第2話 体に悪いくらいの出会いが丁度いい
「どうして?
私はベットで四肢をじたばたと動かし、検診の日程をずらすと言いだした看護師を困らせていた。
若い女性の看護師は、イライラと駄々をこねる私に随分と困った様子で苦笑いを浮かべている。
この病院に入ってから三カ月が経ったけれど、二週間に一度の検診日だけは遅れたことがなかった。
それが今日に限っては二日も伸びている。
せっかく検診日の後には、お父さんとお母さんがお見舞いに来てくれるのに……。
ベッドの脇に活けられた花も元気をなくし始めている。
このままだと、次のお見舞いまでに枯れて捨てられてしまうかもしれない。
そんな私の態度に困り果てたのか、看護師のお姉さんは偶然外を通りかかった先生を目ざとく呼び止め、私の部屋に引っ張り込んだ。
歳は二十後半。私を担当している三人の先生よりずっと若い。
黒縁のメガネの奥にある疲れた目元が印象的だった。
その先生は腕を引く看護師に向かって、面倒くさそうに小言を漏らす。
「……だから、ちゃんと延期の理由を言えばいいじゃないか。それぐらいできなくて、どうするんだ」
そう言いながらも、私に顔を向けた時にはしっかりと作り笑いが顔に張り付いている。
なんだか馬鹿にされているみたいで腹が立った。
「他の患者さんの容体が急変して。今、随分危険な状態なんだよ。だから検診の為の人手と機材が開かない状態になってるんだ。解ってくれないかな?」
「納得できない……」
私がごねる時のお決まりのセリフだった。
私の担当の先生なら、そう言うだけで途方に暮れた表情をする。
でも、先生は失笑を漏らしただけだった。
「ごめんね。これは納得するとか、しないとかの問題じゃないからね」
そう言い残して看護師のお姉さんが引き留めるのも振り切って廊下へと向かう。
私は彼の背中を目で追って、思わず口が動いた。
「……待って!」
「ん?」
どうして、呼び止めてしまったんだろう。
この人から他の先生にはない何かを感じたのか、他の理由だったのかは解らない。
「その人って、死にそうなの?」
違う。私は
よくわからない理由で入院してから、この小さな病室だけが私のお城だった。
外には自由に出ていいのに、それも退屈と部屋の中で過ごしている。
だから病院の中にあって『死』という言葉は、私にとって特別な意味を持っていた。
近いはずなのに、全く感じることが出来ないもの。
死にたいとかじゃなくて、単なる好奇心。
そして、その問いに対して先生はにっこりと笑いながら答える。
「死ぬかもしれない。もし今生きながらえても、ずっとずっと死と近いところで生きていくんだろうね。それぐらい重い病気なんだ」
「それって、どの病室の人?」
私の好奇心を刺激するのには十分すぎた。軽率なのは解っている。
それだけ私は飢えていたんだと思う。生きるって事や、楽しいことに。
先生は流石に困ったような表情を作ってから、いきなり真顔になる。
「僕の口からは言えないし、近づかない方がいい。そういうのはお互いに良い影響を及ぼさないから」
それも一瞬。私が呆気にとられている間に、先生は笑顔を作り直し「またね」と病室を後にする。
看護師のお姉さんも逃げる様に病室から出ていってしまう。
扉が閉まった後には呆けた様に固まる私だけが残されていた。
「いいもん。言ってくれないなら私が自分で」
――この時、この瞬間。
私にとっての自分探しが始まっていた。
◆◆◆
「やっと見つけた!」
その脳天を刺すような声に、ようやく二日前に収まった吐き気がぶり返してきそうになった。
自分の目線の先。廊下と個室を繋ぐスライド式のドアを全開にしているのは、見覚えのない少女だった。見ているこっちが恥ずかしくなるようなピンクのパジャマにはデフォルメされた
そして、長く伸びた髪が彼女の背中で大きく踊っていた。
誰だ、この子。
どの記憶を漁ってみても、そんな少女の知り合いの姿はない。
「……人違いじゃないですか?」
ひとまず当たり障りのない言葉を投げかけてみる。
しかし、少女はこちらの言葉に反応することなく病室へと一歩踏み込む。
……聞こえなかったのかな?
そう思って、もう少し大きめの声でと口を開くが、それは少女の声にかき消された。
「間違ってないよ。結構、探すのは苦労したんだから。まさか、二つ隣の病室とは思わなかったし」
二つ隣?
探していた?
どうしても、少女の言っている言葉の意味が頭の中でつながらない。
「どうして……僕を探してたんだ?」
少女はやはり、その問いかけを無視して部屋の中を見回す。そして、締め切られてカーテンの締められた窓の方を見て眉をしかめる。
「消毒液臭い……。窓、開けたりしないの?」
その一方的な問いに、とりあえず首を振って見せる。
「あまり開けないように言われてるんだ。体に良くないから」
「ふぅん。籠った空気って逆に体に悪いと思うんだけど……」
勝手なことを呟きながら、部屋の中を見回す少女。
「何もないわね」
歯に布着せないその言葉に、ただ沈黙するしかない。
そう、この部屋には必要最低限の物しか置かれていない。自分の寝ているベッドの脇には引き出しの付いた小さなテーブルがあるが上には何もない。
引き出しの中には最低限の衣類。
後は体調の悪い時だけ心拍数等を自動で計測する医療機器が部屋の隅の方に置かれている程度だ。
本当に、それだけの部屋。殺風景を通り越して牢獄のような印象すら受ける。
「篭の中みたいね」
少女の言った言葉は、果たして正しかったのかもしれない。
この狭い病室の中でだけ、生きる最低限の安全が保障された生き物。
それが自分だったから。
少女はすぐに部屋への興味を失ったようで、再びこちらへと視線を落としてくる。
はっきり言えば、早くこの暴風の様な少女が去ってくれることを自分は願っていた。
「私の名前は
そう言って、こちらから見て右側の壁を指さして見せる。
二つ隣という事は有利子と名乗った少女も個人病室なのだろう。
こんなに元気そうな少女が個人病室に入っているのか、という驚きもあった。
そんなに重い病気なのだろうか?
少女はそんなこちらの疑問を汲み取ることも無く、淡々と言葉を続ける。
「私があなたを探してたのは、ただの好奇心。でも探してみてよかった」
そう言って少女は微笑む。その笑顔がすごく新鮮に感じる。
きっと医者の作り笑いに慣れたせいだろう。そう思った。
「年、そんなに離れてないよね?」
「僕は十六――」
「やっぱり! 私十四歳。二つ違いだね」
だから何だと言うのか。小さなころから病院で過ごしてきた身としては、少女が喜んでいる理由が解らなかった。
「ほら、この病院って同じぐらいの年齢の子がほとんどいないから」
「そうなんだ」
「そうだよ。私、これでもたくさん病室見て回ったんだよ。流石に、扉の開いてる病室を覗き見るだけだったけど」
その言動から、彼女は比較的に軽い病気ではないだろうかと当たりを付ける。
どうやら、重い病気のせいで個人病室に入っている訳ではないようだ。
案外、相部屋の病室ではうるさすぎて
そんなこちらの内心を汲み取ることも無く、有利子は嬉しそうに近寄って来る。
嗅ぎ慣れない石鹸の香りが鼻を
薬臭い病室の空気に慣れていた自分に、その香りは刺激的すぎた。
「本当は、どんな人なのかちょっと覗いてみるだけのつもりだったんだけど……」
そう言って、有利子は手を差し出してくる。一瞬何の事かと思ったものの、すぐにそれが握手を求めているということに気づく。
少し躊躇したものの、その手を慎重に握り返した。
自分に体の感覚が無い為、力の加減が上手く出来ない。変に力を込めてしまえば、痛がられるかもしれないと思った。
その慎重さが
彼女は不思議そうな表情で、握った手と僕の顔を交互に見比べる。
「もしかして、手に力入れられないの?」
その問いに、どう答えるべきか迷う。
その通りだと話を合わせるのは簡単だが、下手に興味を持たれると彼女はまたやって来るかもしれない。いや、来るだろう。
そんな確信にも似た感覚があった。
普段は自分の病状を医者に説明するだけで嫌な気分になっていた。
しかし、有利子に対しては不思議とそんな気持ちは湧いてこない。
「力が入れられないんじゃなくて、力の加減が出来ないんだ……」
どうしてだろう。
気づいた時には、自分の抱える病気について全て話してしまっていた。
有利子は部屋に乗り込んで来た時と打って変わって真剣に僕の話に耳を傾け、その病状について質問を繰り返した。
医者と交わす
もしかすると自分は誰かにこの状況を知ってもらいたかったのかもしれない。
対処しようが無いにも拘らず「大丈夫ですよ」と声をかけて来る医者達に嫌気がさしていたのも理由の一つ。
彼女は全てを聞き終わった後、ひとしきり悩むようなそぶりを見せてから呟いた。
「……痛いね」
「え?」
有利子の呟いた言葉に、自分は耳を疑った。
正直、「大変だね」とか「辛いでしょ?」とか、ありきたりな言葉が返ってくると思っていた。それなのに、彼女はあえて「痛い」という言葉を使った。
自分が痛みを感じないということを説明したのに。
有利子は僕の手を取り上げ、そのまま僕の胸の辺りに持っていく。
「心がすごく痛がってると思う」
その言葉は、自分の心へと染み込むように響く。けれど乾いた心はそれを拒否しようともがいている気がした。
「それでも、僕は心臓の鼓動も感じない」
「……そうじゃなくて、何て言うのかな」
彼女の言いたいことは何となく解っていた。
でも、今の自分はそれを認めたくなかった。
体も心も傷付いている。そんな当たり前のことを認めたくなかったのだ。
有利子は長い間、どういうべきか迷った様子で佇んでいたが、意を決したように様に僕の手を彼女自身の胸元へと持っていく。
僕は少なからず動揺する。その行動が世間的にどういう意味を持つのかということぐらいは理解していたからだ。
此方の心配を余所に、有利子はただその手を握りしめている。
「私はちゃんと感じてるから。この手のぬくもりも感触も、心臓の鼓動も」
そう言って、再びその手を僕の胸元へと持っていく。
「トクン、トクン、トクンって。しっかり、動いてる」
有利子の言葉に、昔母親に言われた言葉がフラッシュバックする。
『人が生きているって感じたいなら、胸に手を当ててみるだけでいいの。その心臓の鼓動が、私たちが生きている証しなのよ』
小さな頃聞いたその言葉。その言葉を母から聞いた時、僕は素直に胸に手を当てていた。
でも、鼓動なんて感じられなかった。……そういう風に自分の体は出来ていたから。
――鼓動を感じない自分は生きていないんだ。
あの時の自分は、なんの危機感も感慨もなくそう考えていた。
勿論、今はそれが間違いだということも解っている。しかし、時にどうしようもなく自分は生きていないと思いたくなる時があった。
「上手く言えないけど――」
「解った気がする」
「本当に?」
「うん。ありがとう」
ありがとう。自分とは無縁の言葉だと思っていた。それでも有利子は納得できないと言った表情のまま、躊躇う様にして手を離す。
「……ごめんね。ほんとにちょっと覗いてみるだけのつもりだったの!」
そう言いながら、有利子は緑のスリッパをパタパタと鳴らしながら病室の扉へと向かっていく。
その後ろ姿を見ながら、自分はただ漠然と「ああ、もう少し話していたかった」と思う。
扉に手をかけた彼女はしかし、固まった様にこちらへ振り向いた。
一瞬、思っていたことが口に出てしまったかと焦る。
それは杞憂だったようで、彼女は苦笑いを浮かべて首を傾げていた。
「そう言えば、まだ名前聞いてなかった」
「外のプレート見てないの?」
「……漢字、難しくて読めなかった」
膨れっ面をする有利子を見ていると、何だか自然と笑みがこぼれて来る。
笑うなんて随分久しぶりの様な気がしていた。
「まきつか、しろうって読むんだ」
「そうなんだ」
そう言いながら、彼女は病室の扉をスライドさせる。
そして、ステップするように廊下へ出た。
「それじゃ、これからはシロ君って呼ぶね」
言葉を返す暇もなく扉は閉じられる。部屋の中に、いつもの静けさが戻って来ていた。
その閉ざされた空間の中に居ると、今の出来事が白昼夢ではないかと思えてくる。
けれど、彼女の残して行った石鹸の香りは確かにそこに残っていた。
「シロ君か……変なあだ名だな」
そのあだ名を小さく反芻する。
しかし、今の自分には『シロ君』というあだ名が付けられたことよりも、『これからは』という単語の方がより重要なものとして頭にこびりついていた。
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