#01 幻の雨
公園で目覚めて、水飲み場で顔を洗う。大抵の場合、それが僕の一日の始まりだ。
春の日差しが気持ちよくて、僕は久々にいい気分で目を覚ました。
僕の名前は
……誕生日だというのに、なんのありがたみも感じなくなって久しい。雨風に晒されて錆びの目立つ公園の大きな時計は既に15時を指していて、ますます一日のありがたみがない。寝覚めのよさも、興醒めだ。
まあ、どうせ、祝ってくれる人なんて一人もいやしない。
好きな子のためにギターで練習した「ハッピーバースデートゥーユー」だって、一度も披露したためしがない。
……いっそ、一昨年の夏に世紀のアンゴルモアに世界を滅ぼして欲しかったものだけれど、残念ながら世界は今日も回っている。
水飲み場で軽く顔を洗い、蜘蛛の巣だらけの公衆トイレで用を足したあと、僕は公園を出る。東に行けば学校やショッピングモールが並ぶそれなりの都会で、西に行けば川沿いに住宅街と、前述したショッピングモールに客を奪われた、寂れたシャッター街が存在する。
僕はあくびをしながら西へ歩みを進めた。
こんなホームレス紛いな生活をしている僕を見て、周りの人間は同情の目を向けてきたり、あるいは金品を盗まれぬようにと鋭い目付きで睨んできたりと、反応は様々だ。
しかし、僕にだって家はある。安いアパートだけど、ちゃんと電気が通っているし、水道もガスも生きている。
金がない訳じゃない。
ただ、生き甲斐がなかった。
道端の排水溝に散乱した弁当ガラを見て、ふと昔喧嘩別れした親友は相当な変人だったな、ということを思い出す。
あいつはコンビニで買った弁当を頑なに温めない男だった。
彼は「生きてるって実感が湧くだろ?」と冷めたまずい弁当を食べながら笑っていた。
今なら、その気持ちが少しだけわかる気がする。
ぼんやりと周りを観察してみる。園内では主婦が子供やペットを連れておしゃべりをしたり、少年少女たちは遊具や砂場ではしゃいでいる。部活をしていない学生がちらほらと帰路に着いているのも確認できた。
僕は歩きながらそれをぼうっと眺めていた。
大体の場合、僕の一日は公園で日向ぼっこをするか、あるいは死んだ目でバイトをこなしている。一日を無駄にしている、とそう言われても仕方がない。けれど、僕にはどうしても、今日は何をしようだとか、明日はこんなことがしたいだとか、そういう願望みたいなのが欠如していた。
いいや。
欠けているのではない。もう、失くしてしまったのだ。
住宅街に入って暫く歩くと、ある時を境に人影はパッタリと消える。
そこから先は、車道が狭かったり、ひったくりが相次いだり、川で事故が多発したりと、シャッター街が続く人気のないエリアだ。
その日、夕日が建物の陰に沈み始めた頃、僕の鼻先に何かがぶつかった。
「……ん」
半分歩きながら寝ているような状態で見上げると、空がどんよりとしていた。夕方というのもあるが、それにしては暗すぎる。今鼻先に落ちたのは雨粒で、空のそれは雨雲のせいだと僕は瞬時に気付いた。
当然、こんな生活をしている僕に、傘を持ち歩くような習慣はない。渋々と、避難がてら家に帰るために僕は早歩きで住宅街を通り抜けることにした。
雨脚は弱いが、ちょっと傘が欲しいかなという程度には降り出してきていた。一日の大半をぼうっとして過ごす僕は、言うまでのなくテレビや新聞で天気予報を見る習慣もない。
いつ止むかわからない雨の中、 かろうじて舗装されている人気の無い川沿いの道を、僕はずっと歩いていた。
雨は強さが徐々に増している。冠水した排水溝からヘドロが溢れ出ていた。コンクリートブロックの壁から咲いた花がひとたまりもなく雨滴を浴びているのを、僕は意味もなく眺めていた。
……思わず、大きく溜息をついてしまう。
中学三年生の頃、失意のどん底に落ちた僕は、そのまま流れるように高校進学に失敗した。
それまで親しくしていた親友とは、軽い口論の末に殴り合いの大ゲンカとなり、仲違いしてしまった。
それからは、アルバイトを転々としながら日銭を稼いで暮らす寂しい毎日だ。唯一まともな会話を交わしていた家族、父と妹もその半年後くらいに行った家族旅行中に事故死し、僕は独りぼっちになった。
親戚の類いも、これまで大した交流をしていたわけではなかった。僕は名前も顔も知らなかった親戚の間をたらい回しにされた挙句、事故死した家族に支払われる慰謝料や保険料等を相続し、結局はそれまで暮らしていたアパートで一人暮らしを継続することになった。
僕は私立の中学に通っていたので、その頃から学校近くにアパートを借りて生活をしていたのだ。主な生活費は父からの仕送りであったが、父はもういないし、アルバイトでも凌いでいけるレベルだった。
莫大な慰謝料が懐に入ってもアルバイトを辞めなかったのは、単にやることがなかったからだ。
それに、家族が死んだお金で食べる飯は、吐き気がしそうだった。
僕は二年前から不良とつるむようになった。といっても、所詮はうわべだけの薄っぺらい関係で、気付けば空中分解したみたいに会わなくなっていた。週一の集会にも顔を出さなくなって久しい。
タバコと酒はその名残だ。体も心も不健康極まりない。けれど、もう自分の健康に配慮する意思など、かけらもなかった。
体力は目減りする一方で、ストレスは自分でも受けているのかいないかわからないほど重症に違いない。その結果が、こうしてただ公園と家を行き来してぼうっとしているだけの人生だ。
楽しみはなく、誇れるものなどない。
趣味と呼べるものは読書や音楽鑑賞に散歩ぐらいで、それも僕が唯一『誰にも迷惑がかからない時間の潰し方』として消去法的に見つけた娯楽だった。
全て、寂しさの穴埋めでしかないと、僕は心の奥底では気付いていたのだろう。
「……死に場所を探そう」
自分でも驚くほど冷淡な声が出た。
もうたくさんだ。
生きていればいずれいいことがある、などという幻想は聞き飽きた。
こんな辛い世界で生きていくぐらいなら、さっさと死んで失った人達に会いたいと、そう思った。
僕はもう一つため息を吐いて、懐からタバコと百円ライターを取り出す。雨風でやや火が点きづらかった。手で風避けをして、なんとか火を点けたあと、オイルの切れたライターを川沿いの草むらに放り捨てる。
暗がりに溶け込み、煙を吐き歩く僕の思考が、次第に嫌な方向へと流れていく。
道の脇には少し大きな川があって、氾濫とまではいかなくとも、雨で少しばかり水嵩があがっているらしかった。
この川はもともと水嵩が深く、下流のあたりからは流れが急になることで知られている川だ。ついでに言えば背の高い堤防もなく、膝下ぐらいまでの高さのコンクリートブロック上に、チープな鉄線の網で人の侵入を防いでいる程度だ。ちょっとの雨でも危険になる。
その昔、子供が遊んでいるうちに何人か溺死したせいで人が近寄らなくなったのは、地元で知らぬ人はいない話だった。
……なるほど、ここに飛び込めば、僕も楽になれるかもしれない。
僕は何の気なしに錆びきったワイヤーの柵を掴み川を眺めてみる。濁流が小岩にぶち当たり、水飛沫が跳ねた先で小さな虹ができていた。
僕は小雨の中、その様子を眺めていた。
それは、死への儀式のようなものだ。
──削ぎ落とされていく。未練と呼べるものなど何もないけれど。ひとつひとつ、心の楔を解いていく。
錆びていたワイヤーフェンスに切れ目を見つけた。少し力を込めると、金属が極端に疲労していたのか、簡単にへし折れる。続けて力を込めると、まとめてワイヤーの塊がひん曲がる。ヒト一人分くらいの隙間ができた。
膝下まであるコンクリートブロックに、片足をかけてみる。絞首刑にされた人間が、断頭台へ向かうみたいに。
靴先で、雨滴が弾ける。
咥えたタバコの先から灰が垂れ落ちて川に沈む。
──次は、僕の番だ。
もう一歩。目線が高くなる。
その寸前。不意に、視線を感じた。
「……こんばんは、平井真さん」
振り返る。暗がりの中に佇んでいたのは、セーラー服に身を包んだ小柄な少女だった。
身長は低い。たぶん、150前後。歳は15くらいだろうか。どこの高校のものかはわからないけれど、この雨の中傘も持たずに立つ少女は全身がしっとり濡れていて、白いシャツの先に薄い肌色が透けて見えるような気がした。
最初、僕はついに幻覚でも見るほど参ってしまったのか、と思った。こんな天気に出歩いていて、髪も爪も伸びきった小汚い男に、年若い女の子が話しかけてくるなんて、あり得ない話だと思ったからだ。どうしてか、そういう理性的な判断力だけは残っていた。
そして、君は誰だ、とか、どうして僕の名前を知っている、だとか問いかける気力も、もう残っていなかった。
僕は渋々、ブロックにかけていた足を降ろす。そして死んだ魚みたいな目で少女を
その瞬間、全身の筋肉が硬直したような気がした。落雷でも浴びたかのように脳が意識を呼び起こし、思わず鳥肌が立っていた。灰色だった世界に色味が蘇り、途端に音と匂いが頭を刺激した。
幻覚はこうも無情に人の心を抉るのかと、脳裏で何者かが囁く。
呆けた口からタバコがぽとりと落ちて、地面で小さく火花が散った。
***
腰の上まであるセミロングの黒髪に、やや跳ねっ毛なのが特徴だろうか。セーラー服のスカートからすらりと伸びた細い足は綺麗なツヤのある肌で、内股だった。首元は細く、顎のラインもスッキリとしている。
何よりも、美形な顔立ちに宿る瞳は見ていると吸い込まれそうなほど黒く輝いていて。雨に濡れて艶やかな黒髪も相まって、モノクロの世界から飛び出してきたかのような錯覚に襲われるが、首元の赤いリボンタイがそれを否定した。
その可憐な容姿は、まるで、嵐の当たらないところで丹精に育てられた一輪の花のようであった。
似ているな、と僕は心の中で感想を零した。
──ふと、
不思議なことに、突如目の前に現れたその少女は、僕の知り合いに酷似していた。僕の記憶の中で色褪せず残る彼女の面影が、眼前の少女と重なっていく。
……なるほど。彼女の高校生姿はこんな感じか、なんて感想を浮かべながら、僕の意識は9年ほど前の記憶に没入する。
当時12歳の僕は、学校というものにひどく辟易していた。勉強はつまらないが、友達との交流はそれなりに楽しい。毎日をなんとなく過ごして、こんなつまらない日常が続いて行く。
きっと誰もが一度は思ったことのある状況に、僕は一人酔っていたのだ。
小学六年生の始業式が終わったその日の放課後だった。帰り支度をしていると、声をかけられた。鼻に大きなホクロが特徴の、担任となった
渡されたのはA4サイズの封筒だった。終わりの学活でも受け取ったものと同じ、保護者向けの配布物だ。ただし、そこには僕のものとは違う名前が書かれてあった。
「橘桃華」。難しい漢字ばかりで、とくに苗字らしき「橘」はまだ習っていないため読めなかった。僕が首をかしげていると、贄川先生は読み方を教えてくれた。
「たちばなももか、という。今日から、うちのクラスの仲間になる子だよ」
はあ、と僕が適当な相槌を打つと、先生は続けた。
「この子はちょっと事情があって、月曜日は登校してこれないんだ。それで、平井くんが一番家が近くてね。もしよかったら、この子の家に毎週こうしてその日の配布物を届けてやってくれないか?」
それを聞いて僕が一番最初に浮かべた感情は、やはり「面倒臭いなあ」というものだった。
単純計算で、月に4回、長期休暇等を考慮して10ヶ月と考えても、40回もこなさなければならない。
……しかし、家に帰っても特にすることがないのも事実だ。
ついでに言えば、僕は頼み事を断りにくいタチだった。それは決して親切心だとか、相手がかわいそうだとか申し訳ないだとかいう罪悪感に起因するものではなく、単純に「断る口実を考えることそのものが億劫」だったためだ。
面倒臭いことを、断るのが面倒だから承諾する──我ながらおかしなことだとは自覚している。
矛盾。僕はその言葉を知るずっと前に、その概念を理解していた。
僕は裏で嫌な顔をしながら二つ返事で承諾する。地図と封筒を受け取り、ランドセルに仕舞った。
結果として、僕は先生に感謝しなければならないだろう。
彼のおかげで、僕は彼女に出会うことができたのだから。
贄川先生の言う通り、橘の住むマンションは当時僕が家族と住んでいた県営マンションからほど近い場所にあった。錆だらけの青い橋を渡ってすぐに、それは位置していた。
透明のガラス戸をくぐると、立地に似合わずホテルみたいな豪華な内装に出迎えられ、圧倒された。そこは築数年のできたてというぐらいに綺麗なマンションだった。
まず、エントランスの天井が高い。二階までが吹き抜けになっていて、映画の高級洋館などで見るシャンデリアみたいな照明がいくつか吊るされていた。
高そうな家だ、と子供ながらに思っていると、僕は警備員に声をかけられた。IDカードを見せてと言われて、慌ててクラスメイトにプリントを届けに来たと答えた。警備員は律儀に臨時通行カードを作ってくれた。僕はまじまじとそれを眺めながら、エレベーターで橘の住む部屋に向かった。
1009号室を見つけると、僕は気だるげにベルを鳴らした。適当に済ませて早く帰ろう、とこの時の僕は考えていた。
「はぁい、どちらさまですか?」
出迎えてくれた女の子は、確かに僕と同じ歳相応で、けれど美しかった。
たぶん、美しさに形を与えたら、こんな感じなんだろう、なんて思ったことを覚えている。
はじめに目を奪われたのは、煌びやかな黒髪。肩より少し下で整えられた艶のある髪からは、ほのかに甘くていい匂いが漂っていた。
黄金比のようなその目鼻立ちは、まるで絵画の作品と言われても納得ができるほどである。
──女の子だ、と思った。
もちろん、名前の響きから、その子が女の子であることは重々承知だった。しかし妙な話だけれど、僕はその日、初めて『本物の女の子』と出会ったような、そんな錯覚に陥った。女の子とはどういうものかと聞かれたら、たぶん、僕は橘桃華だと答えるだろう。
黙りこくる僕に、彼女はこくりと首を傾げた。そんな一動作に、僕の心の蔵がバクバクしていた。
僕は思わず赤面して、上擦った声で言葉を切り出す。
「あの、これ、学校の……」
「あっ、プリント。今日からだもんね。ごめんなさいわざわざ。……ええと」
「僕は……平井真」
「平井くん。これからよろしくね」
僕の第一印象は、きっと良くなかったに違いない。
けれど、その笑顔に見事にやられた。
僕はその日、初恋というものを知った。
僕以外灰色だった世界に、彩られた橘の姿が加わったのだ。
彼女は僕に恋というものを教えてくれた。
彼女は僕に寂しさというものを教えてくれた。
そして彼女は僕に、どうしようもない傷痕を残していった。
***
「──ことさん、平井真さん」
はっと、意識が浮上する。二人して傘も差さずに突っ立っている。まぎれもない現実が広がっていた。徐々に雨脚は強まってきているのか、眼下に広がる川も暴れまわっている。
目の前には、橘によく似た女子高生がまだ佇んでいた。どこで知ったのか、僕の名前を呼んで。
前髪から垂れる水滴が足元で小さく水溜りを作っていて、幻覚にしては酷くリアルだった。
いや、もう認めるしかあるまい──目の前の正体不明の女(便宜的に
僕が彼女に再び目を向けると、女子高生は僅かに微笑んでから口火を切った。
「やり直せたらな、と思ったことはありませんか?」
「……はあ?」
何を言うかと思えば、そんなことか。
「やり直せたらな、と思ったことはありませんか?」
僕の反応に対して、一言一句彼女は同じ言葉を繰り返した。
……一体何を言っているんだ、この子は。
21にもなって、大学はおろか高校にもいけず、日銭を稼いで小さな生に縋るこの矮小な男に。
僕は足元で小さく燃えるタバコをしっかり踏み消し、ポケットから箱を取り出す。しかし、中身はどれもこの雨のせいで濡れてダメになっていた。
そういえば、ライターもオイル切れで放り捨てたあとだった。
「チッ」
思わず舌打ちが出てしまう。この辺も不良と連んだ名残かもしれない。とんだクズに育ったもんだと自分でつくづく思う。
僕が腐った理由は明白だ。
中学三年の秋の終わり。紅葉が地に落ちて初雪が降ったあの日。
橘桃華は、この世を去った。
この世界に彼女はいない。そして彼女が消えた世界にも、もう未練はない。
もしもやり直せたら?
結果は変わらない。
橘の病が先天的かつ特殊なものである以上、僕が彼女と出会おうが出会わなかろうが、死の運命は回避できない。
僕は喪失感で病み受験に失敗するだろう。
橘を救うために医大を目指したあの頃の僕は、何せ進学校の私立高校を進路希望にしていたのだ。僕は彼女の死が伝えられて以降、学校にはほとんど行っていない。友達とも喧嘩し、挙げ句の果てには卒業式にも出ないまま、書類上だけ中学を卒業したことになった。そしてその後に事故で父親と妹を亡くした。
こんな不幸が待っているのなら、やり直したくなどない。いっそ今を終わらせて、ゼロから始めたい。きっと次はちゃんと両親のいる家庭で、小さい庭があって、花壇があって、犬が一匹いて、二つか三つくらい下の妹がいる、そんな家庭。
……馬鹿馬鹿しい。僕は女子高生こと雨女を避けて帰ることにした。すでに服もズボンも靴下もずぶ濡れだから、今更走ったところでシャワーを浴びなければならないことに変わりはないだろう。
「あんたも早く……」
帰ったほうがいい、と言おうとしたが、そこで僕は、捲った服の袖口が引っ張られていることに気付いた。
「やり直せたらなと、そう思っていませんか?」
「だから、それがどうした?」
雨の勢いが更に強まった気がした。雷鳴が轟き、強烈な光が彼女の白すぎる肌を照らした。
見れば見るほどそっくりで、僕はだんだん腹が立ってきた。橘桃華以外の女の子が、彼女の顔と声を使って僕に嫌がらせをしているという被害妄想じみた構図が浮かんでくる。僕の精神はまともではなかった。
「だいたい、あんた誰なんだ。僕の名前をどこで知った?」
「私は───といいます」
一際大きな雷鳴が迸って、彼女の名乗りはぴしゃりと打ち消された。
もはや、雨音でふだんの声量すら集中しないと聞き取れないほどにまで雨脚が強まっている。
こちらを見る瞳が一際強い光を放っているように感じた。やがて僕の心の中で、何かが折れた。
「……ただの一回なんてものじゃない。やり直せたらな、って考えたのは」
けれど、やはり結果は同じだろう。橘はいずれ名前もない病でこの世を去る。僕はそれを覆せない。
「……なら、やり直してみましょう」
「……なんだって?」
話が唐突すぎて、頭が追いつかない。
だいたい、なんなんだこの雨は。
さすがに、今日ここまで大きな雨が降るとは聞いていなかった。公園に溜まっていた主婦たちだって、傘の一つも持っていなかったはずだ。
これでは、長年愛用してきたウォークマンもダメになっているかもしれないな、と僕は現実逃避気味に見当違いなことを思った。
「そこでは、あなたは高校一年生になっています。必ず彼女に出逢えます」
……こいつは、相手にしちゃいけない奴だ。僕はそう結論づけた。もしも神様とやらがいて、そんな芸当ができるものなら、とっくに僕は救われているだろう。
その時、よくわからないが、ふと嫌な感じがした。気配でもないし、予感とも違う。
彼女自身からというわけでもない。第六感とでも言うべきだろうか。徐々に、視界がゆっくりと動くようになって、少女の声も遠く、ゆっくりと聞こえてくるようになる。
この前兆は知っている。
昔、交通事故に遭って、父と妹を失ったあの瞬間と同じものだ。
つまりこの先にもたらされる事象は──
直後。僕の頭上で、落雷が破裂するみたいに奔った。
──ああ、死んだな。
光が明滅して、意識が消し飛んだ。
***
視界が暗転して、浮上する。寝起きの瞬間ともやや違う、不思議な瞬間だった。どちらかというと、船酔いして頭がフラッとする感覚に近い。
僕はようやく目を開けると、目の前にもうあの少女はいなかった。
「……やっぱり幻覚か」
がっかりしていることに気付いて、僕は心底自分に失望する。何を今更。そんな奇跡、起こり得るはずがないのに。
溜息を吐きながら一歩踏み出すと、足元でぴちゃりと音が鳴った。
空は暗いが、晴れていることはわかる。今まで雨が降っていた様子もないし、川も静かに流れている。
そうして、気付く。
「……あれ、服」
──全身ずぶ濡れになった服が、そして足元の水溜りが。僕の頭が正常であったことを証明していた。
ふと、ポケットに手を突っ込んでみる。そこには愛用しているウォークマンが入っていたが、やはりひどく濡れていた。間違いなく水没で故障しているだろう。
僕は数刻前の雨女の言葉を頭の中で反芻はんすうする。
「……だからどうしたっていうんだ」
やり直して、どうなる。
21歳にもなって今更高校生をやれって? 冗談にも程がある。だいたい、こっちは本当は中学もまともに卒業できていないのだ。
流石に、川に身を投げ出す気も消え失せた。
僕はもう一度溜め息を吐いてとぼとぼ帰宅し、濡れた服を脱ぎ捨ててすぐにシャワーを浴びた。
テレビはあるが、もうしばらく点けていない。そういった娯楽の類では、僕の心は晴れないと思っていたからだ。
電話機が留守番電話があることを告げていた。もう何年も電話なんてしていないのに、珍しいこともあるものだ。
けれど、どうせ詐欺か何かの電話だろう。僕は無視して小腹満たしに冷蔵庫を開けた。
そこにはどうしてか、見覚えのない食材がいくつかあった。一口サイズのウィンナーや、ラッピングされた玉子焼きが見える。まるで弁当のおかずみたいだ。
甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる幼馴染がいた、という記憶はない。
ふと一つを手に取り賞味期限を見ると、1996年の秋とあった。もう五年も前のものだ。
「……疲れてるのかな」
思わず目元を擦る。しかし、目の前の数字や光景に変化はない。
基本的にバイトで家にいない上に、自由時間も外でぼんやりしているせいか、食事のほとんどをコンビニなどで適当に済ませてしまうものだから、普段冷蔵庫を使うことは少なかった。
それにしたって、これだけの食材を五年も放置して気付かないのも妙な話だ。
腐食などの様子はなかったが、腹を壊して痛い目を見るのも嫌だった僕は結局食事も取らずに眠りについた。
どうしてか、久々にぐっすりと眠れた。
***
奇跡なんて起こりはしないと、そう思っていた。
しかし、奇跡とは、人知れずに起きているものだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます