第2話

 それではこちらも口を利かないことにしよう。ふと朝食を食べている途中でそう思い立ち、一人で軽く頷く。食べ終わって時計を見れば、夜勤だった母が帰ってくる頃だ。疲れているであろう母のために湯を張ろうと、風呂場の蛇口をひねる。食べ終わったあとの茶碗を洗い、忘れ物がないかどうか鞄の中身を確かめ、そろそろ出るかというときに、ちょうど母親が帰ってきた。夜勤後は相変わらずどこかふらふらしている。

「お風呂入れてるよ」

「ああ、ありがとう。お布団は」

「それも敷いてる」

 母である舞子はうれしそうに顔を綻ばせ、ありがとう、と繰り返した。笑った顔がもっともるり子と似ている、と智枝子は思っている。同じ姉妹であるのに年齢よりも老けて見えるるり子に比べ、舞子は年齢よりも若く見られることが多い。実際、娘である智枝子から見ても母は若い。五十歳を前にしているにも関わらず、皺がほとんどない。年齢を反映しやすい首元や手も同様だ。さばさばしているるり子に対して、世話好きの舞子。性格が似ているとは思えないのに、それでもいろんなところで二人のつながりを感じるから、姉妹とは不思議だ。

「お風呂に入る前に寝ないように気をつけてね」

 一応一定量のお湯が溜まればとまる仕組みだが、蛇口は開きっぱなしの状態になる。長時間そのままにしておくのはあまりよくない。

「結衣ちゃんと巴ちゃんはまだ帰ってこないんだっけ」

「明後日。それ毎日聞いてるよ、おかあさん」

 だって、と唇を尖らす舞子は、やはり五十を手前にしているとはとても思えなかった。またそれが似合っているところがすごい。

 結衣というのは智枝子のもう一人の母親だ。舞子とは内縁関係にある。巴というのは結衣の産んだ子で、智枝子にとっては弟だ。もっとも、戸籍上は従弟にあたるのだが。

 自分の家庭がどうやら他とは違う環境にあるらしい、と知ったのは保育園に通い始めたときで、当時同じ組の子に母親が二人いるなんて変だ、という心ない言葉を向けられた。変だと言われても実際母は二人いるし、それがいやだと思ったこともなかった。そのため智枝子のなかで特に葛藤やそれに附随する何かがあったわけではないのだが、周りにはおかしく見えているということを、そのときなんとなく認識した。

 それを帰り道で舞子に話すと、これがおかあさんたちの普通だから、と言われたことをよく憶えている。

「智枝子がもっと大きくなったら、父親がいなくて、母親が二人いることがいやになる日がくるかもしれない。だけどこれがおかあさんたちの普通だから、智枝子のために変えてあげることはできないけれど、智枝子がいやだ、普通じゃないと思ったとしたら、それはそれであなただから、間違いじゃない。それでいいのよ」

 結局今に至るまで、いやだと思ったことはない。父親はいなくとも男親代わりに祖父がいたし、母親が二人いるのが智枝子にとっての普通で、家族で、家庭だった。

 その後智枝子を舞子が産んだように、結衣が巴を産んだ。ある日突然私も子どもを産む、と言いだし、有言実行した。そのとき生まれたのが一回り下の弟、巴だ。巴はともすれば女の子と言ってもわからないくらいかわいい顔立ちで、まだ小学生だというのに子役としていろんなところに飛び回っている。自分と同じくらいの子たちがテレビで芝居しているのを見て衝撃を受け、自分も出てみたいといつまでも駄々をこねるので、試しにオーディションを受けさせてみたら見事に受かった。すでに芸歴も五年を数えている。

 やってみれば巴の性にも合っていたようで、長い間芝居に夢中になっている。まだ幼いので一人にするのは不安だとマネージャーとなった結衣とともに、今はしばらく撮影に行っているので、それがさびしいと舞子はここのところ毎日ふてくされているのだ。

「ドラマはたのしみだけど、ただでさえ夜勤があるときはなかなか顔を合わせづらいのに」

「巴もたのしそうだからいいじゃない」

 今や山宮家の稼ぎ頭は巴である。もちろん巴が稼いだ分は巴のものなのだが、彼自身が自分のことよりも家族のことに使いたがるため、家にもいくらか入れているらしい。その金額を正確に智枝子が聞いたことはないが、けっこうな額なのだろうとは踏んでいる。そしてそれに一切手をつけず、舞子が別の口座を作ってそこに預けていることも、智枝子は知っている。

「今日も姉さんの手伝いをしてくるんでしょう?」

 うん、と頷くと柔らかく頭をなでられる。舞子の手は女性にしては大きめで、介護をしているだけあって頼もしい。

「あまり遅くならないようにね」

 いつもの何気ないやりとりだったのだが、昨日の出来事を思い出し、かあと顔が赤くなる。

 これまでにない娘の反応に、舞子は少し口角を上げた。なで続けながら、先ほどまでのねむそうな目とは打って変わり、好奇心を抑えられないといった様子で智枝子の顔を覗きこんだ。

「なあに、どうしたの? 何かあったの?」

 口を開いてはみるが、何も答えることはできずにいる智枝子に、舞子はいよいよ愉快そうに笑う。

「あんたが表情を変えるなんて珍しい。もしかして、前に言っていた姉さんを困らせている教授さん? それとも別の男の子?」

 その言葉に、思わず顔を上げてしまう。乗せられていた舞子の手が離れてしまうほどの勢いで、智枝子は何も言えずにどもることしかできない。もはや舞子がどんな顔をしているのかさえ見る余裕もなく、「いってきます」と叫んで、ひっ掴むようにして鞄を持って家を飛び出すほかになかった。

「いってらっしゃい」

 ドアの向こう側から叫ぶ舞子の声が、階段を下りる途中で聞こえてきた。


 学校に着くまでになんとか赤くなった顔を抑えて、恙無く授業を終える。今はまだ研究室にも所属しておらず、一般教養と専門が半々の状態なので、授業日程的には余裕がある状態だ。特に水曜日は授業が入ってすらいない。実質休みである。

 授業が終わって問題なければ、そのままるり子のもとへと向かう。レポートや課題があるようならそちらを優先してくれてよいと言われているので、その場合は図書館に行ったり、友人たちと話しながら勉強したりする。もちろん毎日何かあるわけではなく、るり子のほうで特に何もなければ今日は来なくてもいい、といった内容のメールが届くのだが、行かなければ廣谷がうるさいので、結局足を運ぶ。

 いつものように学校を出て電車に揺られていると、アナウンスされている駅名と電光掲示板に表示されている駅名が異なっていることに気づいた。どうも掲示板が過ぎた駅を表示したまま、とまっている。たとえばこれが見知らぬ土地であったら、智枝子は車内にある路線図とともに、電光掲示板を頼りにするだろう。もちろんアナウンスも聞いて、あと何駅、と考える。耳が聞こえないという鷹村は、路線図と、車内の電光掲示板だけを頼りにするに違いない。電車が駅についたとき、駅名の見えるところにいればよいが、そうでない場合、乗り過ごしたりしてしまうかもしれない。そう思うと、とまってしまっている掲示板が、なんだか残酷なものに見えてきた。掲示板は結局智枝子が降りるまでとまったままだった。


 るり子の研究室に入ると、なぜか廣谷がいた。まるでここにいるのが当り前のようにソファに陣取り、本を読みながら珈琲をすすっている。智枝子が入ってきたときに一瞥を寄越したが、すぐに目線は本へと戻された。なるほど、今日はそういう感じでいくのか。

「るり子さん、今日は?」

 いつもの場所に鞄を下ろしながら尋ねれば、るり子は眉根を寄せて、目を下のほうに泳がせた。携帯電話をいじり始めたかと思うと、あ、と小さく声をあげる。

「メール送りそこねてる」

 すまん、今日は何もない。すぐにそう添えられて、そっか、と頷く。もともと来る予定ではあったので、別にかまわない。それにたまにこういうことがあると、るり子はよくお詫びとして本をくれる。場合によって内容はさまざまだが、智枝子では選びそうにない本であることも多く、秘かなたのしみなのだ。

 るり子の湯のみにもうお茶が入っていなかったので、お湯をわかして準備をする。ついでに自分のお茶も淹れることにした。廣谷が珈琲なら、るり子は断固として緑茶だ。文学者は飲み物にこだわる傾向でもあるのだろうかと思うくらい、るり子も廣谷に劣らず緑茶にはこだわりを持って淹れる。智枝子はるり子が満足できる緑茶を淹れられる気はしないので、パックになっているものを選ぶ。これならるり子の大事な茶葉を無駄にすることはない。

「珍しいね、るり子さんの部屋に廣谷さんがいるなんて」

「文庫五冊で手を打った」

 その言葉に、廣谷が慌てたように顔を上げる。

「言わないって約束でしょう」

「契約について言うなとは言われてない」

 しれっと言い放つるり子に対して、それ以上反論はせず、廣谷はむすりと口を一文字に結んだ。言ったところでかなわないとわかっているのだろう。何か言いたそうな顔はしているが、結局何も言わないまま、廣谷は再び本に向き合った。

 そしてそのやりとりでなんとなく察した。おそらく昨夜勢いで口を利かないなどと言ってしまったので、自分の研究室に智枝子が今日は顔を出さないと踏み、るり子の研究室にいさせてほしいと頼んだに違いない。文庫本五冊で。智枝子からしたらえらく高い契約料だが、どういうやりとりがあったかまではさすがにわからない。

 じっと廣谷を見つめると目が合ったので、そのまま見続ける。廣谷は珍しく目を逸らさず、智枝子の視線に立ち向かってきた。しばらく攻防を続けたものの、やがて何かを勝手に感じたらしい廣谷がみるみる表情を曇らせる。そして目線を逸らし、俯いた。本を読んでいる体を装ってはいたが、文字を追っているようには見えない。

 何にかはわからないが勝った。今度はるり子に向き直る。

「鬱陶しいったらないんだけどね。そういえば智枝子、最近あんたがいれば廣谷も来てくれるに違いないって、学会に誘われてるんだって?」

 今度は智枝子が言葉を詰まらせる番だった。どこからどう囁かれている話なのか、ともかく廣谷を学会に出させたい方々が、智枝子が行くと言えばともについてきてくれるだろうと、誘いをかけてきているのである。学会自体に興味がなくはないが、自身の専門とはまったく異なる分野であるし、学会費を払えるほどの余裕があるわけでもない。そう伝えると、こちらが無理を言っているので、そういったものは求めません。代わりに何か報酬を渡すこともできないのですが、もしかするとうっかりお求めの書籍などをお渡しするかもしれません、と言うのである。一瞬揺らいだのは本音であるが、どれだけ困らせているのだと廣谷に呆れる気持ちのほうが大きく、そのときは断った。

 聞いてきたるり子も別に答えを期待していたわけではないようで、「あっちも必死だねえ」と煙草に火をつけた。

「吸うんですか」

「いやなら出ていきな。ここは私の研究室なんだから」

 じろりとねめつけられ、廣谷はあからさまにるり子から離れるようソファの端に座り直す。廣谷がるり子を苦手なのは、彼が嫌煙家であることも一因している。それでもるり子は廣谷とは逆側の、自身の横にある窓の外にいちいち煙を吐いていた。一応配慮しているのだろう。

 お湯を沸かし終え、るり子の分と智枝子の分と、二杯のお茶を淹れる。廣谷はまだ珈琲を飲んでいるようだから別に必要ないだろう。淹れ終わるとるり子のもとに持っていく。ありがとう、と薄く微笑まれた。

「ねえるり子さん、会議ってどれくらいの頻度でやるの?」

 廣谷に聞こうと思っていたことのなかで、るり子でも知っている質問を投げかける。ちょうどるり子と廣谷の間に入り込むように立っている智枝子から廣谷の表情は見えないが、何かそわそわしている気配だけが感じられた。

「週に一回はあるよ。定例会議ってやつだな」

「教授だけが出席するやつ?」

「いや違う。それは学科ごとだから、うちなら非常勤を除いて国文学の担当が全員。そこの奴が基本的にさぼるやつ」

 振り向くと、何も聞いていませんとばかりに顔を向こうに向けている。本当にるり子にはよわい。ライオンと犬あたりを想像しながら、またるり子に向き直る。

「そんなことをしていいの」

「よかったら会議なんて面倒なものしてないよ」

 それもそうだ。廣谷とは反対側のソファの端に腰を下ろし、お茶をすする。

「まあでも身内だし、私以外はみんなあれより肩書が下だからなんとなく許されているところはあるな。私が引きずっていくか、あるいは私が出張とかでいない日は必ず出ている。出ているよな廣谷?」

 ライオンに睨まれた犬が、こくこくと頷く。国文学の教授がるり子と廣谷の二人だけなので、両方いないのは困るのだろう。学会も出たらきちんとこなすと聞いているから、会議でも同じ感じだと踏むが、この様子を見ているとやはりぴんとこない。

「そんなに高い頻度でさぼっているの?」

 廣谷ではなく、るり子に向かって言う。

「夏と秋は頻度が高いな。春は新しい子たちが入ってくるし、冬は論文締切だったりゼミの決定があるから、さぼられちゃ困る」

「ふうん。どの季節もそれぞれ重要だろうし、責任を果たさないのはよくないと思うけれど」

「なんとなく今日は必要ないなっていうタイミングがあるじゃないですか」

 気持ちはわかるが、それを仕事でやるのはどうか。口を挟んできた廣谷に、ゆっくり顔を向ける。じっと見つめるとバツの悪そうな表情のまま動かない。今度は智枝子のほうからふいと目線を逸らし、またるり子に向ける。ちょうど煙草を一本終えたところで、灰皿に押しつけていた。

「昨日はそれでさぼられちゃ困るって言ってたの」

「ああ、それは月に一回の学部会議だったから。学科だけじゃなくて、学部全体で会議をするんだが、それには出席してもらわないと、体裁が保てない」

 なるほど。定例会議を廣谷はよくさぼるが、学部会議は(るり子の力によって)さぼることはできない。ということは、学部会議の時間は確実に部屋が無人になるうえ、他の教授たちもいない。もし智枝子が廣谷の研究室に忍びこんで本を盗むとしたら、学部会議の時間か、廣谷が確実に部屋にいないとわかる時間、すなわち授業時間を狙う。いたりいなかったりする定例会議の時間は避けると思うが、廣谷が会議をさぼったりしていることを学生たちは知っているのだろうか。

 しかし少なくとも、鷹村は昨日、会議のある時間に廣谷の研究室を訪ねてきた。廣谷が出席しているかどうか以前に、会議の時間を把握していないのかもしれない。新入生なら当り前かもしれないが、鷹村は四年生だと言っていた。

「突然どうしたんだい。わりと恬淡なたちのくせに珍しい」

 新しい煙草に火をつけながら問われて、ちらりと廣谷に目線だけを送る。ここでるり子に事情を告げてもよいのだけれど。視線に気づいていないわけはないと思うのだが、廣谷はじっと押し黙っている。少し考えて、智枝子はお茶を口に運んだ。

「別に、ちょっと気になっただけ。廣谷さんはいつでも研究室にいるから」

 その答えに、廣谷は勢いよく、体ごと智枝子に向けた。驚きと感動が入り混じった表情を横目で見ながら、反応はしない。るり子も廣谷の奇行には慣れているのか、まったく動じず、ああそう、と聞いたわりにさして興味もなさそうに返し、老眼鏡をかけてプリントを読みこんでいる。

 とりあえずあとは廣谷がなくなった本を思い出さないかぎりは、質問もない。廣谷を含め、このままここにいてるり子の仕事の邪魔をするのも悪いので、そろそろ退散しようかと思い、立ちあがろうとしたときだった。こんこん、とノックの音がした。暖簾がかかっているるり子の研究室に入るとき、そのまま失礼します、と入ってくる場合が大概だったので、今のようにノックをしてくるのを、少なくとも智枝子は初めて聞いた。

 ドア、もとい暖簾のほうに目をやると、鷹村がちょうど暖簾をくぐっているところだった。認識した瞬間、体が少しだけびくりとはねる。

「おや、鷹村が私のところに来るなんて珍しい」

 口に含んでいた煙草を手に取り、気持ちいつもよりゆったりとした速度で話するり子を見て、らしいな、と思う。目に見えてわかるようなあからさまなことはしないが、配慮を忘れない。おそらくこれが鷹村に対するいつもの調子なのだろう。

 鷹村は智枝子を視認すると、昨日廣谷の研究室で会ったときと同じように、にこと笑った。それを見て慌てて小さく頭を下げながら、心臓が早打ちしだすのを感じた。

『暖簾の下から白衣が覗き見えたので』

 相変わらず口は一切動かさず、手話でそう話した。るり子も智枝子と同じく、彼女にとっては妹である舞子に手話を半ば強制的に教わっていたので、問題なく読みとれる。そうか、と頷く。

 示された当の廣谷はといえば鷹村のほうを見ようともせず、まだ智枝子に体を向けていた。るり子が注意しようと声をかけると、それすら聞こえていないように言葉を重ねる。

「こら廣谷――」

「山宮さん。残りの本ですが、三冊です」

 先ほどまでの表情とは変わり、どこか含みのある笑いを浮かべて廣谷は続けた。

「昭和五八年に改版された文庫の『仰臥漫録』、平成一二年に改版された同じく文庫の『赤光』、昭和五七年発行の『御伽草子絵巻』。これで今のところは全部です。間違いありません」

 思わず反射的にメモを取り出し、書きとめていく。響きだけだったので昨日よりもなおさら汚い文字で、漢字も思い浮かべられずとりあえずの列挙だ。改版や発行年をわざわざ教えてくれたのは、思い出したことをすべて伝えてくれているのか、その年によって何か違いがあるのか、智枝子にはわからなかったが、それも一緒に書きとめる。

 必死にペンを動かしている間、るり子が「ちょっと待ってやってくれ」といったようなことを言っているのが薄ぼんやり聞こえた。鷹村に声をかけていたのだろう。


『ぎょうがまんろく』 昭和五十八年 文庫

『赤口』 平成十二年 文庫

『おとぎ草子絵巻』 昭和五十七年


 思わず「赤口」と書いたが、今までの本を考えるとこれも文学に関するものである可能性が高い。となると「口」ではなく、おそらく「光」か。「ぎょうがまんろく」というのもぱっと思い浮かべられない。問おうと顔を上げると、智枝子が書きとめている間に近づいたのだろう、廣谷はすぐ傍に座っており、昨日と同じようにメモを覗きこんでいた。それなりに近い場所に顔がきているので、眉根を寄せたのが強調されたように目についた。

「どれから言えばよいのかわかりませんが――」

 近い位置のまま、目が合った。合ったと思った瞬間、廣谷の顔が斜め上に傾けられる。つられて智枝子もその先に目を向ければ、鷹村が廣谷の腕を取っていた。どこか冷ややかなものを感じた気がしたのだが、すぐににっこりと笑ったので、気のせいかもしれない。

 笑うと同時に小さなリングノートを示す。そこには「昨日の回答を頂いても宜しいでしょうか」と書いてあった。

 廣谷は突然腕を取られたことを怒るでもなく、少しの沈黙のあと、ああ、と呟くようにこぼした。

「少し待っていてください。持ってきます」

 腰をあげ、長い間座っていて皺だらけになった白衣をそのままに部屋を出ていく。

 それを見て、鷹村もるり子に頭を下げてから部屋を出ていった。何かを話しかける隙はなかった。

 無意識のうちに暖簾の向こう側を見ていると、よほど名残惜しそうな顔をしていたのか、るり子が笑いを含んだ声で、

「追いかけるかい?」

 と揶揄した。その顔が本当に朝の舞子にそっくりだったので、智枝子はあからさまに眉をハの字に落とす。それを見ても伯母はからからと笑うばかりだ。家族だから気づかれたのか、それとも誰でも気づいてしまうくらい隠せていないのか、智枝子は黙りこくるしかなかった。鷹村と知り合いであることすら、ついさっきまで知られていなかったはずなのに。

 何も言わない智枝子に対して、笑うのをやめたるり子はひとりごとのように続ける。

「今入ってきた学生、鷹村はうちの学科でもかなり優秀で、たまに耳が聞こえないことを忘れるよ。授業中の補助があるにせよ、自主的にかなり勉強しているのがわかる。きちんと目的を持ってうちに入ってきたのも明白だし、何よりよく笑うからね」

 廣谷のゼミに入っていると言っていたから、るり子の担当ではないはずなのにかなり評価は高いようだ。それほど優秀ということなのか、それともるり子が学生一人ひとりをきちんと観察しているからなのか。

「よく笑う人間には、垣根が低くなる。警戒心が解けやすい。それをわかってやっているんだろうね、あれは……」

 内容は鷹村を褒めているが、るり子の目にどこか陰りが見えた。語尾もよわまり、心配しているのが感じとれる。いったい何を心配しているのか、智枝子にはまだわからなかった。昨日から、あるいは今まで学科の研究室で見かけてきた鷹村は、智枝子からすればしっかりした、頼りがいのあるひとだった。

「いまどき感心するほど礼儀正しいから、普段はさっきみたいに話しているのがわかっているとき、無理矢理中断させるようなことは絶対にしないんだけどね」

 るり子は老眼鏡を少しずらして、片肘をつきながら目線を智枝子に寄越す。

「あんたたち付き合ってんの?」

「付き合ってない」

 思わずかぶり気味に、軽く声を荒げてしまう。唐突な質問にごまかす姿勢を装うことすらできなかった。あ、そう、とるり子は煙を窓の外に吹きつける。白いそれは風に流されてすぐに消えていった。

「あんたは表情を崩すし、鷹村も珍しいことをするから、てっきりそうなのかと思った。じゃあまだか」

 まだってなに、と聞いても、にやにやと笑われるだけだ。

 だいたい昨日ちゃんと知り合ったばかりの相手に対して、すぐにどうこうできるほど器用ではない、と伝えれば、手伝いを終えたあと智枝子がどうしているかなんて把握していない、と返される。それもそうだと言葉を飲みこむ。あまり反論を繰り返しても墓穴を掘るだけだ。

 比較的学校生活では男性に囲まれてきたものの、小さいころから変に遠巻きにされたり、よくわからないあだ名をつけられたりしていたせいで、智枝子には恋愛に対する免疫というのがほとんどない。思い返してみれば祖父が初恋だったかなとは思うのだが、それ以後が思い当たらなかった。もちろん誰にも彼にも距離を置かれていたわけではなく、それなりに話す異性もいた。ただそれが同級生の枠を出ることはなかった。母たちと同じく同性がすきなのだろうかと思った時期もあるが、別にそういうこともない。逆にどこか同性に好意を持たれていた記憶はあるのだけれど。

 だから母や伯母が、ここにくるまで色恋沙汰に縁のなかった娘にその影が見えれば多少過剰に興味を示すのは、なんとなく智枝子にも理解できるのである。もっとも二人に関しては性格も大いに関係しているとはいえ。

 これからおそらく舞子からもう一人の母である結衣に情報が流されるのだろうと思うと、家族仲がよいとよろこぶべきなのか、嘆くべきなのか。けれど正直なところ、結衣はともかく弟の巴が知ったときの反応のほうがこわかった。

「智枝子に意中の相手がいると、巴が知ったら大変だろうね」

 今まさに思っていたことを言われて、小さく溜息をつく。巴は智枝子本人から見ても、うぬぼれではなく、智枝子に懐いているのが明白だ。巴がいくつになるまで続くだろうと思えばかわいいものなのだが、もう少し自分のことに執着してもよいのではないかと感じるほどだ。

「意中の相手ってなに」

 一応否定的な言葉を投げてはみるが、予想どおり流された。本人よりも周りが決めつけて盛り上がっている感があるのは、智枝子が恋愛初心者だからか。

 もう一度溜息をつきながら、飲みほした湯のみと、廣谷が飲み終えた珈琲のカップを併せて洗う。るり子の分はまだ中に入っていたので、そのままにしておく。

 ここで廣谷が戻ってくるのを待つのもどうかと思うので、改めて荷物を持って部屋を出る準備をする。鷹村が用事を終えて出てくるのを廊下で待っていたほうがよいだろう。口を利かないというのも無効になったようだし、廣谷には聞きたいことがある。

「じゃあるり子さん、またね」

「ああ、何をしているか知らんが、あまり気遣いすぎないように。あんたはやさしい子だから」

 廣谷とのやりとりを言っているのだろう。心配しつつ、智枝子が話さないので聞いてこない。

「そうかな。でもありがとう」

 これまでに何度も言われている褒め文句に、やはり今日もぴんとこないまま答える。

 暖簾をくぐろうとすると、智枝子、と呼びとめられる。忘れ物でもあっただろうかと振り返ると、にっと笑ったるり子と目が合った。

「鷹村はいい男だよ」

 本当に、こういうところが舞子とそっくりだ。もうここまでくれば反発するのもばかばかしくなり、その言葉は素直に咀嚼して、薄く笑う。

「そうかも」

 その返しが意外だったのか、笑ったのに驚いたのか、目を少し丸くさせたるり子が見えて、智枝子は小さな仕返しをしたような、愉快な気持ちになる。こちらだって、おもしろがられるばかりではない。


 廣谷の研究室の向かい側の壁に背をもたれながら、智枝子は周りを軽く見渡してみる。

 さまざまな学部、学科の研究室が詰め込まれているこの通称研究棟は、各階ほとんど同じ作りになっている。長方形の建物の中心部は空洞になっており、場所によってはガラスを通して中心部の庭(と表現する以外に何と言えばよいのか、智枝子にはわからない)が見える。簡単に言えば建物の長方形に合わせ、四つの直線で廊下が作られており、廊下を挟んで左右両方に部屋が並んでいる。外側、つまり建物の外枠に近い側にはるり子や廣谷など教員たちの研究室が、内側、つまり中心部の庭に近い側に学科や専攻それぞれ、学生たちが使用する研究室が据えられている。

 国文学の研究室はちょうど廊下の真中あたりにある。建物の角に当たる廊下右端の二部屋は、部外者の智枝子には何に使用されているのか知らないが、少なくとも教員の部屋ではない。あるいは誰かがそこに入っていくのも今のところ見たことがない。鷹村とぶつかったのがこの角だ。

 仮に空室として、その空室二部屋の隣――向かって左隣にあるのがるり子の研究室だ。ドアを開けはなしにして暖簾をかけているので、横を歩いたときは見通しがよさそうに感じるものの、空室側の角から曲がってすぐは何か青いものがあるなと認識できる程度で、部屋の中までは確認できない。使用している暖簾は麻なのもあって少し透けて見えるのだが、それもやはり近づかないことにはわからない。

 さらに向かって左隣が廣谷の研究室だ。鍵は基本的にいつもあいている。前に廣谷とともにこの大学から出たときには鍵をかけていたので、帰るときにはさすがに鍵をするらしい。反対に出勤したら当然鍵を開けるだろう。その他で廣谷が鍵を開閉する場面というのはなさそうだ。少なくとも会議に出席するときは鍵を閉めていない。以前にたまたま廣谷が授業に出ている時間に来たときも、やはり鍵は開いていた。廣谷の研究室は普通に出入りするだけではドアは完全には閉まらず、仮締りが引っかかった状態になるので、鍵がかかっていないことを視認できる。智枝子は出入りするときはいちいち把手をひねり完全に閉めるようにしているが、他の出入りする人間全員がそうとはもちろん限らない。少なくとも廣谷はそんな面倒なことはしない。

 国文学の教員は研究室を持たない非常勤を除けば、るり子と廣谷を含んで五人だ。廣谷の研究室より向こう三部屋がそれぞれの研究室に当たる。誰もるり子のように暖簾をかけている人はいないし、廣谷の研究室のように、毎回把手をひねらなければ完全に閉まらないということもなさそうだった。そしてちょうど廣谷の研究室の隣二部屋の間あたり、その向かい側に国文学を専攻する学生たちの研究室のドアが据えられている。

 その奥にはさらに、別の学科の研究室が並んでいる。そういえば何学科なのかは知らない。いつも建物の、辺の短い側の廊下から空室二部屋の角を左に曲がり、るり子の研究室、あるいはその隣の廣谷の研究室に向かっていたので、前を通ることもなかった。

 ここは三階なので階段かエレベーターを使わなければならないのだが、辺の短い二つの廊下側にそれぞれ階段があり、またエレベーターは建物の一ヶ所、智枝子が普段使っている階段の横にしかつけられていない。エレベーターでそのまま一階に下がればそこが一応建物の正門に当たるからで、出入口が自動ドアになっているのもここだけだ。もう一つの階段がある側、つまり向かいの短い廊下にも入口があり、そちらから出入りする場合はそこの階段を使うと便利な仕様になっている。ただ縁以外はガラスで中が見える構造になってはいるものの、雰囲気として非常口に近い、重めのドアで、どうにも内部の人間向けに見えて智枝子は使ったことがない。そこのドアを出た先に附属図書館が建っているため、使いたくなる瞬間もあるのだが、結局両手がふさがっていると自動ドアとエレベーターのある側を利用したほうが無難に感じ、遠回りだがぐるりと回りこんでしまう。他にもいくつか出入りできるところはあるが、出入り用のドアはすべて同じデザインで、やはりどれも使ったことがない。

 三階まで上がってくるのは当然学科の関係者か、それぞれの教員に用がある場合だけなので、人の行き来はそう多くない。普段智枝子が使っている、建物の正門からすぐの階段を上って目の前には、仕切りが一つ置いてあるだけの談話室があり、学科の学生たちはそこで休憩をしているようだった。智枝子がここへ来るのは基本的に夕方以降、時間があれば今日のように昼からなのだが、日や時間によって賑わっていたり、閑散としていたり、特に決まった時間に学生が集まって何かをしているといった印象はない。

 ついでなので待っている間、国文学科より向こう側の学科が何なのか見に行こうと、もたれていた背中を離すと、ちょうど廣谷の研究室から鷹村が顔を出した。しっかりと目が合ってうろたえる。鷹村に対しては突然目が合うとどうにも動揺するなと思いつつ、表に出さないようにして口と一緒に手を動かす。

「あ、お話終わりましたか?」

 それを見て鷹村は首肯する。手に持っていた紙を脇に挟み、そのまま両手を持ちあげたが、続けて廣谷が出てきた。

「山宮さん」

「はい」

 呼ばれて、つい反射的に返事をする。廣谷は鷹村を避けて智枝子に近づき、一冊の本を渡した。書店のカバーがかけられていたので、表紙を開いて中身を覗き見ると、「不如帰」と書かれてあった。徳冨蘆花だ。

 顔を上げると、廣谷の奥に紙を手に持ちなおし、それを見つめるようにしている鷹村が目に入った。鷹村は智枝子に見られていると気づくと、右手の手のひらを少し前に出すように動かし、廣谷と智枝子の横を通って国文学の研究室のドアを開けた。慌てて智枝子も先ほどの鷹村のように受け取った本を脇に挟み、両手の人さし指を立ててそれ同士を近づけるようにした。はっきり目線がこちらを向いていたわけではないので気づいてもらえただろうかと不安だったが、研究室に足を踏み入れながら、顔をこちらに向けた鷹村が笑って小さく頷いた。

 そのままぱたんとドアが閉まり、えもいわれぬうれしさに包まれて智枝子が一人で俯き気味にそれを噛みしめていると、頭上から言葉が降ってくる。

「うれしそうですね」

 はっとして言葉の方向に顔を上げる。廣谷としっかり目が合った。脇に挟んだ本を手に戻す。

「今日は口を利かないんじゃなかったんですか」

「なんですか、今の」

 智枝子がやったように両手の人さし指を立てて、近づけるようにしながら廣谷が言う。こちらの言うことなど聞いてはいない。

 右手の手のひらを少し前に出すようにするのは、「あと」や「今度」という未来を表す手話だ。それを見て、智枝子は両手の人差し指を立ててそれ同士を近づけるようにして、「会う」という手話で応えた。会話にすれば「あとで」「会える?」といったところか。手話で疑問は口の動きや表情でしか表せない。

 智枝子が答えようとすると、それを待たずに廣谷は続けた。

「知り合いだったんですね」

 今度は疑問ではなく断定の口調で言う。

「今の、えーと……僕のゼミの子と」

 四年生、つまり四年間の付き合いで、ゼミで担当までしているのに名前が出てこないのか。顔にも名前は何だっただろうかと書いてある。膨大な量ある本が数冊なくなれば気づくくらいの記憶力を、少しは人間関係にも対応させればよいのにと思わずにはいられない。

「鷹村さんです」

 代わりに智枝子が答えるが、ぴんときていない顔だった。もしかするとゼミで受け持っていると憶えているだけすごいのかもしれない。教員としてどうなのか。

 しかし今さら廣谷の常識や世間一般で言うところの「普通」を求めても無意味だ。智枝子も注意を促すようなことは言わない。言ってもおそらく無駄になることはわかっている。

「ま、それはいいんですが、その本」

 思ったとおりさして興味もなさそうに、智枝子が手に持っている本を指でさす。

「他は知りませんが、おそらく次あたりそれでしょう。山宮さんが持っていてください」

 え、と声をあげることも忘れて、本と廣谷の顔を交互に見る。表情こそ変わらなかったが、智枝子のなかで混乱と疑問が波のように広がっていく。廣谷はそんな智枝子が疑問らしく、不思議そうに小首を傾げていた。何を驚いているのだろう、という顔だ。

 そんな廣谷の袖を引っ張り、連れ込むようにして廣谷の研究室に入る。

 入口すぐに壁のように並べられているいくつかの本棚をぐるりと回りこみ、相変わらず本が散乱(智枝子にとっては)しているその部屋で、智枝子はやっと、

「どういうことですか」

 と声を発した。廊下で変に会話を聞かれてもよくないだろうと思ったからだが、廣谷を引っ張ってそのまま奥に入ったので、仮締りは引っかかったままになっているだろう。

 動揺している智枝子を見て動揺する廣谷は、頭に大量の疑問符を浮かべていた。

「もし次に本がなくなるとしたらそれだろうということです」

「そういうことではなく」

 言葉の意味くらいはわかっている。

「どうしてこれがそうだとわかるのですか」

 若干いつもより早口になってそう問うと、やっと事態を理解した廣谷が、ああ、と頭上の疑問符を引っ込める。そしてまあ座ってください、珈琲でも淹れます、となんでもないことのように、いつもの調子で言った。そんなことより、と畳みかけようとして口を開いたが、すぐに思いなおして頷き、積み重ねられている本の山が崩れないように気をつけながら、ソファに座る。廣谷がなんでもないことのように冷静なのだから、自分が興奮することもないだろう。

 そして廣谷が珈琲を淹れ始め、まったくいつもの日常が流れ始める。本に囲まれているからか、きちんと本棚に規律よく並べられていないのが智枝子の好みではないにせよ、この部屋は落ちつく。すでに通い慣れた部屋だからというのもあるのかもしれない。

 手渡された本を見つめて、いつもと同じ日常であるかのようにぱらぱらと頁をめくる。もっとも本がなくなっているというのが物騒ではあるものの、智枝子にとっては昨日も今日も日常に違いないのだけれど。そう思ったあとすぐに昨日のことが頭に浮かんで、そうでもないか、とごちる。廣谷が振り返ってこちらを見たが、またすぐに前を向いた。

 終盤の頁にいきついて、「あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ!」の科白が目につく。本来結末から読むのは智枝子のこだわりに反するが、有名なこの科白は、すでに知っているところだ。

「女に生まれたことはつらいですか」

 後ろから声をかけられ、さすがにびくりと体がはねた。どこの頁を読んでいるのかと覗きに来たようだ。同じように有名な「ああ辛い! 辛い! もう――もう婦人なんぞに――生れはしませんよ。――あああ!」が書かれている頁を開いたまま、智枝子は首をひねって廣谷を見る。

「いいえ」

 簡潔にそう答えると、ふっと笑みをこぼして廣谷が珈琲の入ったカップを差し出してくれた。本を閉じ、目の前の机に置いて受け取ると、珈琲のよい香りが鼻腔をつつく。これが学生たちの間で伝説扱いされているかと思えば、なんだか勇者にでもなった気分だ。そうなると廣谷はラスボスか。なるほど、卒業単位獲得に置きなおすと言い得て妙。

 そういえば最初は珈琲は苦手だと伝える間もなく差し出されたことを思い出す。口をつけないのも失礼かと思い、一口飲んで驚いた記憶だ。もしかして鷹村と行ったあの珈琲のチェーン店でも、飲んでみれば意外に大丈夫だったりするのだろうか。今度行く機会でもあれば挑戦してみよう。家では飲んだことがないからわからないが、実のところ廣谷の珈琲だけが大丈夫なわけではなく、もう平気になっているのかもしれない。

 廣谷は自身の机の椅子に腰かけ、一緒に淹れた自分の珈琲を飲んでいる。この部屋には智枝子が座っているソファの向かいに椅子がないので、作業机の椅子に座るか、同じようにソファに座るかしかない。どうしても人と向かい合いたくないらしい。

「ただの連想ゲームなのですが……その本、読んだことはありますか」

 顎を少しだけ持ちあげるように動かし、智枝子が机に置いた『不如帰』を示す。

「ありません。この最後の部分の科白は知っていますが」

「そうですか」

 そう言うだろうと想定していたようで、素気ない返事だった。

「では、題名は何と読みますか」

「ほととぎす、ですよね」

「そうですね。その本が刊行されて百版を数えたとき、作者である徳冨蘆花はそれを「ふじょき」と読んでいますが、最初に掲載された新聞に「ほととぎす」と書かれていたためか定着していたので、とうとう今になってもそれを「ふじょき」と読む人はいません」

 また口に運びかけていたカップを何か思いなおしたように机に置き、廣谷はくるりと椅子ごと一周した。

「いや、いましたね。ロマン主義に傾倒してほととぎすと読んだら喰ってかかってくる学生が。あとはまあ、蘆花に傾倒する人も、それはふじょきと読むかもしれません」

 高校の授業で習った気はするが、センター試験にしか国語を使っていない智枝子は誰がどういう主義だったかまではもう憶えていない。廣谷の専門は中世和歌だと鷹村が言っていたから、近代も小説も廣谷からすれば専門外だろうに、すらすらと出てくるあたりはさすがと感心する。それともるり子なら国文学の大学教授がそれくらい憶えているのは当り前だと一蹴するだろうか。

「先に一つ確かめておきたいのですが」

「はい」

「山宮さんは昨日僕が会議に行ったあと、この部屋の本を整理しましたか?」

 少し考えて、首を横に振る。昨日は廣谷がるり子に引きずられるようにして出ていったあと、数分も経たずに鷹村が入ってきた。そしてそのあとすぐに移動したから、本を整えたりする時間はなかった。

 その返答に、廣谷はそうですか、と再び答えて、ゆっくり瞬かせた。表情は平素と変わらぬものだったが、何か思案しているのは見てとれた。どうして次になくなる本がこれだとわかるのかはやく聞いてしまいたいところだが、智枝子は珈琲を飲みながらじっと待つ。

 かちん、と音がした。廣谷がカップの縁を指で弾いた音だった。

「昨日の発言は訂正します。やはり本は誰かが目的を持って抜き去っている」

 長い前髪が廣谷の左目を隠しているため顔の半分しか見えないが、その表情は冷やかで、茶化す様子も、おもしろがっている様子もない。

 人の目をまっすぐ見たくないと言って伸びっぱなしのまま放置している前髪だが、今は邪魔になったらしく左目付近の髪を横に流す。

「どうして昨日の今日で、突然そう思うのですか」

 昨日は本人も言っているとおり、確かに「誰かが盗んでいるとは考えにくい」と言っていた。智枝子が何を言っていても考えを変えたりはしなかったというのに。

「本の位置が変わっていたからです」

「本の位置?」

「昨日の会議のあと、戻ってきたら本の数は一緒でしたが、位置が異なっていました」

 たとえば、と廣谷は智枝子が座っているソファ端に積み重ねられた本を指差す。

「そこの書籍類のいちばん上に置いていたのは、昨日発売されたばかりの週刊誌です。けれど今は昨日発売されたのには違いありませんが、月刊誌が置いてあるでしょう」

 横で山になっている本に目を落とせば、確かにいちばん上に置かれているのは月刊誌だ。そのまま体を傾けて山を確認すると、週刊誌は間に挟まっている。それにしたって文庫と雑誌と単行本をぐちゃぐちゃに混ぜて積み重ねるのはいかがなものかと、廣谷と知り合ってから今さらなことを改めて思うが、それはもう考えても仕方ない。

「他にはここの本棚に置いてある広辞苑。今はいつもの癖でこの棚、上から三番目の棚に入れていますが、昨日会議から戻ってきたときは上から四番目の棚に入っていました」

 廣谷のすぐ傍にある本棚だ。四番目の棚にも広辞苑が入っている。

「今も入っているみたいですが」

「それは第六版。僕が今言ったのは第五版です」

 目をこらしても智枝子の座っている位置から版の数までは見えそうになかったが、上下二段に同じ広辞苑が入っているのは言われたとおりだ。三番目の棚に第五版、四番目の棚に第六版が入っているのだろう。

「でもそうですね、版が逆になっていた、ということです」

「置く場所にこだわりはないのかと思っていました」

「ありませんよ」

 いつもの癖で、と言うので、こだわりがあったのなら今まで勝手に整理して申し訳なかったなと思ったのだが、あっさり廣谷は言った。

「広辞苑に関しては僕が好んで使用するのが第五版というだけです。座ったままでも、ほら、手が伸ばしやすいでしょう」

 実際に手に取るように廣谷が座ったまま手を伸ばす。なるほど、ちょうどよい位置だ。

「それにいろんなところの本、たとえば山宮さんの真後ろにある本棚、そこの上から二番目の棚端に本の入っていない空白部分があると思いますが、端の本が棚の壁にもたれるようになっていますし」

 振り返ると確かになっている。文庫なので隙間があれば倒れてもおかしくないのではと思ったが、その横の文庫は本の連なりにもたれるようにななめに置かれていた。それが端の本だけ逆の壁側にななめになっているのは、少し不自然だ。

「入口すぐの棚はガラス戸がついていますが、それが拳一つ分、開いていました。開け放しにしてしまうことはありますが、そんな中途半端な状態で放置したことはありません」

 その他にも流れるように出てくる説明に、細かい、とうっかりつっこんでしまいそうになる。本の場所を一瞥で記憶してしまえるだけでなく、空間把握能力も優れているのか。そういえば前髪を数ミリ切っただけで気づかれたことを思い出す。

 たとえば智枝子も本棚の本が傾いていたら誰か触ったのかな、と気づくだろう。けれどそれは彼女がこだわりを持って本を普段から整理しているためで、こんな風に(本人も認めるように)なんのこだわりもなく、無秩序にそのときそのときの気分で置かれている本に対してそこまで記憶しているのはおそろしい。

「あとは」

「あの、もう充分です」

 遮ると、そうですか、と廣谷は頷いた。

 うっかり変なところに引っかかってしまったが、とにかく誰かが廣谷のいない間にこの部屋に侵入し、本を物色したということだ。会議から戻ってきたらと廣谷は言っていたから、智枝子がこの部屋を出たあと昨日のうちにということになる。

「この部屋には何時に戻ってきたんですか」

「七時半です。会議自体は七時に終わりましたが、そのあと波間先生とそのまま話しこんでいたので」

 昨日智枝子がこの部屋を出たのが確か五時過ぎだ。何分かは判然としないが、少なくとも三十分にはなっていなかった。仮に十五分として、五時十五分から七時半の間か。

「昨日は何も盗まれてはいなかったんですよね」

「はい。一冊も減っていません」

「これまでそういう風に、触られた痕跡みたいなものはなかったんですか」

「昨日が初めてです。僕の棚を触るのは僕のほかに山宮さんくらいです」

 その言葉になんとなく目を逸らしてしまう。いまソファで本の山が智枝子の動きによって多少ぐらぐらしているように、こんな本の傷む機会をあからさまに見せられると整理せずにはいられないのだ。

「物色したということは、目的があるということです。目的があるのなら、また来るのでしょう。むざむざと盗まれるのも癪なので、あたりをつけたその本を山宮さんに預けておこうかと」

 持ち歩くだとか、自分の家に持って帰る選択肢はないのだろうかと思ったが、今回は黙っておく。

「どうしてこの本を狙っているとわかるのですか」

 再び机に置いていた本を手に取り、ぱらぱらとめくる。巻末までくると、出版社の註にどうして「ほととぎす」とふりがなを打ったのかの説明がされてある。先ほど廣谷に聞いたばかりの内容がそのまま載っていた。

「ではおさらいをしましょう」

 教師然として、廣谷は人差し指を口元に当てた。痩せているためか頬が少しこけていて、野暮ったい目をしているが、その仕種は様になっている。廣谷のファンが犯人という線はとりあえず可能性として数えていたに過ぎないのだが、大いにありえる話なのかもしれない、と智枝子は思いなおす。興味のない人間に淡泊な廣谷は、学生にとっては常に冷静沈着な先生として映っているとしても納得だ。智枝子に対しては廣谷が表情を大きく崩すことは珍しくないので忘れていた。

 そういえばるり子に対しても(主に恐怖の方向で)表情を崩すことが多い。そちらの印象も相まって助長されているのだろう。きちんと思い返してみれば、普段こうして廣谷の部屋で何をするでもなく時間を過ごすとき、無表情のまま淡々と智枝子と話している。

 廣谷はいつも机の端に重ねている紙から一枚引き抜き、その紙いっぱいを使うようにしてなくなった本を書きだした。


御伽草子絵巻

新装版全訳源氏物語 二巻

○竹の里歌

おくのほそ道


○古今和歌集

○万葉集

○百人一首

仰臥漫録

○赤光


 少し詰めてください、と告げ、書名を書いた紙とカップを持って廣谷が立ちあがる。智枝子がソファの端、入口側に移動し、さらに廣谷が隣に座ると、智枝子が寄ったのとは逆側のソファの端に積み重ねられた本の山がぐらぐらと揺れたが、不思議と倒れなかった。

 長机に置かれた紙を見て、「ぎょうがまんろく」の漢字を知る。なるほどこう書くのか。

「左にまとめて書いたのが文庫、頭に丸が書いてあるのが歌に関するものです」

 言われて改めて見ると、半分以上だ。

「加えて言うならば、『御伽草子絵巻』以外の八冊は歌人が関係しています。和歌集、短歌集はもちろんですが、『源氏物語』は与謝野晶子訳、『おくのほそ道』は松尾芭蕉、『仰臥漫録』は正岡子規ですから」

「ばらばらですね。同じ人がいない」

「えっ」

 廣谷は驚きを隠しもせず、信じられないという顔で智枝子をまじまじと見た。不躾に思えるほどの視線である。廣谷のなかでの常識に、どうやら今回は外れてしまったらしい。

「竹の里人、って聞いたことありませんか」

 竹の里人? 考えてはみるが、記憶の抽斗を引けども引けども出てこない。これはもう知らないのだと判断し、ありません、と素直に答える。わからないことはわからないと言ったほうが、廣谷が詳しく丁寧に教えてくれるのを知っているし、知らないことを知っているようにふるまうのも智枝子は得意ではない。

「正岡子規のことです。『竹の里歌』をもじってそう呼ばれます」

「そうなんですか」

「そうです。斎藤茂吉もこの竹の里人こと正岡子規の『竹の里歌』を読んで感銘を受け、子規の門下にあたる伊藤左千夫に弟子入りしたくらいで」

 そこまで答えて、智枝子の顔を見やる。

「本当に知りませんか」

「残念ながら」

 頷くと落胆した面持ちだ。鷹村に聞いた話によれば廣谷にとって『竹の里歌』は特別な一冊のようであるから、それを知らなかったというのはけっこうな衝撃なのだろう。これくらいなら専門家でなくとも知っているだろうと思っていても、実際聞いてみたら思っていたより知られていなかったり、あるいは反対に知らないだろうと思っていたことが知られていたりするものだ。

「子規の遺稿第一集なのですが」

「今も出版されていますか」

「されていません」

 それにはあっさり答えて、廣谷は言葉の代わりに大きな溜息をついた。そんなにがっかりしなくともと思ったが、自分にとっての常識や感動が他人に伝わりようもないとわかれば致し方ない反応だった。智枝子も昔醤油は蚕で作られていたことがあると知ったとき先人の発想に感動し、嬉々として舞子に話したが、ひどく沈痛な面持ちで「気持ち悪い」と一蹴されたことを思い出した。あれはやはり食事時に話したのがいけなかったのだろうか。

 とにかく落ち込まれたまま話が進まないようでは困る。話題の方向を変えようと、智枝子は昨日鷹村に聞いたことを口にした。

「この本のほとんどが廣谷さんの授業で使用したものか、授業中に廣谷さんが話題にしたものと聞いたんですが、今日教えてくれたこの三冊についてどうですか」

 すなわち『御伽草紙絵巻』と『仰臥漫録』、それに『赤光』だ。

 すると落胆の表情からみるみるうちに不信そうな表情に変わっていく。間にそういえば、と思い出したような顔を一瞬したのを見て、表情の変化に忙しそうだなあ、などと外れたことを考える。

 廣谷が何を思っているのかはだいたい見当がついたので、不機嫌に拍車がかかる前に先手を打つ。

「鷹村さんが教えてくれました。協力を仰ごうと声をかけたのは私です」

 それを受けて、たかむら、と口のなかで廣谷が呟く。いつもの無表情に戻った顔には、誰だったか、と書かれていた。少なくとも機嫌は持ち直してくれたようだ。声をかけたのは自分である、と伝えたのもそれを助けたのだろう。うぬぼれた言い方になるが、智枝子が考えて行動したことに対して、廣谷が文句を言わないことはわかっていた。

「さっきまで質問を受けていたんじゃないんですか」

「ああ」

 鷹揚に頷く。

「文章のきれいな子です」

 るり子はともかく、廣谷が褒めるだなんて珍しい。学生が相談や質問をしに来たときに智枝子は何度か立ち会っているが、ついさっきまで話していた相手のことも廣谷はすぐに意識の外に飛ばしてしまう。そのときいま質問に来ていたでしょう、と智枝子が言えば、「ああ」と鷹揚に頷いたあと、廣谷が続けるのは「眼鏡をかけていた」だとか「髪が長い」、「服の青かった」という外見についてか、「文字が汚い」、「よく授業を理解した気になっている」とけなすかの二択で、今のように褒める言葉は一度も聞いたことがない。

 智枝子が「国文学の二大教授にパイプを持つ謎の学生」なら、鷹村は「国文学の二大教授に褒められる稀有な学生」といったところか。そこまで考えて、心底どうでもいいことだなと考えを打ち消す。

「先ほどの質問ですが、『御伽草子絵巻』は国文学科の一年生を対象にした、指導の基本となる概論の必修授業で毎年使用しているものです。この授業についてはクラスを二つに分けるので波間先生も受け持っています」

「御伽草子って、昔話の短編集みたいなやつですよね」

「そうです。絵巻とある通り絵があるのでとっつきやすくて、文章がやさしく読みやすいのでここ数年ずっとこれを使用しています。そろそろ変えてもよいかもしれません」

 本当に教授なんだな、と失礼なことを考える。智枝子にとって仕事をしている廣谷といえば、パソコンと向き合っているか、本を覗く姿くらいしか当然ながら見たことがないので、ぴんとこない。なにせ普段が普段であるから。

「後期になれば担当するクラスを入れ替えて、『御伽草子絵巻』とは違うものにします」

「それも毎年決まったものを使っているんですか」

「いいえ。毎年波間先生と相談して、異なるものを選択します。少し意地が悪いのですが、試験問題を一年生が先輩に聞いてもわからないように、少なくとも四年間でかぶらせることはありません。前期はともかく後期の他の授業で使用するものも、同じ理由で基本的に扱いません」

 必修の授業で試験問題を先輩に横流ししてもらった覚えは智枝子にもある。当然教える側もそれを見通して、そういう風に工夫するのかと感心する。前期が毎年『御伽草子絵巻』なのは廣谷が言ったようにとっつきやすいということのほかに、単位が取りやすいよう簡単にしてあげているからかもしれない。もっとも、入ってすぐの前期試験までに試験問題を聞けるほど先輩と親しくなれるかはその学生自身にかかっているところが大きいけれど。

 ふと考えがよぎり、少しの期待をかけて廣谷に質問する。

「後期で使用したもののここ四年間分、憶えていますか?」

 廣谷ははっきり、はい、と頷いた。

「今年はまだ決めていませんが、去年は徒然草、一昨年は枕草子、一昨々年は万葉集、四年前は蜻蛉日記」

 ここ四年間と言ったのに、その先もつらつらと出てくる廣谷の袖をくんと引っ張る。

 言葉を連ねるのをやめ、ぱっと智枝子のほうを向いた廣谷に、さらに質問を重ねる。

「それ、原本をコピーしたものを配っての授業ですか?」

「『御伽草子絵巻』についてはそうですが、後期に関しては基本的に現在売られている文庫を購入させての授業です。学生自身の訳と、波間先生か僕の訳と、本の解説と訳を比べながら進めるのが基本なので」

「じゃあ他に、文庫本を買わせるような授業はありますか」

「他の先生方の授業内容までは把握しきれていませんが」

「廣谷さんの分だけでかまいません」

 廣谷の記憶力は必要なことに関してはすこぶるよい。興奮と緊張が織り交ざりながら、口が開かれるのを待つ。廣谷は珈琲を一口飲むと、智枝子の気持ちとは裏腹にあっさりと言った。

「全学部を対象とした授業ならあります。僕は基本的にプリントを作るのが面倒なたちなので、買ってもらって何頁を開いてください、と言ったほうが楽なんですが、文学を専門にしている学生にはなから訳されて活字になっているものを与えてもしようがないので、国文学科の学生が対象の授業で文庫を買わせるようなことはありません」

 それはとても廣谷らしい。確かるり子も似たようなことを言っていたが廣谷とは逆で、一度プリントを作ってしまえばあとは毎年同じものを使えばよいだけだから楽なのだが、小説は一本全部印刷して配るのは大変だから本を買ってもらっている、と言っていた。研究対象が和歌か小説かの違いからきているのだろうか。

「もちろん教科書として本を購入してもらうことはありますが、文庫本であることはまずないですね」

「その全学部を対象とした授業で買ってもらっている文庫に何があるか、憶えていますか。ここ四年間だけでかまいません」

 それなら簡単です、とやはりあっさりと答える。

「毎年同じ授業をしているのですが、古今和歌集と百人一首です。誰でも知っていて、授業にも試験問題にもしやすい」

「別々の授業ですか」

「同じです。通年の授業なので。前期が百人一首、後期が古今和歌集。ここ四年間なら、他に文庫本を教科書として指定したことはありません」

 断言され、まだ小さかった興奮も昂る。

「それだ」

 思わず声を荒げた智枝子に、廣谷は必要以上にびくりと体を震わせた。智枝子が叫ぶことなどめったにないからだろう。だがそんな廣谷の反応などいちいち気にしてはいられない。鞄から筆箱を取り出し、色のついたペンを探す。二色ボールペンしか入っていなかったがかまわない。赤の芯を出す。

「廣谷さん、それはとても有力な情報です」

 赤いボールペンで、「○万葉集」の横に二本の線を勢いよく引く。

「いま名前が出てきた古今和歌集、百人一首、万葉集のいずれもここに書いてありますが、これだけが異なります」

「授業が、ということですか。なるほど」

 万葉集だけが国文学科専攻の学生対象の授業で、それも使用された年がはっきりしている。鷹村と立てた国文学科の二年生から四年生がやったのではないか、という仮説は、おそらく正しい。

「もちろん断言はできませんが、私が昨日、鷹村さんと話して得た情報と一緒にして考えると、誰がやったのかをかなり絞り込めると思います」

 やはり国文学の学生に協力を仰いだのは正解だった。今日も廣谷の話を聞きながら、鷹村から聞いた話をいくつも思い出したし、同じ授業でも教員側と学生側で意識していたり、記憶している点が異なるのは当然だ。聞いた相手が、たまたま最高学年である四年生で、廣谷のゼミに入っていたのもかなりの幸運だった。この大学の文学部がどういう単位体制になっているかなど知るよしもないが、同じ国文学科でも廣谷の授業をほとんど取ったことがないという学生もいるのではないだろうか。

「情報」

 鸚鵡を返され、顔を上げる。手を白衣のポケットにつっこんで、目線を余所に向けている廣谷は、智枝子の視線には気づいていないようで、そのままひとりごとのように呟いた。

「よくできた男ですよ」

 男とは、鷹村のことだろうか。聞き返すが、なんでもありません、とごまかされる。廣谷がなんでもないと言えばそれはもう聞きだそうとしても(おそらくるり子以外は)なかなか難しいものがあるので、気にしないようにする。それに続けてペンを貸してください、と手を差し出されたので、さらに質問するタイミングはなくなってしまった。

 手に持っていたペンを渡すと、赤の芯から黒の芯に入れ替え、廣谷は何かを書きこんでいく。

「だいたいこんな感じです」


御伽草子絵巻  国文学科対象、一年生。通年(前期)。

新装版全訳源氏物語 二巻  文学部対象、二~四年生。前期。

○竹の里歌

おくのほそ道  国文学科対象、一~四年生。後期。


○古今和歌集  全学部対象、一~四年生。通年(後期)。

○万葉集  国文学科対象、一~四年生。通年(三年前の後期に使用)。

○百人一首  全学部対象、一~四年生。通年(前期)。

仰臥漫録

○赤光


 同じような文字が並んでいるが、癖がなく読みやすい廣谷の字なので邪魔くささがない。素直に感心しながら、上から下まで何度か読みこんで頭に詰めていく。

 そのなかで、源氏物語が目についた。確か鷹村は雑談のなかで出てきた気がする、と言っていたにすぎず、授業で使用しているとは言っていなかった。彼が授業を取っていなかっただけなのだろうか。

 廣谷にその旨を聞けば、ああ、とあっさり言う。

「今年度から担当することになったんですよ。昨年度までは源氏物語を中心に研究していらっしゃる先生が担当していたのですが、満期退職なされたので」

「じゃあこの本がなくなると困るんじゃないですか」

「いいえ、この本自体は使いませんから。訳してあるものを読んでどうするんです」

 源氏物語を授業で受け持っているということを伝えておいたほうがよいかと思って。ペンを智枝子の手に返しながらそう続けられ、小さく頷く。そうか、当り前なのかもしれないが文学をやる人間は原本を読んで、自身で訳すのか。思えば英語で書かれた論文を訳してこいと言われたことはあっても、これが訳したものだ、などと渡されたことはない。

 珈琲を飲んで、一息つく。ソファに全身を預けるようにしてもたれる廣谷が、智枝子の肩に当たるか当たらないかの髪を一つまみしていじりだした。

「君はその子をとても信頼しているんですね」

「その子?」

「さっきの、きれいな文章を書く子です」

 おそらく鷹村のことだろう。きれいな文章かどうかは昨日筆談した程度のものしか知らないが、間はあれど、こんなに長く誰か別の一人のことを廣谷が口にするだなんて、褒めていたことといい、今日は珍しいことばかりだ。もっとも、やはり名前は憶えていない、というより憶える気がないようだけれど。

「僕の担当する授業を全部把握しているだなんて、どうしてわかるんです」

 言われてみれば、そうかもしれない。いくつ授業があって、そのうちのいずれが誰の担当かなど、智枝子自身も取った授業くらいしかほとんど記憶していない。少し考えて、でも、と答える。

「最初から自分より詳しいとわかっている相手が、いろいろ考えながら教えてくれたら、それはいちいち疑ったりしないでしょう」

「そうでしょうか」

「違うでしょうか」

「どうでしょう」

 言葉遊びのように続ける廣谷は、いじっていた智枝子の毛先付近から一度手を離し、そのまま手を少し持ち上げて一房を智枝子の耳にかけた。指先が少しだけ頬のあたりに触れる。ひんやりとした指だった。やさしく、柔らかい動作に、智枝子は抵抗なく受け入れる。普段は髪の下に隠れている耳が露わになって、風が入ってくるようだ。

「ああ、でも、そうですね」

 一人で何かに納得したように目を細め、うっすらと笑う。

「山宮さんは、そうですね」

 そうと言われても、どうだと言うのか。自分ではよくわからない。

 何と答えたものかと思っていると、廣谷がぱっと顔を上げて智枝子の向こうに目をやる。

「いま、音がしませんでしたか」

「音ですか」

 特におかしな音は聞こえなかった。智枝子が首を傾げていると、廣谷は真剣な顔で頷く。先ほどの表情に比べると険しい。

「確かにしました。かち、という音です。聞き覚えがある」

 廣谷はじっと考えるようにして、目を伏せた。聞こえなかった智枝子は露わになった左耳の耳たぶをつまむ。音が鳴り続けているわけではないので、無意味なことはわかっているのだが、耳を澄ませてみる。しかし当然、何も聞こえなかった。

「ドアの開閉の音です」

 そう時間を有せず、思い出した、と廣谷は確信の表情で言った。

「ここのドアですか」

「そうです」

 間違いない、と表情を明るくさせているが、それならば、かち、ではなく、ばたん、ではないだろうか。静かに閉めればぱたん、かもしれないけれど。

 かけられた髪は無意識のうちにそっともとに戻して、両手を小さく組む。耳が涼しいとなんだか変な感じがする。

「この部屋のドアはいちいち把手をひねらないと、ラッチボルトが引っかかってしっかり閉まらないんです」

「ラッチボルト?」

「仮締りのことです。ドアが勝手に開閉しないように、把手を動かすと一緒に出たり入ったりするあれです」

 そういう名称なのか。初めて聞いた単語になんとなく頷くしかない。とりあえず何のことかは理解した。しっかり閉まらず仮締りが引っかかるのは智枝子も知っている。言われてみれば、ぱたんと音がするはずもない。

「普通に開け閉めすれば、一応ドアも閉まろうとして少しだけラッチボルトが奥に入るのですが、すぐに力が負けてはね出してしまい、それが引っかかって、かち、と音が鳴ります。いま聞こえてきたのは間違いなくその音です」

 部屋の主が間違いないと言うのだからそうなのだろう。だがドアが開いているということは、隙間があるということだ。少しの風で動いたとしても不思議ではない。

「風で動いたんじゃありませんか」

「いまは無風だと思いますが」

 示されて窓を見ると、開いてはいるが風は入ってきていない。

「誰かが通ったとか」

「多少の動きはあるかもしれませんが、あんな大きな音はしません」

 智枝子には聞こえていないので大きいかどうかはわからないが、普段自分が開け閉めするときと同等の音量で聞こえてきたと言いたいのだろう。確かに人が通ってできた程度の風で、動いたとしても音がするほどドアが動きはしないか、おそらく。

「走ったのかもしれません」

 部屋の外は長い廊下なので、走ろうと思えば充分勢いよく走れる。

「それなら足音も耳について然るべきでしょう」

 忍者が通り過ぎたのではあるまいし、そう言われればそうだ。かちと音がしたと廣谷に言われたあとも、ばたばたとした音は聞こえてこなかった。

「では、誰かがこっそり部屋に入ろうとしていたのでしょう」

「そのほうが合点がいきますね」

 これで解決した、と再びソファに深く腰を落ちつかせる廣谷に、つっこむべきかどうか悩む。それがいまここで争点となっている、いわゆる犯人というやつではないのか。

 智枝子は廣谷とは反対に腰をあげて、ドアを見に行く。ラッチボルトは引っかかったままだ。廣谷が言うとおりかち、という小さな音がしたのであれば、慌てて出て行ったのかもしれない。そこで冷静さを持って、ゆっくり音がしないようドアを完全に閉めでもしてくれれば、誰かが覗いたと確信を持てたところだったのに。

 しかし智枝子がいつものようにドアを完全に閉めていたら、廣谷以外の誰かが部屋にいるか、廣谷が鍵を締めたかのどちらかだと判断できる。そうなると覗いてくることもなかっただろうと思えば、収穫は五分五分か。

 右手の袖を下げて、時計を見る。二時だ。部屋の奥へと戻り、また同じようにソファに座った。

「今の時間って、授業中ですよね」

「はい。三限目の時間です。二時半に終わります」

「今日みたいに火曜日のこの時間、ここにいますか」

「いません。四限目に授業があるので、その授業に対する質問に来られるのが鬱陶しくて、図書館か、どこか外に行っています」

「それって、学生なら知っていることですか」

「少なくとも国文学の上の学年は知っているのではありませんか。毎年この曜日は同じカリキュラムで、毎回研究室にはいないので質問に来ても無駄ですよと伝えていますから」

「ちなみに四限目の授業って、何ですか」

「卒業論文です」

 それでいいのか。咽喉まで出かかった言葉をなんとか飲みこむ。文学部にとって卒業論文は最後の集大成ではないのか、きちんと指導をしろと説教の一つでもしたいところだが、おそらくそれはもうるり子が口を酸っぱくして、廣谷の耳にたこができているのだろうから、背中を何度か小さく伸ばし縮みさせて耐える。

 たたみかけるように繰り出した質問の最終的な答えに妙な廣谷らしさを感じながら、すっかり冷えてしまった珈琲を飲み干す。

「あれ、それなら今日はなんで外に行っていないんですか」

「それは山宮さんが」

 突然まごつき始めた廣谷の顔を覗きこむ。廣谷は一度智枝子と目を合わせると、瞬き一つで余所にやり、小さく溜息をついた。

「いえ、僕が、昨日余計なことを言ってしまったので」

 一日口を利かない、というやつだろうか。

「きっと今日は僕のところへ顔を出してくれないだろうから、波間先生のところで待ち伏せようと思ったからです」

「文庫本五冊で」

「文庫本五冊で。くだらない、古書三冊と一蹴されたあとに文庫本五冊にまで粘ったのだから儲けものです」

 それはすごい。廣谷にしてはるり子相手にかなりがんばっている。もっともそのがんばりはもっと別のところで発揮されるべきだと思うが、智枝子に会おうとそこまでするのは、なるほど学会の人たちが廣谷を出席させる誘い水として智枝子に声をかけるわけだと変に納得する。あまり心地よいものではないけれど。

 今度の休みに文庫本ついでに昼食か夕飯を奢らされるに違いありません、と廣谷はぶつぶつ言っている。苦手だなんだと言いながら、本人は遺憾かもしれないが外から見れば案外仲良しだ。

「明日は来ないでしょう? 水曜日ですから」

 授業の入っていない水曜日は基本的にここには来ない。今期の授業が入っていない曜日が水曜日だというだけで、昨年度は月曜日だったり木曜日だったりしたのだが、ともかく智枝子に授業が入っていない曜日にるり子は呼び出さない。試験時期の多忙なときか、緊急でないかぎりは、休みの日は休めというるり子の方針に甘えさせてもらっている。

「だから、今日を逃したら二日あいてしまうと思って。そうなると自分で言いだした手前、少々気まずいので」

 喧嘩して、謝るタイミングを逃していたらいつの間にか疎遠になる、というのは少なくない話だ。るり子の部屋で会ったとき、廣谷がずっとそわそわしていたのを思い出す。一日過ぎたら何事もなかったかのように話しかけてきそうなのに、そんな普通の感性を廣谷が持っていたとは驚きだ。

 何にせよいろいろ調べたり探しているなかで、間が空くと考えが途切れてしまう。そのため明日は来ようかと思っていたのだが、黙っておく。

「まあそれはもういいんです、話を戻しましょう」

 先に山宮さんが得たという情報を教えてください、と廣谷は言った。頭のなかで整理しながら、昨日鷹村から聞いた話と、それによって出した結論を伝える。

 昨日の時点で廣谷に教えてもらった五冊、つまり『御伽草子絵巻』、『仰臥漫録』、『赤光』を除いた状態での話だが、そのいずれもが廣谷の授業で使用していたか、授業中に話題になっている本であるということ。『竹の里歌』は先ほどの廣谷を見てもわかるように、思い入れのあるものらしいし、鷹村は「いくつか授業を取っていたら、誰でも知っている」と言っていた。学生たちの間で知られているということだ。もっともあやふやだった『新装版全訳源氏物語』は、今年度から源氏物語を扱う授業を受け持っているというから、以前の授業で話していたかもしれないという鷹村の話と合わせて、少しの後押しはされている。もっともこれ自体は使っていないということだけれど、いくつか翻訳されている源氏物語のなかで廣谷が薦めていたとしても不思議ではない。あるいは誰の訳したものがよいですか、と質問の一つでもしたのかもしれない。加えて今日聞いたばかりの『御伽草紙絵巻』も毎年授業で使用している。

 先ほど廣谷が紙に書きこんでくれたのを見ても、国文学科のみを対象とした授業がいくつかある。仮に犯人を学生とすれば、やはり国文学科の二年生から四年生と絞っても支障はない。今年度から受け持っているという源氏物語の授業も、対象が二年生から四年生なら、後期でしか扱わない授業があることも含めて、一年生は除外したままでかまわないだろう。

「それにさっきの、万葉集です。国文学科の必修授業で、扱ったのがここ四年間では三年前だけとなれば、今の四年生がいちばん怪しいのではないでしょうか」

「なるほど」

 たったこれだけの情報からよくそこまで絞りましたね、と廣谷は頷きながらも、大きくあくびをした。相変わらず一切隠そうとしない。飽きたというわけでもないだろうから、智枝子も気にせずはい、と頷く。

「教員である可能性は考えませんでしたか」

「考えましたが、気持ちとして」

「もしそうだとしたらいやだと。本を盗んでいる時点で教員だろうと学生だろうといやなものはいやですよ」

 それは、もちろんそうだ。そもそも犯罪であるし、廣谷にとって教員は同僚だ。昨日はなくなったことよりも、なんて言っていたのに、今日は随分傍若無人な態度である。自身の学生だからといってどうこう、という性格でもないと思っていたのだが。

「山宮さん、これらの僕の本を盗む理由は何だと思いますか。『古今和歌集』や『万葉集』くらい、波間先生の研究室にもありますよ。それなのにわざわざ僕の本を狙う理由です」

 深くもたれていた背中を持ちあげて、脚に肘を乗せるようにして智枝子をじっと見つめる。わかりません、と答えるのは憚られた。前かがみになっているので廣谷を上から見下げる形のまま、智枝子は押し黙る。何か答えなければ、目を離してくれないだろう。

 今までの話は、すべて仮定のうえで進めていることだ。共通点として廣谷が授業で使用した、あるいは話題に出したものであること、そしてその授業が今の二年生より上の学年、特に『万葉集』に限って言えば四年生だけがすべてに当てはまるということ。

 可能性として濃厚になってきた、と勝手に想像していることを、形にしようと口を開く。

「廣谷さんのことが、すきだから、ではありませんか」

 じっとこちらも見つめ返したまま答えると、語尾は消えるようになってしまった。何もおかしなことは言っていないはずだと廣谷の反応を待っていると、

「すきだから、ですか」

 歪んだ顔で、薄く笑った。

 今まで見たことのない廣谷の表情に動揺する。自嘲しているのはよく見る。今回も、「僕のことをすきなんて人がいるわけないじゃありませんか」といつもの自虐で一蹴されるのかと思ったのだが、今のは自嘲ではなかった。間違いなく、まだ姿のわからぬ犯人に対しての嘲笑だった。

 目が合っていたからか、まるで自分に向けられたような気がしてどきりとする。頭ではそんなことはないとわかっている。廣谷に懐かれて――もとい、すかれているのは智枝子自身がよく知っている、のだけれど。

 ぱっと目線を前に向け、廣谷は前かがみの姿勢から大きく後ろに逸れて伸びをした。すぐ横の本の山がぐらぐらと揺れたが、倒れることはなかった。

「では先ほどドアの音をさせたのが「犯人」だったとして、この曜日のこの時間は授業を取っていない学生、特に四年生ということになりますね」

 そうですね、と消え入るような声で、頷くのが精いっぱいだった。廣谷の表情はもう平素のものに切り替わっていたが、まだ動悸がしている。表情を表に出すのが苦手だというだけで智枝子は「鉄の女」であるはずもなく、すぐ感情を押し殺せるほど器用でもなかった。

 キーンコーン、とチャイムが流れ、必要以上にびくりとしてしまう。部屋にスピーカーはないので、廊下から漏れてきている音だ。廣谷は音の方向を見つめるように顔を上げたあと、左手首にしている時計を覗き見た。

「二時半。授業間の休憩は十五分、そのあと九十分間の四限目です」

 ぱっと立ちあがり、自身と智枝子のカップ両方を軽やかに手に取って流しに向かう。先ほどの表情は気のせいだったのかと一瞬混乱してしまうくらい、いつも通りだ。

「あの、結局次の本がこれだという理由は何でしょうか」

 休憩が終わって廣谷が授業に向かう前に聞かなければとテーブルに置いたままの『不如帰』を指差すと、振り返った廣谷がああ、とほほ笑む。まるで普通の教員のように。

「課題にしておきましょう。ヒントは授業で使用していない本をよく見てみること、です」


 次の授業は長引く場合が多いので、あとで電話でもかまいませんよ、と廣谷は言い残し、やはり鍵も閉めずにさっさと授業に行ってしまった。卒業論文と言っていたから、るり子も同じようにこれから自身の卒業論文のゼミの授業だろう。いや、もしかするとゼミの時間は教授によって異なるかもしれない。そんな一縷の望みを持って覗こうとしたものの、とっくに鍵が閉まっていた。卒業論文ならば当然、四年生の鷹村も授業のはずだ。違ったとしても確かめるために国文学の研究室を開ける勇気はない。何か人の目から見てわかるような用事でもあれば別なのだが。

 帰るか、あるいは図書館にでも行こうかと考え、思いなおして廣谷の研究室に戻る。鞄から水筒を取り出して、一杯だけ飲み干した。部外者が教授の研究室に一人で長居するのはよくないことなどわかっているが、本棚を見直したい気持ちがあった。こういうところを目撃されると、自分のほうが犯人として怪しまれるのだろうな、と他人事のように考える。

 廣谷の研究室とるり子の研究室は同じ広さのはずだが、改めて見回すととてもそうは思えない。るり子の研究室は開放的なのも相まって広々とした印象を与え、廣谷の研究室は狭苦しい。ソファも別物だ。るり子が二人、ないしは三人座ればぎゅうぎゅうになりそうな大きさのものを向かい合わせにして、その間にソファと同じくらいの長さの机を置いているのに対し、人一人が横を通れればそれで充分、と言わんばかりの大きなものを一つだけ置いているのが廣谷だ。座ったときの沈みは廣谷のもののほうが深いから、それなりに値段が張っているのだろう。ソファに比べればその前に置かれている長机にそう長さはない。

 一方で、作業をするための机は支給品のようだ。二人とも同じものを使用している。場所も同じだ。異なるのはその向きで、るり子が入口から向かって左側に体が向くように置いているのに対し、廣谷はそのまま背中を向けるようにして配置している。

 そして何より違うのが、ドアを開けてすぐの本棚である。廣谷の研究室は、まるで道をつくるようにして三つの本棚が置かれている。この三つだけ、上部はガラス戸がついており、下部は同じように引き戸だがガラス戸ではなく、中身が見えないようになっている。本来は本棚というわけでもないのだろう。それが入口側に向いている。

 その三つの棚を回り込むと部屋が広がるわけだが、左側の壁には隙間なく本棚が並べられ、反対側の机が置いてあるほうには、流しの部分はもちろん避けてあるが、その横から角に到達するまで同じように本棚が並べられている。左右の壁に本棚が並べられているという点ではるり子の部屋と一緒だ。ただるり子の部屋の流しは廣谷の研究室が入口向かって右側にあるのに対し、左側に設置されている。

 一つの大きな本棚を買い与えられ、ここに収まらない分は売るか捨てるかしなさい、と長いこと言い聞かせられている智枝子には、膨大な量の本が羨ましくて仕方がない。特に廣谷の研究室は、本棚に収納されていない本もかなりの量だ。ソファや、床や、机や、至るところに本が積み重ねられている。たまに何もしていないのに雪崩が起きるくらいだ。このなかから目的を持って何かを見つけ出そうとすれば、確かに廣谷以外には難しい作業になる。

 本棚の中身を見てみると、規則的なものはないが、気持ち判型の大きな本が棚の下のほう、文庫や新書など小さめの本が上のほうに置かれているのに気づく。単純に重いものを下に置くことで棚の重心を安定させ、倒れにくくしているのだろう。

 入口側の本棚を見に、ぐるりと回りこむ。こちらも上部のガラス戸のほうに置かれているのは基本的に文庫や新書の小さく軽めな本ばかりだ。中身の見えない下部の戸を開けてみると、図鑑やら図録やら、大きく重めの本が中心に入っていた。

 本の位置が変わっていた、と具体的に廣谷が教えてくれたのは、本棚の上のほうに関してばかりだった。このあたりから、次は文庫本であるとあたりをつけたのだろうか。ソファの雑誌に関してはそこからずれるが、あの山は本当に無造作に置かれているので、雑誌も単行本もそれこそ文庫も全部入り混じっている。文庫本を探していて山を崩したとすれば、わからなくもない。

 けれどそうなると、新書である可能性も捨てきれないように思える。また棚を回り込むようにして部屋の中心に戻り、ソファ前の机に置いた『不如帰』を手に取る。そのままソファに座り、何気なくカバーをめくって表紙を表に出してみた。

(あれ、カバー?)

 どちらかといえば廣谷はカバーを好まないたちだったはずだ。たとえば書店で文庫を一冊だけ買うと、店員が何も言わずに本にカバーをかけ、そのままかあるいは輪ゴムでとめて渡してくることが多い。そういうとき、廣谷はおそらくそのまま受け取る。店員と話すよりあとでカバーを捨てるほうを選ぶだろう。かといってあれで案外きれいずきなので(本は無造作に置くにせよ、埃は溜めない)、ゴミを持ち歩くのもいやがる。そうなるとゴミ箱があることを認識したときに外すに違いない。

(まあそれはいいとして)

 カバーというのは本来本が傷ついたり汚れたりしないようにするためかけるものだが、本が曲がろうとくしゃくしゃになろうと気にしない廣谷からすれば無用の長物だ。彼が本を大切に扱うとすれば他人の本だけで、るり子と貸し借りしているのを見たことがあるが、借りたときそのままのようなきれいさで返していた。

 カバーをしたままの本はこの部屋にも何冊かある。好まないといってもいやで仕方がないというほどでもなく、なんとなくあると邪魔だから欲していないが、付けられたのならとりあえずそのままにしておくか、というような。本棚に置くときはカバー分嵩増ししてしまうのと、背表紙が見えないのとで捨ててしまう、と以前に言っていた。何冊かあるこの部屋のカバーのかかった新書や文庫たちはすべて棚ではなく、山になっているところに置かれている本だ。

 この本もまだ分別されていないだけなのだろうか。奥付で版を確認してみれば、最近新装されたものだった。

 考えに詰まり、カバーをかけ直す。文庫本なのは本棚の上部分ばかりが乱れていたからだとして、なぜこの本なのかまでたどりつけない。

 それで、机に広がったままのメモを見返してみることにする。廣谷は授業で使用していない本をよく見てみることだと言っていた。

「『竹の里歌』と、『仰臥漫録』と、『赤光』」

 声に出してみる。二冊は正岡子規だが、『赤光』は斎藤茂吉だ。そしていま智枝子が手にしている『不如帰』は徳冨蘆花で、共通点らしい共通点は見当たらない。正岡子規と斎藤茂吉には歌人という共通点があっても、徳冨蘆花は違う。

 そもそも『仰臥漫録』の中身を智枝子は知らない。歌集なのか、いや正岡子規だから随筆かもしれない。『竹の里歌』も中身を知っているわけではないが、題名に「歌」と入っているのだから歌集だろう。そう思いつつ、携帯電話を取り出して検索をかけてみる。

 調べてみれば、『仰臥漫録』は随筆で、俳句の他に水彩画も同じく載せてあると書いてある。『竹の里歌』はやはり歌集のようだった。

 斎藤茂吉は正岡子規の『竹の里歌』に感銘を受けて、子規門下の伊藤左千夫に弟子入りしたと廣谷は言っていた。そうなると、歌人であることに加えて、著者二人の間につながりがあるのはわかる。

 ソファの縁に頭を乗せるようにして天井を仰ぎ見る。話題自体は同じだが、論点をころころと変えてしまっていたので、もう少し何か聞いておけばよかった。そういえば最初に言っていなかっただろうか。

(連想ゲーム?)

 そうだ、確かに連想ゲームと言っていた。別に廣谷も超能力者じゃあるまいし、本当に次に狙われているのがこれなのかどうかの確証など持っているわけではない。もっと楽に考えたほうがよいのかもしれない。

 ソファに預けていた頭を持ちあげ、思考をめぐらせる。

 盗まれた理由を廣谷さんがすきだからでは、と言ったときに、廣谷は否定しなかった。自身の好意はたとえ目に見えてわかるような状況でもことごとく否定し、拒絶するというのに、とても珍しい。もしかして同じことを発想したのだろうか。

 仮に智枝子が盗んででも廣谷の本を手元に置きたいと思ったとして、そして間違いなく廣谷が所蔵してあるものをと思ったとき、考えるのは確実に廣谷の本だとわかり、また読んでいるとわかる本だ。さらにこの大学の国文学科の学生だったとして、自分の思い出とすり合わせようとするならば、授業で使用した書籍を狙えばまず間違いない。

 この部屋からなくなった順番は知らないが、仮に授業で使用した書籍をうまく盗みとれたとしたら、きっと欲が出てくる。常々廣谷が大切だと口にする(しているとして)『竹の里歌』が見つかる。同じように正岡子規だと『仰臥漫録』、そして斎藤茂吉が伊藤左千夫に弟子入りした理由を知っていたとしたら、廣谷の『竹の里歌』が特別だという理由をともに思い出し、おそらく『赤光』もその流れで廣谷の所有物なのだろうとあたりをつける。それに時代は違えど和歌を専門にしている廣谷なのだから、借りた本だとは考えにくい。鷹村には和歌と短歌は違う、教えたでしょうと呆れられそうな考え方だが、今回は許してほしい。

 そしてこの『不如帰』だ。至極単純に、これが「ほととぎす」だから、だとしたら、単純すぎる気はするけれど。

(子規はほととぎすのことだし、正岡子規といえば私のなかでは雑誌の『ホトトギス』だ)

 先ほど検索をかけてみたら、正岡子規と徳冨蘆花は同年代であるようだったし、一度誰かにはまればそこから派生して、他の人から見ればそんなことで、といったことでも気になってくるものだ。智枝子にだって身に覚えがある。

 冊数を重ねるまで気づかれなかったほどうまくやっていたのにも関わらず、昨日は痕跡を残してしまうほど見つけきらなかったのは、おそらくこの本にカバーがかけられているからだ。廣谷がカバーを好まないことを知っていれば、カバーがかけられているのは人から借りたものだと判断しても別におかしくない。

 そこまで考えて、ふっと一息つく。すべて仮定に仮定を重ねたものであるから、いずれにせよ断言できるものではないが、とりあえずこの結論で答え合わせをしよう。

 時計を見れば、まだあと三十分は授業が終わらない。微妙な時間だ。このままここにいるか、それともどこかへ移動しようかと悩んでいると、机に出しっぱなしにしていた携帯電話が揺れた。小刻みに携帯電話が震えるたび固めの机とぶつかり合って、平素以上に大きな音を響かせる。

 ぱっと手に取ると、舞子からのメールだった。

「二人も欠員が出ちゃったみたいで、急遽ヘルプに出ることになりました。帰るの明日になると思うから、悪いけど今日の晩ご飯はなんとかして~><;」

 舞子からのメールはいつも色とりどりだ。今回も「ヘルプに出ることになりました」のあとにショックを受けたような顔の絵文字が踊っているし、「明日」のあとにも晴れマークの絵文字が添えられている。

「了解。気をつけていってらっしゃい。」

 指をすっすと動かして返信する。智枝子のメールはいつでも黒々としていて、舞子いわく「かわいくない」。絵文字も顔文字も使いどころがいまいちわからないので、もっとかわいくしてと舞子に駄々をこねられても、言葉に添えようがないのだ。

 今度は机ではなくポケットに携帯電話を戻し、もう一度鞄から水筒を取り出してお茶を飲む。夕ご飯、何にしよう。一先ずの結論を出し、舞子からのメールを受け取ったことで、考えることが日常に戻っていく。

 ぱっと何かをつくれればよいのだが、料理の腕に自信はない。むしろ普段包丁を持つことすらほとんどない。財布の中身を確認してみれば、きちんとしたところで外食できるかどうかは微妙だ。意外に思われることが多いが、智枝子は痩せの大食いなので、外でお腹いっぱいになろうと思えば少し値が張る。それに一人で食事をするのはあまりすきではない。

 一度るり子と廣谷との三人で外食したとき、るり子と智枝子の食欲を目にして廣谷がげんなりしていたのを思い出す。何度か二人で食べに行っているし(そのときの会計は自分の分くらいはと何度言っても智枝子が出させてもらえることはない)、るり子とはさらに数えきれないほど食べに行っているはずなので、食べる量はなんとなく把握しているにも関わらず、揃うと何か圧倒されるものがあったらしい。ただでさえ小食の廣谷がさらに食欲をなくしているのを見て、不思議な生き物がいるものだと思った。

 るり子に相伴させてもらおうか。あとで聞いてみようと一人で頷く。それがだめなら気は進まないが、ファストフード店で済ませることにする。

 そんなことを考えていると、さらに中途半端な時間になってしまったので、このままここで廣谷が戻ってくるまで待とうと決める。

 今日何度目か、渡された『不如帰』を手に取り、残りの数分を読みながら待とうと決めて頁を開く。ここにある本はどれを読んでもらってもかまいませんし、返してくれるのならば持って帰ってもかまいません。ずっと前に廣谷に言われたことだ。ずっと前と言っても、廣谷が智枝子にあからさまな好意を見せるようになってからなので、たかだか半年くらい前のことではあるのだが、こうして廣谷の部屋に通うようになって、もう何年も経っているような気がする。

 徳冨蘆花の『不如帰』は初版が一九三六年、文庫になったのは二年後の一九三八年。と、少なくとも奥付から読みとることができる。異なった出版社からも出されているのならわからないが、とりあえず手元にある本ではそうなっている。

 廊下のスピーカーからチャイムが鳴り響く。しかし智枝子は読むのに没頭していたため気づかなかった。普段から読書を始めると集中してしまい、電車を乗り過ごしたり、気づけば深夜どころか朝になっていたりするほどなので、廊下から部屋に隙間を縫って漏れてくる程度の小さな音では、智枝子の読書の妨害にはならなかった。

 ぱら、と頁をめくると、その瞬間にポケットの中で何かが震えた。ヴー、という音とともに智枝子の体に振動が伝わってきて、それにはさすがにびくりと反応する。携帯電話だとすぐに気づき、覗いてみると、またメールだった。鷹村の名前が表示されている。

「えっ」

 思わず声が出てしまい、誰もいないのに慌てて口を押さえる。改めて見てみても、確かに鷹村だ。緊張している自分にすぐに気がつく。そのまま見ていると、ふっと画面が暗くなった。一定時間反応がないので携帯電話が設定通りスリープ状態にしてくれたに過ぎないのだが、もう見られなくなることをおそれるかのごとく急いで画面を叩く。小さく深呼吸をしながら、緊張することはない、と自分に言い聞かせて、画面に目を落とす。智枝子の葛藤など関係なく、鷹村からのメールが表示されていた。

「今どこにいる? 廣谷先生の研究室にいるのなら、至急出て研究棟の入口に来て」

 どういうことだろうか。時計を見れば四時十五分を少し過ぎている。おそらく授業は長引く、と廣谷は言っていたが、その授業を取っているはずの鷹村からこうしてメールがきたということは、きっちり時間通りに終わったということだろうか。とりあえずメールの通りこの建物の出入り口に向かうことにする。三階から一階に下りるだけであるし、「至急」と書いてあるから返信するよりも行ったほうがはやいだろう。携帯電話をまたポケットに突っ込んで、水筒を鞄にしまったことを確認し、廣谷に書いてもらった盗まれた本のリストを手帳に挟むと、『不如帰』は手に持ったまま、鞄を肩にひっかけて部屋を出る。

 るり子の研究室はまだドアが閉められていた。気持ち速足で前を通り過ぎ、角を曲がって階段を下りる。途中教員と思われる男性や女性と二、三人すれ違い、そのたびに挨拶を交わす。ちょうど授業を終えて戻ってくる頃合いなのだろう。

 一階まで下りて出入り口にたどり着く。見まわしてみるが、鷹村の姿はない。もしかして「入口」というのはここのことではなかったのだろうか。「入口」というのなら他にもいくつかある。

「自動ドアのある入口に着きましたが、もしかして別の入口ですか?」

 すれ違っていたら面倒だ。手に持っていた本を鞄に入れ、代わりに携帯電話を取り出す。そのままメールを打ち、送信した。送って直後、何気なく自分の送信したメールを読み返し、もっとかわいい文面はないものかとしゃがみこむ。「智枝子のメールは黒い」という舞子の文句が、こんなときだけ響いてくる。おかしなことは書いていないのだからかまわないはずなのに、かといって普段気にしていない分だけどうしたらよいのかわからない。携帯電話を両手で握りしめる。

 入口前、それも廊下のど真中でしゃがみこんでしまったので、だんだん通行人の視線が気になってきた。なぜこんなに落ちこんでいるのかもわからなくなり、立ちあがろうと思ったそのとき、とんとんと肩を叩かれる。振り返ると鷹村だった。

『どうかしましたか?』

 何もこんな情けないところを目撃されなくても、と顔を赤くする。

「いえ……」

 思わず俯く。表情が変わったのを見られるのも恥ずかしい。昨日から鷹村の前ではこんなことばかりな気がする。

 目の前に手を差し出され、手と鷹村の顔とを交互に見やる。鷹村は変わらぬ笑顔で、小首を傾げていた。そうだ、俯くと彼には言葉を伝えることができない。おそるおそるその手を取ると、くんと勢いよく上に引き上げられる。つまずくくらいの勢いで、そんな智枝子を逆の手でも支えながら、鷹村はからからと笑った。やはり声は一切出ていないが、口は開いていて、写真でも見ているような気持ちになる。

『なんだか驚かせたくなって』

 片方の手は智枝子の手を取ったまま、もう片方の手は智枝子の体を支えるように肩に置いたまま、鷹村は口だけを動かした。読唇を習得しているわけではないが、確かにそう読みとれた。じわりと何かがしみ込んでいくのを感じる。何かはわからないけれど、あたたかくて大切にしたいものだ。

 口を動かして話す鷹村を見たのは初めてだ。昨日はほとんど筆談であったし、隣を歩いているときはずっと無言で、手話すらしなかった。廣谷の研究室で会ったときには「ごめんね」と口が動いたが、あくまでも手話がメインで、口で伝える気などない、小さな動きだった。だが今のは違う。間違いなく口だけで伝えようとした。手なんかいつ離してもよいはずなのに。

 もしかしたら友人たちには今のようにして話しているのかもしれない。あるいは伝わらなくてもよいと思われていたのかもしれない。舞い上がるようなことではないのかもしれない。

 それでも、しみ込まれていくそれをとめることなどできなかった。

「……はい、びっくりしました」

 智枝子も手を離すことなく、鷹村を見上げたままそう言った。それを見て鷹村はまた声を出さないままうれしそうに笑い、智枝子から手を離した。いたずらっこのような笑い方だった。

 鷹村はポケットから携帯電話を取り出し、指を動かして何かを読むと、また戻した。今度は昨日のように口を動かさず、手だけを動かす。

『ごめん、今メールがきました。待たせてしまったみたいで』

「あ、いいえ、大丈夫です」

 よく見れば、鷹村のほうこそ髪や襟元が乱れている。しゃがみこんでいたせいで気づかなかったが、もしかすると走ってきてくれたのかもしれない。襟元、と言いながら智枝子は自身の襟を指差す。意図に気づいたらしい鷹村が自身の襟を触って正そうとするが、うまくいかない。

「ええと、後ろです」

 手を伸ばして、鷹村の襟元に触れる。片手ではすぐに直せなかったので、もう片方も伸ばし、首に腕を回り込ませるようにした。鷹村が少しだけ膝を曲げてくれたので、今度はすぐに直すことができた。

『ありがとう』

 左手の甲に指を伸ばした右手の小指を当てて、持ちあげるようにした。こちらこそ、と答えようとするが、鷹村は右手を持ちあげたまま固まっている。やがて手を元に戻したと思えば、次第に顔を赤くさせた。隠そうとはしているが恥ずかしさがにじみ出ているし、何より顔が赤いのでごまかしようがない。自分でも気づいているらしく、今度は右手で目を隠すようにして顔を覆う。何がそこまで恥ずかしいのか智枝子にはわからなかったが、混乱のなかで恥ずかしそうにしている鷹村を見て、なんだかつられて照れてきた。

 頭に疑問符を浮かべている智枝子を見て、鷹村はあの射るような目をゆっくりと瞬かせた。

『今のは、不意打ちでした』

 何が、と聞こうとしたが、その前に鷹村に建物を出るように示される。自動ドアをくぐる鷹村に慌ててついていき、隣まで追いついて顔を見上げると、もう赤くはなかった。平静を取り戻したようで、その切り替えに感心してしまう。昨日も今日も、智枝子は気持ちが乱れるとしばらく引きずってしまっていた。

『時間や予定は大丈夫ですか?』

 足を緩めて、体をななめにしながら鷹村が聞いてくる。智枝子も同じように体をななめにしながら、手話とともに口で伝える。

「大丈夫です。今日はもう何もないので」

『ならよかった。コンビニに行きましょう』

 にっこりと笑顔を向けられて、頷く。なんとなくわかってきたことだが、鷹村のこういう笑顔はおそらく愛想笑いだ。

 ぽん、と軽く頭をつつかれて、首が傾く。つついた鷹村に顔を向けると、自身の顔を指差している。手話で自分を示しているのだろうかとも思ったが、どうもそんな感じではない。意図がわからず困っていると、鷹村は少し考える風を見せ、また昨日のように智枝子の頭をなでた。

「な、なんですか」

 顔が赤くなっているのには気づかないまま、智枝子は触られたところを自分の手で触れながら聞く。そこだけ熱でも持っているようだった。

 答えは昨日と同じだった。鷹村は薬指と小指を伸ばしたまま親指と人差し指、それと中指の中腹をくっつけ、そのあと小指だけを立てた。何が「つい」なのか、それとも鷹村にとってはなでるという行為は特別なものではなく、もっと日常的で軽いものなのだろうか。

 もしそうならいちいちこうして意識しているほうが間抜けである。いちいち反応はすまい、と心に留めるが、今日は続けて鷹村は言った。

『さびしそうな顔をしたから』

 さびしそう。言われた言葉を咀嚼するが、うまく飲みこめない。そんな顔をしただろうか。

「わたしより」

 自身を人差し指で指し示す。これは先ほどの鷹村と違い、そのまま「自分」という意味の手話だ。

「鷹村さんのほうが、わたしのことを理解しているかもしれません」

 智枝子自身が気づいていないことでも、鷹村にそう言われれば、そうなのかもしれない、と思わせるだけの力があった。

 授業が終わったのであろう多くの学生とすれ違う。皆それぞれ何かを手にしながらもしゃべり、前を向いて歩いている。

『そんなことはないと思いますが、顔に出ている分はある程度わかります』

 まずその顔に出ていると言われるのが、智枝子にとってはほとんど初めての経験だった。家族はともかく、友人にすら気づかれることのない表情の差異を、どうして察されてしまうのだろうか。

 学生の笑い声が耳に届く。バドミントンか何かをやっているようだ。広い敷地なのでそんな姿は珍しくもない。

「顔に、出ていますか」

『僕から見れば。耳が聞こえなくなってから、人のことを観察してきましたから、他の人よりは機微を感じていると思います』

 あと二年もすれば、聞こえなくなって十年になると鷹村は昨日言っていた。ということはおそらく十四のときに聞こえなくなったのだろう。もっとも多感な時期だ。今の智枝子から見れば鷹村はとても穏やかだが、そうなるまでにどれだけの時間をかけたのか。

 聞きたいことと、聞いてもよいことの境がわからず、黙り込んでしまう。

 正門までたどり着き、鷹村は曲がるように示した。目の前に購買があるが、そこは利用しないようだ。示されるままついていく。

「あの、廣谷さんの件なんですが」

 言葉をぼかして伝える。

「次は『不如帰』なんじゃないかって言われました。これです」

 鞄から本を取り出して、鷹村に手渡す。鷹村は表紙をめくり中表紙を確認すると、すぐに納得したような顔になって智枝子に返した。

「まだどうしてこれだと思ったかは教えてもらっていないのですが」

 また鞄にしまいながら言うと、鷹村はどこか含みのある笑いを見せた。呆れているような、感心しているような。

 見られていることに気づいた鷹村が手を泳がせる。何と言うか考えているようだった。

『浪漫のある、と言っていいのか』

 浪漫? 智枝子が出した答えに、浪漫がありそうな点は特にない。

『僕も次があるなら、これだと思います』

 コンビニに着いて、鷹村は中に入っていく。智枝子は特にほしいものがあるわけではないので、そのまま鷹村の隣を歩くようにしてついていった。飲み物のコーナーを前にして、

『どれがいいですか?』

 と聞かれる。水筒の中にはまだお茶も入っているし、別にかまわないと伝えようとしたが、見ていないふりをしているのか、伝えようとしたらすぐに正面を向かれてしまう。仕方なく普段買っているジュースを探していたら、まさにその商品を手に取った鷹村に示された。

『これは?』

 目線で勘づくにしても、こちらを見ていた様子もなかったのになぜばれてしまったのか。不思議に思いながら、鷹村ならそういうこともあるかもしれない、と変に納得する。先ほどもそうだが、昨日の今日で、智枝子自身ですら流してしまいそうな感情をすべて読みとられてしまっている。

 小さく頷くと、すでに自身の分は手に持っていた鷹村はさっさとレジに向かい、智枝子が財布を取り出す間もなく会計を済ませた。大半の男性と同じく財布をズボンの後ろポケットに入れている鷹村を見ながら、智枝子もポケットに入れられるような小さな財布を買おうかどうか考える。鞄から取り出す時間だけ、先を越されてしまう。

 行きましょう、とドアを示され、ついていく。方向からして、また学校に戻るようだ。

「どうして『不如帰』だと浪漫があるんですか」

 先ほど聞けなかった疑問をぶつける。『不如帰』はお互いを思いながらも、日清戦争の時代、家族制度のしがらみに引き裂かれる男女の話だ。浪漫というのはこの小説の恋愛的な部分のことだろうか。

『ほととぎすだから』

 ますますわからない。悩むばかりの智枝子を見て、鷹村は立ちどまり道の端に体を避ける。携帯電話を取り出して何かを打ちだした。同じように立ちどまって待っていると、鷹村が携帯電話を差し出した。

「ほととぎす鳴くや五月のあやめ草あやめも知らぬ恋もするかな」

 書かれている言葉を、口に出して読んでみる。短歌だ。

 読み終えた智枝子から携帯電話を受け取り、鷹村は再び歩き出した。智枝子も合わせて足を動かす。

『間違っていたら恥ずかしいので、廣谷先生の答えを聞いたらまた教えてください』

 そう言われると、これ以上質問するのは憚られた。学校に戻ると、出てきたときよりさらに学生があふれ、賑やかしい。正門をくぐって研究棟を目指す。

「何かあったんですか」

 もう前を向いてしまった鷹村の袖を引き、こちらに顔を向けたのを確認して智枝子はゆっくり口を動かす。話が最初に戻ってしまうが、聞きそびれていたことだ。

「至急っていうから、何かあったのかと」

 鷹村は少しだけ目を細めた。

『急がせてしまって、すみません』

「それは別にかまいません」

 俯かないように気をつけながら伝える。理由を述べてはくれないとなんとなく察した。鷹村自身も急いでくれたようであったし、ここまでずっと穏やかで、何もないのならそれに越したことはない。だから気にすることなどないはずなのだが、どこか引っかかる。

 研究棟まで戻ってきて、鷹村は智枝子に買ったジュースを渡した。紙パックについている結露が、受け取ると指についた。

「何度も奢ってもらってすみません」

『こちらこそ、付き合わせてしまって。おそらくもう授業も終わったはずです』

「抜けだしてきたんですか?」

『いいえ、授業終わりに来ました。ただ僕の発表は今週ではないから終わったというだけで、今日発表の子たちが授業終わりに廣谷先生に質問をしていて』

 ああ、卒業論文の授業前は行方不明になるから、それまでになるべく疑問を解消しておこうという算段だろうか。

 そのまま鷹村とともに廣谷の研究室前まで来る。るり子の研究室もドアが開けられ、暖簾がいつも通り風に揺れていた。うっすらと煙草の匂いが漂ってくる。

『明日も来ますか?』

 問われて、どう答えようかと悩む。来ようかとは思っているが、何時頃と決めているわけではないし、このあとの廣谷との答え合わせ次第では来る必要がなくなるかもしれない。

「一応、明日は授業もなくて休みなので」

 どう続けよう、と手を泳がせているうちに、鷹村が頷いた。来ない、と判断したらしい。

『今日はこのあと予定が入っているので、それならメールします。僕も明日は休みなので』

「えっ」

 思わず声が出てしまい、慌てて口を結ぶ。表情が崩れてしまったり、思わず声をあげてしまったり、鷹村には振り回されてばかりだ。いや、勝手に振り回されているだけなのだが。

 そんな智枝子を見て、鷹村は口角を上げたまま小首を傾げている。

 どうしようかと悩んでいたつもりだったが、もしかするととっくに明日も来る気で気持ちは確定していたのかもしれない。

 智枝子が何も言わないので、鷹村のほうが手を動かした。

『会いますか?』

 えっ、とまた声が出てしまう。

『休みの日に出てきてもらうのも悪いと思ったんですが』

「いえ、そんな、こちらこそ」

 慌てるように手を動かす智枝子を見て、鷹村はからからとした笑いを見せた。

『あとでメールします。ちょっと時間がおしてきたので、今日はこれで』

 時計代わりにしているのか、携帯電話を見たあと、握った右手を左に倒しながら人差し指と中指を伸ばし、人差し指だけを伸ばして肩の位置から前に出した。荷物を置いているのだろう、研究室に戻っていく鷹村を見て、智枝子も声は出さず、手だけを同じようにする。

『また明日』

 目の端でそれを捉えた鷹村が、目を細めて笑った。

 扉の奥に消えていく姿を見送ると、くるりと踵を返して、るり子の研究室を覗きこむ。るり子以外には誰もいないようだ。暖簾をくぐって中へ入る。

「るり子さん」

「まだいたのかい」

 智枝子の姿を視認すると開口一番、素気なくるり子は言った。言われてみればけっこうな長い時間をここで過ごしている。もう五時前だ。

 机を挟むようにしてるり子の前へと行き、しゃがみこむ。

「自分の感情を抑えるって、難しいんだね」

 抽象的な言葉だったが、るり子は察してくれた。というよりも、智枝子が顔を真っ赤にさせて言うので、気づかないわけはなかった。煙草をくわえたまま肘をつき、普段は知らない人から見れば鉄仮面の姪を興味深そうに眺めてくる。

 わしゃわしゃと髪が乱れる勢いで頭をなでられたあと、最後に仕上げとばかりぽんと額を叩かれた。

「たかだか二十年しか生きていないくせに何を言ってるんだか」

 るり子からすればほとんど三分の一だ。そう言われてしまうと返す言葉もなく、智枝子は乱れた髪を手で整える。舞子が見たら櫛くらい使いなさいと怒られそうだ。

 もっと相談したいところだが、ここでは声が廊下に漏れるので、少々憚られた。それで相伴預かろうと聞いてみると、るり子はやはり素気なく答えた。

「悪いけど今日は無理」

「そうなの」

「向こうの親戚と食べる予定が入っているから」

 向こう、というのは智枝子にとっての伯父のことだ。それなら仕方がないと肩を落とす。智枝子も会ったことはあるが、るり子との会食に邪魔をできるほど気心知れているわけではない。

「なに、お金ないの」

 ないわけではないけれど、と言葉を濁す。智枝子の食事量を知っているるり子はその濁し方に言わんとしているところを読みとって、納得したように声をもらした。

「夕飯なら廣谷にでも奢ってもらえばいい。嬉々として連れていってくれるだろ」

 それは確かにそうなのだが。ここで伯母としてお小遣いを渡すでもなく、雇い主として給金を前払いするでもなく、廣谷に奢ってもらえと言うあたりがるり子らしい。お金を渡したくないのではなく、利用できるものは利用したらよい、特に廣谷は、という考え方だ。本人たちは不服かもしれないが、やはり仲がよいなと改めて思う。

 そうと決まれば言いに行くかと、るり子が腰を上げる。とめても遠慮する必要はないと言われるだけなのはわかっていたので、智枝子も廣谷に申し訳なさは感じつつも黙ってついていく。何にせよ廣谷の研究室に寄って、次が『不如帰』である理由を聞かなければならない。

 ノックを三回したあと、返事を待たずに二人で廣谷の研究室に足を踏み入れる。ドアを開けると誰かとの話し声が聞こえてきたが、るり子はそのまま本棚を回り込むようにして部屋の奥へと進む。智枝子もるり子の後ろから顔を出した。

「相談中だったか、すまんな」

「山宮さん」

 ソファには女子学生が座っていた。るり子がその学生と廣谷に謝罪を入れているのも聞かず、智枝子を確認した廣谷がぱっと華やいだ声をあげた。

 顔を出さなければよかっただろうか、と若干後悔したが、後の祭りだ。相談しにきた学生がじっとこちらを見ている。廣谷に何度も質問しに足を運んできているため、なんとなく顔見知りになっている学生だ。確か廣谷とどういう関係かと初めて聞いてきた子で、たまに廊下ですれ違えば挨拶くらいはする。前までは長い髪をポニーテールにしていたはずだが、今は智枝子と同じ肩にかかるかかからないかくらいの長さになっている。

 そちらに挨拶をする隙もなく、廣谷はぱっと椅子から立ち上がり、智枝子のところへと寄ってきた。

「もう帰ったかと思っていました」

「そうしておけばよかったかなと今思っているところです」

 智枝子の嫌味も廣谷には通じない。一人で気分を高揚させている廣谷に、横からるり子が廣谷先生、と声をかける。

「後でまた来ます。相談に集中してください」

 反射的にすみません、と謝る廣谷だったが、女子学生のほうがいえ、と慌てたように口を挟んだ。

「相談は終わりましたから。お気になさらず」

 ぱっぱと荷物をまとめて、廣谷と智枝子の間を逃げるようにして出て行ってしまう。かち、という音の代わりに、ばたん、と少し大きめの音が響いた。ちょうど風が吹いているから、しっかり閉めようとしたら勢いづいてしまったのだろう。

 悪いことをしたかもしれない。あくまでるり子の助手である以外はただの部外者で、廣谷との間には何の関係性もない智枝子からすれば、教授と学生という本来優先されるべき関係の邪魔をしてしまったのは申し訳なさが先に立つ。

 しかし廣谷は残念ながらもちろんとして、るり子のほうもさして気にしていないようだった。学生のことは人一倍気にかけるたちなのに珍しい。用件を済ませようとさっさと話を進めている。

「そういうことならよろこんで。何がいいですか、焼き肉、焼き鳥……」

「あんた普段そんなものばっか御馳走になってんの」

 るり子に呆れた顔をされ、目を泳がせるしかない。何が食べたいかと聞かれれば、当然すきなものを口にしてしまって、そんなラインナップになる。智枝子とは反対に、野菜や魚が好物の廣谷に対して遠慮がなさすぎるだろうかとは思うのだが、魚料理というのがぱっと思い浮かばず、かといって御寿司などと言えばおそろしく高い店にでも連れていかれそうな気がして、安いお店を知ってるんです、と引っ張るのがいつもの展開だ。そして知っている安いお店というのが、肉料理しかない。

「ジュースで栄養取った気になってないで、鍋とかすきでしょあんた」

 手に持っているグレープフルーツジュースのことを言っているらしい。確かにこれを飲んでちょっとビタミンを取った気になっていることは否定できない。

「なに鍋がいいですか」

「この前食べた水炊きおいしかったわ」

「橘庵ですか」

 るり子と廣谷だけでとんとんと話を進めていく。好き嫌いは特になく、別に何でもよいので当事者であるはずの智枝子は黙って成り行きを見守った。

 流しながら聞いていると、わかりました、と言う廣谷の声が耳に届く。どうやら決まったらしい。

「では行きましょうか、山宮さん」

「あたしもそろそろ行くわ。廣谷、智枝子のことよろしく」

 るり子はさっさと部屋を出て行き、廣谷は白衣を脱いで椅子にかける。いくつかの書類を鞄に入れ、パソコンを閉じると、鍵を抽斗から取り出してドアへと向かう。一応智枝子も部屋を見回してみたが、やはり特に忘れ物はしていないようだ。廣谷のあとについて、ともに部屋を出る。

 鍵をかけ、鞄の脇ポケットに入れると、廣谷は機嫌よく歩き出した。向かいから先ほどの女子学生が本やノートを抱えた状態で歩いてくる。彼女は廣谷を認めると会釈をして挨拶をし、智枝子にも小さく頭を下げた。智枝子も会釈をし、通り過ぎながら頭を上げる。目の端に映る彼女に、一瞬睨まれた気がした。

 思わず立ち止まって振り返るが、女子学生は特に変な様子もなく研究室のドアを開けている。

「山宮さん?」

 立ちどまった智枝子に、廣谷が声をかける。はい、と答えてまた歩みを進めた。気のせいだったのだろうか。


 ぐつぐつと煮え立つ鍋を前にして、智枝子はじっと箸を持ったまま待ちの姿勢を貫く。廣谷はそんな智枝子を向かいで見ながら、花を飛ばしていた。智枝子と同じく廣谷も頻繁に笑うようなたちではないが、表情らしい表情が表に出なくても廣谷はわかりやすい。少なくとも智枝子に対しては。しかしそんな廣谷は今この時点においては意識の端だ。

 鍋としてはもうつついてもよい頃合いである。店の水炊きははなからしっかり味も煮込まれてあるだろうし、野菜は多少生でも問題なく、一度茹でられたと見える鶏の骨付き肉も、つみれも口に入れて大丈夫だろう。わかってはいるが、智枝子としては鍋の野菜はくたくたに、多少溶けているくらいのほうがすきだ。今ここで器に移してしまえば、そのまま勢いで食べ続けてしまうだろう。野菜はくたくたになる前に喰らい尽くしてしまうに違いない。かといって肉だけを先に食べるのも憚られる。鶏と野菜を一緒に取りたい。やはりもうしばらく待つべきか。

 そんなことを真剣に考えているうちに、廣谷は二杯目の酒を頼んでいた。智枝子が箸をつけるまでは、廣谷も食べる気はないようだ。むしろ食べる気があるのかどうかさえわからない。彼が小食なのもあるし、典型的な酒呑みだからでもある。普段は「誰にも会わずに済むから」と車で通勤しているにも関わらず、こうして夜に食べに行くときは飲むことを優先して大学に車を置いていくほどだ。そのうえザルなので放っておくと食べずに延々と飲んでいる。酒と少しのつまみさえあれば、食べ物などいらないというタイプだ。今もお通しだけをちまちまつまみながら飲んでいる。

 まだ二十歳になったばかりだからか、智枝子はあまり飲めるほうではなく、甘いお酒はアルコール度数が高くてすぐ酔うし、日本酒はからいし、ビールは苦い。そのためいつもジュースかお茶を頼む。以前は連れてきてもらっておきながら付き合うことができないのを申し訳なく思っていたが、廣谷としては別に自分さえ飲めればよいらしい。むしろ無理して飲まれるほうがいやだし、食べる量を遠慮されるのもいやだと言うので、その言葉に甘えている。

 くつくつと鍋のよい音を心地よく聞きながら、じっと待つ。メニューを見たらよいお値段だった。智枝子が一人でメニューと値段を見たとしたら、とても入ろうとは思えない。

 ずる、と白菜の上に乗った白菜がすべったのを見て、今だと箸を鍋に伸ばす。すでに取り皿に入れられているポン酢に浸し、息を吹きかけて口に運ぶ。当然だが熱い。一口歯に挟めば、出汁によって潤沢を帯びた白菜から水分が漏れ出てくる。あち、と声が出たのにも負けず、そのまま噛んでしまう。芯までとろとろに煮込まれた白菜が口のなかでとろけていく。そのままもう一枚を口に含み、ほとんど噛む必要のないのではないかというくらい柔らかなそれに満足し、顔も綻ぶ。

 今度は鶏の骨付き肉を鍋から拾い、箸で掴み、反対側を指で直接つまんでかぶりつく。皮をはがすようにして食べ、そのあと骨についた肉に噛みつけば、ほろほろと取れる。一般的に鶏の皮は苦手な人が多いそうだが、信じられない。

「山宮さんって本当に、食べているときがいちばん表情に出ますよね」

 しみじみとした口調で廣谷に言われる。智枝子が鍋をつつき始めたので、同じように鍋から白菜や肉を取っていた。

「そうですか」

「そうです」

 自分ではよくわからない。だが食事は読書と並ぶくらいにはすきだ。食べたものがそのまま自分の体をつくっていると思えば、よりよいものを食べたいし、それならばおいしいものがよい。焦って箸を動かして微妙な気持ちになるよりは、好みの状態になるまで箸を動かさずに待ちたい。

 そして今は好みの状態になったので、箸を動かしたい。嚥下してはまた新たに取り皿に入れ、を繰り返す。値が張るだけはある。

 鍋が出てくるまでに聞いた廣谷の「答え」は、おおむね智枝子の考えたとおりだった。正岡子規といえば雑誌の『ホトトギス』であるし、子規という名前もほととぎすのことである。実際廣谷が徳冨蘆花の『不如帰』に興味を持ったのはその流れであり、そういった話はちらほら授業でもしているということだった。徳冨蘆花の、というよりは、「ほととぎすと名のつくものは気になってしまう」というような。正岡子規と関連しているところを狙っているのだろうと廣谷は言い、「それにほととぎすなので」と言った。鷹村も同じことを言っていた。その理由を聞こうとしたときに店につき、頼み、鍋を待ち、さらに煮立つのを待っていたので、まだ聞けていない。

 ある程度鍋の中身を平らげて、るり子に摂れと言われた野菜とつみれを追加で注文し、煮立つのを再び待つ。待ちながら、すでに四杯目を口にしている廣谷に今度こそ質問を投げかけた。

「ほととぎすって、何なんですか」

「鳥です。カッコウ目カッコウ科カッコウ属。日本にはちょうど今の時期に渡ってくる鳥」

「そういうことではなく」

「山宮さんは、どんなことを知っていますか」

 ほととぎすについて? 野菜だからかいつもより箸を進めている廣谷を見ながら、考える。これまで気にしたことのない鳥だ。

「名前を当てる漢字が多いですよね。あとは鳴き声くらいしか知りません」

 追加した野菜はまだ芯が残ってそうなので、つみれを口に運ぶ。ふわっとしておいしい。

「ほととぎすの迷信は多くあります。古くから夜に鳴く鳥として珍重されていて、その年に初めて聞くほととぎすの鳴き声は忍音と言われます。『枕草子』ではその忍音を人よりはやく聞こうと夜を徹する姿が書かれていますし、江戸時代から伝えられているものでは、厠のなかにいるときにほととぎすの鳴き声を聞くと不吉であるとか。当て字が多いのも、中国の古典に基づくものがほとんどです」

 どちらの迷信も初めて聞いたものだったが、智枝子が知らなかっただけで有名な話なのだろうか。

「あ、口のなかが赤いんでしたっけ」

「そうですね。子規は初めて喀血したときに、ほととぎすの口のなかが赤いことになぞらえて、異称である子規を号として使い始めました」

 あくまで酒をメインに口に運びながら、廣谷が首肯する。こうやってたまに食事に行くと、食生活が心配になってくる。ただでさえ細いのに、これ以上痩せたら倒れてしまうのではないだろうか。もっとも廣谷からすれば、細身の体に似合わぬ大食に、食べたものはどこにいってしまうのかと智枝子が心配になるらしい。

「夏の夜に黄泉の国に渡る鳥だと言われています」

 鍋の下のほうに沈んでいた野菜を嚥下しながら、智枝子は顔を上げる。黄泉の国。

「辞世の句なんかでもよく出てきますね」

 廣谷は箸を置き、メニューを開く。

「鳥羽天皇、足利義輝、柴田勝家、久坂玄瑞、木戸孝允……まあ、あげたらきりがありません」

「それは黄泉の国に渡る鳥だから、使われているのですか」

「いいえ、もちろん全部が全部そうではありませんが、そういった部分もあります」

 店員を呼び、酒とお茶を追加で注文した。鍋にはまだ追加で入れた野菜がくつくつと音を立てている。これ以上は廣谷が手をつけないことはわかっていたので、遠慮なく箸を伸ばす。

 夏の夜に黄泉の国に渡るとは、なんとも風情があるというか、妙に惹かれる話だ。「黄泉の国の」鳥ではなく、「夏の夜に黄泉の国に渡る」鳥とは。

「それが次は『不如帰』ではないかという理由ですか」

「違います」

 あっさり言い放たれる。手持無沙汰なのか廣谷が空になったお猪口を指先でつまみ、くるくると回していると、店員がやってきて新しい酒とお茶を置いてくれた。

 廣谷は自分で酌をして、くいと一杯飲み干す。普段一気飲みなんて酒がもったいない、と新年会の時期によくあるニュースを見ながら言っているのに、どうしたのだろうか。廣谷が酔ったというのは考えられない。

 もう一杯を注いで、廣谷はじっとお猪口に入った酒を覗き見ている。なかなか話し出しそうにないので、智枝子は鍋を一旦空にして締めに入るべく取り皿に入れていく。温かいまま食べたいので、少しずつだけれど。

「恋をしていると鳴く鳥です」

 最初の勢いを衰えさせないまま咀嚼していると、ふいにそう言われる。

「恋しいと鳴く、恋をしているから鳴く、恋を伝えるために鳴く」

 言いながら、廣谷の目はまだお猪口に注がれた酒に向けられていた。照明の反射で、彼の目のなかで酒が揺れるのが見える。

 夕方鷹村に教えてもらった短歌が頭をよぎる。

「ほととぎす鳴くや五月の……」

「よく知っていますね。ごがつ、ではなく普通はさつき、と読みますが」

 浅識を露わにしてしまった。専門家を前に恥ずかしい。

「ほととぎす鳴くや五月のあやめ草あやめも知らぬ恋をするかな。いにしへに恋ふらむ鳥は霍公鳥けだしや鳴きし我が念へるごと。ここらへんが有名どころでしょうか」

 鷹村もそうだが、廣谷はそれよりもさらに和歌を暗記しているのかと思うと、頭が下がる。仕事はしているのだろうかと普段は疑ってしまうが、こうやってたまに必要に応じた分だけの知識を聞かされると、若いうちに教授になるだけの実績はあるのだと実感する。そもそもよく考えれば、学会側から出席を請われるというのは相当優秀な証なのかもしれない。

「たくさんの歌が昔から読まれています。主に恋の歌です。『万葉集』では一五三、『古今和歌集』では四二、『新古今和歌集』では四六首。最近ではなかなか見ませんが、身近な鳥だったようです」

「それがどうして理由になるんですか」

「山宮さんが言ったんでしょう、わざわざ僕の本を狙うのは、僕のことがすきだからではないかと」

 ごくん、と咽喉から大きな音がした。

 恋。

 その一文字が、智枝子の頭のなかで浮かんでは消えた。廣谷はなんでもないことのように、また少しずつつまみながら酒を飲み始めている。

 廣谷と恋が結びつかない。廣谷がしているところも、されているところも、どちらもだ。すきだから、というのはもっと漠然とした広義で言ったのだが、考えなかったわけではない。しかし改めて恋愛のみを取りあげられると、困惑する。

 そもそも廣谷が『不如帰』を示したのは、智枝子が「廣谷さんに好意を持っているからでは」と言うよりも前だったはずだ。つまり智枝子の発言から次は『不如帰』だとあたりをつけたのではなく、それより先に廣谷がその考えに行きついていたということになる。

「だからといって人の本を盗み取るような方は願い下げです」

 その通りではあるが、廣谷が言うと違和感をぬぐいきれない。だいたい普段から自分なんかに好意を抱いてくれる人などいないと常々口にしているくせに、こういうことはあっさり受け入れるのか。

 最初に本がなくなっていることを伝えてきたときに比べて、研究室でもそうだったが、随分冷ややかなのも引っかかった。別に大きく気にしていない様子だったではないか。

「廣谷さんは、恋をしたことがあるのですか」

 それで、変な質問になった。驚きと戸惑いが全面に出てしまった。

「あります」

 ちらと智枝子に目線を向けたあと、あっさり答えられる。

「告白をされたことは」

「あります」

 結びつかない。今さっき思ったことをもう一度、改めて思う。もちろん廣谷にも親があり、感情があり、四十になるまでに恋人や友人もあったのだろうが、さっぱり想像ができない。

「あるんですか」

「あります」

 当り前だが何度聞いても同じ返答だ。混乱のままに箸と顎だけを動かし続ける。自分を落ちつかそうとして食欲に流れるのは自分でもかわいげがないとは思うが、廣谷相手に今さらだろう。

「ものを盗まれるのは初めてのことではありません」

 廣谷も廣谷で手酌をとめないまま続ける。前に酌をしようとしたら、「山宮さんにそんなことさせられません」とよくわからないことを言われて断られて以来、智枝子は基本的に廣谷の酒には手をつけないことにしている。

「そのとき僕は院生で、机上に置いていたもの、鞄に入れていたものが、少しずつ減っていきました。別段ものには頓着しないたちなので深くは気にしなかったのですが、同じ院生に話すとそれがいつしか広がって、当時の教授の耳にまで届いたとき少し騒ぎになりまして」

 当時の教授というのは、るり子にとっても師匠筋に当たるひとだ。智枝子もよく話を聞いている。廣谷とるり子の歳はそこそこ離れているので教えられた時期はかぶっていないが、その教授を囲っての会などで顔を合わせていたので、二人は今のように同じ大学に勤める前から知り合いだったと聞いている。

「騒ぎになったといっても内輪での小さなものでしたが、それから犯人探しが始まりました」

「見つかったんですか」

「割合すぐに見つかりました。最初に相談した院生でした」

 そこまで話して、智枝子が鍋から具材をさらいきったのを確認し、しめの雑炊を頼む。煮込みすぎて出汁が減ってしまっていたのでお湯を足され、米を入れたあとにとき卵とねぎを入れてもらう。そこに蓋をして、煮立てばすくってお食べください、と言い残し、店員は去っていった。それなりに内装もきっちりしたお店だからか、店員の対応がさり気なく、押しつけすぎないもので心地よい。

「女性だったんですが、盗んだものを全部返しなさいと教授に言われて持ってきたものが、それはそれはすごい数でした。僕が気づかなかっただけで、何ヶ月もの間、少しずつ盗み、うまくいったものだから盗む量は増え、次に盗むまでの日数はどんどん短くなっていったようなんです。もう途中から手癖になっていたんでしょうね」

 なんだかおそろしい話だ。私物を盗まれるという経験が二度目だというのもすごいが、盗む量が増えていったためにやっと気づけたというのもぞっとする。もし最初の一回でその人が盗むのをやめたとしたら、泥棒だとは知らないままにともに過ごしていたということになる。

 今回の話とも通ずるところがある。手癖になっているとしたら、突きとめるまでとまらないということではないか。

「そのなかに、『不如帰』があったんです」

 智枝子は目を瞬かせる。確か渡された本はつい最近新装されたものだった。

 その疑問に気づいたらしい廣谷が、言葉を付け加えた。

「新装前のやつです。古書店に売られていたんですよ。山宮さんに渡した分は、中を開いてすらいません」

「すみません、先にちょっと読みました」

「かまいません。中身は知っているので」

 それでカバーがしたままだったのか。納得して続きを待つ。

「僕が子規をすきで、ほととぎす関連のものを集めていると知って、これは手にしなければと思ったらしいんです。当然彼女もほととぎすが恋の鳥だということを知っていたので、これは自分を応援してくれているということだと、都合のよい解釈をしたようで」

 聞けば聞くほど引いてしまう。淡々と話す廣谷はもうすでに思い出の一つとして昇華してしまっているのか、あくびさえした。

 蓋が浮いていますよ、と指摘され、慌てて火を落とす。雑炊は少し蒸したほうがおいしい、と思っているので、火を落としたまましばらく放置だ。

「なんか、こわいですね」

「まあ、そうですね」

 素直に感想を述べると、平時と同じ淡々とした様子で頷かれる。

 しかしそれなら、そのとき盗まれたという『不如帰』はどうしたのだろう。わざわざ新装版を買いなおしているということは、もう手元にないということだ。

 智枝子の疑問を察したらしい廣谷が、目線を酒に落とした。いつものことながら、酔っているようには見えない。

「そのときの『不如帰』は捨てていない限り、彼女が持ったままのはずです」

「盗まれたものは返してもらったんじゃないんですか?」

「全部かと聞かれると、僕にもわかりません。そもそも何が盗まれたのか把握していなかったので、いくつか隠されたままであっても気づきませんでしたし、実際今も覚えがありません」

 ただ、と廣谷は続けた。

「『不如帰』が手元からなくなって、結局戻ってこなかったことは、よく憶えているんです」

 盗まれたままだと主張したのに返ってこなかった、のではないのだろう。おそらくそのときの廣谷は何も言わなかったに違いない。最初はものに頓着しない廣谷だからこそ、気づいていても言わなかったのかと思ったが、今の様子を見ていると、そういうわけではなさそうだ。

「今回の盗まれ方はあのときと非常によく似ている」

 あ、と思った。気にしていないように見えたのは勘違いだったのだと悟る。もっと冷淡に、侮蔑すらしていることを、目の奥で廣谷は語っていた。盗まれたことそれ自体にではなく、好意をそういった表現で示されたことに呆れているのだ。

 これで好かれていると言われても、首肯しがたい。廣谷のことがすきだからでは、と答えたときの、ぞっとするほどの嘲笑が思い出される。

「そのひとはどうなったんですか」

「どうって、別にどうにも。そのまま学びをともにして、向こうは修士で卒業しました」

 どこかの大学に講師として就職して、そのあと結婚したと聞きましたが、それ以降は知りません。他の院生時代の同級生から流れてきた情報なのだろうが、廣谷と同じ職業に一旦はついたのかと思うと、なんとも言えない気持ちに肩をすぼめる。

「告白でもされたのかという話なら、されましたよ」

 タオルを持って開けた蓋を、その言葉で取りこぼしそうになる。湯気がほわっと舞い上がり、雑炊はとてもおいしそうにできていた。鶏の油でつやつやになっている出汁と、卵の黄色とねぎの緑がうまく融合してきらきらと照っている。

 蓋を脇に置き、少しくらい食べてください、と廣谷の分も一杯だけ盛って渡す。不服そうにしていたが、一応文句は言わずに受け取ってくれた。智枝子も自身の分を茶碗に入れて、さっきまで使っていたポン酢と、新たに出されたポン酢とを入れて軽く混ぜる。

「そんな状況で」

「いいですよ、先に食べたいんでしょう」

 遮られるよう言われ、また肩をすぼめる。続きが聞きたいのも本当だが、目の前でほかほかと湯気を出している雑炊をおいしいときに口に含みたいというのも図星なので、遠慮なく箸を動かす。廣谷はそんな智枝子を見て、さっきまでのかたい表情を少しだけ和らげた。

「思わず盗んでしまうくらいすきだから、付き合ってくれればきっと僕のことをいちばんに考えて尽くしていける、みたいなことを言われました」

「どこからつっこんだらいいんでしょうか」

「耳を貸す必要もありません」

 廣谷は新しいポン酢だけを少したらし、軽く混ぜると食べ始めた。

 たまに口にするその鋭い物言いに、智枝子は廣谷の人間らしさを感じる。

「廣谷さんは、そのひとのことがすきだったんですか」

 箸をとめて聞くと、廣谷も箸をとめた。目の奥が揺れた、気がした。

「わりと」

 その一言を落とすように答えて、廣谷はまた箸を動かし始める。なぜものがなくなっているのを最初に話したのがそのひとだったのか、智枝子は深く考えないことにした。

 ただ、廣谷が院生のときに『不如帰』が戻ってこなくても何も言わなかったことと、今日に至るまで買いなおすこともなかったのは、無関係ではなさそうだ。

「そうですか」

「そうです」

 言いながら、智枝子もまた箸を動かし始める。雑炊はとろっとして、出汁とポン酢が絡みあって、本当においしかった。

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