その3 山嶺を行く
翌日、ルート、シーグラム、オーラフは、目的の山を目指して歩を進めていた。足の悪いオーラフが長距離の険しい道を歩くのは難しいため、彼はシーグラムの背中に乗って移動している。
ドラゴンの鱗は人間の肌や衣服を傷つけるほど硬く、荒い。だから専用の鞍が必要なのだが、ドラゴンが人間の前から姿を消して五十年余り。鞍を持つ者も作る者もいない。だが、幸運なことに、オーラフの家にはそれが眠っていたのだった。若い頃の持ち物らしく、さすがに数十年の劣化を見せていたが、オーラフが出発前にある程度の修繕をしたおかげで、二、三日はもちそうだった。
「これは、オーラフ殿が使っていたものなのか?」シーグラムはこの鞍の過去が気になり、オーラフに訊いた。
「いや、元々友人のものだったのだがな、大戦争が終わって使わなくなったからといって、無理やり押し付けられたんだ。後々、ヴィンテージ品になるだろうから、などと屁理屈をこねられてな。だが、ワシだって使う機会なぞなかったんだから、こうして埃をかぶっていたのだよ」
「それにしては、修繕の手際が見事だった」
「元々、服飾の仕事をしていたからな。若い頃は、短期間ではあるが鞍作りを手伝ったこともある」
「それじゃあ、じいさん、若い頃はよくドラゴンの姿を見ていたのか?」ルートも老人に訊いた。
「当時は誰もがドラゴンを目にしていたさ。この五十年ですっかり変わったがな」
彼らがまず最初に目指す山は、タトラ山脈に属するキトゥラ山という山だ。周辺に深い森や林などはなく、低地では高原が広がっている。道が整備されているわけではないので、石がごろごろしていて少々歩きづらい。開けた場所であるにも関わらず、なぜこんなにも整備されていないのかというと、タトラ山脈の一部は進入禁止になっており、このキトゥラ山もそうであった。しかし、オーラフが住んでいる湖周辺は元々制限がかけられていなかったことと、今、彼らが登ろうとしている山の西南側は、近年になって制限が解除されたのだ。どうして制限が解除されたのか、そもそも、なぜ制限がかけられたのかは判然としていない。もしかしたら、その理由は、もう公表されたのかもしれないが、ルートとシーグラムにはわからなかった。
彼らは、夕方頃にはキトゥラ山の山頂まで来ていた。さすがに山頂になると緑が減り、ごつごつした岩肌が露わになってくる。ルートの体の倍もある岩もそこらにごろごろしている。このような険しい山でも、ドラゴンであるシーグラムと健脚であるルートだからこそ、今日中に山頂までたどり着けたのだ。
「じいさん、あとどのくらいなんだ?」
「花が生えているのは、まだ先だよ。ここから、北へ尾根を進んだ先にある。このまま行けば、あと一日で着くだろうて」
「では、今日はここまでにしよう」彼らは野営することにした。
「そういえば、なあじいさん。永遠の命を得て、何しようってんだ?それをまだ訊いてなかったからよ」ルートは唐突に訊いた。老人は乾いた声で返した。
「そうさなぁ……。添い遂げたい人がいるんだ——」
「なんだ?逃げられたかみさんでも見つけ出して、二人で永遠に生きようとか、そういうロマンティックなことか?」ルートは茶化した。
「ハハッ。その通りだよ。大昔に、女房には逃げられてしまったからな。もう一度、言いよるのさ———」
「そういえば、お前さんらは永遠の命を得たいと思うかね?」今度はオーラフが質問する番だった。
「うーん…。別に俺は永遠に生きたいなんて思わないな。長く生きたって退屈になるだけだろうしよ。人間六十年くらいが丁度いいぜ」
「私もそうだな。今まで何人もの友人が先に逝くのを見てきた。五百年という寿命でさえ長すぎるくらいだ」
「ハハッ。それがいい。お前さんらは、くれぐれも花を口にするんじゃないぞ」オーラフは快活に笑って寝床についた。
翌日、彼らは再び歩き出した。タトラ山脈の尾根を伝って、北東へと進んだ。一行は、もう進入禁止地帯まで足を踏み入れていた。だが、誰にも見咎められないのは、見張りがいないおかげだった。進入禁止地帯であるにも関わらず監視小屋が無いのは、よっぽど管理がずさんか、よっぽどの危険地帯であるか、だった。
北に行くにつれて標高は高く、岩で作られた山道も、起伏が激しくなっていった。眼下に広がるきつい傾斜の岩壁には、ヤギがぴょんぴょんと跳ねていた。気温は5度くらいまで下がっただろうか。ルートとシーグラムは平気だったが、体力の落ちた老人には辛いことだった。
目的地に大分近づいているらしく、オーラフは「こりゃ今日中に着くかもしれんな。ほれ、あそこに一番高い峰があるだろ。あれが、この山脈で最高峰のホウスキー山の山頂だ」と、行く手に聳える切っ先が鋭く大きい峰を指した。「あの峰を越えたら目的地だ」
「おう。そりゃ楽しみだ。あと十八マイルほどかな」一行は、目標が見えてきたおかげで元気を取り戻していった。
だが、山の天気はそう簡単に彼らを通してはくれなかった。彼らがホウスキー山の近くまで来た時、それまでの晴天が嘘のように、突然の雷雨が襲ったのだ。シーグラムが尾根を降りて、岩肌に皆がギリギリ入れるくらいの横穴を見つけてくれたおかげで事なきを得た。しかし、寒さと急な雨は老人の体力を著しく消耗させた。
「おい、大丈夫か?じいさん」
「体温が下がっているな。それに疲労もあるし…」シーグラムとルートは、持ってきた毛布でオーラフの体を包んだ。
「すまないな。こんな老いぼれでなければ——」
「気にすんなよ。険しい山越えなんだ。これくらい覚悟の上さ」
「今はゆっくりと休まれるがいい。ここにいれば雨風をしのげる」
「ほんにすまないな。ゆっくり寝かせてもらうよ」
風雨は、一晩中続いた。
一夜が明け、空は雲一つない気持ちいい快晴だった。まるで台風が過ぎ去ったかのようだった。地面はまだ濡れているが、燦々と照りつけるこの陽光であれば、すぐに乾くだろう。
「オーラフ殿、体調はどうだ?」
「ああ、ゆっくり休んだせいか、すこぶるいいわい。ただ、もうちっとお前さんに頼らないといけないだろうがな」
「ハハッ。十分に頼ってくれ」
「それじゃ、出発するか」
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