その4 森の息づかい
シーグラムは元いた所に戻って来た。つもりだったが、なぜかルートの姿が見えなかった。彼は相棒に向かって呼びかけたが、それらしい返答はなかった。この森に住む悪意のある何かが、彼を連れ去ったに違いないと直感した。もしかしたら、もう食べられてしまった可能性もあるが、血の臭いは漂ってこなかった。
シーグラムは辺りを見渡した。すると、彼らが道しるべとして使っていた夜光塗料が水たまりのように溜まっている箇所を見つけた。今まで、少量ずつ垂らしながら来たので、これは新しくつけられたものだと分かった。更にその付近を探してみると、塗料が少しずつ蛇行しながら垂らされているのを見つけた。一滴一滴の間隔は、近かったり遠かったりして幅があったが、追跡するのに支障は無かった。
——、一体何がいるというのか?
シーグラムは疑問に思った。あたりに獣の足跡は無い。かといって、何かが引きずられたような跡も這いずり回った痕跡もない。ルートの足跡も見つからなかった。シーグラムは、ひとまず塗料の後を追うことにした。
ルートは今、木の根と地面の間にパックリ空いた隙間に身を隠していた。あたりには、蜘蛛が徘徊していた。それもただの蜘蛛ではない。ルートよりも大きい、体長三メートルはあろうかという大蜘蛛だ。みな、彼を探しているのだ。
先刻、ルートを木から引き摺り下ろしたのは一匹の大蜘蛛だった。その時、彼は何がなんだか分からなかった。蜘蛛は彼の足を搦め捕り、他の仲間たちを呼んだのだった。蜘蛛たちはルートを餌とみなしたのだろう。巣に持ち帰るべく彼を運び始めたのだ。
ようやく、今襲って来ているのは蜘蛛だと認識した彼は、持っていた塗料で密かに痕跡を残した。シーグラムに見つけてもらうためだ。
蜘蛛たちが止まった瞬間があった。どうやら、他の食料を狩るためらしかった。ルートは、その一瞬をついて逃げ出した。当然、蜘蛛たちもそれに気がついた。蜘蛛は早かった。個体差はあれど、八本の足を素早く動かして駆けて来たのだ。ルートは、なるべく地面の起伏が激しい所や大きな木がある所などを目指して走った。身を隠せる可能性があるからだ。そして、今身を隠しているここを見つけ、滑り込んだのだ。蜘蛛たちはすぐにやって来た。だが、彼らはルートの姿を見つけられないでいた。蜘蛛がどうやって獲物の姿を知覚しているのかは分からなかったが、このまま土に塗れて姿を隠している間は見つからないですみそうだった。ルートは、手元に持っていた塗料の袋が無いことに気がついた。走っている途中で落としてきてしまったのだ。だが、シーグラムが近くまで来てくれさえすれば——。ルートはその思いでいっぱいだった。
シーグラムは、夜光塗料が入っている袋が地面に打ち捨てられているのを見つけた。そこには人間の足跡があった。ルートのものだろう。ここで袋が捨てられ、乱れた足跡が続いているということは、彼は急いで逃げたということだろうと推測した。シーグラムは足跡を追おうとしたが、それはすぐに不可能になってしまった。ルートは、茂みが多い所や木の根の間を中心にして逃げたのだろう。土の上の足跡はすぐに途切れてしまったのだ。
しかし、彼を連れ去ったなにかがいた痕跡は残っていた。木の上に大きな蜘蛛の巣が作られているのを見つけた。まだ真新しいのだろう、それは作りかけだった。
シーグラムは
蜘蛛たちは、いまだルートを見つけられず、今にも引き返そうとしていた。その時、ルートの頭の中に交信を送ってきた者がいた。シーグラムだった。念話で話しかけてきたのだ。
「ルート、無事か?今どこにいる?」
「ああ、シーグお前か。実はでかい蜘蛛たちにさらわれて、今隠れているところだ。なんとかやり過ごせそうだがな」ルートは、頭の中でそう会話しながら蜘蛛たちの動きを再び見た。すると、今まで引き返しそうだった蜘蛛たちがなぜか動きを止めていた。
—— 何故だ?
「ルート、どうした?」
「いや、蜘蛛たちの動きがなんか、」ルートは言いかけた時、目の前に一本の糸が垂れているのを見つけた。頭上を見上げてみると、糸の主が穴の中を覗き込んでいた。その蜘蛛は、暗い眼でジッと彼を見つめていた。そして、他の蜘蛛たちも穴ににじり寄ってきたのだ。
ルートからの交信が途絶えた。恐らく、その巨大な蜘蛛たちに隠れているところを見つかったのだろう。早く助けてやらねば命が危ない。
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