第3話 義眼の少女
白野憂月という少女がいた。
世間は彼女を不幸体質と呼んでいる。
僕にとっては不幸なんてのはそこらじゅうにあるもので、それと同じくらい幸いは溢れているものだと思っている。けれど肉親が居なかったり余計なものが見えたりする自分は、幸いかそうでないかの明確な基準を持たなかった。
万人にとって共通の幸いが存在しないであろうというのは、きっと誰でも思い当たることだ。悪意でもって日々の飯にありつける人もいれば、戦争によって幸福になる人もいる。それを非難する行為が誰かを不幸にすることだってある。
何事にも表裏があって、幸いな面と幸いでない面が一体になっている。コイントスをして、たまたま自分のほうを向いた面だけを見て物事を受け取る。それだけのことなのだ。
だから白野憂月が不幸体質と呼ばれるのは、そのあたりが原因なのだろう。
千世のもとを去ったあとは造花庭園を横切る。その気になれば迂回して病棟を出ることも可能なのだけれど、我ながら律儀に帰り道も最短のルートをなぞっている。
例のセーラー服の少女は庭園のベンチに座っていた。まぶたを閉じて微動だにしない様子は、その容貌も相まって人形のようだった。
眠っているのであればこちらから声を掛けるのは躊躇われる。僕としては別段この少女と言葉を交わしたいとは思わなかった。
少女――白野憂月は自分の命が尽きる時を知りたがっていた。ふとした拍子に僕が普段見ている光景のことを話してしまって、それからは週に一度くらいの遭遇の度に「今際の際を教えてほしい」とねだってくるのだ。
でもそんなものの委細を教える義理はないし、伝えたところでその未来が変わった試しもない。
何より断言できるのは、それを知っても憂月は幸福になれないということだ。
「お兄さん?」
憂月が目覚めた。というより起動したという感じで、大きな眼を見開いた。
「お見舞いは済んだのですか?」
「うん」
「ということは、私を迎えに来てくれたんですね」
一気に血が通ったかのように、ぱあっと憂月の顔が明るくなった。
「勘違いはしないでくれ。きみはついでだから」
「それでも嬉しいです。二番目の女って言うんでしょう?」
「誤解を生むような発言も慎んでくれ」
憂月が楽しそうに頬を緩める。けれど僕はそんなに楽しくなかった。
「じゃあ帰るから」
「はーい」
背中にバネでも入っているのか、跳ねるようにベンチから立ち上がる憂月。勢いそのままに僕の右隣へくっついてきた。
面会時間が終わる頃には外は日が落ちて暗闇に満ちている。田舎道で外灯も少ないことから、未成年の少女がひとりで歩くのにはやや危険な道程だ。夏場はともかく冬の時期は憂月を放っておけないので、帰り道だけは付き添ってやるのが定番になっていた。
ちなみにこのことは千世には伝えていない。不貞腐れてしまうのが想定できたからだ。
田舎道を歩く途中、風が吹くたびに身震いした。師走でこれだけの寒さなら、年が明けて雪が降るようになったらとてもじゃないが屋外には長居できそうにない。
セーラー服の上に赤色のパーカーを羽織っている憂月もまた、首を縮めて寒風に耐えていた。
「こんな日は熱い鍋が食べたいです」
「頑丈な歯をしているんだな」
「もー、読解力なさすぎですよー」
何かと話題を探しては絡んでくる憂月と、たいして会話する気のない僕。
一か月ほど前からの習慣になりつつある、限りなく一方通行なやりとりだ。
「お兄さんは一緒に鍋を囲むような友人はいますか?」
「どうだろう。兄弟たちと鍋をすることはしょっちゅうだったけれど」
「この場合は鍋を囲めるほど親しい友達がいるか、という意味なのですが」
「わかってるよ」
小中までは周囲と馴染めないと学校から孤児院に連絡がいってしまうので努めて社交的にしていた。ひとり暮らしを始めて高校に通うようになってからは、友人を敢えて作らずに過ごした。友達付き合いには金がかかるからだ。孤児院からのなけなしの仕送りを無駄にはできなかった。
僕はその時々の生活を維持するために他人との関わりかたを変えている。自立するまでは孤児院での暮らしのために。自立してからは節制のために。そして今は、自分を慰めるために憂月と関わっている。
憂月といると、自分が凡庸な人間であることを自覚できて、安堵する。
「私も友達いないんです。お揃いですね」
「嬉しくないが」
「避けられてしまうんですよね。不幸が服を着て歩いている、とか言って」
とんだ理不尽な言いがかりだ。高校生のわりに幼稚ともとれる。
「まあそれをのたまったテツヤくんには眼球のレプリカをあげて黙らせましたが。不幸除けのお守りだって言って」
「ちょっとクレイジーすぎるかな」
テツヤくんが可哀想だ。
「お兄さんも欲しかったら言ってくださいね」
「フリマアプリで売りに出してもいいのなら」
そのうち臓器売買のアプリも出るかもしれない、なんて暗い妄想が飛び出しそうになったから、僕は口をつぐんだ。
憂月の右眼は作り物だ。特注の虹彩が翡翠色の義眼をはめ込んでいて、ひと目にはカラーコンタクトを着けた本物と見分けがつかない。そんな彼女から貰う眼球のレプリカは洒落にならなかった。
それを平気で実行する人格を鑑みると、憂月が高校で浮いている様子は容易に想像できる。
「ヒトってわからない生き物ですね」
「それは人間をやめた存在が口にする言葉だ」
「半分やめているようなものですよ。定期的にメンテナンスしなくちゃ壊れてしまう身体になってしまうと」
憂月はこんなふうにさらっと笑えない冗談を言う。
表情は見えない。
「幸か不幸かなんて、結局は相対的な価値観でしかない。他人に不幸体質だと言われても、私にはどうもぴんときません」
「だったらきみは自分のことを幸いだと思えるのかい」
「どうでしょうか。今際の際になるまで、わからないままなのかも」
どこか達観した口ぶりで話す憂月。掴みどころのない十七歳の少女は、隣にいるのにとても遠くにいるような気がした。
バス停に着いて一分と待たないうちにバスが来た。乗客は僕たちだけだった。
憂月は最後部の座席奥に腰掛けると、電池が切れたように眠り始めた。比喩が成立していないのではと思うくらい、寝息などはまったく聞こえない眠り。その隣に座る僕は、バスにぶら下がるつり革の揺らめきを目で追っていた。
僕には憂月がとても同じ人間のようには思えない。それどころか生物なのかすら疑わしい。
彼女は、僕が出会ってきたなかで唯一、今際の際が見えない人物だった。
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