第3話.よくわからないうちに入学

「どうすればいいのぉ……」


 掠れた涙声で呟く。

 諦めようにも行く当てがない。


 自身の嗚咽と噴水の涼し気な水音だけが耳に届いていた。


 そもそも実感がなさ過ぎるのがいけない。


 見たことのない文字や生き物、聞いたことのない言葉は確認できてはいるが、あまりにも唐突で、かつ現実感が嫌に強い。


 確かに時緒は、この地にやって来る直前、唯一の友人たちと現実世界で見つけた異世界へ渡る方法を試していた。その記憶はまだしっかりと時緒の中にある。だが、一体どの瞬間、どのようにしてこの地へ舞い降りたかは上手く思い出せない。まるで知らないうちに眠りに落ちてしまって気が付けば朝目覚めていたかのような、そんな靄がかかったような感覚だ。


 異世界に渡る前に出会うであろう神様や女神様のような存在にだって出会っていない。異世界召喚の主人公お決まりのチート能力だって授かっていない。


 ただの三条時緒として何の前置きもなくこの地に立たされたに過ぎない。


 考えれば考える程自身が酷く惨めに思えてきた。


 そして、急に元いた世界に残してきた数少ない友人たちが恋しくなった。


 異世界へ行こうと共に奔走した友人たち。


 楽しかった。


 仮に異世界へ行けなかったとしても、その一端を垣間見ることができるだけでも、これまで生きてきた平凡な日常からすれば、圧倒的に有意義な体験になった筈なのだから。


 それに元の世界も存外捨てたものではない。


 これまで下らないとばかり思っていた世界で友人ができ、それなりに楽しい毎日を過ごしていた。妄想の世界に浸るだけがすべてではないと、友人達と過ごして初めて分かった。


 その友人達がいなければ、彼女はとうに退屈と言う名の暗雲に押し潰されていたであろう。その息苦しさに耐えかねて、自ら命を絶ってもおかしくなかった。それこそ走行中の車に身を投げ、すべてを終わらせようとしても、おかしくはなかった。


 友人ができる前までの日常は、それこそ絶望的だった。


 仮に夢でも良かった。


 そう、彼女は例えそれが欺瞞であれ籠絡であれ、せめて夢を見ていたかったのだ。

 だが、彼女の生きる現実は、この上なく現実的過ぎた。


 夢の僅かも入り込む余地がなかった。


 だがどうだ、念願叶ったこの異世界とやらも酷いまでに現実的ではないか。


 これならむしろ夢の中で見た想像上の、妄想上の、異世界の方がずっと良い。


「会いたいよぉ……」


 時緒は友人たちの顔を思い浮かべてまた一筋、涙を流した。


「おいお前、こんなところで何をしている」


 不意に何者かに声を掛けられた。


 項垂れるように向いていた地面に人影がさしている。


 時緒は恐る恐る顔を上げる。


 一人の女性が腕を組んで時緒を見下ろしていた。


 黒髪のショートカット姿のその女性は大き目の眼鏡をかけており、その奥の鋭い眼光を時緒に向ける。髪と同様に黒くタイトなスカートから延びる細長い脚は、大の字に開かれまさしく仁王立ちの状態だった。


「ごめんなさいっ!」


 時緒はほとんど反射的に頭を下げた。女性の目つきが、元の世界で母親や担任が時緒を叱る時に見せるそれにそっくりだったからだ。


「謝罪しろとは言っていない。何をしているのか聞いただけだ」


 以前表情を変えないまま、妙にはっきりとした声色で女性は時緒に問い掛ける。


 女性の目つきに耐え切れなくなり時緒が目線を下げると、女性のブラウスの胸元に見覚えのあるマークがあるのが目に入った。緑色を基調に刺繍されたそれは紛れもなくこの学校の門に彫られていた校章らしき紋章。


「この学校の……ひと……?」


「いかにも、わたしはこの魔法学校の教師だ。そう言うお前は何者だ?」


 何者かだなんて、時緒にだってどう答えて良いかわからない。怖い。逃げ出したい。時緒は再び溢れそうになる涙を必死で堪える。


 だが時緒は逃げなかった。


 ここで逃げたら本当に終わってしまう、その確信があったからだ。ぎりぎりのところで耐え、両の拳を爪が白くなるまでに強く握り込み、教師と名乗る女性の瞳を眼鏡越しに見つめた。


「わたしっ! 魔法を学びたいっ! 誰よりも強い魔法が使えるようになって、敵を倒したり、色んな所を冒険したり、そうやってこの世界で生きていきたいっ!」


 そこまで言い切ったところで、震える唇を抑えるように噛んだ。


 女性からの返答はない。


 時緒は覚悟した。


 馬鹿にされるかもしれない。そうじゃなければ憐みの表情を向けられる。現実と同じように。


 もしかしたら本当は魔法なんていうものは存在せず、ただの頭のおかしい子供として相手の目には映っているのではなかろうか。次々と悲観的な考えが頭を過る。


「ほう、見かけに寄らず見上げた根性だ」


 だが、女性はそう一言言うと目は決して笑わずに微かに口角のみを上げた。


「まあ、入学早々式をサボるところかして中々に見上げた根性だが、それがいつまで続くか見ものだな。今回は入学前扱いとして見なかったことにしてやる。だがこの学園生活では規律が絶対だ。次似たようなことをしてみろ、縛り上げて時計塔のてっぺんに一晩中吊るしてやる」


 そう言ってくるりと背を向けた。


 時緒はわけがわからないままよろよろと立ち上がる。


「よろしい。では付いてこい」


 足早に歩き出してしまった教師の後を追う前に、何気なく噴水の水面に映る自身の姿を見た。そこに映るのは紛れもなく時緒自身であったが、身を包むのは元の世界で着ていた筈の洋服ではなく、緑色のスカートに白いブラウス、上には黒に近い深緑のマントのようなものを羽織っている。マントの首筋部分には、教師の胸元と同じく、稲妻型の角を持つ馬を模した校章が刺繍されていた。


 いつ着替えたか、見当も付かない。


 急な出来事で思考が止まり、希薄になった意識の中で何かに縋るように、時緒はただただ教師の後ろ姿を追った。


 時緒は気付かないが、風に翻るマントの背の部分にはひと際大きく、アニム・ソフレレェト・ミナント・ナエクラェ・ノクシロク・スイヒャ魔法学校の校章が刻まれていた。

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