞄に入れたままそれきりだったので気づかなかった。
「直接言えなくてごめん、今日は帰ります。人前で声を出したのなんて数年ぶりだったので、動揺してしまって申し訳なかった。廣谷先生への伝言もありがとう。また明日」
伝言というのは、彼女が帰ったことについてだろう。
心配する気持ちを持ちながら、「人前で声を出したのなんて数年ぶり」という部分を何度も読み返す。数年ぶりの相手が自分だと思うと、それだけで昂る気持ちに、自分の俗物さを知る。今まで久しく声を出さず、またいざ出したときに動揺するということは、それだけの理由が彼のなかにあって、そこを鑑みての反応をすべきなのに、本人が目の前にいないのをよいことに、顔がほてって仕方がない。
そんな罪悪感で満たされながら、自分のよろこびをなくしたりなどできない素直さに、ほとほと呆れ果てる。鷹村にとっては問題で、忌むべきことなのかもしれないというのに。
何度か深呼吸をして気持ちを落ちつかせると、返信しようと画面に触れる。気にしないでと返そうとして、ふと鷹村の言葉を思い出す。「耳が聞こえないからといって諦めないでなんて、誰かに言われることではない」と、彼は言っていた。
思い出したら、考えが変わった。あの言葉には他の人では感じられなかっただろう重みと迫力があったし、智枝子自身が悔しく思うくらいだったが、それはおそらく、鷹村がまだ諦めていなかったからだ。
「もし声を出したくなかったのなら、鷹村さんにとってはいやな出来事だったのかもしれないけれど、私は声を聞けてうれしかったです。廣谷さんは明日彼女と話をすると言っていました。また明日」
送信ボタンを押す。土足で踏み込むようで図々しいかとも思ったが、もう送ってしまったので後悔しても遅い。メールは端的なものが多いし、ほとんどが定型文だったりするので、相手の表情が見えずこわく感じることもままあるが、今回ばかりは文字の力を信じたい。
玄関からただいま、という声が二重になって聞こえてきて、出迎えに向かう。結衣と巴が仕事から帰ってきたようだ。時計を見るとまだ夕方と言ってよい時間である。てっきり夜に帰ってくるかと思っていたので意外だった。
「おかえりなさい」
「ただいま、ちーちゃん」
弟の巴が荷物を放り投げて抱きついてくる。おかえり、と繰り返して、頭をなでると、うれしそうにしてさらに力を込められる。今はまだ頭一つ分以上小さいが、これから成長期がやってくると思うと複雑な気持ちだ。
「東北は遠いと思っていたけれど、飛行機って便利ねえ。はやいはやい」
巴の放り投げた荷物を脇に寄せて、結衣が言う。ほら先に荷物片付けておいで、と続けると、智枝子に抱きついていた巴が素直な返事をして荷物を運び始める。
結衣ももう何年かしたら五十代に足を突っ込むのだが、るり子とは異なり、白髪一つない真っ黒な髪を相変わらず一つにまとめている。それもさらりとまっすぐな髪で、遺伝的には智枝子とつながっていないのだが、並んで歩いているとよく親子かと声をかけられる。
今回は半月と少々長めの留守だったので、帰ってからの舞子の様子が目に浮かぶようだ。今も仕事をしながら気にしているだろう。浮かれすぎてミスなどしなければよいが、舞子に限っては無用な心配かもしれない。
「かか様もおかえり」
「ただいま、ちえ」
どちらも母なので、舞子はおかあさん、結衣はかか様と呼び分けている。一時期様付けを恥ずかしく思ったこともあったが、その恥ずかしさは智枝子がさらに成長してなくなってくると、ぴったり似合うなとしみじみ感じる。逆の呼び方では違和感だっただろう。
「洗濯物は? てっきり夜に帰ってくるかと思ってた」
「今回はほとんど向こうでしてきたから、そんなに量はない。長かったしね」
トランクを開けて手際よく整理しながら、結衣は答えた。
「ちえこそ今日ははやいね。いつもの教授さんに捕まらなかったの」
そう言われてみれば、そこそこの時間を過ごしたはずだが、今日は行くのがはやかったからだろう。別に普段もはやく帰りたいと言えば帰らせてくれると思うけれども。
中身を全部出したトランクを閉めて、取り出した一部の荷物と一緒に結衣は部屋へ片付けに行く。手伝おうとついていくと、片付けを終えたらしい巴が部屋から出てきて、また智枝子に抱きついた。
「ちーちゃんただいま」
「うん、おかえり巴」
勢いで少し後ずさりながら、軽く叫ぶ弟にまた頭をなでながら答える。
祖父以外の男性の話をすると途端不機嫌になるこの弟は、会ったこともないのに当然のように廣谷をきらっている。名前も覚えているだろうに絶対に言おうとはしないし、何かと否定的な言葉を投げかけてくる。最近は否定的なことを言っている自分というのが、もしかしたらきらわれるかもと思っているのか、ただ悔しそうにじっと押し黙ることが増えた。若干将来が不安ではあるが、結衣も舞子も頓着せずにこにこと見守るだけだ。実際巴が成長して離れていけば、さびしくなるのは自分のほうだとわかっているので、つい甘やかしてしまう智枝子も智枝子なのだけれど。
「今回の撮影はどうだったの」
「たのしかった。きれいなところだね、東北って」
女の子にも間違えられるような、そのきれいな顔が笑うと、場がとても華やぐ。
「東北のどこだっけ」
「福島と仙台。さすがに雪はなかったのが残念だけど。涼しくて気持ちよかったよ」
「行ったことないなあ」
「今度俺が連れていってあげる」
我が家の稼ぎ頭に言われると心強い。実際去年は巴主催で福岡に行ったところだ。そういうときは巴が旅費を家族分出し、食事や諸々を母二人が負担することが多い。智枝子はといえば、一応るり子からの収入はあるのでその範囲内で何かしようとするのだが、頼られたい巴が、智枝子がお金を出すのを嫌がるので甘えることにしている。姉としては少々情けないが、固辞するほどの理由もない。
そういえば今回は出掛けに、今度一緒に盛岡に行こうねと誘われていたのを思い出す。盛岡は福島でも宮城でもなく岩手だが、おそらくわんこそばを連想しての言葉だろう。確かに胃が元気なうちに一度は食べに行きたい。
考えていたらお腹がすいてきた。夕飯の準備をしようと、腰にくっついている巴をそのままに台所に向かう。朝の様子だと料理好きの舞子が、二人が帰ってくるので本当は御馳走でも用意したかったようだが、仕事なので断念していた。それでもポテトサラダだけはつくって冷蔵庫に入れられている。
準備をするといっても料理のできない智枝子は、舞子が書いてくれたメモに従って動くだけなのだけれど、手羽先を焼いておいてと言われたので取り出し、何か手伝いたそうにしている巴には米を炊くように指示をする。
片付けが終わったらしい結衣は手羽先の骨入れをつくると高らかに宣言して、チラシを二つ箱型に折ると、あとは風呂に入ってさっさと部屋着に着替えていた。料理ができないのである。その代わり整理整頓がすきで、基本的に掃除の担当をしているため、巴と二人智枝子が夕飯の準備をしている間も、部屋の掃除に取りかかっていた。
巴も風呂に入れ、智枝子も風呂に入る。そういえば風呂はもっぱらご飯のあとだと言う廣谷に衝撃を受けて、自分の大学でも同級生たちに聞いてみれば、大半がご飯のあとだと言うのでさらに衝撃だったことを思い出す。普通だと思っていたことが少数側だとわかったときのあの心許なさは何と表現したらよいのかわからない。
そんなことを考えながら、あがったところで舞子も帰ってきた。
「結衣ちゃん!」
靴を見てわかったのか、ただいまも言わず第一声そう叫び、帰ってきたときの巴と同じように舞子は結衣に抱きついた。いつものことなので気にせず夕飯の支度を続けると、真似して巴がまた智枝子に抱きつく。
「おかえり舞、お疲れ様」
慣れた様子で結衣は舞子の頭をなでる。もしかすると自分が巴に抱きつかれるとついなでてしまうのは、自覚はないがこの光景がどこかで思い出されているからなのだろうか。
「結衣ちゃんこそおかえり、巴ちゃんもおかえり」
「ただいま、おかあさん」
智枝子に抱きついたままで顔だけ舞子のほうを向きながら、にっこりと巴が笑う。智枝子が遺伝的には結衣とつながっていないように、巴も遺伝的には舞子とつながっていないのだが、巴の笑い方は結衣よりむしろ舞子に似ている。
夕飯の準備が着々と進んでいることを視認すると、舞子はお風呂に入ってくる、と宣言して慌てて行ってしまった。そしておそろしいはやさであがってきた。急いだせいで満足に拭けていない髪からぽたぽたと滴が垂れるのを見て、仕方ないなあと結衣が拭き始める。
疲れているだろうに、結衣が絡むと舞子は本当にうれしそうだ。しばらくいちゃいちゃとしている母二人に当てられないよう注意しながら、智枝子は巴とともに夕飯の準備を終える。舞子は酒呑みには珍しいことらしいが、酒も炭水化物も気にせず一緒に取る。反対に酒はあまり呑まない結衣は夜に炭水化物を取らないので、ご飯はよそわない。湯気の立つ茶碗を三人分ついで巴に渡し、テーブルに置いてもらう。
最後に箸を並べて、各々が席についた。
「いただきます」
全員で両手を合わせて、それぞれ口にする。家族四人そろっての食事は久しぶりだ。結衣と巴からすれば、家での食事すら久しぶりということになる。
今日のメインである手羽先にかぶりつく。手羽先といえば一度大学の吞み会でコースのなかにあり、それを嬉々として食べたのだが、他の人たちが食べるところが少ないと言って骨を分解もせず、ほとんど皮と(あるいは皮を気持ち悪いなどと言ってわざわざ残す人も多かった)表面の少し浮き出た肉だけを食べて放るのを見て、衝撃と憤りを覚えた。それ以来外で身内以外とは食べないことにしている。何せここも食べられる、こうしたらいいといくら言っても、軟骨は食べたくないだとか面倒くさいだとか言われるので、もう食べるなと叫びたくなる瞬間が二、三訪れるからである。それがまた智枝子の周りに限っては男ばかりなのでなおさらだ。
思いながらきれいに骨だけになった手羽先を見て、一人満足する。
「いない間に何か変わったことなかった?」
教育の賜物で、きれいに手羽先を骨だけにしながら巴が言った。
「たとえばちーちゃんがあの人に迫られたとか」
向かいから黒い何かが智枝子に押し寄せてくる。あの人というのは廣谷のことだろう。あるはずないことをそう心配しなくてもよいのにと思うのだが、毎回のことなのでもはや慣れている。しかし本当にきれいな顔の鋭い表情は迫力がすごいとしみじみ感心していると、巴の隣に座る舞子が「あったあった」と花を飛ばした。そんなに華やぐような話があっただろうかと思っていると、
「ちーちゃんがついに男の子とデートしたのよ」
と言い放たれ言葉もない。智枝子とは逆に「はあ?」と巴が反射的に叫んでいた。
「誰、どいつと、いつ、どこで」
「とも、最初の二つ同じ意味」
一人冷静な結衣がお茶をすすりながらつっこむ。隣が平生と変わらず本当によかった、と胸の内で叫んでしまう。
それでも視線を集めているのに気づいて、口ごもる。何せテーブルを挟んで向かい側からはどす黒い顔をしている弟ときらきらと目を輝かせている母が並んでいるので、その雰囲気の違いに感想も思いつかない。
「デートっていうか、デートではないと思う」
おそらく。そもそもデートとは何だろうかと考え始める始末で、それは逃避であることなど智枝子自身よくわかっていた。しかし大学の外で会うことになったのは廣谷の話をするためであり、単に遊びに行ったというのとは違うから、やはりそんな華々しいものでもない気がする。
「それはデートでしょう」
「デートじゃん」
「ね、デートでしょう?」
内容も言っていないのに方々から一気に言い放たれ、智枝子の意思はあまり重要視されていないことを悟る。みんな食事の手などとっくにとまって、詳細を話せという空気が漏れ出している。
「一緒に出かけはしたけれど」
それでも小さく抵抗するように言うと、それはもうわかったから、と結衣に告げられる。ついさっき冷静であるのをありがく思ったばかりだけれど、容赦はなかった。
舞子もおそらく言いたくて仕方がなかったのだろう。結局あの日何があったのか聞けていないとばかりに、表情を明るくさせている。待ちの姿勢だ。その隣の巴も詳細を待つ姿勢をつくっているが、表情は反対に歪ませて智枝子をにらむようにしている。
話さないと解放してくれないなと諦めて、智枝子は箸を置くことも忘れたまま目をテーブルの外に向ける。
「るり子さんの大学の人で、学年は先輩なんだけど」
「いいね、余所の大学だと別れても後腐れなさそう」
ポテトサラダを皿に取り分けながら結衣が言う。昔同じクラスの子と付き合って痛い目を見たらしい。
「なんで別れることを前提にしちゃうの結衣ちゃん」
水を差すなと言わんばかりの舞子に、ごめん、と結衣は素直に謝った。巴は「なんで付き合うこと前提にするの?」とさらに顔を歪めていた。
この前の水曜日にあそこで、と続けると、その時間は撮影中だったと悔しそうに巴が歯を食いしばる。撮影中でなくとも直線距離にして約五六〇キロも先にいたというのに、どうやって阻止するつもりだったのか。
「でもそれなら教授さんが不利だねえ」
とりあえずの話を聞いたからか、一人食事を再開した結衣がポテトサラダを咀嚼しながら笑う。
「廣谷さんはそういうのではないよ」
「そうなの。智枝子にぞっこんみたいだけど」
今日言われたことを反芻する。名前のついた関係にはなりたくない。智枝子自身、そもそも廣谷を恋愛に絡めて見たことがなかったので言われてもぴんとこない。その上、廣谷本人からはっきり聞いたのだから、確信を持って智枝子は言う。
「でも、違うよ」
だったら何かと聞かれると、やはり一言では説明はできないのだが。
「教授なんかより俺が不利だよ」
「とめはしないけど、あなたちえの弟だからね」
頭を抱える巴に、結衣が言う。戸籍上では義理のいとこ、ということになるし、血自体はつながっていないから、一応智枝子とも結婚できないこともないのだろうか。巴を弟として以外に見たことがないし、戸籍やら遺伝やらについて詳しくもないから、深く考えたことはない。
何だかんだ言っても一定の年齢を越えたら、あっさりかわいい彼女などを連れてくる気もする。何せ巴はまだ八歳だ。
「もう、るりちゃんが羨ましくって。間近でやりとり見ているわけでしょう」
「舞は余計な邪魔しそうだから、るり子さんでよかったんじゃない」
「やっぱり? 正直私もそう思う」
母二人のやりとりを聞きながら、るり子にも先日茶々を入れられたことは黙っておく。これだけ女性に囲まれながら、女の子らしいと言われるようなことをほとんど踏み倒してきたから、周りのほうが盛り上がるのも納得できてしまうのが何とも言えない。こういうのも親孝行に入るのだろうか。
「俺は」
話をふくらませていく母親に我慢ならなくなったのか、巴が叫ぶ。
「俺が認められる男じゃないとちーちゃんは渡さないからね」
その言葉に、食卓が一瞬しん、と静まり返る。しかしそれもほんの一瞬のことで、次の瞬間にはどっと結衣と舞子がわきあがった。
「つまり他の男にちえを渡すのも辞さない宣言」
「智枝子に彼氏ができてもいい宣言」
違う! という弟の反論は、残念ながら母二人に呑みこまれてしまった。智枝子はもう三人を放っておいて、食事を再開することにする。
それにしても久々の賑やかしいテーブルがなんだかうれしくなって、思わず笑ってしまう。
ひとしきり家族で団欒したあと部屋に戻り、明日の準備をしようと鞄を開くと、携帯電話がちかちかと橙に光っている。画面を表示させれば、鷹村からのメールのようだ。手前勝手な言い分のメールを送ってしまったために、開くのに逡巡する。そもそも返信がくるとも思っていなかった。受信時間は三十分前になっている。表示させるかどうかで、人差し指が空を舞うが、どうせ明日も会うだろうし、もし返事の必要な内容であれば待たせるのも申し訳ない。悩んでいる時間がもったいないと判断して、画面に触れる。ぱっとメールが表示された。
「俺の身の上話になってしまうのだけど、長文を送ってもよいですか」
書かれていたのは、その一文だった。だめなわけがない。こうなると逡巡していた三分間が本当にもったいなく思える。もしかしたらこのメールがきてからの三〇分間で長文を打っているのかもしれないが、ただずっと待っていたのなら申し訳ない。慌てて「大丈夫です」と返す。
返信すると、画面が受信したメール表示に戻る。何気なくもう一度読み返して、敬語が抜けると一人称が「俺」になるのか、とまた別のところで感動する。話すようになって仲良くなり、移っていく変化に気づけば気づくほど、それが些細なことでも高揚する。
しばし携帯電話を手に持ったまま待ってみるが、なかなか返信がない。一旦机に置いて、明日の準備を始める。明日が締切ではないが、軽い課題があったことを思い出し、準備を終えるとそのレポートに取りかかる。二千字ほどの短いものだ。一時間もしたら書き終り、指定された文字組みに形式を設定して、印刷をする。印刷したものを読み返し誤字がないことを確認したところで、表紙をつけろと言われていたのを思い出した。表題と名前と学籍番号、所属学科と学年を書いてまた印刷し、ホッチキスは左上でとめること、と念押しする先生を思い浮かべながら表紙と本文を重ねる。ホッチキスをどこかにやってしまっていたので、巴に借りて、無事にレポートを終える。
メールはまだこない。
受信ボックスへの問い合わせもしてみるが、やはりきていない。また一度机に置いて、レポートを忘れないように鞄に入れておく。明日提出ではないにせよ、入れておいて損はないし、たかだかコピー用紙三枚なので鞄が重くなることもない。
「おねえちゃんお土産」
居間から叫ぶ巴に返事をして、部屋を出る。普段はちーちゃん呼びだが、何かの弾みにはおねえちゃん呼びに変わる。そもそもちーちゃんという呼び方は舞子の真似から始まっていて、もとはこちらの呼びのほうが多かった。
毎度のことながら豪華なお土産のなかで、牛タンを発見して舞子とともによろこびの声をあげる。実はこっちでも展開しているお店だけれどおいしいから、おいしいから、と連呼する結衣と巴を見て、食にそこまでの興味がない二人が言うのだからさぞかしおいしいのだろうと期待を馳せる。
お菓子はこっち、とままどおるとエキソンパイと示される。ともかくお土産といえば食べ物を買ってきてくれる二人にはお礼の念しかない。エキソンパイは福島以外ではなかなか買えないので、よくわかっていると諸手をあげてよろこぶ。
牛タンは明日の夕飯に決まり、銘菓二つをみんなで一つずつ頬張ると、自然と笑顔がこぼれる。るりちゃんならおいしい緑茶いれてくれるんだろうけど、と言いながら舞子がいれてくれた緑茶をすする。
「そうそう、こっちはるり子さんへのお土産。あとお菓子一つずつ持っていって」
手渡されたのは牛タンジャーキーである。これ、と目線を向けると、
「大丈夫だから。ちゃんと智枝子の分もあるから」
と少し呆れたように結衣に笑われる。同じように乞う目をしている舞子にも、そのまま同じ言葉を伝える。
「お菓子、明日もう少し持っていってもいい?」
いいよ、と軽く返される。家族でちまちま食べるという量でもない。るり子の分と一緒に、いくつか手に取る。廣谷と鷹村にもと思ったのだが、そういえば廣谷は甘いものが苦手だ。鷹村はどうなのだろう。
食べられないのなら自分で食べればよいかと、智枝子は数を減らすことなく抱えて部屋に戻ろうとすると、巴があっ、と声をあげた。
「もしかしてそれ、例の人に渡すつもりじゃ」
「うん。だめ?」
巴を見つめれば、ぐっと言葉を飲みこんで、長い沈黙に入る。先にだめかと聞けば、拒否することはないと知っている。今回も沈黙を破ったかと思えば、
「いいよ」
と蚊の鳴くような絞った声で答えられる。悔しそうな表情で葛藤している弟にありがとうとお礼を言い、頭をなでると、多少雰囲気が和らいだ。
気を取り直してまた部屋に向かう。その途中で居間から「よっ、男前」「いいぞいいぞ」と巴を鼓舞する母二人の声が響いてきた。
少し量があるので巾着にまとめて入れて、鞄にしまう。もう一度携帯電話を覗くが、まだきていない。少しはやい時間だが、返信していない間に寝てしまっただろうかと考えていると、バイブ音とともに音楽が鳴り響く。手に持っているときに震えるとは思わなかったので、文字通り飛び跳ねて、携帯電話が若干宙に浮く。慌ててそれを掴みとり、画面に触れる。マナーモードにしていなかったっけ、とどきどきしながらメールを開く。受信に驚いたおかげで、開くまでの逡巡というものは一切忘れていた。
メールの冒頭には「飽きたら読むのをやめてくれてかまいません」とあった。智枝子は手元で光る画面に目を落とす。
遅くなりました。本当に長いので、飽きたら読むのをやめてくれてかまいません。
耳が聞こえなくなってもう二年もしたら十年、という話をしたと思うけれど、その間、声を発したのはおそらく数えるほどです。僕の場合は事故に遭って聴力を失ったので、今も検査があり、そのときだけです。話さないために必死で手話を覚えました。読唇も必死で身につけました。今では家族とも手話で話し、何かを口にするということはありません。手話も本当は口型が必要な言語だけれど、それすらも嫌で、正直なことを言えば手話を使うのもあまり好ましくなく、できれば筆談したいのが本音です。耳が聞こえない自分というのをずっと疎ましく思ってきたので、手話という言語自体はおもしろく便利で、割合すきですが、手話以外ではすぐに受け答えができない自分というのが受け入れがたい。だから歩きながら手話をするのはあまりしたくないと思っていて、移動する際に態度が悪く見えていたらごめん。こちらの勝手な都合です。
話が若干ずれましたが、何が言いたかったかというと、だから、今日声が出たのは、本当に無意識でした。僕はきちんとしゃべれていたでしょうか。何かよくわからない、おかしな発音になっていたりはしていなかったでしょうか。それがとても恐ろしい。主治医の先生は事故から回復したあと、検査で話す僕の言葉を自然だと仰っていたし、実際一度言語能力を得たあとならほとんどが相手に伝わるように話せるということも知ったけれど、それが本当かどうか、僕はもはや確かめる術を持ちません。
あのとき思わず声が出て、でも話す話さない以前にきちんと声が出たかどうかすら自分ではよくわからなくて、それまで気をつけていた笑顔だとか、人の表情を読みとることなんかを全部忘れました。そのあとは繕うことだけを思い出して、それだけで一杯いっぱいだったので、正直なところ、山宮さんの反応も憶えていません。というより、見えていませんでした。だから声が聞けてうれしかったと言われて、うれしかったのは俺のほうです。ありがとう。
長々と遅くに申し訳ない。おやすみ。
携帯電話を握りしめる。何度か読み返したあと、静かに息を吐いた。おそらくこれを打つのにもいろいろと言葉を選んでくれたのがわかる。一人称が混ざっているし、諸処で智枝子に気を遣っている。
無意識にでも、八年間沈黙を守り通してきたのに、なぜあのとき声を出したの、と、心のなかだけで問う。鷹村自身が、話したことそのものが衝撃で、智枝子以上に驚き、動揺したのだというのはわかった。その推測は間違っていなかった。
少しだけ泣きたい気持ちに駆られる。鷹村のことで涙腺が緩むのはこれで二度目だ。前回と同じく、智枝子が泣くのはおこがましい気がして、意識をして涙を抑える。
「きれいな発音でした。流れのなかで一瞬だったので、鷹村さんには悪いですが、もっと聞きたいと思ったのが本音です。でもそれ以上に鷹村さんと話したいので、筆談ででも、またたくさんお話してくださるとうれしいです。おやすみなさい。話してくれてありがとうございました。とてもうれしかったです。」
ずっと足を踏ん張って、それでも背筋をしゃんと伸ばしてきたのがわかって、そんな鷹村が少しでもよわいところを見せてくれたのが、本当に、途方もなくうれしい。自分に都合のよいことしか書いていないことを自覚しながらも、智枝子は送信ボタンを押した。
おそらくあの目に射られたときから、わかっていたことだ。
(ほととぎす鳴くや五月のあやめ草あやめも知らぬ恋もするかな)
もはや憶えてしまった歌を胸のうちで唱えて、智枝子は静かに目を閉じた。
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