ホトトギスの鳴く

葉生

第1話

 あ、と思ったときには、もう遅かった。ついさっきまで感じていた腕への重みがない。そこかしこに散らばっている本が理由を語っていた。ここの曲がり角は視界が狭まるから普段から気をつけていたはずなのに、こんな荷物が多い日に限って。

 衝撃はそう感じなかったので痛みはなかったが、相手のほうはわからない。本の角は思っている以上に凶器で、特に今日は判の大きい、分厚くて表紙のしっかりした本ばかりを持ち運んでいたから、なおさらだ。しかし何よりもまず本を落してしまったという事実に一瞬茫然と立ちつくしてしまった。すぐに我に返ってすみません、と頭を下げる。しかしそこに相手の姿はなかった。しゃがみこんで散らばった本を拾ってくれている。その姿を見て、男性だったのか、とぼんやり思いながら、慌てて同じようにしゃがみ、本を拾っていく。思いのほか広い範囲に落してしまっているのは、判の大きいもののほかに、文庫や新書も含まれているからだ。軽い本は、時に驚くほどよく飛ぶ。

 最後の一冊になったとき、ぶつかった相手と手をのばすタイミングが一緒だった。反射的に顔をあげると、相手も同じように目をこちらに向けた。そしてにっこりと笑う。つり目で切れ長で、鋭い印象を受けそうなものだが、黒目が大きく、愛嬌のよさを感じた。

 見たことのある顔だ。国文学科の研究室の隅に腰掛けているのが思い出される。

「ありがとうございます」

 本を受け取りながら伝えると、またにっこりとして去っていった。笑顔のわりに彼がしゃべらないのが少し引っかかったが、戻ってきた重みに視線を落すと、曲がった跡が目に入り、その引っかかりはどこかへ消え去ってしまった。思わず小さなため息をつく。本好きには読めればそれでいいタイプと、本そのものを大切にしたいタイプがいると智枝子は思っているのだが、彼女は明らかに後者だった。本を取ってくるように頼んできたるり子も同じ類であるから、この状態の本を見れば少し眉根を寄せるに違いない。

 今度は落さないようにとさっきより入念に抱きかかえて、るり子の部屋へと足を速める。

 るり子は智枝子にとって、伯母であり姉であった。姉というのは比喩であるが、伯母のほうは事実だ。母と一回り歳の離れた、母の姉がるり子である。幼いころはよく彼女のもとに預けられ、多くの時間を過ごしていた。とはいえ物心つくころの母の記憶がない、というほどでもないから、るり子を母ではなく姉のようだと思うのは、そういう距離感が関係しているのかもしれない。

 ドアを開きっぱなしにして、代わりに暖簾を垂れ下げているるり子の部屋へと入っていく。こうしたほうが学生と交流が取りやすく、また両手がふさがっているときにも便利なのだそうだ。智枝子の本分である学業が忙しくなる実験期間前、つまり今の時期などにはこうして手伝いに来ているのだが、そうでない日は、るり子は助手を雇わず一人で職務を全うしている。今のように智枝子が抱えている凶器のような本たちも、普段はるり子自身が持ち運んでいるということだ。暖簾の横には「国文学科教授 波間るり子」と書かれた名札が掲げられていた。

「るり子さん、持って来たよ」

 本棚に囲まれた部屋の隅で机に向かっている伯母に向かって声をかける。おう、と言ってるり子は読んでいた冊子から顔を上げ、老眼鏡の間から智枝子を確認した。銜えていた煙草を灰皿へと乗せる。ただし火は消さなかった。

 うねりのある白い髪を無造作に後ろへやり、老眼鏡を外して大きく伸びをした。肩よりも長いその白い髪が、るり子を実年齢よりも老けて見せている。智枝子はその見事なまでに真白なるり子の髪がすきだ。昔は黒く染めていた記憶があるのだが、ある日「もう髪を染めるのはやめる」と宣言をし、翌日会ってみれば黒かった髪が真白で驚いたのがいつまでも鮮明である。

 伸びが終わると灰皿に乗せた煙草をまた口に含む。

「ここ禁煙って、前に言っていなかった?」

「御偉いさん方がおわす日は、禁煙」

 慣れた調子で窓の向こうに煙を吐きながら、るり子はなんでもないことのように言う。おかあさんが心配していたよ、と続けてもよかったのだが、その様子があまりにもるり子らしかったので、何度か瞬きするだけでやめた。

「本ありがとう。重かっただろう。そこに置いといてくれ」

 るり子が普段使っている机とは別に、客が来たときや、学生と話すときなどに使う長机を指定され、言われたとおり本を置く。気をつけたつもりだったのだが、それでもどさりと音がした。

 助手のような役回りをし始めてもう二年目になろうというところなので、この場にいる自分にもはや違和感は覚えなくなっていた。智枝子が籍を置く大学はまた別にある。助手、といっても雑務を片付けていくだけの仕事なのだが、そうやってるり子を手伝うようになってから、この大学に出入りするようになった。雑務の多くは本の持ち運びで、図書館から本を取ってきたり、あるいは返したり、部屋の本を整理したりといった具合である。今ではもう図書館の司書にも顔を憶えられていて、二言三言話すまでになった。

 調べやすいように本を分けていると、横からひょいと取られる。あ、それは、と智枝子が説明するより先に、るり子は眉根を寄せて「何だいこれは」ともらした。大きく宙を舞い、背表紙が折れてしまった文庫だ。

 不可抗力ではあったが、落したのが智枝子であることは間違いない。怒られることはないとわかりつつ、少しの罪悪感と後ろめたさで俯きがちに伝える。

「角で人とぶつかってしまって。落したと思ったらこんな状態だったの。ごめんなさい」

「謝ることはないが」

 反対側に折り曲げて気持ちまっすぐになるよう試みながら、るり子は言った。

「本には申し訳ないことをしたね」

 智枝子も並べていた新書を手にとり、カバーをなでる。本は大切に扱うべきだと教えてくれたのがこの伯母であるから、そう言われると、平素以上になんだか申し訳なくて、かなしい。

 冊数を確認し、るり子は煙草を灰皿に押しつけた。智枝子が落ち込んでいるのを察したためか、ぽんと背中を叩く。

「怪我はしなかったかい? 人とぶつかったんだろう」

「それは大丈夫だと思う。ぶつかった人は何も言わなかったけれど、すぐに本を拾ってくれていたし」

「そう。ならいいんだ」

 このあと会議もあるし、今日はもう大丈夫だから帰っていいよと言われ、こまごました荷物をまとめていく。るり子の手伝いをしていると、文学の道に進んでもたのしかっただろうなという気持ちになる。ただ智枝子がすきなのは本であり物語であって、文学研究がしたいわけではないということを重々承知していた。文学研究が身近だったからこそ、ただの本の虫で充分だと今の道を選んだ。そのため悔いはないのだが、手伝いをしているときに国文学の学生とすれ違うと、少しだけ羨望してしまう。本に触れなければならない、それが当り前の生活というものを一回やってみたかった。

「あ、帰る前に隣に顔を出しておいてくれ。本を取りに行ってくれている間、今日はまだかまだかとうるさかったから」

 だからといって国文学の教授にいたく気に入られても、複雑な心境である。思わず苦い顔をしてしまった自分に気づいて、深呼吸を一つ。苦い顔といっても、外から見れば目が細められて、口が少し「へ」になっただけのものだったが、

「あんたの表情をそこまで動かせる相手っていうのも、貴重なものだねえ」

 しみじみとした調子で言う伯母に、今度は溜息をついた。


 こんこん、とノックを二回。返事がないのはわかっていたので、そのまま「失礼します」とドアを開ける。正確には返事はされているのだが、入口まで届く大きな声を出そうとしていないことを智枝子は知っていた。

 入ってすぐのところに本棚が二つ、陳列されてある。これがあるから奥が見えない。そして返事もなかなか響かない。ひらけた状態のるり子の研究室とは異なり、「むやみに人が入ってくるのはいやなんです」と閉じた状態にされてある。返事はしたが聞こえなかっただけでしょうという言い訳が通用するようにつくってあるのだ。

「廣谷さん?」

 本棚の向こう側に顔を出すと、智枝子を確認した廣谷がぱっと表情を明るくさせた。

「山宮さん」

 昨日も一昨日も、毎日のように顔を合わせているというのに、毎回久しぶりに会えたと言わんばかりの反応だ。廣谷が犬ならば今は尻尾を大きく振っているのだろう、と失礼な想像をしてしまう。懐かれた、という感覚が、もっとも近い。

「今珈琲をいれますから、座ってください、座ってください」

 ざっとソファに積み重ねられていた本を無造作に脇によけて勧めてくる。汚れてもいいから、というだけの理由で着ている白衣が翻った。相変わらず本に対して遠慮がない。本棚に囲まれているのはるり子の研究室と同じだが、それ以外にも床にいくつも陳列され、加えてソファや机にも無秩序に積まれている。顔を出すたびに小さく整理をしてはみるのだが、いつも次の日には元に戻っている。たまに部屋が散らかっているほうが落ちつくという人がいるが、別にそういうわけではないらしく、智枝子が片付けをして廣谷が文句を言ったことはない。ただ整理という言葉が廣谷からはぽんと抜け落ちているらしかった。いつもどおりに過ごしていると、ふとしたとき脇に本を置いてしまい、結果(智枝子から見れば)散らかってしまう。

 とはいえ、廣谷はいつもどの本がどこにあるかを把握している。自分自身がそこここにぽいと放るように置いた本はもちろん、智枝子が勝手に整理をした際にも、すぐに見つけ出す。それが不思議で聞いてみたことがある。

「ふとしたときに目線を上げたり、そうでなくとも帰るときや入ってきたときに本棚は必ず目に入るでしょう。そうしたらだいたいどこに何があるかなんてすぐわかるじゃないですか。普段なら自分で読んで自分で置いているわけですから、山宮さんが本棚に戻したあとよりもなおわかるのは道理です。山宮さんが整理した際の、山宮さんなりのルールもいまは概ね把握できていますし」

 つまり視界にちらとでも入れば記憶できるのは当り前と言われたわけで、しかもそれの何が疑問なのかと首を傾げられ、絶句してしまった。

 若くして教授の座についたにも関わらず、学会にあまり出席しようとはせず、しかし出席さえすればきっちり仕上げてくるという、厄介者を通り越して変わり者扱いされている(とるり子は言っていた)廣谷は、智枝子から見て変わっているとまでは思わないが、天才肌というのか、確かにずれたところはある。学生からはそこそこ人気を誇る教授らしいが、いまいち信じきれない。智枝子が廣谷と知り合ってからのこの一年と少しの間でも、頼むから学会に出てくれという催促を何度も受けているにも関わらず、どうして出席しないのかと聞けば、どうせ自分がいてもいなくても一緒だと自虐的に話す。廣谷にはそういうことが多い。傍から見れば必要とされているのにあれは建前だと言い、社交辞令だと言い、御世辞だと言う。とにかく自身に好意的な意見をことごとく信じない。それなのになぜか「山宮さんは僕を受け入れてくれる」と、にこにこと話す。その結論に至った理由が智枝子にはわからないので、懐かれたとしか言いようがなかった。名目はるり子の助手としてこの大学に出入りしているはずが、今ではほとんどの時間を廣谷と過ごしている。

 どうぞと出された珈琲は、いつもと同じく、おいしかった。どちらかといえば珈琲は苦手で飲めないと思っていたのだが、廣谷が淹れたものはおいしく飲める。なんでも豆からこだわっているらしく、しかしその理由も「長くこんな狭苦しい部屋にいるのに、珈琲くらいおいしくないとやっていられない」からだそうで、そういうわかるような、わからないようなところに力を入れるあたりが、智枝子が廣谷に付き合う理由の一つではある。

「ありがとうございます。おいしいです」

 一息ついてそう伝えると、廣谷はうれしそうに頷いた。

 しかしいつも二人でいて何をするでもなく、基本は廣谷が仕事をし、智枝子は本を読む。るり子に呼ばれればそちらの手伝いをする。廣谷が智枝子に仕事に関して何かを頼むことは基本的にない。あったとしても「そこの本を取ってください」だとか「パソコンが固まってしまったのですが、どうしたらいいですか」だとか、その程度のものだ。学生が廣谷を訪ねてくることもあるが、智枝子が部屋を出ようとすると引きとめる。結果、智枝子も学生も気まずいままよくわからない三者面談となってしまい、廣谷だけが当り前のようにして学生の相談に乗る形になる。

 普段はるり子の手伝いをしているので、「国文学の二大教授にパイプを持つ謎の学生」として噂されていることを、智枝子は知っている。自身は他大学の、それも理学部に所属しているから、その噂にはなんとも言えない気持ちを抱く。間違ってはいないが、謎の学生という肩書はどうなのか。

 とはいえ一年も不本意な三者面談をやっていると、深くは知らないが、顔見知りの学生も何人かできた。話すようになれば必ず教授とどういう関係なのかと聞かれるので、そのときは理由を説明できる。しかしいざ説明しようとすると、確かに廣谷との関係を言葉にするのは難しい。るり子は伯母なんですという一言で済むが、廣谷の場合は智枝子自身どうして気に入られているのかわからないのだから、なんとも言いようがない。それでいまいち理解されきれないまま、やはり謎の学生から脱せないでいる。

「そういえば知っていますか、山宮さん」

「知っているような気もします」

 何の話か見当もついていなかったが適当にそう答えると、廣谷は神妙に頷いた。くるくるとカップを小さく回している。

「そうかもしれませんが、聞いてください」

「はい」

「最近、本が減っているんです」

 いまいち話が掴めない。

「それは、出版物が減っているということですか?」

 情報社会と呼ばれる今、ほとんどのことはネットでわかるようになった。辞書を引くよりも検索をかけたほうが早いと人は言い、紙の値段も高騰してきて、電子書籍が台頭してきた。電車に乗っても本を読んでいる人より、携帯電話やタブレットをいじっている人のほうが断然多い。

「そうかもしれませんが、今言っているのはそういうことではありません。僕の本が、減っているんです」

 横に積み上げられている本の山を見る。一瞬廣谷が出版する本の部数が減っているのかと思ったが、出版物が減っているという話ではないと言われたばかりだから、おそらくそれは違うだろう。

「廣谷さんの持っている本の数そのものが、減っている、ということですか?」

 そうです、と廣谷は頷く。

 こんなに乱雑に置かれている本が増えたり減ったりして、気づけるものだろうか。疑問に思ったが、少し視界に入ればどこに何があるか把握できると言う廣谷であるから、あながち嘘にも思えない。

「最初は気のせいかとも思ったのですが、確かに、減っているんです。だけれどたとえば図書館から借りてきた本であるとか、誰かから借りてきた本というのは、間違いなくあるんです。減っている本はすべて確実に、僕の本です」

「何冊くらいですか?」

「今のところは、十冊くらいでしょうか」

 結構な数だ。確かにそんな数が自分の本棚から減っていれば、智枝子であっても気づくだろう。智枝子が持っている本と廣谷が持っている本ではその絶対数が違うので、この大量の本の山からたった十冊減っただけでわかるなんてと思わなくもないが、本を重んじているのは廣谷も一緒だ。

 しかし別段焦ったり、腹を立てたり、あるいは気味悪がったりしている様子もなく、廣谷はいつもと変わらず珈琲を片手にパソコンを起動させた。

「ミステリーですね」

「ミステリーですか」

 他人事のように言う廣谷に、鸚鵡を返す。

 ソファに座っている智枝子からは見えないが、廣谷がパソコンにパスワードを入力する音が聞こえてくる。学生たちの情報も入っているのだからと、智枝子が設定したロックだ。部屋の隅に机が置かれているのはるり子と同じであるのに、ドアから入ってきた相手に対して自身は背中を向けるように置いてある廣谷の部屋は、本当に徹底して人付き合いに消極的な配置である。

「人が死ぬものだけがミステリーだと思ってやいませんか」

 起動音が部屋に流れる。

「江戸川乱歩とか、読んだことはありませんか」

「ありますよ」

 そうやって聞かれるのは、少し遺憾である。別段読書家であることを自慢するような気持ちはないが、いわゆる文豪と呼ばれる作家の本は、一通り一冊は読んでいると思う。

「わたしたちの年代は、だいたい江戸川乱歩とコナン・ドイルに興味を持ったものです」

「なんですかそれは」

 意味がわからないと眉根を寄せる廣谷に、智枝子は気づかないふりをして珈琲を飲み干す。

 なぜその二人に興味を持ったのか説明がもらえないと気づいたらしい、椅子に座ってぷらぷらと足を前後させる廣谷は、とても四十代とは思えなかった。このまま不機嫌になられても面倒くさいので、話を進める。

「どんな本がなくなっているんですか」

 語尾を上げずに問いかけるようになったのは、まず間違いなく廣谷の影響である。廣谷が智枝子に言うように、廣谷を特別受け入れているというようなつもりはないのだが、一緒にいて面倒くさい人だと思うことはあっても、いやな気持ちになることはない。波長が合っている、ということだろうか。

「記憶している限りでは、割合最近出た文庫の『古今和歌集』と、『新装版全訳源氏物語』の二巻、これは与謝野晶子の訳のもので、あとは正岡子規の『竹の里歌』……ああ、あれ高かったんですよ」

 しみじみと廣谷は言うが、その「高い」とはいったいどれくらいのものなのだろうか。もっとも身近な文学者のるり子が先日「安くなっていたから思わず買ってしまった」という古書の値段を聞いたら、さすがの智枝子も少し青ざめた。蒐集家も多い学者たちのなかで、どちらかといえば金銭に頓着せず、本に執着しない廣谷が高いと言うくらいだ。相当なものだろう。値段を聞く勇気は出ない。

 十冊という冊数は目で見える範囲の感覚的なもので、具体的にどれと言われるとすべてはわからない、と廣谷は言った。何が抜けているのかわかっているという数冊を聞いて、智枝子は紙に書きだす。メモを取るのは習慣になっているので、紙もペンも、常に持ち歩いている。

「なんだか、全部文学的なものですね」

 書きだされた書名を廣谷も覗きこむ。


『古今和歌集』 文庫

『新装版全訳源氏物語』 二巻 与謝野晶子訳

『竹の里歌』 正岡子規

『万葉集』 文庫

『おくのほそ道』 ソラ本

『百人一首』 文庫


 山宮さん、と廣谷が静かに声を発する。何か他に共通点でもあったのだろうかと、はい、と返事をすると、

「ソラ本という書き方はないでしょう」

 呆れたように言われた。

 廣谷が口にするまま書きだしていったので、手が追いつくのに時間がかかったというのもあるが、ソラ本というのが何のことなのか、智枝子は知らなかった。おそらく奥の細道でソラといえば、松尾芭蕉の旅に同行したという弟子の河合曽良のことだろうかと見当をつけることはできたが、確信はない。

「その曽良で合っています」

 仕方がないので、「ソラ」に線を引いて、「曽良」と書きなおす。それを見て、廣谷は鷹揚に頷いた。

「曽良本というのは、河合曽良の手元にあったのでそう呼ばれています。見せ消ちや書入れがあるので、推敲過程を知る材料として重宝されているんです。まあ重要文化財になっている底本は天理大学附属図書館が所蔵しているので、天理本とも呼ばれますが」

「見せ消ち?」

「もとの文字が読めるようにしたまま、訂正することです」

 なんだかまた「高そう」な本だ。当り前ながら、るり子の研究室も廣谷の研究室も、見る人が見れば文学本の宝庫なのだろう。もっとも廣谷の本棚には彼が趣味で読む本や、献本、読むものがなかったので適当に駅の売店で購入した雑誌などがそれこそ乱雑に置かれているので、宝物を探すのにも一苦労かもしれないが。

 廣谷はもう一度メモをしげしげと眺め、小首を傾げた。

「誰かが持っていったとは、なかなか考えにくいのですが」

 帰るとき以外、つまり授業に出るときも部屋の鍵をかけない廣谷に言われても、それこそ首を傾げたくなる。誰かが持っていったとすればそれは犯罪であるから、断定したくはないが、やはり可能性として高いのは泥棒の線ではないだろうか。

 それでも持ち主が言うのだから、違う可能性があるのかもしれない。

「どうしてですか」

「統一性がないでしょう」

 今度こそ智枝子は首を傾げる。全部が、いわゆる古典文学という、大きな統一性があるではないか。

「時代が違いすぎます。もし仮に誰かが持ち出したとして、その理由として考えられるのは蒐集家であるか、売買目的であるか、あるいは可能性としてもっとも低いですが研究対象であるか、そのいずれかだと思うのですが」

「そうですね。古書にはたまに驚くくらいの値段がついているみたいですし」

「たまにというか、大概そんなものですよ。本の厚みだとか大きさでその価値が決まるわけではありませんから」

 常に最新の情報を集めて発展させる理学に身を置いている智枝子には、その感覚がいまいち理解しきれない。本によっては原価以上の価値がつけられるというのはわからなくもないが、それはただ本がすきだからという一点が理解させてくれているのであって、そうでなければ根本的に話についていけない気がする。

「研究対象であるという可能性は、この本の並びだとほぼないと言ってもよいと思います。そもそも時代が異なるうえに、歌集と物語と随筆が混ざっている時点で、どんな研究をしているのか見当もつかない」

 それはわかる。残りの四冊がどんなものなのかわからない今の状態でも、確かに研究対象という意味では統一性がない。

「蒐集と売買目的ということを理由にすると、この『古今和歌集』と『万葉集』なんか、書店に行けば棚に陳列されています。『百人一首』は訂は最新ではないかもしれませんが、今はなんだか流行っているようですし、同じく書店で手に入るでしょう」

「高い本にまぎれて、カモフラージュのために盗んだということはありませんか」

「さあ。だけれどそれなら、数冊ずつ抜き去る理由はよくわかりませんね」

 そういえば最初は気のせいかと思ったと廣谷は言っていた。あれは一気に十冊持っていかれたのではなく、少しずつ減っていたからそう感じたのか。

「それに『源氏物語』が二巻だけ持っていかれたのもよくわかりません。こういうものは全巻そろっていればこその価値が付与してきますし、蒐集家ならなおさら揃いを欲しがるでしょうし、売買目的であっても同様です」

 言われれば言われるほどそのとおりで、確かに統一性がないばかりか、持っていくにしても持っていったあとの利がなかなか見つからない。他の四冊がわからないのでなんとも言えない部分がないではないが、ばれないようにするのならば、智枝子ならもっと冊数を減らす。最初がうまくいったので味をしめたにしても、そのたびにカモフラージュの本を増やしていったとすれば、やはりばれる可能性が高くなる。

 何が変わるわけでもないのだが、書きだしたメモに顔を近づけて考え込んでいると、ふと目線を感じた。頭を上げると、同じようにメモに顔を近づけていた廣谷の顔がすぐそこにあった。目が合うと廣谷はうれしそうにその目を細め、

「こんなに親身になって考えてくれるなんて、山宮さんはやはりやさしい」

 突然何を言い出すのかと返してもよかったのだが、すでにこうやって廣谷が唐突によろこびを発してくることに慣れてしまっていたので、智枝子ははあ、と心ない返事をしてしまう。

 もし盗まれたとあったら問題であるし、誰でもこれくらいするだろうと思うのだが、廣谷はいつも自分に対してそんな風にしてくれるのは山宮さんだけです、と断言する。

「いつから減ってきたんですか」

「今は何月ですか」

「五月です」

「それなら四月からです」

 このひとの日にち感覚はいったいどうなっているのだろうと思いつつ、四月から、とメモに書き足す。

 ついさっき廣谷は誰かが持っていったとは考えにくいと言っていたが、これが盗みでなければいったい何だというのだろう。まさか本が消えたわけではあるまいし、廣谷の思い違いという可能性は、とりあえず智枝子はないと思っている。なぜかと聞かれても困るのだが、廣谷が言うのだからそうなのだろう。漠然と信じてしまう。

 しかしわかっているだけの情報をもらえたとして、本来外部の人間である智枝子が原因を特定するのは難しい。あるいは智枝子のような、外部の人間がこっそり持ち出しているとすれば、もはや見当もつかない。

 この大学の敷地内に入ることは存外簡単ではある。門のところに警備員が立ってはいるが、常駐ではないし、何食わぬ顔で挨拶をすればまず疑われることはないだろう。学生の見目であればなおさらだ。名の知れた学校であるから見学に来る人も少なくないし、景観がよいので近所に住む人たちの散歩やジョギングコースになっている。建物に入るのも特にセキュリティのかかったところはなく、地図は学内にも掲げられている。わからなかったとしても、受付に行って廣谷の研究室を尋ねればすぐに教えてもらえるだろう。

 考え込んでいると、まだにこにことしている廣谷と目が合った。本がなくなったことに対するかなしみだとか、(おそらく)盗まれたことに対する怒りだとか、そういったものはないのだろうか。そう思わなくもないが、もはや廣谷にとって他人事になっているのだとすぐに察してしまったので、智枝子は眉を下げるしかなかった。

「本を手元に戻したいとか、思っていないんですか」

 それでも一応聞いてみる。んー、とやや考えるようにして俯き、椅子ごとくるくると回りながら、何冊かはそう思いますが、と言った。

「山宮さんが僕のことで悩んでくれているほうが、ずっと重要です」

 だいたい想像していた通りの返答だったので、そうですか、と答える。また思考を戻そうとして、こういう会話を聞かれてしまったときに、あらぬ噂が流されるのだろうか、と今さらながらはっとした。研究室によく顔を出しているといっても一日何時間もいるわけではないのにと不思議だったのだが、慣れていたせいで気づかなかった。

 まだ回っていた廣谷が、突然足でブレーキをかける。あっ、と大きな声を出し、腕時計を覗きこんだ。白衣の袖は使い古された証拠のように、少しほつれていた。

「山宮さん、いま何時ですか」

「今まさに時計見ていませんでしたか」

「見ました。嘘だとよいと思って」

 時計は壁掛けのものもパソコンに表示されているものもあるのに、智枝子の確認を取りたいらしい。結果は変わらないはずだが、求められるまま右手首につけた自身の腕時計を袖から覗かせる。小さいころに右手首につけていた癖で、今も右にないと落ちつかないというだけなのだが、廣谷に初めて見られたときは、何か秘密でも知ったかのような目の輝きを向けられた。

 ええと、と答えようとした瞬間に、鋭い二回のノックと、返事を待たない速さでドアが開けられた。廣谷がびくりと身を縮ませる。なるほどそういうことかと納得し、ドアのほうに目を向けた。るり子だ。

「廣谷教授、今日の会議は必ず出席するように言いつけてあったでしょう」

 わざわざ教授と呼びかけるのは、いつものらくらとしている廣谷に「怒っていますよ」とわからせるための一種のパフォーマンスである。もっとも廣谷はるり子が苦手なので、必要以上に怯えてしまうのだが。

 震える廣谷を横目に「あら、あんたまだいたの」といつもの調子で智枝子に話しかけてくる。そういえば同じ国文学の教授であるるり子はどうなのだろうか。るり子の部屋の入口は暖簾がかかっているだけなので何か下手なことをすればすぐ見つかりそうだとは思うが、仮に誰かに見つかったとしても、よく学生の相談に乗っているるり子であるから、必要最低限しか学生の訪ねてこない(その原因の一端は智枝子にあることはわかっているのだけれど)廣谷の部屋に出入りするより怪しまれる可能性は低いだろう。

「るり子さん、最近研究室の本が減っていたりしない?」

 しかしるり子の返事はそっけないものだった。

「ないね」

 一蹴すると、文字通り廣谷の首根を掴んで部屋を出ていってしまう。廣谷は引きずられながらも慌てて必要らしい書類や文具類をかき集め、「山宮さん、また明日」と智枝子に伝えた。肩書は一応同じだが、大変わかりやすい上下関係である。

 こうやって、顔見知りとはいえ外部の人間だけを部屋に残して、会議の間も鍵をかけようとしないから盗みに入られるのではないだろうか。いや、廣谷の言葉を尊重すれば盗みと断定するわけではないけれど、智枝子のなかではもうほぼ盗みで確定していた。

 智枝子が外部の人間であることや、ただの一介の学生であることを鑑みれば、あとは廣谷自身が動くか学校側に伝えるくらいしかないだろうとは思うのだが、そうしたときの廣谷の反応を考えると、少しでも考え続けたほうがよさそうである。智枝子がどういうつもりでも状況として投げ出した風になれば、間違いなく廣谷はすねる。それがおそろしく面倒くさい。

 しかし智枝子にも智枝子自身の学業や生活があるから、できれば手短に解決してしまいたい。解決するのは何も智枝子でなくてもよいのだが。

 こんこん、とまたノックが二回。智枝子は反射的に押し黙る。ノックをしたところで廣谷の返事が聞こえないのはいつものことだが、今が会議中であることは学科の学生ならなんとなくでも知っているのではないか。まさか来客ではないだろう。それでも入ってくるとなると、件の盗人かもしれない。

 だとすればこんなにも簡単なことはなかった。仮に屈強な男だったとして、乱暴を振るわれたら間違いなく勝てないが、すぐ近くの学科研究室には何人かの学生がいるはずだ。

 ドアの開く音がした。こつこつと、迷いのない足音が聞こえてくる。智枝子はじっと息を詰めて入り口側を見つめていたが、顔を出したのは先ほどぶつかった男性だった。思わず、あ、と声をもらす。相手もさっきの、といった表情で、智枝子に笑いかけた。つられて智枝子も笑う、といったようなことはなかったが、泥棒かもしれないという緊張は一瞬で解け、柔らかい気持ちになったのは感じられた。彼のその表情の動きがあまりに自然だったので、おそらくこれは本の紛失とは何の関係もなく、ただ普通に部屋を訪ねてきただけなのだろう。

 男はデスクトップのまま放置されているパソコンを指差す。正確にはパソコンが置かれている机を示して、廣谷の所在を聞いているのだろう。言葉はなかったが、反射的に立ち上がり、すみません、と反応してしまう。

「廣谷教授は会議に出席されているので、しばらく戻ってこないと思います」

 智枝子の答えを受けて、男は少し困ったようだった。左手にレポートと思わしき紙を持っている。提出しに来たのか、相談しに来たのか。

 こうして改めて見ると、かなり背が高い。身近な高身長というと廣谷だが、それより数センチ高く見える。しかしひょろりとして見るからに貧弱そうな痩せ型の廣谷より、同じ痩せ型でも体の軸がしっかりしているというのだろうか、安定感がある。

「あの」

 話しかけるが、反応がない。距離や位置的に、聞こえなかったということはないと思うのだけれど。男は反応の代わりのように、メモをするために机に広げられたメモ帳とペンを指差す。空に書くような仕種をして、背の低い智枝子を覗きこむように目線を寄越した。使ってもよいか、ということだろう。徹底して発せられない言葉に戸惑いを覚えて、立ちつくしたままでいると、ひょいとペンを取られる。ぶつかったときに感じたのと同じく、やはり黒目が大きくてどこか愛嬌のある目だと思った。

 メモ帳の頭は先ほど廣谷の話を聞きながら書きとめたものになっている。それを見て男は一瞬手をとめたが、すぐにめくって新たな頁へと進む。「先日お願いした質問です。御回答、宜しくお願いします。 鷹村」少しだけ右肩上がりで、とめはねのしっかりしたきれいな字だった。書き終るとためらいなくちぎり取り、左手に持っていたレポート用紙と一緒にしてパソコンの上へと置いた。パソコンは自動的に節電画面へと切り替わっていた。

 彼がしたたったそれだけの動作を、智枝子はじっと見つめていた。

 そういえば、話したことはないが、国文学科の研究室で何度か見かけた覚えがある。うっすらとした記憶がよみがえった。

「あの」

 振り返った彼と目が合い、再び話しかけてみるが、なかなか続きが出てこない。自分でも珍しく困ってしまって、智枝子は何度かゆっくり瞬かせた。こくりと咽喉が鳴る。彼が次の言葉を待っているのが感じられて、気まずさに俯く。

「鷹村さん、と、いうんですね」

 きっちりした字だった。豪快というよりは繊細な。おおらかというよりは神経質そうな。

 影が智枝子に覆いかぶさる。つられて顔を上げると、やはり廣谷よりも背が高い気がした。

 鷹村は小さく頭を傾け、耳元の髪を指ですくった。ぶつかったときと同じく声には出さなかったが、あ、と思った。肌色の、小さな、器械。補聴器。

 またじっと目を合わせる。それを戸惑いと受け取ったのか、鷹村はまるで安心させるように笑い、人差し指と親指をくっつけて眉間に持っていくと、それを離しながら手を広げて宙を切るようにした。声は発せられなかったが、口元はかすかに「ごめんね」と動いたのを見た。しかしすぐに何かに気づき、智枝子のメモ帳とペンを再び手にとる。

「すみません。俯かれると、何を言っているかわからないんです」

 目前に示された文字は、立ちながら書いたためか先ほどよりも歪んでいた。

 今度は顔を上げて、目を逸らさないまま答える。

「こちらこそ」

 鷹村を指差し、両手それぞれの親指と人差し指をとんとん、と二回くっつけ合う。

「すみません」

 そして今さっき鷹村がしたのと同じように、人差し指と親指をくっつけた状態で眉間に持っていき、それを離しながら手を広げて宙を切るようにする。

 その様子を見て、鷹村は感心したようだった。手を口元にあてると、目をかすかに見開いた。

『手話できるんですね』

 今度はメモ帳を机に戻し、ぱっぱと手を動かした。口元はかすかに動いた気がしたものの、さっきのように言葉を認識できるほどはっきりした動きではなかった。

 智枝子も同じように手を動かす。しかし久々のため、どうしても探り探りの動きになった。親指と人差し指を弾くようにする。

「少しだけ。幼いころ、母が教えてくれました」

 見る分にはそれなりの速さであっても理解できるのだが、自分でやろうとすると久々に使うこともあってなかなかそうはいかない。

 鷹村から見ればたどたどしいものになっていたのか、今度はくすくすと笑われた。

『それなりに読唇もできますから、無理しなくていいですよ』

 まっすぐに見つめられて、反応に困る。これが廣谷であればどうしてそんなにこちらを見るんですかと聞かれるほうであったし、廣谷に限らず智枝子は基本的に人の目を逸らさず見つめて話しているのだが、鷹村には射られるような心持だった。

 動けずにいる智枝子をやはり見つめ続けたまま、彼は続けた。

『文学をやるんですか?』

 どういう意味だろうか。薄く眉根を寄せる。その様子を見て、鷹村は机に戻した智枝子のメモ帳を指差した。表情の差異に気づかれたことに驚いた。

『調べているにしては、統一性がないけれど』

 廣谷と同じことを言う。ああそれは、と説明しようとして、口をつぐむ。本が盗まれているかもしれないということを、はたして伝えてもよいものだろうか。廣谷はどうも積極的に問題を解決したがっている風ではない。というより、本人が言っていたように、自分が困っているという事実よりも、智枝子が廣谷の問題について真剣になってくれているということに関心が移ってしまって、困っていることそれ自体はもうどうでもよくなっているのだろう。あくまでも廣谷の問題であって智枝子自身の問題ではないから、どこまで誰になら話してもよいかは難しいところがある。山宮さんだから話したのに、とは彼が言いそうな科白だ。

 そうは言っても智枝子にとってここは他大学であるから、細かいことはわからない。加えて自身の専門とはまったく別の分野のことなどさっぱりだ。問題が大きくなる前に、内部の協力者を得たいというのが本音である。るり子に言えばいちばんよいのだろうが、廣谷がそれを拒否するだろう。本分である学業のレポート提出が近い。あまり手間取られるのも、かといって考えるのをやめて廣谷に悲愴な表情をされるのも若干鬱陶しい。

 しかし何度か見かけていたとはいえ、まだ名乗ってもいない相手を前に、どうしてここまで頼りたくなるのかは不思議だった。なぜだか無条件に信頼できると感じているのだ。あの射るような目のせいだろうか。

『それにあなたを廣谷先生の授業で見かけた覚えはないな』

 それは当然そうだ。学部が違う以前に、所属する大学が異なる。単位互換協定を結んでいる大学同士ですらない。

 教授としての廣谷やるり子の姿は、学生が相談に来るのを聞いている以外、智枝子はまったくと言ってよいほど知らないのだ。

「わたしはこの大学の学生ではないので……」

『そうなんですか? ここに書いてある本、廣谷先生の授業で使ったものばかりなので、てっきり』

 思わず口が開いて、はっとする。廣谷にも鷹村にも統一性がないと言われた本たちだが、盗んだほうからすれば、やはりそこには何かつながりがあるのだ。気づけば鷹村の手を取っていた。

 重ねられた両手に、鷹村は驚いたようだった。それでも智枝子から目を離さないまま、何度か瞬いた。

「協力を、してはもらえませんか」

 そう告げると、鷹村の丸くなっていた双眸が、ふっと和らいだ。取られていない手でとんとんと智枝子の手の甲を叩き、そっと外す。握っている手よりも、触れた指が温かいのを感じた。

『握られていると、話せません』

 彼にとっては大きな問題なはずだが、むしろ愉快そうに笑う。すでに何度か見ている、このからからとした笑顔にほだされてしまう。

『何のことかわかりませんが、僕にできることなら。荷物を持ってきますから、少し待っていてください。廣谷先生が会議中なのに部屋にいるのは、管理を任されているんですか?』

 首を横に振ると、それじゃあ、場所を変えましょうと提案される。確かに主がいないなか、長居をするようなところではない。了承して、またこの部屋の前で合流する段取りになった。


 荷物をまとめて廣谷の研究室の前で待っていると、だんだんと反省と後悔の念が襲ってきた。自分でもどうしてこんなことをしてしまったのか、勢いで頼ってしまったが、やはり迷惑だったのではないだろうか。そもそも智枝子の手で解決できるかもわからない問題に、人を巻き込むのは得策ではなかったかもしれない。

 悶々としていると、鷹村が現れた。上着を着て、肩かけの鞄を斜めにかけている。お待たせしました、とやはり口は動かさないまま手だけを動かし、それでは行きましょうかとさっさと先を歩いていく。智枝子が断りを入れる隙はなかった。こうなれば言ってしまったものは仕方がないと、心を決めて後を追う。鷹村の隣に行けば、自然と智枝子の歩みに合わせてくれた。

 道すがら会話はなく、鷹村の手はそれぞれポケットに入っていた。それを見て智枝子もなんとなく、両手を後ろで組む。足を動かすたびに、手に持っている鞄が軽くはねた。二人の距離は拳一つ分のまま変わることなく、智枝子は鷹村にただ導かれるままついていき、大学を出て近くの店へと入った。よく見かける珈琲のチェーン店だ。

 よく来るのか、慣れた様子で二階席に行き、智枝子を座るよう促した。満席ではなかったが、満席間近の盛況している様子で、横並びの席しか空いていなかった。誰もが一人で静かに珈琲を飲んだり、本を読んだり、パソコンを開いたり、あるいは声をひそませるように話していたので、こんなに多くの人がいるのにがやがやとした賑やかさはないのが不思議だ。鷹村は座らず、荷物を椅子に置いて上着をかけた。

『何にしますか?』

「あ、自分で買いに行きます」

 鞄から財布を取り出して立ち上がると、了承したのか特に制されることもなく、鷹村とともに階段を下りていく。

 こういう店にはなかなか来ないので、上部に掲げられたメニューをにらみつけるようにしてしまう。なんだかよくわからないカタカナが羅列されていて、なかなか頭に入ってこなかった。

「店内でお召し上がりですか? 御席は取ってありますでしょうか」

 店員の質問に、鷹村が頷く。そのまま「カフェ アメリカーノ」と書かれたメニュー脇の、「トール」と書かれた部分を指差す。声は出さなかったが、口は「これを」と動いていた。ホットでよろしいでしょうか、という店員の言葉に、また頷く。店員はにこにこ愛想よく、智枝子のほうを見て「御一緒でしょうか」と聞いた。ここに来るまでと同じく、つい隣にいたことに気づいて、思わず後ずさりする。違います、と答えようとしたのだが、鷹村の目が「何にする?」と聞いていた。どうもこの目に弱いことを自覚しながら、おずおずと今度は机上に置かれたメニューを覗く。珈琲が並ぶなかで、紅茶を一つ見つけた。これを、と声を出して伝える。

 周りがよく行っているのは知っているが、智枝子自身はあまり来たことがないこういった店で、珈琲を頼んでも飲める気がしなかった。廣谷の淹れてくれるあの珈琲にはどんな魔法がかかっているのだろう。

 会計は結局鷹村がしてくれた。何度もお金を渡そうとはしたのだが、両手にマグカップを持っているから受け取れない、と言わんばかりに、さっさと席に戻ってしまう。

「ありがとうございます」

 俯かないように気をつけて、マグカップを受け取る。なんでもないことのように鷹村は軽く頷き、今度は座った。しかしこのままでは横並びで読唇も手話もしづらいのではないか。そう思っていたら、鷹村が鞄からノートとペンを取りだした。

『筆談でお願いしても、よいでしょうか』

 手話で手短にそう伝えられ、頷く。ペンを手渡され、ノートを自分のほうに寄せる。とりあえずはまだ自己紹介が済んでいない。普段智枝子が使っているものよりも太めのペンだった。

「遅れましたが、山宮智枝子といいます。K大学理学部の二年生です。波間るり子教授の姪で、一応肩書はるり子さんの助手として出入りさせてもらっています。」

 書き終ってノートを鷹村に向ける。たまにはねを無視してしまうが、お手本みたいだね、と言われてきた字だ。読めないということはないだろう。ペンを渡そうとすると、鷹村はすでにもう一本ペンを取り出して手にしていた。そのペンで「きれいな字ですね」と書きこみ、そのあとに自己紹介を続けた。

 それによれば、国文学科の四年生で、廣谷のゼミに所属しており、たまに智枝子のことを見かけて知っていたという。やはり噂があった通り、るり子ではなく廣谷の助手をしているのかと思っていたらしい。

「廣谷先生と仲が良さそうだったので」

 続けて書きこまれる。そうか、外から見るとそういう風に取られるのか。学生と接するときの廣谷は対応が悪いかといえば億劫そうな態度は見せないし、質問がまとまっていないようであれば黙って待っているし、邪険にする感じではないのだが、愛想はよくない。また親切にしている様子もない。自分の受け持つゼミの学生の名前もおそらく覚えていないだろう。廣谷は好きか嫌いか、はっきりされるタイプの人だ。

「仲がいいというか」

 懐かれている、と書こうとして、さすがにそれは失礼かと思いとどまる。どういう風にゼミの配属が決定されるのか知らないが、もし廣谷を師事して鷹村が選んだのだとすると、上から目線と取られても仕方がない。

 続きが思い浮かばず、頼んだ紅茶を口に運ぶ。じわりと温まり、ほっと落ちつくのを感じた。どこか緊張していたのかもしれない。ゆっくりと息を吐く。

 目線を感じて顔を向けると、鷹村が片肘をついてこちらを見つめていた。ばちっと音が鳴りそうなほどしっかり目が合って、反射的に逸らしてしまう。続きを待たせてしまっていただろうかとマグカップを置いてペンを手に取ると、智枝子が何かを書きこもうとする前に、片肘をついたまま鷹村がペンを走らせていた。

「やっと表情が柔らかくなった。」

 書かれた言葉を目にして、ゆっくり瞬きをする。瞼を開いたあとも同じ文字が連なっていた。やはり少し右肩上がりの、きれいな字だ。また顔を上げて目を合わせると、うっすらとほほえまれる。なんだか途端に恥ずかしくなって、先ほどと同じように勢いよく逸らしてしまう。無意識に顔を隠すようにして耳たぶに触れる。顔が赤くなっているのが自分でもわかるくらい、熱かった。こんなことはあまり経験がない。人前でこんな風に表情が崩れるなんてことは。

 一度隠すようにしてしまうと、どうやって戻ればいいのかわからない。平常心、と胸の内で繰り返し唱える。気にしているのは自分だけで、相手はそうでもないはずだ。というよりも、そうであってほしい。

 深呼吸しようと息を吸うが、うまくいかない。早打ちの心臓を抑え込むようにして小さくなっていたら、ノートが机の上をすべってくる。

「珈琲、苦手でしたか?」

 ノートをすべらせた長い指の間にはペンが挟んであった。普段智枝子が使っているものの色違いだ。今さらそんなことに気づくだなんて、確かに緊張していたのだろう。まだ心臓は大きく音を鳴らしていたが、だんだん落ちついてくると、今度は二度も連続して、それも勢いよく目線を外してしまったのは失礼だったと申し訳なさが襲ってくる。鷹村に近いほうの手の甲で頬を押さえながら、ペンを動かす。心なしか震えたが、どうすることもできなかった。

「少し。廣谷さんのいれたものは、なぜか飲めるのですが。」

 まだ鷹村のほうを向くことができず、かりかりという音だけが耳につく。あとになればなるほど顔を合わせづらくなるのはわかりきったことであるのに、どうしても首が動かない。

「普段から淹れてもらっているのですか?」

 そうやって言われると、教授の立場にある人に、他大学とはいえ一介の学生たる智枝子が毎回珈琲をいれさせているのは図々しかったかもしれない。いつも部屋に入ればとめる間もなく、嬉々として淹れてくれるのでそこまで頭が回っていなかった。

 少しの罪悪感とともに「申し訳なくも、いつも部屋に行くといれてもらっています。」と伝えると、鷹村の言いたかったのは智枝子が思ったこととは違っているようだった。

「それはすごい。廣谷先生の珈琲は、先生が気に入った卒論を書いた人にだけ淹れてもらえる、学生の間ではほとんど幻扱いされているものですよ。」

 それは初耳である。言われてみれば質問を聞くだにこれは長くなりそうだなという相談のときも、廣谷はお茶すら淹れようとしない(ので、智枝子が学生の分とともにいれる)。

 当り前のように日々口にしていたあの珈琲にそんな秘密があったとは、なんだか意外なような、そうでもないような微妙な気持ちだ。言われてみれば珈琲が苦手の智枝子ですら素直に飲めるくらいおいしいということと、あの廣谷が自ら淹れてくれるということに付加価値があるのだろう。

 学会から変わり者扱いされているという廣谷だが、御多分にもれず学生の間でも変わり者扱いされているということはなんとなく伝わってくる。

「やっぱりそれを飲むのが目標なんですか?」

 まだいつもどおりに戻っている感じはしなかったが、他愛のない、それでいてわかる人にしかわからない話になり、震えもなくなってきた。自分でも気づかぬうちに左手は元の位置に戻り、何とはなしに鷹村のほうに顔を向けられるようになる。

「うん。まず名前を覚えてもらおうと思っていたのですが、誰の名前も覚える気がないようなので、それは諦めました。」

 やはりそうか。あまりにも予想できた様子に、小さく頷くしかない。智枝子も今でこそうるさいほどに名前を連呼されているが、知り合って最初のころは会うたびに「はじめまして」状態だった。そもそも毎日のように通うようになったのは廣谷が駄々をこね始めてからで、それまではるり子が本当に忙しいとき、一ヶ月に一回か二回、呼ばれる程度だった。三日もあけると、それはもう廣谷のなかでリセットされるらしく、何度名乗っても顔に「誰だったか」という文字が書かれていた。それがある日突然あのきらきらした目で「お名前は」と聞かれて以来、智枝子自身が忘れるような細かいことまで憶えている。とにかく興味のあるものとないものとで露骨に態度が変わるのが廣谷だ。

「だから廣谷先生が名前を覚えている「山宮さん」という人がいると、あなたは国文学のなかではちょっとした有名人です。」

 そう書き終ったあとで、僕はその名前を人から聞いたのですが、と付け足した。そういえば耳が聞こえないのだと思い出す。筆談までしているのにすっかり忘れていた。鷹村の所作はとても自然で、不自由さを感じさせなかったが、それはそう見えるだけの努力を彼がしているからなのかもしれない。

 これは顔に出さなかったつもりだが、智枝子の様子を見て鷹村はそのまま返事を待たずに続きを書き始める。

「僕は中途失聴者で、もう二年もしたら聞こえなくなった期間がちょうど十年になります。」

 今まで表情や態度で機微を察してくれた人が家族以外にはほとんどいなかったのでつい戸惑ってしまったが、どうも鷹村にはすぐにわかってしまうようだ。内心急いで、鷹村が書いている横にペンを持っていく。

「それは私が聞いてもよいものでしょうか。もし何か気に障る態度をしていたのなら、ごめんなさい。」

 文章が途中のまま鷹村は手をとめて、智枝子が書いた言葉を眺めた。そしてまたふっとほほえみ、ペンを持ったまま智枝子の頭をなでた。すっぽり頭を覆う大きな手だった。どう反応したらよいのかわからずにいると、見るからにうれしそうに笑う鷹村が目に入る。やはり声は発さなかったので、動いているにも関わらずそこだけ静止画を見ているような、不思議な心地になる。すっかり彼の枠のなかに入っていることに困惑を覚えた。

 すぐに手はどけられ、「すみません」とくっつけた親指と人差し指を額に持っていき、離すと同時に手が空を切るようにされる。考える仕種を見せたあと、今度は薬指と小指を伸ばしたまま親指と人差し指、それと中指の中腹をくっつけ、そのあと小指だけを立てた。一瞬どういう意味だろうかと悩んだが、一文字一文字を表しているのだと気づいた。「つい」だ。

 何が「つい」なのか、頭上に疑問符を並べる智枝子に、鷹村はまたノートと向き合う。

「大丈夫。あなただから話しています。」

 疑問符を浮かべたまま見つめると、鷹村はにっこりと笑った。

「補聴器をつけてはいますが、これがあってもほとんど聞こえません。もしあたかも聞こえているように見えるのなら、それは僕のかっこつけが成功しているということなので、それで良いんです。」

「かっこつけ?」

「そう。耳が聞こえなくても聞こえていたときと何も変わらないという、かっこつけです。」

 そうやって書いているときの鷹村の様子は、無理をしているようではなかった。それもかっこつけなのか、ごく自然に書いているのか、あるいは自然にそう書けるまでの努力があったのか、智枝子には当然わからなかったが、漠然とすごいひとだ、と感じた。

「だけど意思疎通の面ではどうしても限界を感じやすいので、山宮さん(と呼んでも良いでしょうか)が手話をできるのには驚きました。」

 一方的に書かせてばかりで申し訳ないなと思い始めたところで、話題を振られた。ペンを取って、なるべく鷹村の手を休ませる気持ちでゆっくりと書き始める。

「母が介護福祉士をやっていて、幼いころに教えてもらったんです。いろんな人と仲良くなれるように、って言われたのをよく憶えています。母の職場に連れていってもらったとき以外はあまり機会がなくて、今ではしどろもどろになってしまっているのですが、読みとるほうはたぶん大丈夫だと思います。」

 読み終わったらしい鷹村は、なるほどと言わんばかりに大きく頷いた。

 そういえば音声言語をある程度獲得したあとの中途失聴者なら、耳が聞こえなくなったあとも割合はっきり話すことができると聞いたことがある。手話と筆談で、声どころか基本的には口を動かそうとすらしないのには何か理由があるのだろうか。さすがに込み入った話なので聞いたりはしないが、ふっと引っかかった。

 ノートが一枚めくられる。おそらく筆談用に持ち歩いているものなのだろう。ノドの部分には糸が縫われてあり、ちょうど真中にきたことを示していた。

 頁が変わったのを機に本題に入ろうとするが、そもそもの情報が欠落していることに気づく。国文学の教授というより廣谷個人として認識していたので、今まで疑問にも思わなかったことだ。さすがに廣谷のゼミに所属しているという人に聞くのも恥ずかしいものがあるが致し方ない。

「今さらなのですが、廣谷さんの専門って何ですか?」

 溜息の一つくらいつかれても当然だなと思ったのだが、鷹村は驚いたり呆れたりせず、これまでと同じ調子で返事をくれた。

「中世和歌。受け持っている授業はそれに限らないけれど、大雑把に分ければ基本的に上代・中世は廣谷先生で、近世・近現代は波間先生の分野です。」

「上代って、古代ですか?」

 その質問には鷹村はペンをとめ、考える風を見せた。そんなに難しい質問をしたつもりはなかったので智枝子もつられて手がとまる。

 まだ若干考えている様子だったが、それでもやがて書きだす。

「そうと言えばそうですし、微妙に違うと言えば違うような。主に奈良時代を指す言葉です。」

 そこらへんの差が智枝子からすればわかるようなわからないような、門外漢ゆえの理解のなさを感じる。万葉集あたりのことだろうかと自分のなかであたりをつけて、無理矢理納得させる。今のところは大きく気にするべき部分ではない。

「短歌もそういう風に時代が区切られているのですか?」

 続けて質問すると、これにも鷹村は考える様子を見せた。答えに悩んでいるというより、どう説明すればわかりやすいかと思案してくれているようだった。どうも他大学の部外者であること以前に、分野に対する知識のなさで躓いている。これは本当に鷹村に助けを求めていなければどうしようもなかった気がして、勢いででも声をかけたことに対して、後悔から安堵へと気持ちが変わっていく。

「多分山宮さんが言っている短歌っていうのは正岡子規とか石川啄木あたりをイメージしているのだと思うんだけど」

 確かにそうかもしれない。智枝子は頷く。

「古今和歌集とか、百人一首とか、中世の頃のものは基本的に和歌と言うかな。」

 指摘されて初めて、和歌と短歌を一緒にして考えていたことに気づく。言葉にされればその通りで、智枝子も普段百人一首のことを短歌とは言わない。

「これも大雑把な言い方になるけれど、五七調のものには和歌、短歌、長歌、連歌、俳句があって、上代のものは長歌も多いから、五七五七七で構成される短歌と区別をつけるために和歌よりも長歌・短歌と呼ぶし、中世はいろいろ理由はあるが、上代と同じ言い方をすればほとんど短歌になるから区別の必要がなく、和歌と呼ぶ。正岡子規がそれらを研究してレトリックだとか写生だとか言い始めて出来上がっていくのが、今山宮さんがイメージしたような短歌だとか俳句につながっていく近現代で、「短歌」の時代を区切るとなると、正岡子規以降ということになるかな。」

 頭に入れようと何回か往復するが、目がすべる。とにかくずれたことを聞いたというのはわかったし、まったく理解できていないわけではない。説明がわかりにくいということでもないのだが、いまいちぴんとこない。

 智枝子が悩んでいるのが伝わって、鷹村は続けた。

「とにかく正岡子規以降は別物と見て良いと思う。」

 簡潔な一文に、首肯するしかない。

 そうなれば廣谷と鷹村の二人が言った「時代が違いすぎる」の意味もなんとなく把握できた。智枝子から見れば同じ古典文学でも、専門者から見れば、廣谷が言っていたように何の統一性もなく、本来一緒くたにすることはない時代のものが並べられているということだ。ただ廣谷の言っていた言葉を確認しているだけだが、これで自分のなかで附に落とせた。

 鞄のなかにしまっていた自分のメモ帳を取りだす。書籍名を書きとめた部分までめくり、ノートの上に置くと、さっきの、という顔をされた。

「実はこのメモ、廣谷さんの部屋からなくなっている本のリストなんです。」

 なるべく簡潔に、結論を先に告げる。今度は鷹村が質問をする番だった。

「なくなっている?」

「今のところ十冊くらいなくなっているらしいのですが、この六冊が廣谷さんが書籍名まで把握しているものです。」

 あとは廣谷に聞いたことをそのまま伝えるだけだ。こうなると筆談でよかったかもしれない。大学からそう遠くはないから、もし変に話を拾われたら面倒なことになっていた可能性がある。幸い目の前はただの壁で、向かいから覗かれるという心配もない。

 廣谷が話の途中でるり子に引っ張られて会議に行ったので一先ずといった情報だが、鷹村はそれでも真剣に考えてくれているようだった。そもそもなぜ廣谷ではなく智枝子が奔走しているのかというような質問もしてこない。

「この六冊のなかで、廣谷先生の授業に使用していたのは文庫本の三冊と、曽良本の合計四冊です。」

 あ、語尾が敬語に戻ってしまった。

 そう思って、薄く眉根を寄せる。相談しておきながら、なぜ内容より先に言葉尻を拾ってしまうのか。基本的に気づかれることのない表情の動きも、もしかしたら鷹村には察されてしまうかもしれないと思わず眉間に手を持っていきながら様子を窺う。目線がノートに落ちているので見られることなく済んだようだ。少しほっとする。

「曽良本はコピーしたプリントでしたが、当然出典は書いてありました。」

「あとの二冊は関係ありませんか?」

「見覚えはありますが、取っているのは廣谷先生の授業だけではないので、記憶が混ざっているかもしれません。ちょっと待って」

 最後は走るように書き終え、口元を覆った。考え事をするときの癖なのだろう。口元に手をやりながら、やや上向きにじっと一点を凝視している。そうしているといくら黒目が大きいといっても鋭さが強調されて、切れ長なのが浮き彫りになる。

 今は口元を覆っている手の、指が温かったのを思い出す。研究室で掴んだあの手が、さっきは頭の上にあった。あんな風に男の人になでられたのは初めてだ。思い出して、今度は徐々に顔が赤くなるのを感じ、隠すように片肘をつく。

 大学ではおもしろがられているようだが、表情を変えずめったに笑わないことが一因で、高校までは鉄の女と陰口をたたかれていた。一応理系なのでどちらかといえば男性に囲まれてきているものの、父親のいない家庭で育った智枝子にとって、近しい男性といえば祖父と廣谷くらいだ。弟は「男性」というより、「男の子」であるし。

 きっとだから慣れずに恥ずかしいのだ、と気持ちを落ちつかせる。智枝子が意識してそうしているわけではないにせよ鉄の女とまで言われたのに、この人の前では調子が狂う。このたった数時間で。

 かりかりと横から音が聞こえてくる。口元を覆っていた手はいつの間にかペンを持ち、ノートに向けられていた。

「去年だったと思いますが、何かの授業で源氏物語は与謝野晶子訳のものを読むことが多い、という話をしていたと思います。雑談混じりの話で、本当に単なる記憶なので間違っているかもしれません。」

 そういえばどうやって授業を受けているのだろうか。口に出さない智枝子の疑問をどうも読みとったらしく、鷹村が続けざまに書いていく。いよいよ隠しごとをするなど土台無理だと受け入れるしかなかった。

 説明によれば、周りと変わらず授業を受けに行き、鷹村を挟むようにしてボランティアの学生が両端に座り、板書や話している言葉の手助けをしてくれるらしい。鷹村もできる限りノートを取りつつ、両端に座る二人の学生も一緒にノートを取ってくれるわけだ。

「あとこういうものもあって、」

 と鷹村が鞄から取りだしたのは、智枝子から見ればただの四角い器械だ。Wi-fiの子機に近い気がする。器械の先には紐がついてあり、首から下げられるようになっている。

「これを担当の先生の首に下げてもらって受ける。下げている人の音声を、無線で耳の補聴器に受信する器械。」

 そんなものがあるのか。智枝子は素直に感心する。同じ理系の分野でも工学系は専門外なので、技術の発達の受け取り方は文系と特に変わらない。

 じっと眺めている智枝子に、紐を首にかけてきた。鷹村の聴力を知らないので、この近い隣の席同士で普通に話した場合どれくらい聞こえているのかわからないが、こうして筆談をするくらいだから本人が先ほど教えてくれた通り、ほとんど聞こえないと思ってよいのだろう。それがこれをかけただけで、本当に聞こえるのだろうか。

 なんだかよくわからない緊張が襲ってくる。思わず俯きながら、息を吐くようにして「き」と口から漏らす。

「……聞こえる?」

 それは店内にうるさくない程度の、決して大きいとはいえない声だったが、顔を上げると目を細めて笑う鷹村がいた。

「聞こえる。」

 すぐノートに書きこまれた変わらぬきれいな字に、うれしくなってしまう。しかし鷹村はすぐ智枝子の首からそれを外し、鞄に閉まった。忘れたら困るから、と書きこまれる。智枝子が何かを書く前に、そのまま続ける。

「竹の里歌は廣谷先生がちょくちょく名前を出す本で、いくつか授業を取っていたら誰でも知っています。」

「名前を出すっていうのは、雑談で?」

 補聴器でのやりとりに後ろ髪引かれながら問う。鷹村は頷いた。

「学生の頃、当時の自身にとっては大枚はたいて買ったとよく言っています。あれは自分にとって特別なもので、だから研究はできない、というのがいつもの流れです。」

 冷静な目で見ることができないという意味だろうか。そんな大切なものを「山宮さんが僕のことで悩んでくれているほうが、ずっと重要です」の一言で片づけてよいものか。いったいあの人の脳内はどうなっているのだろう。

 とにかくこれですべて廣谷の授業や、廣谷の話に関係する本だとわかった。全巻セットで買ったという『新装版全訳源氏物語』が二巻だけなくなっているのはいまいちわからないが、少なくとも「廣谷の本」を狙ったという可能性は高くなる。

 ただその可能性を考えるとなると、本を盗んだ(と思われる)犯人は大雑把にだが絞られてしまうわけで、それを鷹村に示すのはなんだか申し訳ない。

 そう思っていると、鷹村がさっさと智枝子の考えたことを書きこんでいた。

「もし盗まれたとすれば、内部の人間じゃないでしょうか。」

 先に言われてしまうと気が楽だ。智枝子も同じことを思っていた。『竹の里歌』に関してはいろんなところで言っていてもおかしくない内容だが、『源氏物語』は話がぼやけている印象がある。与謝野晶子訳のものを読むことが「多い」というだけで、それ以外の訳者のものも研究室に置いてあるのを智枝子は知っている。

「廣谷先生が所有者である本を狙ったとして、先生が借りた本ではないと判断できるものを抜いていったとすれば、それなりに距離の近い人だと考えて良いと思います。」

「源氏物語の二巻だけ、なぜ二巻なのかよくわからないのですが、そうですね。」

「なぜ二巻なのかはわかりませんが、全巻ではないのは、単純に重かったか、見つけきれなかったかのどちらかではないでしょうか。」

「見つけきれなかった?」

「先生の部屋は本がひっくり返ったようで、どこに何があるのか一目では把握できないでしょう。」

 なるほど、確かにそうだ。いたるところに積み重なった本を思い出す。全巻そろいながらばらばらになっているのを見て、なおさら一冊くらいなくてもわからないと思ったのかもしれない。指摘されてみればごく当たり前のことだが、気づけなかった。

「教員とは思いたくないし、国文の二~四年生あたりが対象かな。」

 これにも同意見だ。四月からなくなっているので新入生も含めたいところだが、鷹村の話を聞くかぎり、昨年以前の授業の雑談から拾っているようだ。一年生の線は薄い。

 まだあたりをつけただけに過ぎないが、相談を始めてから、とんとんと話が進んでいく。書き続けている右手が痛くなってきた。倍以上書いている鷹村は平気そうに珈琲を飲んでいる。同じように紅茶を口に運ぶと、もうすっかり冷めきっていた。時計に目をやれば一時間半は経っている。そろそろ帰らなければ心配される。

「ごめんなさい、そろそろ帰ります。ご協力いただけて助かりました。」

 ペンを返して、メモ帳をしまう。顔を上げると、ノートをとんとんと指で示された。そこには電車? と一言書かれており、はい、と言葉とともに頷く。鷹村はノートを閉じ、僕も同じ、と手で応える。

 鷹村が帰り支度をしている間に紅茶を飲み干すことにした。マグカップを口から離すと、すっとそれを奪われる。返却口と書かれた場所に彼は二つのマグカップを置いて、智枝子に階段を示した。お礼を言う間もない自然な流れに、慌てるようにして頭を下げ、ついていく。

 道中はやはり会話はなく、行きと同じく鷹村の手はポケットにしまわれていた。それで同じように智枝子も手を後ろに回そうとして、少し考えてから片手を鞄に入れる。信号が赤なので、自然と二人とも立ちどまった。

「あの」

 服の肘のあたりを軽く引っ張る。小さく体がはね、驚いた表情が向けられた。失敗しただろうか。そう思ったのだが、手はそのままに、口だけをなるべくゆっくり動かす。

「連絡先、交換してくれませんか」

 言い終ると同時に、信号が青に変わる。周りで待っていた人たちが足を進めていくのを見て、鷹村は智枝子に返事をせず渡っていく。最初の一歩が緩やかだったので振りほどかれることもなく、智枝子もそのままついていく。口の動きだけで伝わっただろうか。一応先に鞄から携帯電話を取り出して、示すようにはしていたのだけれど。

 二つ目の信号で、また引っかかる。こちらを見ない横顔を見つめていると、ちらと一瞬目線だけを流し、両手をポケットから出して、右の親指と人差し指で手の平を上にした左手を挟んだ。「駅で」

 その答えに安心して、やっと手を離す。またすぐに鷹村の両手はポケットに入り、智枝子も両手を後ろに回して組んだ。今度はすぐには青にはならず、その間鷹村の顔が赤くなっていたことに、智枝子はもう前を向いていたので気づかなかった。


 無事に駅で連絡先を交換し、ホームが反対だったのでそこで鷹村とは別れた。家に帰ると今日は夜勤だという母を送り出し、湯船に浸かり、作り置きしてくれていた炒飯を食べ終わり、智枝子の一日はだいたい終わった。

 しかし改めて考えても廣谷の研究室の本がなくなっているというのは、智枝子には実感がなかった。ほとんど毎日通っているというのに。床にあった山がいつの間にか長机に移動していたり、昨日までソファに置いてあった本が本棚に片してあったり、持ち主以外が把握できる状態ではないと言われればそれまでなのだが、なんだか悔しい。本をぞんざいに扱っているようにしか見えないのに、廣谷もしっかり大事にしているのだ。

(いや、大事にしているのだろうか)

 自分で思ったことにまた自分で疑問を抱きつつ、少なくとも当然ながら関心がないわけではないのは確かだ。

 廣谷と初めて会ったのはるり子の手伝いをするより前のことで、知り合ってちょうど二年くらいになる。愛想のない廣谷に、同じく愛想のない智枝子が挨拶し、やはり愛想のないるり子が仲立ちをしているので、周りの人間はいったいどういう状態なんだとはらはらしていたと後でるり子に聞いた。

 本当にどうして今のようになったのか覚えがない。おそらくは知らないうちに、何か廣谷のツボを刺激するようなことをしたのだろう。悪い気はしないが、この人は今後一人で生きていけるのだろうかと不安になってくる。そもそも今の職に就いたのは、廣谷の師匠にあたる文学教授が「この子はここに置く以外に働ける場所がない」とその将来を心配したところからきていると聞いて、さすがだと言う以外に思い浮かばなかった。実際には心配どころかのたれ死ぬくらい思われていても別に不思議ではない。

 まじめに文学者や大学教授を目指す人たちには反感を買いそうな話だが、実際それだけの実力があった――というよりむしろそれしかなかった――廣谷であるから、人格はともかく、研究には一目置かれていたとは耳にした。

 その師匠筋がるり子の先生でもあり、廣谷がるり子に頭が上がらない理由の一つだ。

 智枝子のことを気に入りだしてから、それまで用件がない限り絶対的に近寄ろうとしなかった(と言っても部屋は隣なのだが)るり子さえもおそれず、廣谷はるり子の研究室を覗いて智枝子の顔を見にくるようになった。そんな廣谷に、「そんなに気に入ったなら助手として雇うかい?」とるり子が言えば、「そんな風に名前をつけて、お金でつながり終われば切れる関係になんて絶対になりたくないです」と固辞する。るり子が智枝子を呼ばなくなるという発想は頭から抜け落ちているらしい。

 そういう部分しか見ていないので、たとえば廣谷の学会での立場であるとか、教授としての姿、授業中の様子を知らない智枝子には、なぜわざわざ廣谷の本を狙うのだろうかと不思議に思ってしまう。本に無頓着そうだから盗んでもばれないだろうとでも思われたのだろうか。だとするとしっくりくる。

 携帯電話と向き合い、電話をかけるかどうか悩む。どうせ明日も会うし急ぐ必要はないのだが、気になることはなるべく消化しておきたい。五回鳴らして出なかったらやめようと決めて、廣谷に電話をかける。

「山宮さんですか?」

 数える間もなく、おそろしいはやさで出られて、思わず耳から電話を離す。めったにかけないからか爛々とした様子が電話口から伝わってくる。

「はい山宮です。お聞きしたいことがあって」

「なんでしょうか。何でも答えます」

 喰い気味に言われる。本当に、どうしてこんなに懐かれているのだろうと、何度目かわからない疑問を頭に浮かべる。

「言っていた十冊のうちの残り四冊、どれか思い出したりしましたか?」

 今度は沈黙が降りる。先ほどまでの勢いと比べると落差が激しく、かすかに聞こえてくるたくさんの小さな音が耳につんざくようだった。これはもう忘れていたな、と察したところで、「忘れていました」と素直な回答が返ってくる。

 それならそれでかまわない。予想できた返答でもある。

「明日また思い出したら教えてくださるとうれしいです」

「思い出せるよう最善を尽くします」

「あとお伝えしたいことがあって」

 勝手に別の人に本の喪失を教えたことは謝らなければいけない。

「すみません。廣谷さんの本がなくなっていること、勝手に別の人に言いました。協力を仰ぎたくて」

 再び沈黙が降りた。その反応が意外だったので、やはり勝手に言うべきではなかったかと焦る。謝りたいというのは智枝子の気持ちであって、廣谷は気にしないだろうと思っていたのだが。やがて聞こえてきた言葉に、すぐに失敗したことを悟る。

「僕だけじゃだめですか」

 しまった、と目を瞑る。明日聞きたいことを聞いてから言えばよかった。自分の本がなくなっていることを誰かに広めたことに怒っているのではなく、「聞けば全部答えるのにわざわざ自分ではない他の人に協力を求めた」というところが問題だ。こうなると廣谷は長い。直接言っていれば慰めたり対処のしようもあるが、電話越しは初めてだ。

「だめではありません」

「でもだめだと思ったから他の人に協力を求めたのでしょう」

 それは違う。それは違うが、どうして鷹村だったのかと聞かれれば答えられない。もしあそこにいたのが鷹村ではなく別の誰かであれば、協力をお願いしただろうか。

 ここで一瞬でも悩んだのがいけなかった。もういいです、という低い声が耳をつく。

「明日は一日口を利きません」

 小さい子どものような怒りの発散の仕方だなと思っているうちに、一方的に電話は切れた――と思ったのだが、「おやすみなさい、山宮さん」と一拍置いたあと続けられる。じっと黙っていると、「山宮さん?」とまた呼びかけられた。

「あ、すみません、おやすみなさい廣谷さん」

 智枝子が答えると、静かに電話は切れた。

 はやくに解決すればいいとは思っていたが、別に今日明日のつもりはなかったので、特に支障はない。支障はないはずだが、はたして一日で済むのか、今までを考えるとにわかに不安になる。このままうっかり休暇に入るとこじらせてしまいそうだ。問題解決以前の問題に、智枝子は頭を抱えるしかなかった。

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