その5 作戦開始
日が傾きかけた夕刻、シーグラムはリュパの上空に姿を現した。黒くなった翼を静かにはためかせながら、音もなく下降していった。地上の人間たちに悟られないよう、素早く大聖堂を見つけ、鐘のところへ潜り込んだ。腹ばいになれば、なんとか鐘の下に寝そべることができた。
だが、これでゆっくりはしていられない。彼は美術館を見つけた。ルートに言われた通り、建物の裏手が臨めた。確かに、大聖堂から美術館までの距離は五百メートルほどだが、まっすぐ狙えばいいわけではなかった。今彼がいる大聖堂のてっぺんから美術館の二階辺りまでの高さは約三百メートルの差があった。さらに、美術館の周りの庭がいくら広いからといって、周りの住居やその他の建物は少なからず障害になった。シーグラムが狙っている場所から
しかし、早く仕事を終わらせてこの場を去らねばならなかったため、シーグラムは集中して標的に狙いを定めた。今にも沈もうとしている西日の光を自分の額にある白い
そんなことをあと二回繰り返して、彼は仕事を終えた。人がいないタイミングを見計らって行ったので、シーグラムの行為に気づいた人間はいないようだった。それに、彼の出していた光線は非常に細かったため、例え見られたとしても、太陽の明かりがどこかに反射したものともとらえることができた。
シーグラムは大聖堂を後にした。
午前0時、より少し前。ルートは警官に扮して、「ピアノ」の警備に紛れていた。一時間ほど前に、表にいた巡査をひっそりと呼び出して、その制服を拝借したのだ。制服を失った巡査は、今夜一晩は見つからないように、美術館の周りの庭園の茂みに隠している。
館内は、電灯こそ点いてはいるが薄暗い。この明るさでは、制帽を目深に被った者の顔などすぐには分からないだろう。
「あと数分で予告時間だ。すぐに動けるようにしとけよ、シーグ」ルート達は素早く事を運べるように、常に
「ああ、呼ばれればすぐにでも飛んでいけるさ。それで、そっちはどうだ?」
「まだなんにも動きは無い。いつどこから怪盗野郎が来るのか想像もつかないな」
「怪盗の動きもだが、警察にも気をつけろよ。お前がいるそこは、一番警備が厚いんじゃないか?」
「ああ、警備の指揮をとっているガニマールって警部がいるんだけどさ、まぁ、中々有名な鬼警部らしいんだよな」
予告の品のすぐそばで、眼光鋭く見張っている厳つい顔の男がいた。トレンチコートを着てシャッポを被っているその姿は、周りの部下達に緊張感を与えていた。ルートは、その鬼警部に突然話しかけられた。
「おい、お前。ぼさっと突っ立ってるな。気を引き締めてろ」彼は少しビクッとしながらも、すぐに、申し訳ありませんでした、と詫びを入れて、今の自分の役割を演じることに徹した。だが、戻っていこうとしたガニマールがすぐにこっちを振り返って、「お前、見ない顔だな」と、ルートの顔を覗き込んだ。
「本官は赴任したばかりでして、この間までは田舎の駐在所におりました」ルートは、でたらめなことを言ってこの場をしのごうとした。
「そうか。まぁ、今はそんなことはどうでもよかったな」ガニマールは特に怪しむでもなく、ルートの前から立ち去った。
「どうした?」シーグラムが話しかけてきた。
「鬼警部に目をつけられそうになった。でも、もう予告の時間になるから、そんなこと気にしてる時じゃないけどな」
予告の零時まで、あと五分だった。館内は緊張に包まれていた。ルートは「ピアノ」のそばで警備をしていなければならなかった。そのため、「マリアの光」へ向かう際は気をつけていなければならない。場の混乱に乗じて向かわなければ、誰に見咎められるか分からないからだ。
時計が午前零時を指した。その瞬間、街の時計塔の鐘が鳴った。だが、すぐには何も起こらなかった。周りの者たちが警戒している中、その場に起こった変化は次第に分かっていった。足元から煙が立ち上っていたのだ。
警官たちの中から「火事だ」という声が上がった。周りは一瞬騒然となったが、すぐに鬼警部が沈めた。
「これはただの煙幕だ!俺たちの目を眩ますための奴の手段だ!持ち場を離れるな!」さすがに噂の鬼警部だけあって、冷静で支配力がある。しかし、煙が回るスピードは早く、部屋の窓が開けられた。発煙場所を探して止めなければ、泥棒を捕まえるどころではなくなってしまう。警部は三人の部下に煙の出所を探してくるように言った。
だが、煙が充満してきた頃、場に変化が訪れた。巡査の一人が倒れたのだ。そして、次々と警官たちは倒れていった。
「くそ、なんだこれは…」警部は毒づき、皆にこの場を立ち去るように指示した。巡査たちは倒れた者を担ぎながら部屋を出て行った。ルートもその中にいた。
「シーグ、ちょっと変わった展開だ」
「どうした?」
「煙幕が巻かれたんだがな、それがどうやら催眠ガスだったようだ。今部屋の中はもぬけの殻だ」
「警官たちを出て行かせてから獲物を奪うということか。我々の計画に支障は?」
「ない。二階の全フロアから退去するように命令が出ている」
「それじゃあ向かうぞ。ゆめゆめ寝たりするなよ」
「当たり前だ。今必死にガスを吸わないようにしているところさ」
ルートは一人、警官たちの群れから誰にも見られないように外れた。そして、「マリアの光」のもとへ向かった。
「着いたぞ」シーグラムからの交信があった。
「速いな。よし、それじゃ、壁を押し出してくれ」
ミシミシと壁が鳴った。ルートは、自分の足元にある影の中から帯状の紐を無数に出した。これが彼の特殊な
「よし、そのまま押し続けろ。早くしないと…」ルートは、押し出されてきた壁の側面に紐を当て、支えにした。
「もう少しだ」シーグラムの声が聴こえた。壁はズズズ、と押し出されてゆき、ついに上側がぽっこりと完全に押し出された。
「うわっ」とルートは小さく叫び、上側を支えた。その内に、他の部分もすっぽりと抜け、完全に壁が絵に沿った大きさにくり抜かれた。
「お、おい。ちゃんと支えろよ、シーグ」ルートは、くり抜かれた壁に幾重にも紐を巻きつけていた。紐は何重にも、縦横に巻きつけられたのだ。だが、その紐は絵を傷つけることもなかった。
「ふー。いや、もう少し深く切れ込みをいれればよかったな。割と浅かったようだ」シーグラムの爪が壁をがっしりと支えていた。
「ま、絵は無傷なんだ。いい仕事はしたぜ」
「ほう、これがマリアの光。いやはや、立派なものだ」
「おい、のんびり見てないで、はやくとんずらだ。今頃怪盗さんも、向こうで仕事に励んでるぜ」
こちらの部屋にまでガスが漏れ出してきているばかりか、いまだ、向こうの部屋では怒号が行き交っていた。そのほとんどは、あの鬼警部のようだったが。そんなことにはおかまいなしで、ルートとシーグラムは絵を運び出す作業にかかっていた。
ルートは、絵に巻きつけた紐を、今度はシーグラムの胴体にも巻きつけた。こうして、シーグラムが飛びながら絵を吊り下げられるようにしたのだ。
「よし、できた!」と、その時、外から「壁に穴が空いてるぞ!」「こっちに来い!」と声がした。バレたようだった。
「シーグ、早く出るぞ」ルートは絵に巻きつけた紐に自分もしがみついた。シーグラムは絵を重そうに引きずりながらも、外へ飛び立った。
それと同時に、シャノアールを捕らえるべく、大捕物が行われていた部屋の窓が割れ、誰かが飛び出してきた。その人物はピックのようなものを使って壁に張り付いた。そこで、彼らはその人物と目があった。黒いマントにシルクハット、顔には仮面をつけている。男か女かは分からず、背格好が子供のようでもあった。
「止まれ!」「あの大きいのは何だ?」「バカ!展示物に当たるだろ!」などと下にいる警官たちの声が聞こえていた。
黒い人物はこちらと目を一瞬合わせただけで、すぐに壁に向き直り、獲物を小脇に抱えながら、すいすいと登ってしまった。
シーグラムも、警察の手から逃れるべく急いで上昇した。しかし、不慣れにも重いものを体に吊り下げていたせいか、彼はバランスを崩した。彼の体に吊り下げられていた絵はグラリと揺れ、屋上の端にガンッと当たった。しかも、そこには先ほどの黒ずくめの人物がいたのだ。その者は、衝撃の余波を受けてよろめいた。ちょうど、屋上に上がって来た所だったのだ。その者の持っていた「ピアノ」が手から離れ、空中に放り出された。それを目の端に止めたルートは咄嗟に片腕を出し、それを手に取った。そして、再びシーグラムは上昇したのだった。
「咄嗟に掴んじまったけど、どうしよう、これ」
「どうした?」とシーグラムが訊いた。
「いや、それがさ」と口を開きかけた時、彼は自分の足が急に重くなったことを感じると同時に、「返せ」という言葉を聞いた。ルートが声がした方に目を向けると、先ほどの黒ずくめの人物がルートの足を掴んでいたのだ。
「それを返せ!」とその黒ずくめで仮面を被った人物は言い放った。怪盗シャノアールだったのだ。
「うわっ。やめろ!放せ、落っこちるぞ!」
「いいからそれを返せ!こちらの獲物だぞ」などと足と手で揉み合っているうちに、ルートは「ピアノ」を手から放してしまった。ルートとシャノアール、二人して間抜けな声を出したが、遅かった。「ピアノ」は真っ逆さまに美術館の屋上のコンクリートに向けて落下していった。
だが屋上には、怪盗を追ってやってきた警官たちが押し寄せており、その中にいたガニマールが落ちて来るものに気づき、間一髪、なんとか受け止めたのだ。
ルートが息をついたのも束の間、シャノアールが上へ這い上がってきて、ルートの胸ぐらを掴んだのだ。
「ちょっと、なんてことしてくれるの!お陰で計画が台無しじゃない」
「ちょっと、ここで暴れんな…。頼むから…」
「ふざけないでよ!あんたのせいで」と、怪盗が騒いでいるのを無視して、ルートは片腕と特殊な黒い紐を使って、怪盗を押さえつけた。
今、何百キロもある壁と絵をくくりつけて、なおかつ、シーグラムの力を借りているとはいえ、ルートもこの壁に張り付いた絵を支えていることには違いなかった。そのため、彼の集中力と気力はほぼ限界に近かった。その上、人一人を追加して運ぶということは、彼の体力を著しく削ることとなった。そのため彼は、その小柄な怪盗を小脇に抱えることにした。
「…。あれ、お前女か?」
「ちょっと、どこ触ってるの!放しなさいよ!放せ!」怪盗シャノアールは、少女だったのだ。
「お前、暴れんな!落っこちてもいいのか!」
「うるさいわね!こっちの仕事邪魔してくれちゃって…。」少女は、さらに暴れた。
「バカ、これ以上暴れたら、俺もお前も真っ逆さまだぞ。頼むから、暴れないでくれ…」
「ルート、物を揺らすな。もう少しの辛抱だ」
結局、少女は暴れることは辞めたものの、地面に降り立つまでルートを罵り続けたのだった。
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