第22話 偏執
午後十時を過ぎた頃、司とシマネさんは終電があると言って帰った。
女子会は終始和やかだったと思う。彼女らと距離を取って様子を眺めていただけの僕だったが、それでも雰囲気の良さは肌で感じられた。
もう一つ言えば、司がユウとして違和感なく馴染んでいたのには驚いた。女子同士の話題は割とディープだと聞いたことがあるが、帰り際まで沙智と歓談していたから正体には気づかれずに上手くやり過ごしたのだろう。ひょっとしたら彼には役者の心得でもあるのかもしれない。
玄関で二人を見送ったあと、残った僕と沙智、憂月は後片づけに取り掛かる。
「完璧な立ち回りでしたよ。ワカサくん」
テーブルに置かれていたコンロを箱の中に仕舞いつつ、憂月が言った。
「知ってたのか」
「ライブ終わりに何度か見てますから」
振り向いてキッチンのほうを確認する。沙智は鼻歌交じりに食器を洗っている。
ワカサという名は司のバンド内名義だ。本人に聞いた話ではバンドメンバーの中で一番若いから、ナガサキにそう名付けられたのだとか。初めにそれを聞いたとき、あまりに間が抜けていて笑ってしまった。
「彼も色々大変なんだな」
コンロの片づいたテーブルの上を湿った布巾で拭いていく。普段あまり活用していないベージュのテーブルが誇らしげに光った。
「あのさ、憂月」
「何でしょう」
「今日は楽しかった?」
少しだけ間を置いて、憂月は答える。
「はい。とっても」
「それは良かった」
僕から見ても楽しげだった。その見立てが正しかったことに何より安心した。
沙智の立てた計画では、この後沙智がコンビニへ出掛けていくことになっている。つまり僕と憂月が二人っきりになる展開だが、その時に何をすべきかという指示は一切聞かされていない。
僕には司のような演技力はないから、具体的な指令を受けたところで実行はできないだろう。それを見越しての沙智の判断だとすれば、やはりあの義妹は僕のことをよくわかっている。
食器の片づけが終わったところで沙智は財布を持って出ていった。楽器のように鳴る皿や水の流れる音が消え、室内の時間が転調したように感じられた。
孤児院に居た頃を思い出す。あの空間は心の安らぐ場所ではなかった。どこにいても誰かの吐く息が近くにある気がして、いつも逃げ場を探していた。そうして辿り着いた居場所が千世の傍で、それは今でも変わらないように思う。
なのに僕は千世の居なくなった世界を想像する。千世が居なければ僕は幸福を思い描けないというのに。別の幸福の像を結ぼうとする自分の無意識の思考が、とてつもなく邪悪なもののように感じられた。
身近過ぎる臨終の映像が僕を歪めている。
そんな僕を正常に戻せる存在は、千世ではなく――
「私には姉がいるんです」
唐突な憂月の言葉で、意識が毒のような静寂の外側に押し出された。
まるで他人事を語るみたいに憂月は続ける。
「と言っても、父親は別みたいなんですけれど。私の父親はとても母親を愛していましたが、姉の父親はそうではなかったみたいで」
「そんな話、誰から」
「八歳の頃に母の親族から聞かされました。お前の母親は未成年のうちに見知らぬ男に孕まされた子を産んだと。身内に白い眼で見られ続けた母が一族の墓に納まることを許されたのは、ほんの一年前のことです」
どうしてそんな話をするのか、とは訊かなかった。憂月が自身の過去を話すことなんてこれまで一度もなかった。この状況は願ってもない。
ただ滔々と身の上を語る憂月。僕は黙って聞くしかない。
「そんなわけで私も親族から厄介者扱いでした。経済的負担はするが一緒には暮らせないと住むところまで与えられました。相当嫌だったんでしょうね――彼らから見て、私は不幸の塊でしかなかったから」
クラスメイトに、不幸が服を着て歩いていると呼ばれていた憂月。親族だけでなく周囲からも日常的にそう思われていたのだとしたら、心が死んだっておかしくない。
僕の見てきた今際の際は肉体的なものだと思い込んでいた。だが憂月のような例を鑑みれば、精神的な死を捉えていることも有り得るのではないか。
常に死に続けている精神とそれでも生き続ける肉体。
拷問だ。
「けれど、お兄さん。私はそれでも自分が不幸だなんて思いません。今日という日が楽しくて、楽しくて、忘れかけていたことを思い出しました」
「忘れかけていたこと?」
思わず僕は訊いていた。
憂月はにっこりと笑う。泣きそうなくらいに。
「私はこの世界に恋しているんです。どんなに酷くても、醜くても、私はこの世界のことが愛しくてしょうがない」
だから過去に縛られず今を幸福と信じて生きる。
死にさえも焦がれ、生まれ変わって再び生き直すことを望む。
点と点が、繋がっていった。
妄信的なまでに愛してしまっているが故に、この世界の穢れを見ることができない少女。
司の言う通り、人は惚れると価値観を狂わせざるを得なくなる。憂月にとってはこの世界が至上であり、その格付けに美醜は関与しない。
翡翠色に輝く憂月の右眼はその象徴だった。何の像も映さない人造の瞳は、世界の片側だけを愛させるために与えられた証。
そんな彼女に、自分が幸か不幸かなんて断定できるわけがない。
「お兄さん。私はきっと、短命です」
生きているのか死んでいるのかわからない眼が僕に向く。
「あなたの願いを叶える時間は残されていないかもしれない。それでも……ううん。だからこそ、私のもう一つの願いを聞いてください」
憂月の身体が、顔が、眼が、僕に迫る。他のどんな人も迎え入れたことのない至近距離に彼女の肉体があった。少しでも身動きすれば互いの肌が触れ合って、何か境界を越えてしまいそうな予感が脳裏をよぎる。
その先に僕の居場所があるのか? それは違うと理性が知っている。
彼女は僕の願望の投影だ。だから求めるものがそこにあると勘違いする。
永遠に生き続ける存在。
慰めを授けてくれる存在。
居場所を与えてくれる存在。
そんな都合の良いものなんて、世界中を探したってありはしない。
だから。
その願いにだって意味はなかったのだ。
「私は、あなたの子として生まれ変わりたいのです」
薄い唇が僕に触れて蕩ける。
そして彼女は眠りに落ちた――
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