第3話 些細で大きな悩み

「やらかしちゃったかなぁ」

 後悔はあった。

 やっぱり私は死と言う単語を軽く見ていたんだと思う。

 シロ君の病室から出た後、私はその場から動くことも出来ずに立ち尽くしていた。

 重い病気だと語った彼の表情が忘れられない。

 それと同時に、ただ何の疑問も無く退屈な入院生活を送っている自分が恥ずかしくなった。

 そして何より、彼が望んでいるものの大きさに怖くなる。

 私の握ったシロ君の手は驚くほど冷たく、乾いていた。

 そして、それは彼の青白い肌と相まって、実はもう死んでしまっているんじゃないかと私に錯覚させる。

 それでも……。

 彼の瞳は、私をしっかりと見据えていた。

 その視線は何を思って私に向けられていたのかまでは解らない。

 だから私は戸惑ってしまったのだと思う。

 そんな視線を向けられたことなんて無かったから。

 私はただ自分の意見を押しつけるだけで、逃げるように病室を後にしてしまった。

 また来るかもしれないと言ったけれど、きっとシロ君はそれを望んでいないと思う。

 勝手な自己満足を押しつける私は迷惑以外のなにものでもないだろう。

 ……もう行かない方がいいよね。

 私が出した結論はそれだった。絶対に行くなんて言っていない。

 彼も、すぐに今日のことは忘れてくれるに違いなかった。

 自分に何度もそう言い聞かせて、やっと自分の足が動きだす。

 それでも、やっぱり後悔は一歩一歩深まって、何度も彼の病室の扉を振り返ってしまう。

 もしかしたら私のせいで体調を崩してしまうかもしれない。

 そんな不安が心の中で渦巻いていた。歩調が自然と速くなる。早くその場から離れたいと。

 自分の病室の扉を開け、すぐにベッドに潜り込んだ。

 出来ることなら、今日一日をやり直したかった。

 そうすれば、こんな思いをしなくて済むのに。

 私は悪くない……たまたま、彼がそんな重い病気だっただけ。

 何度も自分にそう言い聞かせようとして失敗する。

 そうしている間に、私はいつの間にか眠りに落ちていた。

 夢の中で私は、からっぽになった彼でベッドに顔を埋めて泣いていた。

 どうして泣いているのか……今は解らない。


   ◆◆◆


「今日は調子がいいのかな」

 検診にやってきた先生は、気さくな態度でそう問いかけてきた。この病院に入って六年目。実に七人目の担当医だった。

 ネームプレートには街田幸男まちだ ゆきおの文字が光っている。

 年齢は二十七歳と聞いていた。今まで接してきた担当医の中で一番若い。それなのに、黒縁の眼鏡の奥にある瞳は今まで自分を担当した誰よりも疲れているように見えた。

「今日は天気がいい。体調はどうかな」

 彼は感情を表情や言葉に出すことは無い。今までの先生の様に過度に心配したふりをすることもない。一人の患者として接してくれている。

 今までと違ったタイプだからか、それともそんな変わった印象の先生だからだろうか。

 自分も、この先生を前にすると口が軽くなった。

「それなりに」

「それはいい。悪いよりもね?」

「そんなもんですかね」

「そうだよ。そうじゃないと、医者はやってられない」

 他の先生が相手なら、無視を決め込んでいただろう。

 それぐらい自分はこの境遇に絶望していたからだ。

 しかし、街田が担当医になってからは少しずつ変わりつつある。

 彼はまず必要以上に僕に話しかけた。最初は無視を決め込んでいた。

 大概の先生や看護師は一週間程度で僕と接するのを諦める。

 そして、人形を扱うように最低限の言葉だけで接するようになる。

 それでよかった。そっちの方が楽だったのだ。

 まともに受け答えした所で、言葉の端々に滲む同情や蔑みに耐えられなくなる。

 それに、心の中ではどう思っているのか解ったもんじゃない。

 そう考えると、口を利く気にはならなかった。

 けれど街田だけは自分に話しかけ続けた。それが三週間ほど続いた頃、流石にこちらが折れた。

 その後はなし崩しで距離は縮まっていく。一方的なものかもしれないが、自分の心の中に仕舞いこんでいたもの全て吐き出していた。

 有里子という少女にそうしたように。

「君のことを探してる子がいてね。いや探してた、かな」

 あの時のことを思い出していた自分は、まるで心を読んだような街田の言葉に驚く。

 しかし幸いにも、彼は手の検診中だったので表情を見られずに済んだ。

「……僕を探してる?」

「そう。ここに入院してる子。と言っても、多分あの子は君のことを何も知らないだろうけどね」

 そう言いながら手に異常が無いことを確かめ、足の検診へと移る。

 どうやら、彼は有利子が既にこの病室を突き止めたことを知らないようだった。

「知らないのに探すっておかしくないですか?」

「ほんと、元気な患者もいたもんだね」

 そう言いながら、慣れた手つきで診察を続ける。その手際の良さも今までの先生の中で一番。なにせ、始めのうちは適当に診察されているんじゃないかと思ったぐらいだ。

 触診を続けながら、街田は楽しそうに続ける。

「そりゃもう、病院中を駆け回っていたみたいだよ。僕も他の管轄かんかつ広い訳じゃないけど、いろんな人の間で話題になってたからね」

「そこまでですか?」

「そこまでだよ」

 僕は再び、有利子が病室に乗り込んで来た時のことを思い出していた。確か、二つ隣の病室と言っていた気がする。それが本当だとすると、随分と無駄足を踏んだに違いない。それと同時に、そこまでして自分を探していた理由がますます気になった。

「それにしても、どうして僕を探してたんですか?」

「ん、聞きたい?」

 街田はその質問が出るのを待っていたとでも言うように顔を上げる。珍しく、目元が生き生きとしていた。

「六日前に、君が急に体調崩しただろ?」

「……しましたね」

 この辺り、配慮なく言ってくるのも街田の特徴だ。実際、体調を崩したなんて生易しいものではない。体温が急激に上がり、意識が飛びかけていたのだ。

「それで本題の子だけど、君が体調崩した関係で予定の定期検査が延期になったんだよね」

「……それで?」

「いや、それだけ」

 呆気にとられてしまう。そして、その表情はばっちり彼に見られていた。

「ほんと、面白い子もいるもんだ。実際に会ってどうするつもりだったのかは知らないけど、文句でも言う気だったのかな」

「どうでしょうね」

 結果を知っている身としては正解と言いたいのは山々だったけれど、とりあえずそれは伏せておくことにした。

「でも、二日前ぐらいかな。それぐらいから随分大人しくなっちゃったけどね。流石に飽きたのか、諦めちゃったのか」

 それが、目的を達成した為だろうとは言わない。

「でも私はそれで正解だと思うけどね。あ、槇塚くんも逆に探そうとするのは無しね」

「……しません。というか、病院内歩き回るなんて無茶できません」

「それもそうか。まぁ、彼女……あ、ボロ出ちゃった。とにかく、その子は病院内を走りまわってたんだけど」

 そんな話をしている間に、全身の検診は終わっていた。

「よし、とりあえず異常はないみたいだ。何か変な所とかは?」

「無いです」

「よろしい。それじゃ、検診終わり。血液検査の結果は明日だけど、まあ大丈夫だと思う」

「勘ですか?」

「医者の勘を馬鹿にしてもらっちゃ困るね。特に危機に対する感覚ってすごいんだよ」

 そう言って、胸を張るように立ち上がる。もう少し真剣な表情をすれば説得力があるのだが彼にそれを期待するのは酷だろう。

 それも、この数カ月の付き合いの中で学んだ。

「まあ、そんな好奇心程度の関係で会わない方がいいよ。じゃあね」

 苦笑に似た含み笑いを浮かべながら街田は病室を後にする。

 ただ彼の一言だけは、酷い現実味を伴って僕を串刺しにしていた。


   ◆◆◆


 一晩寝れば忘れてしまうなんて都合のいい現実はそこに無い。

 私は晴れない気持ちで、伸びに伸びてしまった検診を受けていた。この検診と投薬が終われば、早くて三日後にはお父さんやお母さんに会える。

 それなのに、今回はそんな浮かれた気分になれなかった。

 体の状態と、今回服用する薬について担当医の白髪髭が説明しているけれど、それも耳に入らない。どうせこの達は私のことを何にも分かっていない。

 私が落ち込んでいますってアピールをしてみたところで「この検診が終わればご両親に会えますよ」とか、的の外れたことを言うばかり。

 どうせ、大人しくしているから楽でいいと思っているに違いない。

 彼の病室に行ってから三日が経ったけれど、結局私は彼の病室に近寄ることすら出来ずにこの日を迎えていた。

 今日から数日の間は面会謝絶になる。その意味では、彼の病室に行きたくても行けなかったという大義名分は出来る。そう、それでいいんだと思う。

 渡されたオレンジの錠剤に目の焦点を合わせる。

 どうか、この薬がこの一週間を全てなかったことにしてくれますように。

 そんなバカみたいなことを考えながら口に含む。

 今回の薬には独特の苦みがあった。

 そして、水を受け取って一気に流し込む。

 ――これでひとまずは終わり。

 痛みも何もなく、この薬を数日の間飲み続け、自分の部屋に閉じ込められる。

 シロ君はどうなんだろう……。

 こんなことを考えている自分がなんだか嫌だった。眠たくも無いのにベッドに横になって目を瞑る。

 先生が部屋を出ていく足音を聞きながらシーツを頭の上まで引き上げた。

 ただ、一人でいることが堪らなく不安で酷く寂しかったから。


   ◆◆◆


 一人でいることにはもう慣れた。今もそのつもりでいる。

 家族と過ごした時間は今も胸の中にある。

 でも、最終的に僕は病院に押し込められた。

 あの頃は頻繁に体調を崩すことなんて無かった。

 勿論、小さな怪我は日常的にしていたし、週に一度の検診もあったけれど。

 終りは唐突にやって来た。

『これ以上は危険だから。あなたの為なの』

 僕の入院が決まった日、母さんはそう言った。父さんも同じようなことを言った気がする。その時の僕はまだ現実を受け入れられなかった。

 すぐに退院できると楽観的に構えていたが現実は甘くなかった。

 いつになっても退院という言葉は担当の医師から出てこなかった。出てくるのは、『今はまだ危ない』『もう少し症状が改善したら』という曖昧な言葉ばかりだった。

 そのころの自分でさえ、自分の病気がどんなものであるかぐらいは把握していた。治療法の確立されていない病気。その認識は、医者の言葉を嘘と見抜くには十分すぎた。

 そして同時に、お見舞いにすら来ない両親への不満は募っていった。

 何が、あなたの為だ……。

 結局、厄介事を遠ざけただけじゃないか。そう思い始めた頃だろうか。

 僕は頻繁に体調を崩す様になった。いっそ死んだ方がましだと思うこともあったが、体の方は自分の予想よりも遥かにしぶとく、意地汚く生き続けている。

 尿意を催し、ベッドから起き上がりゆっくりとした足取りで病室を出る。

 昼間だと言うのに、個人病棟の廊下に人影は無く静かだ。

「少しくらい運動するべき……かな」

 人より体が弱い分、最低限の運動は必要だった。視界がふらつくが、いつものことだ。感覚が無いので、一般的に普通と呼ばれる歩き方が身に付いていない。

 一歩一歩、体が倒れないかということに神経を使った歩き方。それが体に染み付いてしまっている。

 トイレを済ませて廊下を引き返す。

 しかし今日に限って、自分の病室のドアへと触れた指が止まった。

 タイミング悪く、自分の部屋にきた少女の事を思い出してしまったのだ。

 これがベッドの上でならわざわざ抜け出してまで行こうなんて考えなかった。それに、彼女が別れ際に言い放った言葉が胸に引っ掛かっていたからだ。

 怠惰たいだな足を突き動かしたのは好奇心。今行かなければ、きっとこんな気持ちになることはもう無いと分かっていた。一歩一歩、自分が殆ど歩くことの無い通路を進む。

 いつもは右に曲がるだけの廊下。その廊下を左に進んでいるだけなのに景色が違って見えた。そして、すぐに彼女の病室へとたどり着く。

赤嶺有利子あかみね ゆりこ』。

 病室のドアの端に差し込まれたプレートにはそう書かれてあった。病室は間違いない。そんな少しの喜びは、扉に掛けられた『面会謝絶めんかいしゃぜつ』の文字によって急激に萎んでいた。

 嘘だろう、と思った。

 あんなに元気そうだった彼女が面会謝絶というのが信じられなかった。

 しかし、それは同時に何となく納得できる部分もあった。自分の様に常時ベッドで寝かされている患者の方が少ないという事実。あまりにも長い入院生活は、そのことを自分の頭の中から追い出してしまっていた。

 何処か空虚な気持ちのまま、元来た道を引き返す為に背を向けた。


   ◆◆◆


「はい、よく頑張りましたね」

「うん!」

 作り笑いでほほ笑む主治医に向かって、上辺だけでこちらも笑って見せる。医者は皆嫌いだった。私が信じられるのはお父さんとお母さんだけ。

「明日に面会の時間を設けますので」

「楽しみだなー」

 そうして、気分がよさそうな態度を取る。そうすれば、少しでもお母さん達との面会の時間が長くなるんじゃないかという淡い期待があった。

 今回のお薬は結構つらかった……。

 夜中にはあまりの暑さと寝苦しさに何度も目が覚めた。それと、めまいがするような感覚に酷いどの渇き。

 最終日には看護師さんが私の隣に付きっきりで待機していたほど、状態は良くなかった。

 私がどれだけ苦しんでも、薬だけは毎回飲まされる。

 それが約束だったから……。

 私がお母さん達に合う為の条件。しっかりと薬を飲んで、万全の状態でしか面会できない。

 それを頭の中でずっと唱えながら、苦しさに耐える。

 そう思えばこそ、私は耐えられた。

「ねえ、何のお薬だったの?」

「体温をしっかり調節するようにするお薬だよ」

 そんなものなのかな。今までいろいろな薬を飲んできたけれど、今回の物は結構つらかった。

 そんなことを考えながら窓の外を見る。

 随分と我慢したおかげか、当分の間お薬は飲まなくていいらしい。

 私としてはお母さん達に会えない時間が長くなるのであまりうれしくないけれど。

 また、当分は退屈な毎日が――。

「……あ」

 ふと彼のことを思い出す。今の今まで、完全に忘れてしまっていた。

 どうして忘れていたんだろう……。

 いや、きっと忘れたままの方が良かったに違いない。

 それなのに思い出してしまった。

 でも、今更どうやって会えばいいというのだろう。

 それよりも、本当に会ってもいいのだろうか?

 そんなことを考えながら、私は随分と呆けた表情をしていたんだと思う。それを心配した主治医の白髪髭は、私の顔を心配そうに覗きこむ。

「どこか痛いところでもある?」

 その質問に我に返って大きく首を振る。変に安静が必要だと思われて、面会がずれるのは嫌だった。

 だから、私は一度大きく伸びをしてから素足でベッドを飛び降りる。

 元気だと証明するだけならそれでよかったのかもしれない。

 でも、私はそのままの勢いで扉を開いて外へと飛び出す。

 そこで一回転してから、自分の病室の中で驚いている白髪髭や看護師の人にピースを作ろうとした所で――。

 振り返った彼と、目が合った。


   ◆◆◆


 振り返ると同時に、彼女と目が合った。

 最初に感じたのは純粋な驚き。

 勢いよく開け放たれた扉には、未だに『面会謝絶』のプレートが揺れている。

 それにも関らず、彼女は健康そのものの様子で部屋を飛び出してきたのだ。

「どうして……」

 口から洩れ出したのは、当然の疑問。

 彼女が大きく振り上げた腕の先には、行き場を失ったブイサインが作られている。

 彼女の瞳はこちらを捉えたまま、驚いた様に固まってしまっていた。

 まるでお化けを見るような。けれど不思議と不快感は無かった。

 自分もまた、彼女と目を合わせたまま金縛りにあったように身動きを取れなかった。

 それから、どれだけの時間が必要だっただろう。

 止まってしまった時を動かしたのは彼女。

 天高く振り上げていた手をゆっくりとこちらに下ろし、同時にほほ笑む。

「ふっかつ!」

 ―――その時だ。

 僕はただ漠然と……彼女は天使ではないかと思った。


   ◆◆◆


 ベッドの中で身を捩る様にして寝返り打つ。

 結局、彼がその場にいた理由は解らない。

 でも、それはそれで運命だったのかもしれない。そう思うことにした。

 私がそう思いたかったから。

 私の突き出したピースを見て微笑んだ彼の表情が頭の中でぐるぐると回る。

 嫌われたかもと思っていたのに。

 そう思い込んでいたのに。

 彼が私を見て微笑んだという事実。その事に、私の心は軽くなっていた。

 ほんの些細な、私が強引に引き寄せた出会いは終わっていなかった。

 大きな偶然が繋ぎ止めていてくれた。

 だからこそ、私は間違ってはいけないと思う。

 再び出会った彼は、初めて会った時よりも幾分か体調が良さそうだった。

 ――それなのに。

 その時の彼は……とても死に近い存在に見えた。

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