第3話

 廣谷と別れたあとすぐに鷹村から連絡がきて、何回かメールをやりとりした。結局舞子いわくの「かわいくない」文面になってしまったが、慣れないことをして変に気にするのはもっと疲れてしまうので、そのまま「黒々とした」メールを送った。鷹村の返信ははやく、送ればすぐに返ってくる。携帯電話を使って話すこともあるようだから、そのために打つのがはやいのだろう。

 やりとりをしている間に、日付が変わったあたりで舞子が帰ってきた。突然の残業で平素以上にふらふらとしていたが、何度も鳴る智枝子の携帯電話と、それを気にしてそわそわしている様子を見て、何かを察したようだ。つついてくるのを半ば無理矢理風呂場に押し込め、その間にメールを済ました。

 時間と場所が決まってほっとする。るり子や廣谷の勤める大学からは二駅横の、普段智枝子が乗り換えをする駅だ。待ち合わせ時間が昼前になったので、舞子が風呂から出てきたのを確認すると、何かをつっこまれる前に布団にもぐる。そんな智枝子に文句を言っていたが、舞子も急な呼び出しで疲れていたようで、長くはもたなかった。同じように隣に敷いた布団にもぐって、智枝子よりも先に寝息を立てた。

 明日学校以外の場所で会うのかと思えば緊張もしたが、なかなか寝付けないのはいつものことで、そのうちうとうとし始めた。気づいたら朝がきていて、舞子はとっくに目覚めて朝御飯をつくってくれていた。こういうとき、改めて母親の偉大さを感じる。

 お米、わかめと油揚げのお味噌汁、焼き魚に短冊切りにされた大根をきれいに平らげて、湯呑みに淹れられた緑茶を飲み干すとそのまま皿を洗う。

 さて支度をしようと手を拭いて振り返ると、舞子がにんまりと笑顔を浮かべている。いやな予感がしたが、こういう顔をしているときの舞子はとめられないこともわかっていた。

「デート? デートでしょう?」

 確信めいた口ぶりで言われ、口では否定しながらもそうなのだろうか、という気持ちがぬぐえない。智枝子が歯を磨いている間、いくつかの服を取り出して、舞子が出かけるかのごとく真剣に選ぼうとしている。

「せっかくかわいいんだから、たまには着飾りなさい。化粧だってめったにしないし」

 それは実験のときに変に触ってしまったり、ほとんどないのはわかっているが化粧のにおいが香ってくるのがいやだからなのだが、舞子には通用しない。それでもしている子はいるんでしょうと言われれば、いるような、いないような。そもそも同性が少なくて、あまり気にしたこともなかった。

 こうやって舞子や結衣や、最近では巴が智枝子のことをかわいいかわいいと口にしてくれるから、表情を表に出すのが下手で、それが原因で影でいろいろ言われてきても、変にひねくれずにこられたのだろうと思うと、感謝の気持ちがないでもない。それでたまには気分を高揚させている母に付き合うつもりで、されるがままを決意する。

 どんな「女の子」を主張した服装をさせられるのだろうと思っていたのだが、考えていたほどではなかった。スカートではなく、裾が軽く広がった短パンであったし(せめてショートパンツと言って、と舞子は訂正してきた。今まで智枝子が穿いてきたもののなかではかなり短い)、股下の深いそのズボン、もといショートパンツに襟と袖部分と、前立だけ色の違う七分シャツを中に入れ、淡い橙のタイツを履かされた。暑くなってきたし、少しくらい露出しても大丈夫だとかなんとか言われ、タイツも許されず、七分ではなく半袖を着させられるかなとてっきり思っていたので、少し意外だった。

「あまりおかあさんの趣味にして、智枝子がずっとそわそわしてもよくないから。これくらいならいいでしょう?」

 それでも普段の智枝子よりはかなり女の子っぽい服装だ。ズボンもスカートも膝下ばかりだったし、露出も基本的にはしないので、着たばかりの今はまだ違和感がある。

 それにしてもぽんぽんと服が出てくる。舞子が智枝子に着せたいが着ていない服と、結衣が智枝子に着せたいが着ていない服がそれぞれあるのは知っていたが、どれくらい箪笥の奥に眠っているのだろう。考えないようにする。

「靴はこの前二十歳のお祝いに買ってあげたやつで大丈夫だから」

 四月にはもう二十歳になっている智枝子は、革靴を一足舞子にプレゼントしてもらっていた。少し値が張る靴を一つくらいは持っておきなさいと言われ、履き始めてみたら、それがあまりに足になじむので驚いた。最初こそ靴ずれも起こしたが、店員にだんだん自分の足の形になっていきますよと言われたとおりになった。色も黒いので、大概の服に合う。智枝子も気に入って、よく履いている。

 しかし普段着なれていない服を着ているせいか、いかにも自分が「着飾っています」という状態が気恥ずかしいのか、どうも気持ちが落ちつかない。そわそわしている智枝子を見て、舞子は智枝子の髪に櫛を通す。

「花の色は移りにけりな、って言うでしょう。おしゃれをして、きれいなときにきれいな自分を表に出すのは悪いことではないわ」

 若さは武器よ、と声を出して豪快に笑う舞子は、髪をとき終ったのかぽんと智枝子の背中を叩いた。年齢より若く見える母は、その若々しさを保つための努力をしているからこそそう見える。

「花の色は移りにけりな」

 呟くようにして繰り返す。突然ここ数日、和歌に縁がある。それともただ今まで意識していなかっただけで、周りには溢れていたのだろうか。

「そうよ。花の色も移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせし間に」

 さらさらと紡がれて、驚いてしまう。智枝子が本を読むようになったのは間違いなくるり子の影響であり、母である舞子はほとんど読まない。文字がたくさん並んでいるのを見るとねむくなってしまう、という典型的なタイプだ。上の句は有名だからわからなくはないにしても、そんな舞子の口から流れるように和歌が出てくるとは思わなかった。

 智枝子の驚きを失礼ね、と一蹴し、百人一首は憶えているのよ、と母は言った。

「憶えさせられた、のほうが正しいんだけどね。そういえばあんたが高校生のときにはそういう宿題は出なかったわねえ」

 そういえば結衣も前にそんなことを言っていた気がする。時代だろうか。智枝子の世代はその施行された政策がそのまま軽い悪口に使われているくらい、上の世代に比べると圧倒的に高校までの教育内容が薄いものになっていた。

 考えてみれば、小学生のときに授業で坊主めくりはした記憶があるが、それだけだ。高校は理系クラスにいたので国語の内容は濃いものでもなかったし、特に古典の授業で和歌を扱うときは流れるようだった。

 和歌との関わりを思い出していると、そんなことより、と舞子が横に腰を下ろす。

「どんな人なの?」

 好奇心いっぱいの目で見つめられる。下手に逃げるよりも、話したほうがあとあとよさそうだ。何も言わないから期待をふくらませてしまうのであって。

「落ちついたひと、かな。よく笑うひと。二つ上で」

「教授さんじゃないのね。学校の人?」

 るり子さんの大学で知り合って、と答える。廣谷と出かけるくらいなら、こんなにそわそわしたりも、変に隠したりもしない。

 話しながら、そういえばと思い出す。言おうと思っていたことだ。

「おかあさんに習った手話が役立ってる。ありがとう」

 覚えていなければ、ぱっと出会ったときに話すことも、歩きながら会話することもできなかった。手話ができなくても、ノートに書いて交わせば情報を得る分には支障がなかったかもしれないが、今のようになんでもないことも話すことはなかったかもしれない。

 舞子はうれしそうに笑い、どういたしまして、とうやうやしく頭を下げた。おそらく仕事で使っているらしい舞子は、手話ニュースを見ながら今でも新しい表現を勉強しているようだ。何度か目にしている姿を思い出す。

「手話で話してるの?」

「だいたい。わたしは話すだけのこともあるけれど、向こうは基本的にずっと手話だけ。ノートに文字を書いて話したりもした」

「じゃあずっと耳の聞こえない人なのね」

 その言葉に、首を傾げる。不思議そうにしている智枝子を見て、舞子も首を傾げた。

「手話で話してるって言うから、耳が聞こえない人かと思ったんだけど、違った?」

「ううん、そうだけど、中途失聴者だって言ってたよ」

 舞子の傾いだ首がさらに深く傾けられる。自身の肩を少し持ち上げて、首を乗せるようにしながら、そうなの、とまだ少し疑問の解消されていない声で言う。

「言語能力を得たあとに聴力を失ったのなら、たぶん話すことはできると思うんだけど。小さいころになくしたのかしら」

 中途失聴者が手話をせずに声だけで話して、それに対する健聴者が手話を使って話して、見ているだけではどちらが失聴者かわからないっていうのは、よくある様子よ。そう続けられ、智枝子も首を傾けたまま戻せない。鷹村は少なくとも智枝子に対して、話すどころか口を動かすことさえほとんどないが、中学生のときに失聴したとすれば、言語能力は得たあとだ。

 手話というのは同じ動きで別の意味を持つものもある。たとえば奈良と鎌倉と大仏は全部同じで、左の手の平を上に向けて、その上に右手の親指と人差し指で輪をつくる。ちょうど大仏がしているポーズのように。どれを言っているのかを示すのは口だ。口型といって、唇の動きをつけて区別する。

 他にも過去形は口型で表すので、鷹村のように、話すどころか口すら動かさないというのは本来ありえない。

「何か理由があるのかもね」

 口を一切動かそうとしないことは気になっていた。だからこそ声は発さなかったが、口だけを動かして話してくれたことがうれしかった。ただ今のところ鷹村との会話で大きな支障はなかったので、考えてもみなかった。鷹村の声。

(どんな声をしているのだろう)

 普段隙なく結ばれて、それがほどかれたと思っても静止画を見ているような気持ちになったり、文字を形作ることのほとんどないあの唇から発せられる声は、どんな音なのだろうか。

 意識を飛ばしてしまった智枝子を見て、舞子は大きく伸びをする。智枝子は着飾らせたが、舞子自身はまだ着替えていない。

「たのしんでらっしゃい。仕事から帰ったときのたのしみにしておくから」

 言い残して、智枝子が何かを言う前に別室へと消えてしまった。隠されてもいない報告せよとの真意に、はあい、と小さく返事をする。

 母が仕事に出るのを見送り、充電器につなげていた携帯電話を手に取る。メールを覗いて、もう一度時間を確認し、持っていくのを忘れないように玄関に置いておく。昨日初めてメールを受け取ったときと違い、また相変わらずの敬語だった。ノートで会話をしたときもそうだったが、ちらほら敬語の抜けるときがあるのに、それが続けられることはない。学校こそ違うが単純に二つ上の、学年でいえば二学年も先輩に敬語を使われるのは違和感があったし、そうでなくても敬語は壁だ。廣谷のように誰に対しても敬語ならば感覚も異なってくるが、鷹村はそういうわけでもなさそうだ。敬語を使われると、それがどこなのかはっきりとわからないにせよ、ここまで、という線が引かれている気がする。

 今日会ったとき言ってみよう。そう決意して時計を見ると、まだ待ち合わせ時間まで数時間ある。落ちつかない気持ちを無理矢理にでも落ちつかせようと、廣谷から預かった『不如帰』を通学用の鞄から取り出した。

 ほととぎす。帰るに如かず。昨夜の廣谷の話を思い出す。院生のころならば、もう二十年近く前の話だ。智枝子がいま手に持っているものは新装版で、盗まれたのは新装前だと言っていた。

 なぜ今になって買いなおしたのだろう。

 カバーがされているのは廣谷が読んでいないからだろうが、いつ買ったのかまでは聞いていない。話が思ってもみなかった重いものだったので、聞こうとも考えなかった。

 この前少し読んだところまで頁を開き、続きを読み進めていく。なかの広告は買ってすぐに捨てるはずの廣谷だが、この本には広告もまだ捨てられず、入れられたままになっていた。


 電車を降りて、階段を駆け上がる。待ち合わせの駅は乗り換え地点なこともあり、栄えていてそれなりに大きい。本来時間には余裕だったはずが、気づいたらぎりぎりになっていた。本を読むときはもうアラームでも設定しておくべきだ、と後悔しながら、待ち合わせの目印にしている時計台の下へと急ぐ。舞子がせっかく櫛でといてくれた髪も乱れていった。

 それでも一応待ち合わせ時間ぴったりに着く電車だったので、そう待たせてはいないはずだ。階段を上りきると時計台が目に入る。見回しながら近づくと、すでに鷹村が待っていた。聞こえないのはわかっているが、すみません、と言いながら軽く駆け足で近寄る。

 斜め後ろの方向から近づいたせいで、一メートル近く前に来るまで気づかなかったようだ。鷹村はびくりと体をはねさせたが、智枝子を確認してすぐににこりと笑った。

「お待たせしてしまって、すみません」

 手がいつもより大仰に、ぱたぱたと動いてしまう。鷹村はそれを見ていつものように、からからと笑った。先ほど向けられたのとは違って、本当に笑ってくれている、と智枝子はほっとする。その笑い方がうれしい。

『時間ぴったりですよ』

 正確には電車がぴったりにこの駅に着いただけで、待ち合わせ場所に来るのには若干遅れていたのだが、鷹村はそう言った。そうやって言われるとあまり謝るのもよくない気がして、智枝子もそれ以上時間については言わなかった。

 大学以外の場所で会うのは初めてだ。気持ちが落ちついてくると、恥ずかしさが襲ってきた。智枝子にとってあの大学はあくまでもバイト先であり、「るり子の勤める学校」なので、こうして普段の自分にとっての生活圏に鷹村が収まっているのが変な感じだ。

 じっと鷹村に見られているのに気づき、どきりとする。もしかして走ったせいで、髪が変な方向にはねたりしているのだろうか。あわてて手櫛を入れるが、鷹村はそれには反応せず、一人で納得したように頷く。

『いつもと雰囲気が違いますね。大学以外の場所で会っているからかと思ったけど』

 そういえば舞子に着せられた、もとい選んでもらった服である。鞄も通学用とは違うが、普段から使っているものなので智枝子のなかで違和感はない。靴も同様だ。ただ服だけが、いつもと違う。指摘されて智枝子を落ちつかなくさせる。自分より舞子のほうがずっとセンスがあるとは思っているが、普段着ていないというだけで、何かおかしいのではないかと感じてしまう。

 今すぐ鏡がほしい、と思いながら、言葉を濁す。時間がぎりぎりになるまで気づかず読書を続けてしまった数十分前の自分を叱りつけたい。

「変ですか」

『いいえ』

 他に言える言葉も見つからず聞くと、否定されてとりあえず胸をなでおろす。

『それもかわいいですね』

 では行きましょうか、と歩くように促され、駅に直結したショッピングモールに向かう。人が多いからなのか、鷹村は智枝子がいるかどうかを確認しつつも、基本は前を見て先に進んでいく。先日と同じく歩いている間は話すつもりがないようだ。

 智枝子はといえば、言われたばかりの言葉に混乱していたので、それで助かった。かわいい、という言葉にもそうだが、間違いなくそれ「も」と鷹村は言った。無意識のうちに頬を手で押さえる。わざわざそれ「は」と言うのも失礼な話なので、声にされたのならここまで気にしないのかもしれないが、普段助詞等を省略する、日本語とはまた独立した日本手話を使っている鷹村に言われると、変に意識してしまう。

 ムーヴィングウォークでは走らないでください、というアナウンスが聞こえてくる。鷹村が動く歩道に足を乗せると、智枝子も一列になって後ろにつく。鷹村は歩かず智枝子のほうを振り返った。

『お腹はすいていますか?』

 朝御飯を食べてから充分な時間が経っていたので、智枝子は頷いた。それで先に昼食をとることになり、レストランのある階へと向かう。その間もやはり、何も話さなかった。

 昼食には少しはやめの時間だったが、それでも混んでいた。ここは何度も足を運んでいるので、値段が高めのところ以外は、智枝子もだいたい食べたことがある。何がいいかと聞かれて、前においしくないなと感じた一店以外はどこでもよかったので、空いていたところに入ることにした。すぐに案内され、個室ではないが仕切りのある角の席に座る。

 智枝子は気に入りの店なのだが、定食はあまりうけがよくないのか、がらんどうではないにせよ大概いつも空いている。常に並んでいるのは野菜ビュッフェの店とイタリアン、あとは少し値の張る回転寿司で、小金の溜まっている主婦たちが多いのだろうと想像できた。実際このショッピングモールが狙っている年齢層の主軸は三~五十代の主婦だ。

 メニューを開き、じっと眺める。ここはけっこうな量で出てくるので智枝子でもそこそこ満腹感を味わえる。定食の種類が豊富なので、いつも悩むのだ。今日の朝はお味噌汁だったのでセットになっている汁は豚汁にするとして、夜は何なのだろう。唸るようにしながら考え、アジフライ定食にしよう、と顔を上げると、鷹村と目が合う。おかしそうに笑っていた。

 何を笑われているのかわからず見つめると、笑いを一旦収めながらも顔は綻ばせたまま、鷹村は手を動かした。

『あまりに真剣なものだから』

 すみません、と親指と人差し指で眉間をつまむようにしたあと、指を伸ばして前に出した。

 食べ物に関してはいろんなところで意外がられ、笑われているので珍しいことでもないのだが、またなんだか恥ずかしくなってしまう。今まで人に何を言われても気にしなかったことも、鷹村に言われると気になるから不思議だ。

 鷹村はとっくに決めていたらしく、店員を呼んで注文する。注文は智枝子がした。つけられる汁が味噌汁と豚汁と選べるのだが、言わなければ基本的に味噌汁にされる。豚汁にしますかと聞くと頷いたので、両方豚汁で頼み、メニューを机に置かれたスタンドに差し込んだ。

『遅くなりましたが、今日はわざわざ出てきてもらってすみません』

 先に言われてしまうと、同じ気持ちでも単なる返事でしかなくなってしまう。メールしますと言った鷹村に煮えきらない態度を見せたのは智枝子であるのに、申し訳ない。

「次が『不如帰』だという話、廣谷さんも「ほととぎすだから」と言っていました」

 合っていましたか、と鷹村は笑った。知識として持っていたとはいえ、よく廣谷と恋が結びついたなあなどと失礼なことを考える。

 他に教えてもらったほととぎすの話を挟みながら、以前にも盗まれたことがあるということは伏せておく。調べてみれば、ほととぎすというのは夏の季語で、橘や卯の花と一緒に詠まれることが多いらしい。昨日廣谷と行った店の名前が橘庵だったというのは偶然にせよ、縁がある。

「鷹村さんも廣谷さんのゼミだと言っていましたが、廣谷さんって人気なんでしょうか」

 それとも一部が熱狂的なのだろうか。本を盗むくらいの。全体的に見れば人気はないが、一部の層から手堅い支持を受けているというのは何においても別段珍しくはない。特に廣谷はどう考えても一般受けがよいほうではないだろう。

『半々ですね。ゼミの割り振りはそれまで取った授業や研究内容で決まるので、学生側の意思というのはほとんど反映されませんが、僕は希望して廣谷先生のゼミに入っています』

 そういうものなのか。智枝子の学部ではゼミというものはなく、代わりに研究室に配属される。来年度、つまり三年生から各研究室を回り、自分の興味ある研究を見つけて希望する。

 ともかく学生から廣谷への支持は決して低くないようだ。それでも鷹村が廣谷のゼミを希望したというのは正直意外である。

「研究したいことが廣谷さんの研究に近かったんですか」

『それもあります。僕がやっているのは和歌史なので廣谷先生の分野で、波間先生や他の先生方とはかぶりません』

 先日鷹村から和歌と短歌について教えてもらったが、あれは鷹村自身の研究内容でもあったからこそ詳しかったのか。余計な言葉を使わないよう、丁寧に知識を正されたのを思い出す。

『それに廣谷先生の人柄がすきなので』

 鷹村が言うと、それぞれ頼んだ料理が同時に運ばれてくる。理由を聞きたい気持ちはあるが、それ以上にほかほかと湯気を立てている料理を前にして手を合わせないわけにはいかない。智枝子はいただきます、と両手を揃えて言い、鷹村は両手を合わせて小さく頭を下げた。

 食べ物を前にすると何をしていても意識がそちらに持っていかれるのは反省しなければいけないかもしれない、と昨夜のことも合わせて思いながら、それでも温かいものは温かいうちに食べなければ作った人にも食べ物にも失礼な気がして、なかなかやめられない。

 アジフライはからりと揚げられていて、気づけば一口大に箸で分けたりせず、一枚をそのまま持ちあげて噛みついていた。フライは断然このほうがおいしいと思っているからだが、マナーとしてはあまりよくない。噛みついた一枚に醤油を数滴垂らしてかじると、味が変わるだけでなく醤油の風味が鼻腔をつついてそれもおいしい。本当は料理と一緒にタルタルソースがつけられているのだが、ソースの冷たさがフライのよさを減少させるように思えて、智枝子は手をつけない。同じソースでも、刺身につけても揚げ物にかけても香ばしくおいしい醤油は偉大な調味料だ。普段は西日本の醤油で慣れているので、東の醤油は智枝子には少しからいが、あれもあれで悪くない。

 フライを茶碗の上に置いたときに、うっすら醤油の味が米につくのもたまらない。ここの店の茶碗は女性には大きめらしいが、智枝子には関係のない話だ。フライと合わせて食べ進めていく。豚汁も具だくさんで体が温まる。

 ふと目線を上げると、鷹村がこちらを見ていた。何かに夢中になって他がおろそかになる癖をいよいよ直したい。まさについさっき意識したばかりだというのに。今度こそはっきりと反省した。

 鷹村は手に持っていた箸と豚汁を一旦置いて、いつもの笑いも見せず、真顔のまま手を動かした。

『こっちも一口食べますか?』

 示された豚バラ大根に、箸を伸ばしてもよいものかどうか考える。るり子や舞子とならお互いの頼んだものを一口ずつ交換というのはいつものやりとりであるし、廣谷なら食べきれないので食べてくれの合図だ。表情らしい表情があまり出ていないからこそ、対応に困る。女の子らしさを――とまで考えて、無理に繕っても仕方がないなとすぐに思いなおした。だいたいこれまで意識してこなかった「女の子らしさ」なんてわかるはずもない。そんなことより、取るかどうか考えて固まってしまったこの迷い箸のほうが恥ずかしい。いただきます、と一言添えて、大根を一口分もらう。

 充分に煮込まれた大根に、思わず花を飛ばしてしまう。味のしみ込んだ大根とはどうしてこんなにおいしいのか。そもそも大根はどうして大根のよさを残しつつ、こんなに味をしみ込ませることができるのか。

 食べながらはっとして、こっちも一口どうですか、とフライの乗った皿を少し鷹村に寄せるように動かす。二枚あってよかった。さすがに直接かじったものを渡すことはできない。鷹村は少しの笑みとともに人差し指を一瞬立てて、智枝子の皿から一口切りとって自身の皿へと移した。人差し指を立てるだけだとただの数字の「一」だが、彼が伝えたかったのは一口だけ、という意味だろう。

『おいしいですね』

 智枝子からもらった一口分のアジフライを口に含みながら、鷹村は言った。智枝子も頷いて、そのあとは手話で会話を交わすこともなく、食べることに集中した。鷹村は食べている音をほとんど立てず、彼の話し方そのもののようだった。箸の持ち方も茶碗の持ち方もしっかりしていて、きれいな食べ方だなあと感心する。

 茶碗についた米粒まできちんと食べおわると、皿は引かれ、温かいお茶が出された。向かい合わせに座っているからか、長居をするつもりはないのか、鷹村はこの前のようにノートを取り出したりしなかったので、智枝子は声と手話で話しかける。

「廣谷さんって、授業ではどんな感じなんですか」

 少なくとも智枝子の前ではちゃんと仕事をしているのかと心配になるくらいであるし、るり子に怒られているところを何度も見ているので、どうにもぴんとこない。慕われているというのも、まったく理解できないというわけではないが、一般的なところを考えれば多少の疑問だ。半々という割合だけはなんとなく納得なのだけれど。むしろ智枝子に接してくるときのような、露骨な贔屓を学生にしないのはある意味平等と言えるのかもしれない。

『淡々とした先生です。たまに雑談が入るくらいで授業は基本的に脱線せず、試験もきちんと授業を受けていればわかります』

 それは鷹村だからではないのだろうか。るり子がきちんと勉強しているのがわかると褒めていたくらいだから、本当に優秀なのだと思う。

『捕まえるのが難しいですが、質問をすればすぐに答えてくれますし、その場でわからなければこちらが忘れるような些細な疑問も後日解消してくださいます。僕は紙に質問をまとめて渡して、答えを返してもらって、さらにそれを読んでわからなければ質問しています』

 初めて面と向かって話したとき机に置いていた紙か。翌日質問を取りに来たと言ってるり子の研究室にいた廣谷を捕まえに来ていたし、そのあともしばらく廣谷の研究室から出てこなかった。

 こうやって聞くと、指導熱心ではないにせよ丁寧ではある。質問に来る学生を適当にあしらう教員だっているだろう。

『あとはあの性格なので』

「ゼミの受け持ち学生の名前も覚えない」

 そうです、と鷹村は笑った。怒ってもよいところだと思うのだが、むしろ愉快そうですらある。

『僕個人の話になるのですが』

 そこで一度お茶を飲む。お茶はまだ熱そうで湯気が立っていたが、平気らしい。

『僕の基本的な覚えられ方は、「耳が聞こえない子」なんです』

 左耳につけられている補聴器は、向かいに座っている智枝子からは髪に隠れて見えない。向かいではなく隣を歩いていても、意識していなければ気づけないくらい、髪がほとんどを覆い隠している。

『名前よりもまずそう覚えられますし、こちらが知らなくても相手は耳の聞こえない人だと知っていたりもします。僕自身がどうということよりも、その情報だけが一人歩きしているようなものです』

 身体的な障害は周りにあふれているわけではない分、そこで記憶がとまってしまうことも多い。智枝子も舞子に気遣うことは大事だが、障害ばかりに注目してはいけないとさんざん言い聞かせられて育ったからこそ、あまり意識しないでいられる。けれどそうでなければ、名前や性格よりも先にそちらの印象が残ってしまっていてもおかしくはない。

 もう諦めたことで、それが普通なのですが、と続ける鷹村の表情は、どこかくもっている。さんざん言われて、さんざん経験して、さんざん抵抗して、それで疲れてしまった人の顔だ。諦めたというよりも、諦めなければ潰れてしまいそうだったのだろう。

 小学生のころに、同級生と二人で目を瞑ったまま行動するという遊びをしたのを思い出した。片方が目を瞑り、もう片方が誘導する形でグラウンドの端から端までを歩くというだけの遊びだったのだが、これが本当におそろしかった。本来なら見える目を開けてしまおうかと何度思ったかわからない。小学校のグラウンドなので、たかだか百メートルと少しだと思うのだが、あれがもし一人で、それも一生続くのかと思うと、ぞっとする。

 鷹村の場合は目ではなく耳が、その状態になったということだ。どういう風に聞こえなくなったのか、どれくらい聞こえなくなったのかを智枝子は知らないが、当り前のように聞こえていたものが聞こえなくなる恐怖は、想像してもわかるものではない。ましてや、変化した周りの態度だなんて。

『それが廣谷先生はおかしな人で、何度言っても覚えないんです』

 言いながら本当におかしそうに、うれしそうに鷹村は笑った。

「耳が聞こえない、ということを?」

『そうです。この前見せた遠隔の補聴器も、つけてくれと言われるからつけているだけ、といった感じで、あなたはいつも両端に誰かが座っているから顔を憶えました、なんて言うんです』

 授業を受けるとき、補助がつくと鷹村は言っていた。両端に座っているというのが授業を補助してくれているボランティアの学生なのだろう。毎時間のことだろうし、廣谷の講義もいくつか取っているのだと思うのだが、それでも記憶はそこで留まるのか。もはや才能のような気がして、智枝子は変に感心した。

『四年目になって、やっと憶えたようです。昨年度まではなぜ毎回ノートで話すのかを不思議そうに聞いてきていたので』

「そういえば鷹村さんのことを、名前は何だったかと言いながら、「文章のきれいな子」と言っていました」

 名前を憶えていないときに廣谷はよく身体的な特徴で表現する。鷹村の耳が聞こえない、というのはそういった意味ではもっとも言いそうなことであるのに、そんなことは一切言わなかった。やっと憶えたということは、今はもう記憶しているはずなのだが。

 文章のきれいな子、という表現に、鷹村は少しだけ照れくさそうに顔をそむけた。どうも余裕がなくなると笑いが顔から消えるらしいと学ぶ。

『単純に興味がないだけなのかもしれませんが、僕にはそれがとてもうれしかったんです』

 やがて顔をそむけるのをやめ、鷹村は目線だけを下に落しながらそう言った。

 何もかける言葉が見つからない。湯呑みを両手で包みこむようにしても熱くなくなったお茶を、智枝子はゆっくりと飲みほした。

 そろそろ出ましょうか、と言われ、頷く。ぱっと伝票を持って立ちあがった鷹村に慌ててついていき、今度こそはお金を出す。智枝子の顔からかたくなな気持ちを感じ取ったのか、鷹村は一度出さなくてもいい、というジェスチャーをしたあとは、もう無理にしまわせるようなことはしなかった。それでも端数分多く鷹村が払ってくれた。

 これからどうするのだろう、と智枝子が思っていると、行きたいところがあると鷹村に言われ、ついていくことにする。昨日鷹村が言っていた、話そうと思っていたことというのが気になるが、今日話してくれるのには間違いないだろうから、無理に聞きだすことはしない。

 エスカレーターをいくつか降り、自然食品の並ぶ店へとたどりつく。店内には主婦が多くおり、繁盛しているようだ。その店を少し見回しながら、鷹村は進んでいく。智枝子もそれに従った。

『姉の誕生日が近いので』

 目当てのものは決まっているようで、何かを探すようにしながら言われる。お姉さんがいるのか。言われてみればなんとなくわからなくもない。しっかりしているのでいわゆる上の子かと思っていたのだが、姉がいる図も想像できる。

「お姉さんがいるんですね」

『二つ上が一人。五つ下に妹もいます』

 五つ下ということは、高校二年生だろうか。姉妹の間に挟まれている鷹村を想像して、あまりにしっくりきたので変に頷いてしまう。

『山宮さんは?』

「弟が一人。一回り下で」

 まだ小学生です。そう言うと、鷹村は驚いたように一回り、と繰り返した。結衣が昔からるり子と舞子の姉妹にあこがれていたらしく、絶対に智枝子と一回り下の妹か弟をと長いこと思っていたと聞いた。欲を言えばるり子と舞子と同じように姉妹がよいと考えていたようだが、「妊娠したらどっちでもよくなった」と言っていた。結衣と舞子の場合は養子縁組で戸籍上は義理の姉妹になっている、内縁状態であるといっても、男女の夫婦のように自然妊娠ができるわけではない。子どもを身に宿せただけありがたかった、と二人の母は口をそろえてよく言っている。

 結局ほとんど店内を一周して、鷹村の目当てのものが見つかった。生姜シロップと飲むお酢の生姜味で、何かを言う前に『最近はまっているらしいんです』と言われてしまう。そのままなんとなく会計までついていくと、鷹村はレジの表示を見ながらお金を出した。

「ご自宅用ですか?」

 忙しいのか愛想がないのか、マニュアル通りの言葉を口にしながらも、店員の顔は手元の商品に向けられている。背の高い鷹村からは口の動きが見えない角度だ。それでも何かを言ったことはわかったらしく、鷹村が少しだけ困ったように眉根を寄せたのがわかった。

「あの、プレゼントって包装してもらえるんですか?」

 思わず口を挟むと、はい、と店員は顔を上げて、ラミネートされた紙を取り出した。

「袋のものと、箱に入れるものとありますが」

 聞いたのが智枝子だったせいでそれも鷹村のほうは向いていなかったが、今度は読みとれたらしい。鷹村が箱のほうを指差すと、少々お時間いただきます、とにっこり笑顔を向けられる。

 おつりも受け取って、レジからは少し外れる。並んでいた別の客がまた会計を始めた。

 じき包装された商品が手渡され、二人で店を出る。とりあえず足を運びながら、鷹村の袖を引っ張り、目線がこちらに向いたのを確認して、智枝子は「すみません」と告げた。

「余計なことだったでしょうか」

 鷹村はそれには答えず、ふわりとした微笑みを口元に浮かべた。

『ありがとう』

 笑んだまま口だけを動かされ、少しだけ泣きそうになってしまう。それがなぜなのかはわからなかった。別に鷹村の笑みは不自然なものではなかったし、手話ではなかったのはただ単に、おそらく片手に今しがた買ったばかりのプレゼントを持っているからだと思うのだが、それでもいろんな気持ちが混ざり合って、自分でもうまく消化できない。

 きっと鷹村ならこの表情から読み取ってしまう。隠したい。気づかれたくない。そう思って俯きたくなったが、ぐっと我慢して前を向く。それから少しだけ歩き、その間視線を感じたが、鷹村は何も言わなかった。

「あそこで座って話しませんか」

 ショッピングモールを半周ほどすると、机つきの椅子がいくつか置いてある広場にたどりついた。小さな子ども連れが多く座っているなか、二人で腰を下ろす。

 丸テーブルに四方椅子が置いてある。智枝子が先に座ると、鷹村は向かいではなく隣に座り、この前と同じノートとペンを鞄から出した。前回は鷹村が使っていた、智枝子の持っているペンと色違いのものを渡される。

『またお願いしてもよいですか?』

 もちろんだ。智枝子は頷く。

 そうだ、と鞄から昨日廣谷に書いてもらったリストを取り出す。紙の下のほうに、小さく「不如帰?」と書きこんで、ノートの上のほうに開いておく。

「昨日廣谷さんに書いてもらったやつです。」

 先に智枝子が書きこんで、リストについてと、聞いた話を続けていく。特に『万葉集』に二重線を引いている理由だ。鷹村と同じ学年というのが伝えるに忍びないが、言いづらいとずるずる引きずるより先に言ってしまったほうが楽である。源氏物語の授業の話もして、智枝子の説明と上に置いてあるリストの両方に鷹村は目を通した。

「質問なのですが、教員の会議の時間を、学生は把握しているのでしょうか。」

「していないと思います。僕が知らないだけかもしれませんが、部屋が全部閉まっていれば会議かな、と判断する程度です。会議かと思ったら実際は違う場合も多いです。僕は廣谷先生のゼミに入っているので、基本的に用があるのは廣谷先生だけなのですが、鍵は閉まっていないことのほうが多いですし、いるかいないかの判断は電気でしています。」

「電気?」

 各研究室のドアの上はガラスになっていて、壁にはめられているだけなので開けたりはできないが、電気がついているかどうかはわかると言う。鷹村の説明によれば、廣谷は鍵はかけないものの、長時間空けるときは電気を消してどこかに行くため、そのとき会議か何かか、と判断するとのことだった。

 廣谷が会議や授業で先に出て行ってしまった場合、智枝子は電気も鍵もそのままに出ていくのであまり気にしたことがなかった。なるほど言われて思い返してみれば、ドアの上にはガラスがはめられている。廣谷がるり子に引きずられるようにして会議に出て行ったあと、鷹村が入ってきたのはそういう理屈があったのか。

「鍵は開いているけれど、電気はついていない、というときを狙っているのかもしれませんね。」

 鷹村からすれば当り前のことだったかもしれないが、新しく得た情報をもとにそう書きこむと、返事は書きこまずに、鷹村はただ頷いた。ペンを一度手元でくるりと回すと、「僕が昨日伝えようとした話というのは」と書き綴る。

「僕が昨日伝えようとした話というのは、犯人がわかった、ということです。」

 反射的に鷹村に視線を向ける。突然話が進みすぎではないか。鷹村はそのままノートに書きこんでいるため、目は合わなかった。無表情のまま、手をとめずに進めていく。それを見て智枝子もおとなしく続きを待つことにして、またノートに目を落とした。

「今の山宮さんが教えてくれた情報も、おかしなところはありません。四年生の、廣谷先生のゼミの子です。」

 つまり鷹村の同級生で、同じゼミの子ということになるのだが、鷹村の表情からは何を思っているのか読みとることはできなかった。

「僕も廣谷先生の授業はほぼすべて取っているはずですが、そのどの授業でも彼女は一緒でした。近くに座ることもありましたし、ノートを借りたこともありますが、まじめに授業を受けて、きれいにノートにまとめている子です。だから持ち込み可で、授業をまともに受けていればまず落ちることはないだろう廣谷先生の試験も、不合格になるわけはないのですが」

 そこでいったん手がとまり、悩むように中指で二回ノートを軽く叩いた。

「不合格にはなっていないのですが」

 文章の下に新しく書きなおして続ける。

「何度も受けるんです。取ったはずの授業を、何度も。もちろん二重単位にならないよう、単位自体は一度しか取れないのですが、毎回出席して、まじめに授業を受けるんです。」

「他の単位がたりなくはなりませんか。」

「一度取った廣谷先生の授業は、出席していようと実質聴衆生ということになりますから、別に問題はないのではありませんか。他の時間に詰め込めば卒業単位は取れるのでしょう。ただ年次を重ねると別の必修が被ったりして、そういうときは必修を取らざるをえませんから、目に見えて機嫌が悪くなっていて近寄りがたかったです。」

 さすがに卒業はしなければということだろうか。そこまでくると若干鬼気迫るものを感じて、昨夜の廣谷の話をまた思い出してしまう。「一部の熱狂的ファン」がいるのだろうかとは思ったが、少々熱狂的に過ぎる。

「廣谷先生が鳥のホトトギスの話をしたことがあって、」

 どこから話したものかと、鷹村は考えつつ書いてくれているようだった。もしかするとリストなどはもういらなかったかもしれない、と智枝子は思いながら、続きが書かれるのを待つ。

「先程山宮さんも仰っていましたが、正岡子規を知ってこの道を選んだこと、子規とはホトトギスであること、ホトトギスは夏の夜に黄泉の国に渡る鳥だということ、恋の鳥であること。」

 思わず鷹村の大きな黒目を目線の端で捉える。一重で切れ長で、鋭い印象を与えそうなものなのに、黒目が大きいためにどこか愛嬌を感じさせる、その目だ。もっとも鷹村がよく笑うからこその愛嬌で、いまこうして黙々とノートに書きこむ姿からでは、やはり鋭い印象のほうがつよい。愛嬌を感じながら、射るような、などと反するといってもよい感想を抱いてしまう。

「和歌だけではなく、徳冨蘆花の『不如帰』にもそれが感じられる、と。文庫で出ているから気が向いたら読むように廣谷先生は薦めていました。次は『不如帰』ではないかと僕が思うのは、それも一つの理由です。」

 それは智枝子にわかるはずもない話だ。廣谷はその話を憶えているのか知らないが、昨夜はそんなことを聞かなかった。鞄のなかに入れてきたその『不如帰』を思い浮かべる。なんだかおそろしいものを預かってしまったような心持だ。

 鷹村は一度ペンを置き、何度か握ったり開いたりした。書く量が多いので疲れたのだろう。マッサージでもしたいところだが、それはさすがにでしゃばりすぎかとじっとするしかない。

「その子が廣谷先生をすきなのは明白です。」

 再びペンを持った鷹村が書いた文字に、吸いこまれるようにして目線を注ぐ。すき。小さく口のなかでころがすように、声に出さずに呟いた。それには気づかず、鷹村はノートを一枚めくる。

「何冊も盗むということは、いよいよ見境がなくなってきているのでしょう。これまでのように、廣谷先生の部屋に一人でいるということはしばらく控えたほうがよいと思います。」

 こちらに話が飛んでくるとは思っていなかった。ぱちぱちと瞬きをしてしまう。

「だけど、まだ可能性ですよね?」

 そういえばさっきもわかった、と断定していた。誰なのかは知らないが、現場を取り押さえたわけでもあるまいし、犯人だと断言できる要素がどこかにあったのだろうか。授業中のことと同じく、智枝子があの大学にいない間に。

「違います。間違いなく彼女です。」

 繰り返される。むやみに思いこむようなタイプではない――と思うのだが、ここまで言われてしまうと、少し混乱してしまう。廣谷の本がなくなっているということを話したのはたった二日前のことだ。智枝子が知ったのも同じ日である。それがこの短い間に、どうしてそれがわかったのか。

 疑うわけではないのだが、据わりが悪い。どう言ったものかと考えていると、様子を察したらしい鷹村が、小さな溜息のあとに続けた。

「ただの偶然なのですが、昨日山宮さんと別れたあと、見せてもらったんです。彼女は研究室の隅で隠れるようにしながらもうれしそうに『古今和歌集』の文庫本を眺めていて、「書きこみ量がすごいの」と行間に書かれた文字を指でなぞっていました。明らかに彼女の字ではありませんでしたし、見覚えのある文字でした。これに近い」

 書きこむと、ノートの上に置いてあるリストを指差した。そこには廣谷が書いてくれた文字が並んでいる。

 本に皺が寄ったり、破れたりしても気にしないというのは智枝子にとって信じられないことであるが、それともう一つ、廣谷の本の扱いで真似できないと思うのが、本への書きこみだ。古書だろうが文庫だろうが気になったものは気になったときに書きこむので、内容に関することだけではなく、たまにまったく関係ないことがメモ用紙代わりに書かれていたりもする。

 自慢したかったのだろうか。手元に廣谷の本があるということを。鷹村も智枝子から話を聞いていなければ、借りたのだろうかと思っておそらく終わっただろう。

「彼女かもしれない、とは思っていたのですが、確信の持てないことを言いふらすのもどうかと思いましたし」

 それが帰る直前に、荷物を取りに研究室に入ったらそれを見せられたということか。昨日のコンビニからの帰り道、言葉を濁されたことを思い出す。あの時点ですでに疑っていたのだ。

「彼女は廣谷先生に名前まで憶えられて、好意を向けられている山宮さんのことを快く思っているとは思えません。」

 九十分間の授業が一応の終わりを見せたあと、その「彼女」は本を取りに行くと言って研究室に向かったらしい。それを聞いて、もし彼女が犯人だとすれば、今が盗みに入る絶好の機会であることは間違いない。他の教員も卒業論文の指導の授業であるから戻ってきている可能性は低いし、何よりいるのかいないのかわかりづらい部屋の主は目の前で指導をしていて、研究室にはいないとはっきりわかっている。それなのにそこに智枝子がいれば、ごまかすだけで立ち去るかもしれないが、下手に刺激してしまうと何があるかわからない。それで慌ててメールを送った、ということだった。やはり鷹村も急いであの場に来てくれたのだ。別にコンビニに用もなかっただろうに、ただ智枝子を廣谷の研究室から出すためだけに。

 授業はもう一階分上の階の、図書館側の部屋でやっているから、階段で鉢合わせるということもないだろうと鷹村は踏んだらしい。そこまで考えてくれていたのかと、智枝子は感心するしかない。

 しかしそれなら、その子が入ってくるところを目撃したほうが犯人特定にはつながりやすかったのではないか。そもそも犯人がその子だとわかっていない時点で、そこまでする必要はあったのだろうか。

「可能性があるのに、山宮さんを危険にさらすのは違うでしょう。」

 本を盗んだ犯人ではないにせよ、彼女が廣谷に心酔しているのは見てとれることだ。感情の起伏が激しく、激情しやすい性格であることも知っている。そこに本来誰もいないはずの廣谷の研究室に智枝子がいれば、彼女がかっとなってもおかしくない。

 さすがに考えすぎではないかと思ったが、鷹村が真剣なので何も言い返せない。その子の性格を知っているのは智枝子ではなく鷹村だ。

「廣谷さんの研究室に一人でいるだけで、危険なのでしょうか。」

「盗んでいるのが彼女とわかった今は、あまりお薦めしません。」

 含みのある言い方が引っかかる。殺人犯でもあるまいし、本来誰かが常に部屋にいたほうがさらなる盗みを防げるように思えるのだが。納得しきれないままわかりましたと書きこんで鷹村を見ると、いつもの笑みを口元に浮かべていた。何かをごまかされているとは思いたくないけれど、ふとその笑いが気になってしまう。

「鷹村さんはいつも笑っていますね。」

 話の流れに関係ないことはわかりつつ、一度書き始めてしまうと手がとまらなかった。まして最初に名前を書いてしまったので、変に消したりしても失礼だろうか、と余計なところにまで頭が回ってしまったのもある。

 るり子が言っていた言葉が頭をよぎった。確かに智枝子が鷹村を信用できると感じたのは、鷹村が初対面のときから笑顔を見せてくれていたからかもしれない。

「そんなことはありません。」

 脈絡ない智枝子の言葉にも平常通りの反応が返ってきた。

「敬語も、こちらが年下ですし、なくしてもらってもと言おうと思っていたんです。」

 変に手が震えた。おかしな言い方をしていないか、その前におかしなことを言ってはいないか。こちらが協力をお願いし、それに対して応えてくれているのに、話題を変えてしまったことへの身勝手さが恥ずかしくなってきた。

 口に出して話す分には簡単で何でもないことでも、書いて伝えるのは手間だし、億劫だ。手話はそれよりもはやく会話ができるが、鷹村にはどうも積極的に使おうとしている雰囲気がない。店の角の席であったり、学校のどこかであったり、そういったあまり人目につかないところ以外では、筆談ができるならそちらを選んでいるように思う。人前で手話をすることをどこか拒否しているところがあった。

 ただ単に智枝子が知り合ったばかりで、智枝子が思うより鷹村からすれば親しくなく、気を許していないだけなのかとも思ったのだが、それにしては距離が近い。

 ふいに耐えられなくなって、ごめんなさい、と続けた。

「話の腰を折ってしまいました。」

 犯人がわかれば、あとはそれに対する警戒と、盗まれたものの回収をしなければならない。声をかけて素直に申し出てもらえれば楽なのだが、もしうまくいかなかった場合どうなるのか。同級生でゼミも一緒という鷹村よりも、当事者の廣谷か、部外者の智枝子が何かしらの行動を起こしたほうがよいような気はする。

 それでも、廣谷に知れてしまったあと、その子の処分はどうするのだろう。四年生だと言っても、卒業までまだ一年近くもあるというのに。

「山宮さんも僕に対して敬語は必要ありません。」

 目に入っていないはずはないのだが、智枝子の謝罪などなかったかのように鷹村は書きこんだ。

「そういうわけにも。迷惑をかけているのはこちらですから。」

「僕に教えてくれたのは山宮さんですが、問題自体は廣谷先生のものでしょう。関係ありません。」

 そう言われてしまうと、そうだとしか言いようがない。それでも鷹村が年上であることに変わりはないし、智枝子が伝えなければ、こんな風にわざわざ休日に出てきてもらったり、巻き込むことはなかった。もっとも、協力を仰がなければ犯人がわかるのはもっと遅かっただろうけれど。

「ですが」

 ともかく理由がない。反論を続けようとすると、その横でそれよりもはやく鷹村が書きこんでしまう。

「山宮さんが敬語をなくしてくれるのなら、僕もやめましょう。」

 ノートから顔を上げると、にっこりと笑った鷹村と目が合う。その笑い方が昨日見たのと同じ、いたずらっこのような笑顔だったので、思わずそのまま右手の甲を左の頬に当ててこすった。「ずるい」

『ずるくない』

 智枝子と同じように右手の甲を左の頬に当ててこすったあと、手の平を前に向けて二、三回動かした。

「ずるいです、それは」

 繰り返しても、小首を傾げられるばかりだ。やがて先ほどと同じ答えを返される。

『ずるくない』

 少しの間抵抗するように見ていたのだが、鷹村はしれっとしていつの間にか完全に智枝子の優位に立っている。形勢が逆転するとも思えず、そんなことをしているとなんだかこんなことでむきになっているのがおかしくなってしまって、ふっと表情が崩れた。そんな自分に驚いて、反射的に口元を手の甲で押さえる。

「わかりました。それじゃあ、そうする」

 わかったと言いながら敬語が混ざりつつ、智枝子は口元を隠すのをやめて答えた。

 すると鷹村が真顔に戻って、こちらを見ていることに気づく。じっと智枝子の顔を覗きこんでいるので、吸いこまれそうだ。その目には本当によわい。月並みな表現だが、何か魔法でもかかっているのではないかと思う。

「何かついていますか」

 おずおずと聞くと、鷹村はゆっくり瞬きをして、笑った。目を細めて、少しだけ眉をハの字に寄せて。口元は手で隠すようにしていたが、覆いきれていない部分から口角が持ち上がっているのが見えた。

 その目の奥がかすかに揺れた気がする。

『また戻ってる』

 一瞬何が、と思ったが、口調のことだ。ある程度は読唇もできると言っていたから、口の動きでわかったのだろう。完全に抜けきるまでには少し時間が必要のように思えた。

「廣谷先生には僕が伝えます。その後のことは先生に一旦任せたいと思いますが、どうでしょうか。」

「それで良いと思います。」

 またノートに書きこんだ鷹村の言葉に、智枝子は頷きながら続ける。解決しようと奔走しているのは確かだが、問題は廣谷のことなのだから、ここでどうこう言うよりもそのほうが適当だ。

「鷹村さんも、敬語のままじゃありませんか。」

「書き言葉はどうにも癖で。気をつける。」

 揶揄するつもりで書いた言葉にまっすぐ返されてしまった。

 口を動かさない鷹村の口調は、想像するか、文面から知るしかない。こうして目にできると素直に心が弾む。

「移動しようか。」

 時計を見れば、けっこうな時間が経っている。ずっと書き続けるというのもちょっとした労働だと智枝子は思う。時間も手間もかかるし、手も疲れる。頷くと、鷹村はもうそろそろ頁も終盤になっていたノートとペンを仕舞い、智枝子はリストの紙を仕舞った。

 立ち上がると少し体がふらついた。血のめぐりが悪くなっていたのだろう。読書に夢中になったあとよくなる感覚だ。特にその様子を表に出したつもりはないのだが、鷹村はそれすらも気づいて、首を少し傾げながら親指以外の四本の指先を、左胸と右胸に当てた。

「大丈夫」

 口でも答えながら、同じように左胸、右胸に四本の指先を当てる。対する鷹村は平気そうだ。それともそう見えるだけか、智枝子からするとここまでの間、鷹村はよわった部分を一切露わにしていないように思える。

 今度は目的があるのかないのか、お互いなんとなく確認もしないまま歩いていく。大きなショッピングモールなので、店のディスプレイを横目に見ながら歩くだけでもなかなかたのしい。普段は目的を決めて出かけ、用事が済んだら帰るのが智枝子の常なので、こうしてゆっくり見回すことはあまりない。何度も来ている場所であるのに、なんだか新鮮だ。

 なんとなくでも特に距離が乱れることもなく、気づけば本屋の前にいた。二人で顔を見合わせ、相好を崩す。

『入ろうか』

 口だけを動かし、鷹村は言った。少しずつ口だけで伝えてくれる回数が増えている。やはり普段、友人たちとはそうして話しているのだろうか。短い言葉なら、読唇は案外容易だ。

 本屋に足を踏み入れると、話題の本、と書かれた棚がまず目に入る。新刊や、映像化された書籍が主に並んでいたが、本屋のおすすめ本も一緒に置いてあった。

『山宮さんは、本屋といえばまずどのコーナーに行く?』

「新刊棚から見て、そのあとは暮らしの棚とか、写真集とかかな」

『暮らしの棚?』

 すでに手話に戻った鷹村が、不思議そうな顔をする。

「生活に関する本というか、エッセイというか、どう暮らしていくか、みたいな……」

 聞かれると確かに、あれはどういうジャンルなのだろうか。より豊かな生活をするために、心身ともに健康でいましょう、という雰囲気だけはなんとなく漂ってくるのだが、はっきり説明ができない。

『見るのにわかってない』

 からからと笑われる。恥ずかしさに、つい言い訳をする。

「見てもらったらそのなんとなくな感じがわかるから」

『じゃあ行ってみようか』

 案内よろしく、と鷹村が智枝子のあとに続くようにして先を促す。この本屋だとどこらへんだったか。智枝子が歩き始めると、視線とともに、ひそひそとした声が耳についた。

「あれ、手話かな? なんか手動かしてたね」

「男のほうが聞こえないのかな。せっかくかっこいいのに、かわいそう」

 思わず鷹村のほうを見る。ぶしつけな視線は感じていたようで、横目でそちらを見ていたが、智枝子に気づくと「なに?」と問うようにいつもの笑みを浮かべた。少し距離はあったし、話していた二人の手が口元にいっていたのでさすがに読唇はできなかったはずだ。

「たぶんこっちだったと思うんだけど」

 何も聞こえなかった。と、思った。手話が物珍しいのはわからなくもない。だから視線を受けることもあるだろう。鷹村の耳が聞こえないのは事実だ。けれどそれは彼女たちには関係ない。智枝子もこの前教えてもらったこと以外、深くは知らない。それでもかわいそうなんかでは、決してない。

 だから何も聞こえなかった。

「間違っていたらごめんね」

 鷹村はにっこりと笑った。何を言われていたのか正確にはわからなくても、察したかもしれない。けれど智枝子には何も聞こえなかったので、鷹村の様子も変わらなかった。

 一度通り過ぎてしまったが、なんとか棚にたどりつくことができた。「生活・暮らし」と書いてある。本の並びを見て、鷹村は智枝子がうまく説明できない理由を理解したらしい。確かにこれは、と口元に手をやって眺めていた。一時期はやったためか、DIY関係の本が別の棚にあったが、以前は一緒に並んでいたので、なおよくわからなかった。

 理想の暮らしというイメージに合うのか、全体的に白い背表紙のなかから、鷹村は一冊を手に取ってぱらぱらとめくる。

『普段まったく読まない類の本だ』

 だろうなあ、となんとなく感じる。基本的には自分自身で出来る限り質素に、必要品を手作りしたり、菜園をつくったりという、ある程度心身ともに健康で、安定した暮らしをしていればそうしたいところだけれど、という内容のものが多い。智枝子自身、読んでも別にその通り行動するわけではなく、憧憬を抱くでもないのだが、人の暮らしを垣間見るのがおもしろくて読んでいる。

『ここらへん、すきそう』

 と、鷹村が指差したのは食べ物に関する題名の本が並んでいるところだ。まったくその通りなので、静かに頷くしかない。食べ物エッセイやレシピ本ともまた少し異なる印象だが、両方を混ぜているような内容も多い。智枝子の反応を見て、鷹村はからからと笑った。

『とてもおいしそうに食べるから、見ていて気持ちよかった』

「それは本当においしかったから」

 去年の新歓で、話すこともなく黙々と食べていたら、「つまらない?」と声をかけられた記憶が思い起こされた。そこそこの付き合いもあり、さんざんこちらを観察している廣谷が智枝子の表情を家族に近い感覚で読みとれるのはわかるのだが、知り合ったばかりなのにと鷹村にはまだ少し驚く。他の人よりは機微に気づくとは言っていたが、それにしてもすごい。今までそんな人が周りにいなかっただけに、なおさら感心してしまう。

「鷹村さんは、どこの棚に行くことが多いの?」

 語尾がたどたどしくなってしまう。敬語をやめることがこんなに難しいとは。

 導かれるままについていくと、「俳句・短歌」と書かれた棚にたどりつく。壁側にあり、もしかしたら前を歩いたこともないような場所だったので、物珍しく見渡す。横の棚は「詩」と書かれてあった。

「あまり来たことない」

 智枝子の言葉に、だろうね、と鷹村は返した。先ほど智枝子が思ったことそのままである。同じように本がすきでも、ジャンルは多岐に渡るし、案外行く棚も決まっていたりするので、こういう交流はたのしい。

『研究しているのは和歌史だけれど、好んで読むのは現代短歌』

「現代短歌」

 あまり耳にしない言葉に、繰り返す。智枝子が知っているのはせいぜい俵万智のサラダ記念日くらいだ。本棚を眺めてみると、北原白秋や石川啄木など、近代の歌人も並んでいた。名前は知っているが、作品は知らない人が多くいる。

 鷹村は一冊を手に取って、智枝子に渡した。

『僕はこのひとの短歌がすき』

 本を開くと、一ページに二つの短歌が載せられている。普段文字がつらつらと並んだ本ばかりを読んでいるので、すっきりした紙に目が少しちかちかした。文字そのものが作品であるかのようだった。

「今夜から月がふたつになるような気がしませんか 気がしませんか」

 作者名を覗くと、笹井宏之と書いてあった。

『残念ながら夭折されてしまったのだけれど』

 鷹村の顔を見つめる。いつもの笑みの奥に、陰りが見えた。何も言わず奥付に頁を移すと、「永眠」の二文字が静かに佇んでいた。

「ふわふわを、つかんだことのかなしみを おそらくあれはしあわせでした」

 頭のなかで三十一字が温かい雨のように降ってくる。そっと閉じて、そのまま本を手元に残す。鷹村が戻そうかと言ってくれたが、首を振って断った。

 そのあとは当て所もなくいろいろな棚を見て回った。さっさと通り過ぎた棚もあったし、立ちどまって手に取ったものもある。お互いの興味の持つところが同じであったり、違っていたりと、一人では見落としそうな書籍もこのときは目にとまった。

 歩いているうちに正岡子規の『仰臥漫録』を見つけたので、手に取って開いてみる。ネットで調べたとおり、絵と文章と短歌が混ざった構成になっていた。小説かエッセイ、たまに対談がよく読む類なので、こういった内容の本はなかなか目にしない。一冊買ってみようかとも思ったが、手持ちを考えると先ほどの歌集だけにしておいたほうがよい気がする。悩んだ末、今度図書館ででも借りてこようと棚に戻す。

 鷹村は同じ棚から別の本を手に取っていた。覗きこむようにすると、書名を見せてくれた。中勘助の『銀の匙』だ。智枝子も読んだことがある。

「それ持ってる。貸しましょうか」

『いや、これは前に読んで手元に置きたくなったから』

 それなら余計なお節介だった。頷いて、また棚を見る。『仰臥漫録』以外にも、『万葉集』や『古今和歌集』など、廣谷の盗まれたものと同じ題名の本がいくつか並んでいた。『万葉集』は上中下巻の三冊に分けられているようだから、この出版社のものではないのかもしれないが。

「古典文学って、目がすべったりしない? 少し苦手で」

 文章によってはどこで区切ればよいのかわからないこともある。国文学を専門にやっているひとを相手にまぬけな質問かもしれないが、思わず聞いていた。

『古典文学が特にってことはないけれど、目がすべることはある』

 数字はもっと目がすべる、と鷹村は付け加えた。理系である智枝子に対しての揶揄だろう。

『頭がぼんやりとしたまま読み進めて、はっと我に返ったとき目に入る文章が掴めない。そういうとき、まずい、聞いていなかったと思う』

 わかるような気もする。はっきり「聞いていなかった」と思ったことはないが、近い感覚にはなる。筆談でも「話す」鷹村にとってはそれも自然な表現なのだろう。

 会計を済ませ、本屋を出る。今日の本題は話し終えたし、あとは廣谷の対応を聞かないかぎりはどうしようもないので、解散という運びになった。また駅まで戻るため、エスカレーターを降りていく。

「鷹村さんは、何がきっかけで短歌に興味を持ったの?」

 戻りがてら智枝子が聞くと、鷹村は体を少しななめにしながら答えてくれた。

『小さいころから音楽がすきで』

 手首にかけられている紙袋がずるりと落ちる。荷物を持って歩いているときに、安易に話しかけないほうがよかったかと思ったが、鷹村が気にしている様子はない。

『ずっと音楽に関わる仕事をするんだと思っていたんだけど、耳が聞こえなくなって』

「うん」

『どうしようもなく気持ちが籠っていたときに、たまたま目にしたのが短歌だった』

 にこっと鷹村は笑う。鷹村が智枝子のことを察してくれるようには、智枝子は鷹村の表情や言葉からはおそらくその半分も感情を読みとれない。

『歌があると思った』

 短「歌」だから当り前なんだけど、と過去の自分を恥ずかしがるようにして鷹村は言う。

『三十一文字に凝縮された音楽に、とても救われたから』

 決まったメロディこそないが、読んでみれば確かにリズムを持って、音楽のようだ。

『ベートーヴェンは耳が聞こえないまま作曲をしたなんて言われているし、盲目のピアニストと銘打たれた人も最近はよく取り上げられているみたいだけど、耳が聞こえないからといって諦めないでなんて、誰かに言われることではない』

 もう一つ階を下りるため、再びエスカレーターに乗る。鷹村の後ろにつくように端に寄ると、その横を次々と人が歩いて降りていく。

『ごめん、暗い話に』

 言葉が続いているのはわかっていたが、それを遮るようにして、鷹村の頭をぽんぽんとなでる。エスカレーターで段一つ分上にいたので、背の高い鷹村に対しても無理なく手をのばせた。

 そうなんだ、と頷くことしか智枝子にはできない。慰めるようなこととも、口を挟んでよいこととも思えなかった。下手にそんなことをするよりは、言葉少なにいたほうがずっとよいと思えた。それでも表情の沈んだことくらい、智枝子にもわかる。笑みは残したままである鷹村が、無理をしているように見えた。

 無意識のうちに伸びてしまった手だが、沈んでいたはずの鷹村の表情が、かーっと赤くなっていく。エスカレーターを降りると、その先で立ちどまって顔を覆う。目は隠れていたが、耳まで真赤だ。

 空いている右手が動いた。智枝子は鷹村の左側にいたので、ななめ前に体を傾ける。右手は人差し指の爪を親指で弾き、そのあと鼻の前で二回ほど指をすぼめる。

『ちょっとさすがに、恥ずかしい』

 さすがにという表現は手話にはないので、あとから付け足すように一文字ずつ手を動かした。は、あ、あ、と区切るような溜息が鷹村の口元から聞こえてくる。息なので当然抜けるような音だが、鷹村の声の片鱗が顔を出したようで、低めのその音に興奮するのは許されたい。

 鷹村が顔を覆った手の隙間から、ちらりと智枝子を見た。赤面は治まりつつある。

『なんでなでたんだ』

 恥ずかしくなったことすら恥ずかしいのか、立ちどまったまま鷹村は聞いた。智枝子は愉快な気持ちになって、小首を傾げてしばらく見つめる。その視線に鷹村は笑うのも忘れたように、瞬きを繰り返して智枝子の答えを待っている。

「さびしそうに見えた、から」

 言っている途中で、うっかり笑ってしまう。その答えに鷹村もつられたように笑い、はあ、ともう一度溜息をついた。

『山宮さんといると化けの皮がはがされてしまう』

「化けの皮?」

『必死のかっこつけのこと』

 また歩み始めた鷹村についていくようにして、智枝子も足を進める。昨日とは違い、まだ少し恥ずかしそうにしていた。

 笑顔の壁こそ感じるところもあるが、鷹村は他の同年代よりもずっと余裕を持っているように映る。それこそが本人の言うかっこつけなのかもしれない。壁を感じるといっても無理をしている風ではないので、言われてもぴんとこない。だいたい智枝子こそ自身を繕うのが苦手で、思っていることがそのまま表に出てしまうほうであるから(気づかれるかどうかは別にして)、鷹村のその化けの皮というのは大変な努力をしているのだろうな、などと自分でも的外れだとわかるようなことしか考えられなかった。

 駅にそろそろ着くというあたりで、電話が震えた。出ていいかと聞くと、どうぞと手で示されたので、歩きながら「もしもし」と対応する。画面にはるり子の名前が表示されていた。

「智枝子か? 休みの日に悪いな」

「大丈夫」

 受話器を通したことによって、るり子の声が若干くぐもって耳に届く。もともと低めでかすれ気味のところがあり、電話で声だけになるとなお強調される。

「廣谷の本がなくなっているという話は知っているかい」

 さっきまでその話をしていたところだ。どこからるり子に流れたのだろう。鷹村ではないだろうし、廣谷が今さらになってるり子に報告するとも思えない。もちろん智枝子が話したわけではないし、舞子にも話していないから、そこから伝わったとも考えられない。

「うん、廣谷さんに聞いた。るり子さんは誰に聞いたの」

「うちの四年生から聞いた」

 え、と声がもれて、鷹村のほうを見る。智枝子がこの話をしたのは鷹村だけだ。目線をもらった鷹村は、状況がわかっていないまま笑顔をこちらに向ける。それまで智枝子のほうを向いていなかったから、何を話しているのかもわからないはずだ。

 いや、やはり鷹村ではないな。根拠もなくそう判断して、すでに駅に着いてしまったので目線をそのままに、端に寄るように指だけで伝える。鷹村は頷いて、二人で改札前の柱に寄りかかる。

「その子が言うにはお前が盗んでるんじゃないかって話だったんだが」

「廣谷さんの本を?」

「廣谷が授業をしている間も部屋にいるのはおかしい、っていう主張だ。ばかばかしいだろう」

 盗んでいないのは当然なのだが、何と答えてよいのかわからない。智枝子が黙っていると、るり子が続けた。

「まあでもしばらく廣谷がいないときは研究室から出ていたほうが、余計な疑いをかけられなくていいかもしれん。そいつは少し面倒な学生でね。学校でこんな話をしたら露骨だから電話した」

 るり子は家からこの電話をかけていると言う。

「だいたいお前がここの部屋の本を全部くれと言ったら、盗むまでもなく嬉々として正当に譲ってくれるだろう、あいつなら」

 にわかに否定のしづらい発言をしないでほしい。用件はそれだけのようだったので、切ろうとした直前、ふっと思い当たり、鷹村の顔を見る。視線に気づいた鷹村が、また笑みをこちらに向けた。

「ねえ、その人の名前って、なに」

 言ってもわからないと思うが、とるり子から発せられた名前を、なるべく一字ずつはっきり発音するように気をつけながら繰り返す。鷹村の表情から笑みがなくなった。

 間違いなく、この人が鷹村の言っていた「彼女」だ。そしてどうも智枝子を犯人に仕立て上げようとしているらしい。

 疑われたところで盗んでいないのだから何も出てきようがないのだが、あまりよい展開ではないのはわかる。電話を切って、今の話を鷹村に伝えると、眉根を寄せて口元に手をやった。口元に手をやるのは彼の考え事をしているときの癖だともう知っているので、じっと待つ。何か対策でも考えているのかもしれない。

『とりあえず、廣谷先生に伝えよう。その対応如何によって、解決すれば問題ないはずだ』

 確かにそうなのだが、話しているときの鷹村の表情はあまり明るいものではなかった。智枝子が考えすぎではと思うほど、その子の性格や言動を心配していたようであるから、鷹村のこの反応はどことなく不安になる。

 とりあえずここで足踏みしてもしょうがないと、今日のところはやはりこのまま解散ということになった。電車の方向が違うので鷹村とはこの駅で別れ、帰路につく。

 鷹村の反応も気になるところだが、るり子が言っていた少し面倒な学生、というのも引っかかる。名前を聞いても誰なのかはわからなかった。当然顔もわからないので特別警戒することもできない。そういえば容姿について、鷹村もるり子も一切触れなかった。気を付けたほうがよいとは言いながら、変に意識しないように気を遣ってくれているのだろうか。

 そろそろ中間のレポート提出や試験の時期だ。そうなるとるり子の手伝いに出向くことはできなくなるし、もしその間に噂を流されたり、証拠をでっち上げられると智枝子になす術はない。事実無根なので智枝子自身は別に気にしないし、廣谷も気にしないだろうが、そのことでるり子に変に被害が及ぶ可能性がある。

 それを踏まえるとはやく決着をつけてしまいたい。とはいえ結局繰り返した結論のとおり、廣谷に伝えて、廣谷がどう動くかによるところが大きい。今日はもう気をもんでも仕方のないことだ。思っていたより面倒なことになってしまって、智枝子が巻きこまなければ関係なかったはずであるのに、鷹村にも申し訳ない。

 明日には弟の巴と結衣も帰ってくるはずである。揺れる車内のなかで吊り革を握りながら、智枝子は鞄に入れてある『不如帰』も一緒に揺れているのを想像する。もし想定しているようにその子が廣谷に好意を向けているとして、恋の鳥も呆れて鳴いてはくれないのではないかと思った。

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