その7 一夜明けて
美術館での盗難騒ぎから一夜明け、街の住人たちは元の日常に戻っていた。それは当事者も同じことだった。
「キティ様、朝でございますよ」メイドの格好をした四十代くらいの婦人がカーテンを開けながら、すぐ脇のベッドに声をかけた。
「うーん、もう少し…」ベッドの主は眠たそうに返した。
「もうダメですよ。いい加減に起きないと学校に遅刻してしまいます」ベッドの主は体を重たそうにあげ、深く長いあくびをした。
「はぁ、今日はあまり行きたくないな。ねぇ、ちょっと体調が悪いかなー、なんて」ベッドから起き上がってきた人物は十一、二歳くらいに見える少女だった。窓から差し込む朝日に綺麗に伸ばされた金髪がキラキラと輝いていた。
「もうすぐ十五歳になられる方が、そんな子供みたいな——。旦那様が嘆かれますよ」メイドが嘆息した。
「わ、分かったわよ。ちゃんと行くから、パパには言いつけないで」キティの言葉に、メイドはにっこりと笑顔で返した。
キティは着替えをすませて朝食の席についた。他に一緒に食べる者はいない。代わりにお手伝いが側に控えているだけだ。大きなテーブルには、ミルク、軽く焼いたバゲット、それに添えられてバターとジャム、そしてミラルベが運ばれてきた。キティはそれらをさっさと片付けると、学校に行く準備をし、外に出た。玄関を出ると馬車が待っていた。そこに、いつもの執事の姿があった。
「キャサリンお嬢様、おはようございます」執事はそう言って、キティが馬車に乗るのを待っていた。彼女は、執事が何か言いたそうな顔をしていることに気づいて、おずおずと近づき、黙って馬車に乗った。執事も同乗し、発進した。
「あ、ぴぇ」「お嬢様」執事はキティの言葉を遮った。
「昨晩は大変な騒動でしたね。美術館にドラゴンが現れたとか——」
「ピエール、だから昨日はね、ちょっとアクシデントがあって、」
「下手をしたら、お嬢様が捕らえられてしまうところだったのですよ。目的を達成した、していないはともかく、あなたの行いが世間に明るみに出てしまうことだけは避けなければいけません。絶対に」ピエールと呼ばれた執事は言葉強く言い放った。
「はい……」とキティはおとなしく返事をした。
「……。旦那様が仕事でおられなくて心寂しいのは分かりますが、それで危険な冒険行為をするのは」
「そういうわけじゃないわ!」キティは力強く否定した。「ママは確かにもういないし、パパも確かに仕事でほとんど家にいないけど、でも、だからといって寂しいわけじゃないわ。それに、アレも、ただの趣味でやっているわけじゃないの!」
「…。勝手な憶測を申してしまい、大変失礼いたしました。昨晩のことについては、ここまでにしておきましょう。ですが、お嬢様の怪盗稼業については、いずれまた、話し合いをしなければいけませんね。バレる前に」
キティは、その言葉に顔を膨らせた。
「シーグ。やっぱ昨日のアレ、しっかり撮られてるぜ」ルートは朝刊を片手にシーグラムのいる所にやって来た。しかし、当の彼は、相棒の言葉を聞いていないようだった。
「早速、あの絵にご執心か」シーグラムは、昨晩頂戴した「マリアの光」を日の光が届く明るい場所まで移動させて、そこらの大岩に立てかけて、じっと静かに見ていた。
「おい。おーい、シーグさん?」ルートはシーグラムのすぐ隣まで行って声をかけた、
「ああ、ルートか。早いな」彼は、やっと気づいたようで、ルートの方にようやく目を向けた。昨日のケンカなぞなかったかのように、二人は会話していた。昨晩、シーグラムがキティを送り届けた後、軽く仲直りしたのだった。
「そりゃまぁ、いつまでもこんな所にこんなバカでかい物を置いとけないしな。返却作戦でもって思ったんだ。それで、どうだ?ご満足か?」
「ああ、もちろんだ。こんな形でしか見ることができないのが心苦しいがな。しかし、このムラの無い朱色一色の世界、光を内包しているようであり、体内に潜む光を表しているようにも思える。この白い壁との対比が、そうさせる要因でもあるのだろうな。おそらく、建物内で見た方が、この絵が作り出す静謐な空間をより体感することができるのだろうな——」彼はうっとりと、眺めながら語った。
「ま、昨日は人混みで、その静かな空間は全く体感できなかったけどな。ていうかシーグ、ほれ、これ見ろよ」ルートはシーグラムに朝刊の一面を見せた。
「まぁ、危惧していたことだけどな、やっぱりお前の姿、ばっちり収められちまったぜ」一面にでかでかと載せられていたのは、黒いドラゴンが大きな絵画を吊り下げて飛んでいる姿が、地上からのアングルで撮られていたのだ。
「幸い、俺とあの女はお前の影になって見えていないけどな。だけど、リュパ周辺にドラゴンがいるってことで、リュパ市が調査隊を組むことが決まったらしい。その内、この山にも来るだろうから早くとんずらした方がいい」
「そうか。まぁ、あれだけ衆目に晒されながら行ったのだから当然か。それでは、この絵の返却はどうしようか」
「うーん、そのまま置いて行くってのは、まぁダメだよな。美術館の屋上にでも置いていくくらいしか方法はないだろ」
「そのような雑な返却は、どうも——」
「お前は、変な美学をもっちゃってるよなー。やってることはただの泥棒なのに…。」
「盗難をしてしまったからこそ、その後始末は誠意を持って行いたいのだ。だが、確かに、もとあったように戻すなぞもう不可能だしな。はてさて、どうしようかねぇ……」
キティは午後の授業を抜け出し、いつもの憩いの場へ来ていた。祖父の遺した部屋に。その小さな屋敷は、祖父が存命だった頃、骨董品屋として営業されていた。キティの屋敷とは離れた所にあるが、今でも残してあるのだ。
店の中は多くの骨董品が所狭しと並んでいるが、キティがいつも訪れているせいか、誇りはそれほど被っていない。彼女はカーテンを開け、陽の光を入れた後、地下室に下りて行った。その地下室は狭く、名も知らない絵画や彫像品が並べられていた。キティは、その部屋に明かりを灯し、部屋の奥に置かれている小さな机の上に突っ伏した。
「ごめん、おじいちゃん。初めて失敗しちゃったよ…。やっぱり、おじいいちゃんの真似事は向いてないのかな……」彼女は、机の上の工具を指先でいじりながら呟いた。
ぼんやりと虚空を見つめていた彼女だったが、不意に一階の入り口の方で物音がしたのを聞き、即座に身を起こした。
警戒しながら上への階段を登ってゆくと、物陰から銀髪の頭が見えた。その人間は「あれ?誰もいないのか?おーい」などと店の奥に向かいながら呼びかけている。キティはその声に聞き覚えがあった。昨晩の邪魔者だ。彼がどうしてこんな所に来たのかは不明だったが、キティにとっては不愉快極まりなかった。昨夜、仕事を妨害された挙句に、憩いの場所にも土足で踏み込まれたのだから。まぁそれは、彼女が不用意に鍵をかけ忘れたせいでもあるが。
とにかく、彼にはこの場から立ち退いてもらおうと、キティは姿を現した。
「ちょっと貴方、不法侵入で警察を呼ぶわよ!」銀髪の男は振り向いた。
「あれ、その声。もしかしてお前、昨日の——?」
「一度ならず、二度までも、そんなに私の領域に足を踏み込んで、何の恨みがあるの?」
「いや別に、ここ、骨董屋だと思ってさ——。それに鍵空いてたし」
「元骨董屋よ。今はただの物置状態だけど……」
「ふぅん。それにしても、お前とまた会うなんてなぁ——。ここは、お前の家族か親戚がやってたのか?」
「祖父がやってたの。父はこの店は継がずに、貿易業の方に手を出したから、誰もこの店を経営する人がいなくてこの状態ってわけ」
「へぇ、そうなのか。……。待てよ、父親が貿易商人ってことは、お前、もしかして、」
「そうよ。私はルフェール家の者よ」
「まじか!あの、一代で世界三番目の貿易商社に成り上がったっていうルフェール家の娘?!」
「……」
「ていうかさ、そこのご令嬢が泥棒稼業なんてしてていいのかよ!まったく、親はどんな教育してんだ!」
「怪盗って言いなさい!泥棒呼ばわりしないでよね。それに、親のことは関係ないでしょ」
「それにしたって、箱入り娘がほいほい夜中に忍び出して街中駆け回ってるなんて、簡単にできることじゃないだろう」
「私をガチガチに束縛したら癇癪を起こすってこと、父も使用人たちも嫌というほど知っているからね、家の中で私を監視する者はいないわ。それに、父は仕事でほとんど家にいないし、今も当分帰ってこない状態よ」キティは、執事のピエールが協力者だということは伏せた。
「なんで、そこまでして怪盗稼業がやりてぇんだよ。欲しい物があるなら、父親に泣きつくなり、自分でなんとかするなりあるだろ」
「別に、もの欲しさにやっているわけじゃないわよ」
「じゃあ、なんでだよ」
「………。あんたには、関係ないでしょ」彼女はそっぽを向いた。
「それじゃあ、俺が考えるにだなぁ、多分、この骨董屋をやっていたっていうお前の爺さんが、先代の怪盗シャノアールだったんだろ」キティはギクリとした。
「大方、お前がさっき出て来た地下室に泥棒稼業にまつわる物が隠されていて、お前が引き継いだか、勝手にやってるかのどっちかだろ」
「証拠はないでしょ」
「ま、確かにじいさんが怪盗だったっていう証拠はないけどさ、先代が活躍していた時期とか考えれば辻褄が合うし、それに、骨董屋っていう職業だったら、美術に造詣が深いだろうしな。下地は揃ってたってわけだ」
「もうっ!余計な詮索はしないでよ!ていうか、あんた、自分の目的が済んだんだったら、とっととこの街から出て行ってよね」
「そういうわけにもいかないんだ。まだ、盗んだ物を返却するっていう大仕事が残ってる」
「返すの?わざわざ、あんな大仰なことして盗んだのに?」
「お前だっていつもやっているんだろう?盗難品の返却なんて。今回の俺たちが盗んだ物ってのはさ、相棒が、あ、あのドラゴンな。あいつが見たいっていうからとったんだ。それで、あいつは見れれば満足だからさ、用が済んだら返すのさ。大体、あんなでかいもの、売りようがないし、飾っておく場所もないからな。あ、そういえばさ、お前、どうせリベンジすんだろ。今度は被らないようにしてやるからさ、いつやるんだ?」
「それは…」よく喋る男だと思いながら、キティは今回のリベンジの機会を決めていなかったことを思い出した。だが、たった今、彼女の頭の中に一つのアイディアが浮かんだ。
「そうね、あなたたちの返却作戦、私の作戦とまた同時に行わない?今度はちゃんと作戦立ててね」
「は?どういう風の吹きまわしだ?」
「だから、この私が、あなた達に協力してあげようって言ってるの。この街のことと警察には、あなた達より詳しいんだからね」キティは、この男たちと共同戦線を張れば、もしもの時に囮りにできると踏んだのだ。
「ふーん。それなら、報酬は?」
「なんで報酬なんて渡さなきゃいけないのよ」
「別に俺は協力なんて求めてないし、それに、なんか企んでそうだからな。例えば、自分が捕まりそうになった時は俺を囮りにするとかな」
「む…。べ、別にそんなことしないわよ。分かったわ。報酬を払うから、私に協力して」
「そうこなくっちゃな」
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