第21話 分岐する黒の一点

 加熱した鍋の出汁に具材を投入し、もう一度煮沸させたところで火を止めて居間の机へと運ぶ。蓋を開けると、具がほぼ野菜しかない寄せ鍋が姿を現した。揃って手を合わせてから、いよいよ鍋を囲んだ食事が始まった。


「肉を食べるとお腹を壊しちゃうんですよね、私」


 憂月は司が聞いたら卒倒しそうな発言をしたあと、鍋の隅から千住葱を箸で摘まみ上げた。


「だから白野さんはそんなに細いんだね」

「はっぴぃだって細いじゃん。……ユウさんも」

「別に。細くないですよ」

「カクリちゃん、私にも細いって言って!」

「シマネさんは、その、母性的な体型だと思いますよ」

「細いって言ってよ!」


 僕がキッチンで出汁を温めているうちに、彼女らはいかにも女子会らしい会話をしていたようだ。その延長線上で続いているらしく、僕には参加しづらい話題が繰り広げられていた。


 しかし一つわかったのは、鳴神祭のときに憂月が言っていた『バンドメンバーと仲良くしている』というのはあながち嘘ではなかった、ということだった。


 少なくともシマネさんは憂月に何かと気を遣っているし、憂月も露骨に避けたりはしない。ややぎこちなさはあっても、司の言っていた冷たい態度を取っている様子はない。


 無理は――まだしているのだと思う。心を閉ざすも開くも彼女次第で、そのどちらでも何かを堪えないといけない。前者は孤独に苛まれ、後者は慣れない行為に苦心する。


 だがその二択を選べる状況にすら、これまで憂月は面することがなかった。不幸体質と蔑まれ続け友人関係を築けなかった彼女が、半信半疑でいるのも仕方ないことなのかもしれない。


 そもそも不幸体質とは何が契機でそう呼ばれるようになったのか。


 憂月の過去を知ることで、全ての点が繋がるような気がしていた。


「遥斗兄さん、冷房もっと強くして」

「ああ、うん」


 梅雨明けからそれほど経っていないとはいえ、日中の気温は二十五度を超えている。そんなときに鍋をしようというのがまず奇妙な話だった。


 傍に置いてあったリモコンに手を伸ばす。その手がユウの手の甲に当たった。


「あっ、ごめん」


 咄嗟に謝ったが、その一瞬でユウの表情に違和感が生じる。どこかで見たような――


「どうかしましたか」

「……いや、何でも」


 冷房を強くしてと指示されたのは僕だった。なのにユウのほうが先にリモコンに触れていた。そしてユウにはリモコンを操作しようとする素振りがなかった。それはつまり、僕と手が重なるのを待っていた、ということであって。


 再びユウの顔を見る。ポーカーフェイスで、今度は切れ長の眉一つ動かさない。


 ふと携帯が振動した。メッセージの主は司だった。


【一旦外に出てきてもらっていいですか】


 色々と思うところはあるが、指示に従ったほうが賢明に違いない。


【わかった】


 短い返信文を打った後、無言で席を立つ。


「お兄さん、どうされました?」


 そこに憂月が声を掛けてきた。言い訳を考えていなかった僕はたじろぐ。


「あ、えっと――」

「お隣がご在宅か確認するそうです」


 助け舟を出したのはユウだった。


「騒がしくなる前に一報入れておくべきかと思って私が提案しました」

「あー確かに近所迷惑になるかもですね。ありがとうございますユウさん」

「礼は遥斗さんに言ってください」


 坦々と述べ、僕よりも先に席を離れるユウ。


「行きましょう」


 どうにも行動が読めない。ただ者ではないのは間違いなさそうなんだけれど。


 ユウに後続して外に出る。陽は沈み、生温い空気が辺りに漂っていた。かといって不快でもなく、冷房の効いた部屋よりはむしろ過ごしやすく感じられた。


 扉を閉めると、ユウは大きく伸びをし始めた。


「はぁ、疲れますねやっぱり」


 先程までとは一転、クールな印象だったのが気さくな口調に変わる。声色はそのままで、大人びた調子がなくなっていた。


「シマネさんを連れてきたのは正解でした。酔っ払ったふりして上手く場を温めてくれています。それは私にはできませんから」


 スイッチが切り替わったかのように饒舌に話し出すユウ。戸惑いを隠せない僕は問わずにはいられなかった。


「いったいきみは誰なんだ」

「それ聞いちゃいます? では、ヒントはこの声」


 低かった声がさらに低くなった。しかもそれは聞き覚えのある声。


 まさか。


「きみが、司なのか」


 そこでようやく、見知った不敵な笑みが彼の顔と重なった。


「やっと気づいてくれましたね」



  ◇ ◆ ◇



「ユウは俺の彼女の名前です」


 長髪のウィッグを外したユウ、もとい司が言った。


「舞台芸術のメイクが専門で、よく練習台にされるんです。それで今回みたいな女装もさせられるんですけど、俺自身が声色を変えられるのもあって、洒落にならないクオリティに仕上がるというか」


 元から中性的な体格、容姿の司。そこに技術が加われば女装は容易い。そう頭では理解していても、あまりの完成度に僕は言葉を失うばかりだった。


 思考の内とはいえ、女性的な可愛らしさとか語ってしまった自分が恥ずかしい。


「そんなわけで、自己申告してみたんですが」

「ああ、うん。言われなきゃ気がつかなかった」

「やっぱりですか」

「沙智もあの感じじゃあ全然気づいてない」

「酷いなぁ」


 がっくりと肩を落とす司。注意して見ると、女性にしては肩が角ばっていることに気づく。


 身体のラインを隠すワンピースを着ているのもあって、気を抜くとどちらの性にも見えなくはない。胸にも少々何か詰めているようだし、やや女性寄りなくらいだ。


「言っておきますけど、女装は俺の趣味じゃないですからね。女装させるのがユウの趣味なだけです。俺は嫌々やってますから」

「そういう風には見えないけどな」

「いやまあ、ライブハウスで出待ちしてる子たちをすり抜けるために活用したりはしてますけど……でも必要に迫られているときだけです。信じてください」

「別に疑ってはいないよ」


 しかし訊いてもいないことまで語られては弁明の意味があまりないような気がするのだが。


 これは自分の彼女の腕前を褒める文脈なのだと勝手に納得してやった。


「いいんじゃないか。実際可愛いわけだし」

「……俺を落とそうとするのはやめてくださいね」

「そんなことするかよ」


 その場合千世とは一生顔向けができなさそうだ。それは嫌だった。


 司にだって彼女がいる。今の様子からしてかなり惚れ込んでいそうだ。以前にも彼女のためにお金を使っていると発言していた。


 思えば僕は他人の恋愛というものを知らない。中学時代にそういう話を耳にしなかったわけではないが、そこに興味を示す余裕は既になかった。高校や大学でも人間関係を全て破棄しひたすらに生活費と学費を稼ぐ生活だった。最近になってようやく他人に目を向けられるようになった経緯がある。


 だからこうして他人と関わり、刺激を受けることが新鮮だった。そうすると欲が出始める。他人同士の恋愛についても、僕は興味を抱いていた。


「司は、ユウさんのどこが好きなんだ?」

「全部ですよ」


 即答だった。


「俺の知っている部分は全部好きだし、知らない部分も知ればきっと好きになる。恋人ってそういうものじゃないですか」

「惚れているから、そう思うのか?」

「どうでしょうね。あいつに惚れていなかった期間がないので」

「一目惚れ?」

「そんなところです」


 恥ずかしげもなく答える司。


「惚れた弱み、って言葉がありますけど。個人をどうしようもなく好きになってしまうと、自分の中での価値観や優先順位が大きく変動してしまう。その頂点に、相手を据えざるを得ないわけですから」

「価値観や優先順位が変動するのか」

「狂ってしまう、と言ってもいいかもしれない」


 身に覚えがあった。僕も千世を想い過ぎるあまりに視野を狭めていた。憂月の内情なんて大して考えもせず、自分の未熟さだって放置して疎かにしていた。


 人を好きになることは、弱くなることでもある。


 どこかのブログで読んだような安い言説を、危うく信じてしまいそうにもなる。


「本当は好きかどうかなんてわからないです。好きなんて曖昧な感情、何を以ってそう言えるのか、哲学者じゃないんだから答えられない」

「哲学者ならわかるのか」

「ものの例えですよ」


 司は廊下の外側の壁に背を預け、天井に半分遮られた夜空を仰ぐ。絵になるその姿は、外見に誤魔化されない彼自身の芯の強さを表しているようでもあった。


「俺が言えるのは、一度に惚れる相手は一人だけにしろ、ということです。たった一人でもこれだけ狂ってしまうんですから、二人を同時に好きになったらどうなることやら」

「それを僕に伝える意味はあるのか」

「はい。というか、これを言うために外に呼び出したようなものですし」


 もたれかかったまま顔だけを戻し、司は僕の眼を見据える。


「近いうちにあなたは選ばないといけなくなります。その覚悟はできていますか」

「どういう意味か、わからない」

「今はわからなくとも、いつか必ずわかります。俺は予言者じゃないし、あなたは哲学者じゃないけれど、絶対に」


 司はそれきり言葉を断った。僕の前でウィッグを装着し直し、軽く咳払いして声の調子を整える。ただそれだけで彼は彼女になっていった。


 だがその変貌を経てもなお、司は司だった。正体を知った後で言うのもおかしいかもしれないが、今は凛とした女性の皮を被った司だと感じられる。それは彼の核となる部分がきちんと表明されているからこそわかるのだと思った。


 僕の核はどこにあるのだろう。かつて僕には千世への想いだけがあった。千世の居ない世界に僕の居場所はないと信じていた。けれど今はそう断言できない。


 憂月という存在に出会ってから、少しずつ何かが変わり始めた。そのおかげで前に進めているという感覚もある。


 けれどそれは果たして本当に良い変化だと言えるのだろうか?


 千世の望まない方向に僕は変わっているのではないだろうか?



 遠くない未来にやってくる選択。


 僕にはまだ見えなかった。

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