第2話 ふたりの試行錯誤
俺の女性恐怖症、妹尾さんの男性恐怖症を克服しようと思い立った、次の日。俺はいつもより少しだけ早い時間に登校していた。
「ふぁぁ……眠い」
といっても、寝起きで
あくびを噛み殺しつつ、教室に入る。七時半を回ったかどうかといった頃の教室には、誰もいなかった。……ただ一人、彼女を除いては。
「お……おはよう、妹尾さん」
「あっ、うん、おはよ……」
お互い目を合わせずにぎこちない挨拶をし、すぐにうつむいて黙り込む。そして思い出したかのように、妹尾さんはぱっと顔を上げた。
「そ、そうそう!せっかくこうして早く集まったんだし、なにかしてみない?」
「何かって?」
「たとえば……うーん……手を、つなぐとか」
「…………」
「…………」
「「無理無理無理無理!!」」
二人ともほぼ同時に全力で否定した。
会話はおろか、近くにいるだけでも動悸息切れが激しい俺たちなんだ。そんなことをした日には心臓が破裂しかねない。
「さすがに触れあうのは無理だから……声を出すだけにしてみないか?」
「声を?」
「そう。たとえば……挨拶をするとか、名前を呼び合うとか」
「名前……」
俺の提案に妹尾さんは考えるような仕草をして、すぐにぼふんっと音を立てそうな勢いで真っ赤になった。
「……恥ずかしくない?」
「そりゃ、恥ずかしいけどさ。少しくらい恥ずかしくなきゃ、練習にならないと思うぞ」
「そっか……そう、だよね」
少しためらうような仕草をしたが、妹尾さんも覚悟を決めて俺に向き合った。
まずは言い出しっぺの俺が言うべきだよな。
俺は一度深呼吸をして……妹尾さんの目を見て、精一杯の笑顔で挨拶をした。
「せ、妹尾さん……おはようっ」
声が裏返りそうになりながらも、なんとか目を見て言うことができた。だが言った直後に同極のネオジム磁石のごとき勢いでお互いが目をそらしたのは減点ポイントだろう。
「ほら、妹尾さん。次……やりなよ」
「えぇ!? 無理、無理だよぅ……」
「さっき同意しただろ! 俺だって頑張ったんだぞ……!」
「ダメ、ダメだって……~っ!」
茹であがったタコのように真っ赤な顔を手で覆って隠しつつ、そのまま妹尾さんはそっぽを向いてしまった。
そうして数分経ち、今回は諦めようかと言おうとしたとき、妹尾さんは顔を手で覆ったまま指を動かし、そこから目を
「……る」
「え?」
「やる……やるよ、私も」
「いや、無理しなくても……」
「やるの。もう決めたもん」
「そ、そうか……」
まだ赤みの残る頬に、涙のうっすらとにじんだ目。そんな顔をした妹尾さんを見ていると、恐怖心が和らぐ……訳ではないが、少しだけ、ほんの少しだけ、加虐心をそそられてしまった。
いや、だからって何かをするわけではないが。
「……鹿角くん」
「……はい」
「…………鹿角くん」
「……はい?」
どうやら、テンパって挨拶がうまくできないようだ。俺が返事をするたびに慌てて顔を背けてしまい、もう一度向き合ったが、また目をそらしてしまった。
やれやれ……恥ずかしいのは俺も同じだけど、相手してあげようか。
それから何度か試してみたが、俺の名前を呼ぶだけで精一杯のようだ。妹尾さんは元々人見知りらしいし、それに今日は初日だ。焦る必要はないだろう。
それでも妹尾さんは必死で、今も頑張って目を見て挨拶しようと頑張っている。
「鹿角くん、鹿角くん……」
「……」
「鹿角くんっ、か、鹿角くん……」
「……」
名前を何度も呼ばれると、ものすごくドキドキする……
と、その時。教室の外に、人の気配がした。
「誰だ!」
俺が強めに呼びかけると、気配がしたところから人が現れた。
しかも……何人も。
「悪い、泰斗。出歯亀するつもりはなかったんだけど……」
「教室に来てみたら、人気のないところで鹿角くんと
「それで?何の話してたんだ?」
「私も知りたい!聞かせて聞かせて!」
ぞろぞろと教室に入り、クラスメイトとはいえど、大勢の男子と女子に囲まれる。
当然、俺と妹尾さんにとっては大ピンチな訳で……
「……きゅぅ」
「せっ、妹尾さーん!?」
妹尾さんは謎の鳴き声を発して、倒れてしまった。
教室での失敗以降、俺たちの練習場所はカフェになった。妹尾さんの気に入っている店で、価格は毎日通ってもさほど負担にならないくらい安いが、見た目があまりにもしゃれているせいで学生はほとんど訪れないそうだ。ここなら大勢に囲まれる心配もないだろう。
目を見て挨拶は、お互い照れつつではあるが、三日程度で二人ともできるようになった。そこからさらに一週間ほど費やして、一言程度……次の授業の教科は何だとか、宿題はやったかだとかであれば普通に話せるようになった。
とはいえその会話ができるのは妹尾さんに対してだけで、他の女子には目を合わせることすらできずにいた。
そして、数ヶ月後。いくつかの練習を経て、練習はついに次の段階へと進んだ。
「……じゃあ、触るぞ……」
「う、うん……ふゃっ!?」
「わ、悪い!」
「ううん、大丈夫……」
「じゃ、続けるぞ……」
「お願い……んぅっ」
「おお……これが……これが…………妹尾さんの肩か!」
十分ほどかけて近づき、震える手を伸ばして……ようやく女性の身体に触れることができた。これでもまだまだ普通にはほど遠いが、女性が苦手になって以来、こうして家族以外の異性に触れたのは初めてだ。人類にとっては小さな一歩だが、俺にとっては大きな一歩なのだ。
数秒間触れてから手を離し、今度は妹尾さんに触れられるのを待つ。
「よ、よろしくおねぎゃいしましゅ」
「お、おう……」
妹尾さんは緊張でガチガチだ。まるで肘と膝を固定されたような妙な動きで、がたがたと震えながら、数センチずつ俺に近づいてくる。
……
…………
………………
いや、長げぇな!?
確かに俺も時間をかけて近づいたが……俺の二倍近い時間をかけて移動している気がする。
少しずつ移動していることに店員さんは気づいているのか気づかないのか、時折ちらちらとこちらを見ている。正直、触れられるより恥ずかしいかもしれない……
「妹尾さん、大丈夫か?」
「だ、でゃいじょうぶでしっ」
ダメそうだ。
まあでも、限界までは妹尾さんの意思を尊重しよう。
俺はできるだけ妹尾さんのいる方向とは反対を向いて、できるだけ妹尾さんの気配を気にしないようにしながらコーヒーをすすった。
「……」
「ちょっとずつ……ちょっとずつ……」
「……」
「もうちょっと……あと少し……っ!」
コーヒーのリラックス効果のおかげだろうか。苦手なはずの女子が近くにいるはずなのに、あまり気にせずにいられる。
……あ、コーヒーなくなった。
俺がコーヒーを飲み干したことに気づいた店員さんがカウンターから、おかわりを淹れましょうかとポットを持ってジャスチャーで訊いてくる。俺は同じく身振り手振りでお願いしますと答え、席を立とうと椅子を引いた。
「きゃっ!?」
「おわぁっ!?」
しまった、妹尾さんのことを忘れていた!
俺の椅子の背もたれには妹尾さんが手を置いており、重心は完全にそちらにかかっていた。その状態で椅子を動かせば、当然バランスが崩れるわけで。
「危ないっ!」
俺は思わず、倒れていく妹尾さんに向かって必死に腕を伸ばし──
「えぅっ」
「ぐはぁ!」
二人仲良く、床に叩きつけられてしまった。
「せ、妹尾さん……大丈夫、か……?」
「いたた……なんとか、だいじょう……ぶっ!?」
「? どうし……た……」
妹尾さんは俺が身を挺して守ったおかげで、どうやら怪我はしていないようだ。
そう、
なんと今の体勢は、俺が妹尾さんの下敷きになっている密着状態になっている。しかも至近距離で向かい合い、顔と顔は一センチもない。
お互いの息がかかり、前髪がそれに
呆然としたまま、数秒が過ぎただろうか。それとも、コンマ数秒だろうか。
「お客様っ、大丈夫ですか!?」
店員さんの慌てた声で俺たちは我に返り、そして、
「んぇええええええええーーーーーーっ!?」
「おわぁあああああああーーーーーーっ!?」
二人同時に、大絶叫した。
「うわああああ!!ごめんごめん、ほんとマジごめん!今退くからっ!」
「ま、待って!私が退かないと鹿角くんも動けないでしょ!?」
「え、えぇっと……お気になさらず!?」
「何を言ってるの!?」
パニックに陥ると人は言動がおかしくなるというが、俺はそのとき身をもって感じた。
自分でも何を言っているのかわからない!とにかく早く逃げ出したい!
「と、とにかく、俺がここから出ればいいんだよな!?」
「いやだからっ、私が動かなきゃ──」
とりあえず、さっさと立ち上がらないと!
そう思って伸ばした手は、床とは逆方向で。
俺の上には、妹尾さんが乗っているわけで。
ふにっ、というやわらかい感触が、俺の手に伝わった。
「……ん?なんだこれ」
「────っ」
今まで経験したことのない感触に、なぜか冷静になってしまう。それとは逆に、目の前の妹尾さんの顔は湯引きした桜鯛のようにみるみるうちに赤くなっていく。
俺は手がどこに触れているのだろうと視線を向けてみると、そこには……丘があった。
そう、丘。
控えめだがしっかりと存在感のある……妹尾さんの、
「…………」
「…………」
「にゃあああああああああああーーーーーーっ!」
「うぉあああああああああああーーーーーーっ!?」
本日二度目の大絶叫が、静かなカフェに
それから数日は気まずい日々が続き、俺は顔を合わせてもLIJINEでもひたすら謝りっぱなしだったことは、言うまでもないだろう。
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